(Translated by https://www.hiragana.jp/)
白鳥塚古墳 (宝塚市) - Wikipedia コンテンツにスキップ

白鳥しらとりづか古墳こふん (宝塚たからづか)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
白鳥しらとりづか古墳こふん / 中山寺なかやまでら古墳こふん

石室いしむろ開口かいこう
別名べつめい いし唐櫃からびつ
所在地しょざいち 兵庫ひょうごけん宝塚たからづか中山寺なかやまじ2丁目ちょうめ
中山寺なかやまじ境内けいだい
位置いち 北緯ほくい3449ふん16.40びょう 東経とうけい13522ふん3.63びょう / 北緯ほくい34.8212222 東経とうけい135.3676750 / 34.8212222; 135.3676750座標ざひょう: 北緯ほくい3449ふん16.40びょう 東経とうけい13522ふん3.63びょう / 北緯ほくい34.8212222 東経とうけい135.3676750 / 34.8212222; 135.3676750
形状けいじょう 不明ふめい
埋葬まいそう施設しせつ りょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろ
内部ないぶ抜式いえがた石棺せっかん
築造ちくぞう時期じき 6世紀せいきすえ-7世紀せいき初頭しょとう
史跡しせき 兵庫ひょうごけん指定してい史跡しせき中山寺なかやまでら古墳こふん
地図ちず
白鳥塚古墳の位置(兵庫県内)
白鳥塚古墳
白鳥しらとりづか古墳こふん
テンプレートを表示ひょうじ

白鳥しらとりづか古墳こふん(はくちょうづかこふん)または中山寺なかやまでら古墳こふん(なかやまでらこふん)は、兵庫ひょうごけん宝塚たからづか中山寺なかやまじにある古墳こふん兵庫ひょうごけん指定してい史跡しせき指定していされている(指定してい名称めいしょうは「中山寺なかやまでら古墳こふん」)。

概要がいよう[編集へんしゅう]

兵庫ひょうごけん東部とうぶ長尾山ながおやま丘陵きゅうりょうみなみふもと築造ちくぞうされた古墳こふんである。現在げんざい中山寺なかやまじ境内けいだい所在しょざいする。これまでに墳丘ふんきゅうおおきく改変かいへんけているほか、石室いしむろ実測じっそく調査ちょうさ実施じっしされているが発掘はっくつ調査ちょうさ実施じっしされていない。

墳丘ふんきゅうもと形状けいじょう改変かいへんのためあきらかでない(一説いっせついちへんやく25メートル以上いじょう方墳ほうふん[1]埋葬まいそう施設しせつりょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろで、南東なんとう方向ほうこう開口かいこうする。石室いしむろ現存げんそんちょう16.2メートルをはか大型おおがた石室いしむろであり、石材せきざいには花崗岩かこうがん巨石きょせき使用しようされる[2]石室いしむろ玄室げんしつないには加古川かこがわ流域りゅういきさん成層せいそうハイアロクラスタイト[3]竜山たつやませきせい抜式がた石棺せっかんえられる[2]副葬品ふくそうひんつまびらかでない。

築造ちくぞう時期じきは、古墳こふん時代じだい後期こうき-終末しゅうまつ6世紀せいきすえ-7世紀せいき初頭しょとうころ[4](TK209型式けいしき[2])と推定すいていされる[2]長尾山ながおやま丘陵きゅうりょうでは丘陵きゅうりょうひがしはん群集ぐんしゅうふん営造えいぞうられるが、ほん古墳こふんはそれらとはややはなれた位置いち築造ちくぞうされる。ほん古墳こふん石室いしむろ長尾山ながおやま丘陵きゅうりょうでは最大さいだい規模きぼ大和やまと大型おおがた石室いしむろにも匹敵ひってきする規模きぼであり、石室いしむろ構造こうぞう長尾山ながおやま丘陵きゅうりょう石室いしむろよりは大和やまと石室いしむろ共通きょうつうせいみとめられるてん特色とくしょくしめ[2]西方せいほう特異とくい八角はっかくふんとしてられる中山荘園なかやまそうえん古墳こふん宝塚たからづか中山荘園なかやまそうえん)とわせて、西にし平野へいや勢力せいりょくゆうしただい豪族ごうぞく存在そんざい示唆しさするてん重要じゅうようされる古墳こふんになる[1]。なお被葬ひそうしゃあきらかでないが、中山寺なかやまでらてらでんではだい14だい仲哀ちゅうせつ天皇てんのう先皇せんのうきさきだい中姫なかひめとする。

古墳こふんいき1960ねん昭和しょうわ35ねん)に兵庫ひょうごけん指定してい史跡しせき指定していされている[5]

遺跡いせきれき[編集へんしゅう]

埋葬まいそう施設しせつ[編集へんしゅう]

石室いしむろパース
石室いしむろ展開てんかい

埋葬まいそう施設しせつとしてはりょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろ構築こうちくされており、南東なんとう方向ほうこう開口かいこうする。石室いしむろ規模きぼつぎとお[2]

  • 石室いしむろ全長ぜんちょう現存げんそん16.2メートル
  • 玄室げんしつながさ5.5メートル、はば2.4メートル(中央ちゅうおう付近ふきん)、たかさ2.9メートル(おくかべ付近ふきん
  • 羨道せんどうながさ10.6メートル、はば1.8メートル(げんもん付近ふきん)、たかさ2.0メートル(げんもん付近ふきん

石室いしむろ石材せきざいにはおも花崗岩かこうがん巨石きょせき使用しようされ、一部いちぶ結晶けっしょうしつ凝灰岩ぎょうかいがんもちいられる[2]玄室げんしつおくかべは3だんみで、側壁そくへきは2-3だん[2]玄室げんしつ天井てんじょうせきは2まい[2]後世こうせい改変かいへんとして、げんもんいしわく鉄扉てっぴ設置せっちされているほか、羨道せんどう開口かいこうには小型こがた石材せきざい追加ついかされ、玄室げんしつ羨道せんどうゆかめん敷石しきいしやそのさかいだん付加ふかされている[2]

石室いしむろ玄室げんしつない中央ちゅうおうきたりには加古川かこがわ流域りゅういきさん成層せいそうハイアロクラスタイト[3]竜山たつやませきせい抜式いえがた石棺せっかん1えられる。石棺せっかん規模きぼつぎとおり。

  • かんながさ1.80メートル、はば1.06メートル、たかさ0.66メートル
  • ぶたせきながさ1.90メートル、はば1.16メートル、たかさ0.49メートル

かんげん位置いちたも可能かのうせいたかいとされる[2]ぶたせきには前後ぜんご1つい左右さゆう2ついなわかけ突起とっきけい6[2]ぶたせき上部じょうぶ平坦へいたんめん指数しすう上部じょうぶ平坦へいたんめんはば全体ぜんたいはばたいする割合わりあい)は43[2]

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

兵庫ひょうごけん指定してい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

  • 史跡しせき
    • 中山寺なかやまでら古墳こふん - 1960ねん昭和しょうわ35ねん)3がつ31にち指定してい[5]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 中山寺なかやまでら古墳こふん平凡社へいぼんしゃ) 1999.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 白鳥しらとりづか古墳こふん山本やまもと古墳こふんぐん 2017.
  3. ^ a b 竜山たつやませきは、かつてながれもんがんしつ溶結凝灰岩ぎょうかいがんとされてきたが、近年きんねん調査ちょうさによってりゅうもんがんしつ成層せいそうハイアロクラスタイト(水冷すいれい破砕はさいがん)と判明はんめいしている(宝殿ほうでんせき竜山たつやませき兵庫ひょうごけんホームページ)参照さんしょう)。
  4. ^ 白鳥しらとりづか古墳こふん古墳こふん) 1989.
  5. ^ a b c けん指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらん (PDF)兵庫ひょうご県立けんりつ教育きょういく研修けんしゅうしょ)。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

記事きじ執筆しっぴつ使用しようした文献ぶんけん

  • 史跡しせき説明せつめいばん兵庫ひょうごけん教育きょういく委員いいんかい、1974ねん設置せっち
  • 調査ちょうさ報告ほうこくしょ
  • 事典じてんるい
    • 福井ふくい英治えいじ白鳥しらとりづか古墳こふん」『日本にっぽん古墳こふんだい辞典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1989ねんISBN 4490102607 
    • 中山寺なかやまでら古墳こふん」『日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 29-2 兵庫ひょうごけん地名ちめい II』平凡社へいぼんしゃ、1999ねんISBN 4582490611 

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

記事きじ執筆しっぴつ使用しようしていない関連かんれん文献ぶんけん

  • 直宮じきみや憲一けんいち中山寺なかやまでらしろ鳥塚とりつか古墳こふんについて」『中山寺なかやまでら歴史れきし文化財ぶんかざい大本山だいほんざん中山寺なかやまでら、1999ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]