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福山ふくやまじょう (備中びっちゅうこく)

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福山ふくやまじょう
岡山おかやまけん
福山城跡(中央の山上)
福山ふくやま城跡じょうせき中央ちゅうおう山上さんじょう
城郭じょうかく構造こうぞう れんくるわしき山城やましろ
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし そうけんゆう
築城ちくじょうねん たてたけし2ねん1335ねん
おも城主じょうしゅ そうだい井田いだ
はいじょうねん のべもと元年がんねん1336ねん
遺構いこう 石垣いしがき空堀からぼりいしれつ井戸いどあと
指定してい文化財ぶんかざい くに史跡しせき
位置いち 北緯ほくい3438ふん47.26びょう 東経とうけい13345ふん35.38びょう / 北緯ほくい34.6464611 東経とうけい133.7598278 / 34.6464611; 133.7598278
地図ちず
福山城の位置(岡山県内)
福山城
福山ふくやまじょう
テンプレートを表示ひょうじ

福山ふくやまじょう(ふくやまじょう)は、岡山おかやまけん総社そうしゃ清音せいおんさんいん(きよねみより)にあった日本にっぽんしろくに史跡しせき[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

福山ふくやまじょう総社そうしゃ南部なんぶ福山ふくやま標高ひょうこう302メートル)山上さんじょう存在そんざいした山城やましろである。南北なんぼくあさ時代じだいに『太平たいへい』にしるされた福山ふくやま合戦かっせん舞台ぶたいとなった。

奈良なら時代じだいより平安へいあん時代じだいにかけて山岳さんがく寺院じいん福山ふくやまてら」が存在そんざいしていた。たてたけし2ねん1335ねん)にそうけんゆうがこの山岳さんがく寺院じいん改造かいぞう城郭じょうかくとした。築城ちくじょうぬし真壁まかべただしひさともわれる。しろいちだんだんさんだんつらなってはいされていた。現在げんざい遺構いこうとしていちだんあいだ城門じょうもんあと石垣いしがき確認かくにんできる。また空堀からぼりいしれつ井戸いどあとなどがある。1936ねん昭和しょうわ11ねん12月16にちくに史跡しせき指定していされた。

福山ふくやま合戦かっせん[編集へんしゅう]

たてたけし3ねんのべもと元年がんねん1336ねん)2がつ九州きゅうしゅう敗走はいそうしていた足利尊氏あしかがたかうじが30まんにんともわれる軍勢ぐんぜいよう東上とうじょう開始かいしした。備後びんごこく鞆のうらぐん海上かいじょうたかしぐん7,500せきと、陸上りくじょう足利あしかが直義ただよしぐん20まんにんかれた。

4がつ3にち後醍醐天皇ごだいごてんのうかた新田にった義貞よしさだぐん先鋒せんぽうたいだい井田いだけい足利あしかがかた加担かたんしていた城主じょうしゅそうけんゆうい、足利あしかがぐん東上とうじょう阻止そしすべく籠城ろうじょうした。足利あしかがぐんは5がつ上旬じょうじゅん備中びっちゅうこくたっし、5月14にちにはこの到着とうちゃくじょう包囲ほういした。直義ただよしひきいる足利あしかがぐん20まんにんたいし、大井田おいだぐんわずか1,500にんであったとされる。5月15にち夕刻ゆうこくよりおさむしろせんはじまった。籠城ろうじょうぐんはよく奮戦ふんせんし、足利あしかがぐんは2まん死傷ししょうしゃした。

しかし、大軍たいぐんまえにはこうしきれず17にちにはをかけられ落城らくじょうした。けいわずかに400にんばかりとなった将兵しょうへいとも足利あしかがぐん布陣ふじん突破とっぱした。20かい以上いじょう戦闘せんとうかえしながら本陣ほんじんのある播磨はりまこくとの国境こっきょうにほどちか備前びぜんこくさんせきじょうのがれた。

このたたかいの7にちには楠木くすのき正成まさしげ戦死せんしした湊川みなとがわたたかおこなわれた。

アクセス[編集へんしゅう]

JR伯備線はくびせん清音きよねえきよりタクシー

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 福山ふくやま城跡じょうせき総社そうしゃ公式こうしきHP

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 岡山おかやまけん高等こうとう学校がっこう教育きょういく研究けんきゅうかい社会しゃかい部会ぶかい歴史れきし分科ぶんかかい/へん新版しんぱん 岡山おかやまけん歴史れきし散歩さんぽ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 1991ねん 131ページ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]