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いし馬谷うまだに古墳こふん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
いし馬谷うまだに古墳こふん

墳丘ふんきゅうひだり前方ぜんぽうみぎおくこうえん
別名べつめい しょう枝山えだやま5ごうふん[1]
所属しょぞく 向山むかいやま古墳こふんぐん(うちしょう枝山えだやま古墳こふんぐん
所在地しょざいち 鳥取とっとりけん米子よなご淀江よどえまち福岡ふくおか
位置いち 北緯ほくい3527ふん7.05びょう 東経とうけい13326ふん33.60びょう / 北緯ほくい35.4519583 東経とうけい133.4426667 / 35.4519583; 133.4426667座標ざひょう: 北緯ほくい3527ふん7.05びょう 東経とうけい13326ふん33.60びょう / 北緯ほくい35.4519583 東経とうけい133.4426667 / 35.4519583; 133.4426667
形状けいじょう 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん
規模きぼ 墳丘ふんきゅうちょう61.2m
たかさ5m(こうえん
埋葬まいそう施設しせつ 不明ふめい
出土しゅつどひん いし須恵すえ埴輪はにわ
築造ちくぞう時期じき 6世紀せいき中葉ちゅうよう
史跡しせき くに史跡しせき向山むかいやま古墳こふんぐん」に包含ほうがん
有形ゆうけい文化財ぶんかざい いしくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
特記とっき事項じこう 本州ほんしゅう唯一ゆいいついしじんせき
地図ちず
石馬谷古墳の位置(鳥取県内)
石馬谷古墳
いし馬谷うまだに古墳こふん
鳥取とっとり県内けんない位置いち
地図
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いし馬谷うまだに古墳こふん(いしうまだにこふん、しょう枝山えだやま5ごうふん)は、鳥取とっとりけん米子よなご淀江よどえまち福岡ふくおかにある古墳こふん形状けいじょう前方後円墳ぜんぽうこうえんふん向山むかいやま古墳こふんぐん(うちしょう枝山えだやま古墳こふんぐん)を構成こうせいする古墳こふんの1つ。くに史跡しせき指定していされ(史跡しせき向山むかいやま古墳こふんぐん」のうち)、出土しゅつどいしくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。

本州ほんしゅうでは唯一ゆいいつとなるいしじんせき出土しゅつどられる。

概要がいよう

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鳥取とっとりけん西部せいぶ淀江よどえ平野へいや東部とうぶしょう枝山えだやま丘陵きゅうりょう山腹さんぷく斜面しゃめん築造ちくぞうされた古墳こふんである[2][3]1989ねん平成へいせい元年がんねん)に試掘しくつ調査ちょうさ実施じっしされている[3]

ふんがた前方後円ぜんぽうこうえんがたで、前方ぜんぽう南西方みなみにしかたける。墳丘ふんきゅうは2だんちくなり[2]墳丘ふんきゅうちょうは61.2メートルをはか[4]墳丘ふんきゅう表面ひょうめんでは葺石のほか、円筒えんとう埴輪はにわ朝顔あさがおがた埴輪はにわふくむ)・形象けいしょう埴輪はにわ人物じんぶつがたたてがた埴輪はにわ)が検出けんしゅつされている[2]埋葬まいそう施設しせつあきらかでない[2]埴輪はにわ以外いがい出土しゅつどひんとしてはいし須恵すえがあり、とくいし本州ほんしゅうでは唯一ゆいいつ出土しゅつどれいとして注目ちゅうもくされる[2]築造ちくぞう時期じき古墳こふん時代じだい後期こうき6世紀せいき中葉ちゅうようころ推定すいていされる[4]

古墳こふんいき1999ねん平成へいせい11ねん)にくに史跡しせき指定していされ(史跡しせき向山むかいやま古墳こふんぐん」のうち)[5]いし1959ねん昭和しょうわ34ねん)にくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている[6]

遺跡いせきれき

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墳丘ふんきゅう

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墳丘ふんきゅう規模きぼつぎとお[3]

  • 墳丘ふんきゅうちょう:61.2メートル
  • こうえん 直径ちょっけい:34.5メートル
  • こうえん たかさ:5メートル

淀江よどえ地域ちいきでは向山むかいやま4ごうふん(64.5メートル)にだい2規模きぼになる[3]

出土しゅつどひん

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いし複製ふくせい
うえよどみ白鳳はくほうおか展示てんじかん展示てんじ原品げんぴんくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい

いし馬谷うまだに古墳こふんからの出土しゅつどひんとしてはいしられる。いしせい埴輪はにわで、こうしたいし製品せいひん一般いっぱんに「いしじんせき」と総称そうしょうされる。石材せきざい大山おおやまさんかく閃石安山岩あんざんがんで、全長ぜんちょうやく150センチメートル・たかやく90センチメートルをはか[7]ぜんあしくが、表面ひょうめんには馬具ばぐくつわ手綱たづなくらなど)が表現ひょうげんされる[4][7]。また全体ぜんたいてきあかられていたと推定すいていされる[4][7]

いしじんせき岩戸山いわとやま古墳こふん福岡ふくおかけん八女やめ)など九州きゅうしゅう地方ちほう北部ほくぶ多数たすう確認かくにんされているが、本州ほんしゅうではほん古墳こふんれいのみになるてん注目ちゅうもくされる[7]九州きゅうしゅう地方ちほう北部ほくぶれい阿蘇あそ溶結凝灰岩ぎょうかいがんせいである一方いっぽうほん古墳こふんれい地元じもと石材せきざいであるが、山陰さんいん地方ちほう九州きゅうしゅう地方ちほうとの交流こうりゅうしめ資料しりょうとされる[7]

このいし江戸えど時代じだいには「いし大明神だいみょうじん」としてまつられており[7]、1902ねん明治めいじ35ねん)に坪井つぼいただし五郎ごろう存在そんざい確認かくにんし、大正たいしょう年間ねんかん(1912-1926ねん)に前方ぜんぽう付近ふきん同種どうしゅいし製品せいひんへん採集さいしゅうされたことでいし馬谷うまだに古墳こふん出土しゅつどひん推定すいていされている[1][2]。1959ねん昭和しょうわ34ねん)にくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされ、現在げんざい天神てんじんかき神社じんじゃ収蔵しゅうぞう保管ほかんされている[7]

文化財ぶんかざい

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重要じゅうよう文化財ぶんかざいくに指定してい

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  • いし きゅう鳥取とっとりけん西伯さいはくぐん淀江よどえまち大字だいじ福岡ふくおか坪根つぼねかき所在しょざい考古こうこ資料しりょう) - 所有しょゆうしゃ天神てんじんかき神社じんじゃ。1959ねん昭和しょうわ34ねん)12月18にち指定してい[6][8][9]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d いし馬谷うまだに古墳こふん古墳こふん) 1989.
  2. ^ a b c d e f g いし馬谷うまだに古墳こふん平凡社へいぼんしゃ) 1992.
  3. ^ a b c d e 米子よなご埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンターたよりだい28ごう (PDF)米子よなご埋蔵まいぞう文化財ぶんかざいセンター、2018ねん(リンクは米子よなご文化ぶんか財団ざいだん))。
  4. ^ a b c d 向山むかいやま古墳こふんぐんパンフレット.
  5. ^ a b 向山むかいやま古墳こふんぐん - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  6. ^ a b c いし - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  7. ^ a b c d e f g 天神てんじんかき神社じんじゃ境内けいだい せき説明せつめいばん鳥取とっとりけん教育きょういく委員いいんかい、2015ねん設置せっち)。
  8. ^ いし鳥取とっとりけんホームページ「とっとり文化財ぶんかざいナビ」)。
  9. ^ いし米子よなごホームページ)。

参考さんこう文献ぶんけん

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記事きじ執筆しっぴつ使用しようした文献ぶんけん

  • 向山むかいやま古墳こふんぐんパンフレット (PDF)米子よなご教育きょういく委員いいんかい
  • 大塚おおつかはつじゅういし馬谷うまだに古墳こふん」『日本にっぽん古墳こふんだい辞典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1989ねんISBN 4490102607 
  • いし馬谷うまだに古墳こふん」『日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 32 鳥取とっとりけん地名ちめい平凡社へいぼんしゃ、1992ねんISBN 4582490328 

関連かんれん文献ぶんけん

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記事きじ執筆しっぴつ使用しようしていない関連かんれん文献ぶんけん

  • 向山むかいやま古墳こふんぐん -向山むかいやま古墳こふんぐん瓶山かめやま古墳こふんぐんいし馬谷うまだに古墳こふん調査ちょうさ-(淀江よどえまち埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい発掘はっくつ調査ちょうさ報告ほうこくしょだい17しゅう)』淀江よどえまち教育きょういく委員いいんかい、1990ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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