いし抹按ただ

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いし抹 按只(せきまつ アルチ、なま没年ぼつねんしょう)は、モンゴル帝国ていこくつかえたちぎりじん一人ひとりモンケ・カアン時代じだいからクビライ・カアン治世ちせいにかけて、四川しせん方面ほうめん侵攻しんこう活躍かつやくしたことでられる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

アルチ(按只)は代々だいだいふとしはら居住きょじゅうしてきたちぎりじん一族いちぞくで、ちちいし抹大やつ時代じだいかんぐん500をひきいてチンギス・カンっている。1258ねんつちのえうま)よりアルチはちち地位ちい継承けいしょうしてぐんひきい、四川しせん方面ほうめんぐん最高さいこう司令しれいかんネウリンしたがって成都せいとめにくわわった。このころみなみそうへい霊泉れいせん集結しゅうけつしており、かれ手勢てぜいひきいてこれを襲撃しゅうげきし、そのしょうかんみやこみつる功績こうせきげた。また元帥げんすいの按敦にしたがって瀘州め、アルチは70そう戦艦せんかんひきいてうまいたった。みなみそうぐんはこれをると500そう軍船ぐんせんでアルチの進軍しんぐんはばもうとしたが、アルチはこれを撃退げきたいした。みなみそうぐんはしとしてモンゴルぐん侵攻しんこうはばんだが、アルチは浮橋うきはしつくって進軍しんぐんつづけ、うまからごうこう・涪江・清江きよえいたる20箇所かしょ建設けんせつされた浮橋うきはし四川しせん地方ちほう平定へいていおおきく貢献こうけんしたとつたえられている。地方ちほう平定へいていおおきく貢献こうけんしたとつたえられている[1]

1247ねんおのれ)、みなみそうきょかんすうまんへいせて清江きよえ駐屯ちゅうとんし、アルチの設置せっちした浮橋うきはしとは70にちあまりの距離きょりせまった。このころ洪水こうずいこって浮橋うきはしこわれてしまい、西岸せいがんがわへいながされ、アルチのいた東岸とうがんがわへいふねあつめてきしのがれたものの、おおくのものまぬかれなかった。先鋒せんぽうの奔察コルチはこれをモンケ・カアンに報告ほうこくしたが、モンケは使者ししゃ派遣はけんしてアルチを慰労いろうあつ下賜かしした。また、じょしゅう守将しゅしょう長江ながえ封鎖ふうさしモンゴルぐん行動こうどう制限せいげんされると、アルチは牛皮ぎゅうひあつめて渾脱およびかわせんつくり、これにってみなみそうぐんやぶ長江ちょうこう通行つうこうけん奪還だっかんした[2]

1260ねんなかみつる元年がんねん)にモンケが死去しきょしたのち、そのおとうとクビライ内戦ないせん即位そくいすると、かれ河中かわなか船橋ふなばしすいしゅぐんそうかんにんじられた。1267ねんいたりもと4ねん)、アルチは四川しせん方面ほうめんぐん最高さいこう司令しれいかんイェスデルが瀘州をめたさいには、かれ水軍すいぐんひきいてみなみそうしょうちんみやこみつるちょうそうせいらとうまたたかい、みずか手傷てきずいながらも勝利しょうりおさめた。1269ねんいたりもと6ねん)1がつ、イェスデルはへいひきいて瀘州におもむくと、アルチは船団せんだんひきいておさむじょう兵器へいき食料しょくりょう水路すいろからはこんだ。みなみそうへいふたたうまでアルチぐん襲撃しゅうげきしたが、かれはこれを撃退げきたいして40にん捕虜ほりょせんせん5そう戦利せんりひんとして獲得かくとくした。以後いごかれは1せん水軍すいぐんによって糧食りょうしょくまゆしゅう・簡州にはこび、四川しせん方面ほうめんぐんみな船団せんだんたよりにしたという。1272ねんいたりもと9ねん)にはガインドゥ/建都けんと現在げんざい西にしあきら)の叛乱はんらんこり、アウルクチひきいる軍団ぐんだん平定へいていのため派遣はけんされたが、ガインドゥはなかなからなかった。そこでかれ先陣せんじんっててきじょうのぼ奮戦ふんせんしたため、ついにガインドゥは投降とうこうした。しかし、その帰路きろかれやまいにかかってしまい、みちなかばで病没びょうぼつした。死後しご息子むすこいし不老ふろう地位ちい継承けいしょうしている[3]

モンゴル帝国ていこく四川しせん駐屯ちゅうとんぐん[編集へんしゅう]

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脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ もとまき154列伝れつでん41せき抹按ただでん,「いし抹按ただちぎりじんぶとはらちち大家たいかやつりつかんぐんひゃくにんかえりふとしとしつちのえうま、按只だいりょう其軍、したがえ元帥げんすいひも璘攻成都せいとときそうへい聚於霊泉れいせん、按只以所へいあずかたたかえ大敗たいはいころせ其将かんみやこみつるまたしたがえ元帥げんすい按敦おさむ瀘州、按只以戦かんななじゅうそういたりみずうみこうそうぐんさき以五ひゃくそうひかえ扼江わたり、按只げきはいときそうへい於沿こう撤橋よりどころもり、按只しょう地形ちけいみやつこ浮橋うきはしいたりとめぎょうそうほしたわわ其役、へい輒敗、うまみずうみ以達ごうこう・涪江・清江きよえ、凡立浮橋うきはしじゅう餘所よそ。及四川平かびら浮橋うきはしこうきょ
  2. ^ もとまき154列伝れつでん41せき抹按ただでん,「おのれそう以巨艦載かんさいかぶとすうまんたむろ清江きよえ浮橋うきはしあいななじゅうにちみず暴漲、浮橋うきはし壊、西岸せいがんぐん漂溺、按只ぐん東岸とうがんきゅう撤浮きょう、聚舟がん士卒しそつとく不死ふしまた援出べつぐんひゃく餘人よにん先鋒せんぽう奔察魯赤以聞、けんむね使つかい慰諭、賞賜しょうし甚厚。じょしゅう守将しゅしょうよこ截江ぐんとくわたり、按只聚軍ちゅう牛皮ぎゅうひさく渾脱及皮せんじょうあずかたたかえやぶ其軍、だつ其渡こうため浮橋うきはし以済
  3. ^ もとまき154列伝れつでん41せき抹按ただでん,「ちゅうすべさんねん、授河中府なかぶ船橋ふなばしすいしゅぐんそうかん、佩金、以立浮橋うきはしこう也。いたりもとよんねんしたがえくだりしょう也速たいおさむ瀘州、按只以水ぐんあずかそうすすむちんみやこみつるちょうそうせいせん于馬みずうみこう、按只そうせんいよいよちからはいろくねん正月しょうがつ、也速たいりょうへい趨瀘しゅう按只以舟うん器械きかい糧食りょうしょくゆかり水道すいどうしんそうへいふく扼馬みずうみこう、按只げきはいなまよんじゅうにんだつ其船そうふく以水ぐんいちせんうんかて於眉・簡しゅうぐんちゅうよりゆきこれきゅうねんしたがえせい建都けんと蛮、としあまりした、按只先登せんとう其城、力戦りきせんとげこれぐんかえみちびょうそつくだりしょううけたまわせい以其不老ふろうだいりょう其軍」
  4. ^ うし2010,77-78ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • うし靖裕やすひろ「モンゴル統治とうち四川しせんにおける駐屯ちゅうとんぐん」『たていのちかん文学ぶんがくだい619ごう、2010ねん
  • もとまき154列伝れつでん41せき抹按ただでん
  • 新元しんもとまき163列伝れつでん60せき抹按ただでん
  • こうむ兀児史記しきまき65列伝れつでん47せき抹按ただでん