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笹尾ささお古墳こふん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
笹尾ささお古墳こふん

石室いしむろ開口かいこう
所在地しょざいち 奈良ならけん大和郡山やまとこおりやま小泉こいずみまち2815
国立こくりつ病院びょういん機構きこうやまと精神せいしん医療いりょうセンターうち
位置いち 北緯ほくい3437ふん52.70びょう 東経とうけい13545ふん1.20びょう / 北緯ほくい34.6313056 東経とうけい135.7503333 / 34.6313056; 135.7503333座標ざひょう: 北緯ほくい3437ふん52.70びょう 東経とうけい13545ふん1.20びょう / 北緯ほくい34.6313056 東経とうけい135.7503333 / 34.6313056; 135.7503333
形状けいじょう えんふん
規模きぼ 直径ちょっけい27m
埋葬まいそう施設しせつ りょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろ
内部ないぶいえがた石棺せっかん
出土しゅつどひん 須恵すえ
築造ちくぞう時期じき 6世紀せいきすえ-7世紀せいき前半ぜんはん
史跡しせき なし
地図ちず
笹尾古墳の位置(奈良県内)
笹尾古墳
笹尾ささお古墳こふん
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笹尾ささお古墳こふん(ささおこふん)は、奈良ならけん大和郡山やまとこおりやま小泉こいずみまちにある古墳こふん形状けいじょうえんふん史跡しせき指定していはされていない。

概要がいよう

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富雄川とみおかわ流域りゅういき西ノ京にしのきょう丘陵きゅうりょう矢田やた小泉こいずみ丘陵きゅうりょう古墳こふん[1]
古墳こふんめい 形状けいじょう 築造ちくぞう時期じき 史跡しせき
小泉こいずみ大塚おおつか古墳こふん 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん 3cまつ-4c初頭しょとう けん指定してい
富雄とみお丸山まるやま古墳こふん えんふん 4c後半こうはん なし
郡山こおりやましん木山きやま古墳こふん 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん 4cまつ-5c初頭しょとう 陵墓りょうぼ参考さんこう
六道ろくどうさん古墳こふん 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん 5cまつ-6c初頭しょとう なし
しょう泉東いずみひがし狐塚きつねづか古墳こふん 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん 6c前半ぜんはん-中葉ちゅうよう 消滅しょうめつ
割塚わりづか古墳こふん えんふん 6c前半ぜんはん-中葉ちゅうよう 指定してい
小泉こいずみ狐塚きつねづか古墳こふん えんふん 6c後半こうはん-7c初頭しょとう 消滅しょうめつ
笹尾ささお古墳こふん えんふん 6cまつ-7c前半ぜんはん なし

奈良盆地ならぼんち西にしえん富雄川とみおかわ西岸せいがん矢田やたたかし陵南りょうなん斜面しゃめん築造ちくぞうされた古墳こふんである。1981ねん昭和しょうわ56年度ねんど)に発見はっけんされ、発掘はっくつ調査ちょうさ実施じっしされている。

ふんがた円形えんけいで、直径ちょっけいやく27メートルをはか[2]墳丘ふんきゅう周囲しゅういにははばやく4メートルのしゅうみぞめぐ[2]埋葬まいそう施設しせつりょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろである。石室いしむろ全長ぜんちょう12.5メートルをはか大型おおがた石室いしむろであり、石室いしむろないではしゅりのいえがた石棺せっかんへん検出けんしゅつされている。石室いしむろない盗掘とうくつっており、調査ちょうさでは須恵すえのみが検出けんしゅつされている。また平安へいあん時代じだいにはかんじんかんはかとして、鎌倉かまくら時代ときよには祭祀さいし信仰しんこうとしてさい利用りようされており、それぞれ関連かんれん遺物いぶつ検出けんしゅつされている。

築造ちくぞう時期じきは、古墳こふん時代じだい後期こうき-終末しゅうまつ6世紀せいきすえ-7世紀せいき前半ぜんはんごろ推定すいていされる[2][1]大型おおがた石室いしむろふんながら近年きんねん発見はっけんされためずらしいれいであり、一帯いったい古墳こふんでは割塚わりづか古墳こふん小泉こいずみ狐塚きつねづか古墳こふん後続こうぞくする時期じき想定そうていされ、小泉こいずみ大塚おおつか古墳こふん以来いらい首長しゅちょう系譜けいふじょう位置いちづけられる古墳こふんになる。

遺跡いせきれき

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埋葬まいそう施設しせつ

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石室いしむろ俯瞰ふかん
石室いしむろ展開てんかい

埋葬まいそう施設しせつとしてはりょうそでしき横穴よこあなしき石室いしむろ構築こうちくされている。石室いしむろ規模きぼつぎとお[2]

  • 石室いしむろ全長ぜんちょう:12.5メートル
  • 玄室げんしつながさ4.50メートル、はば2.63メートル(中央ちゅうおう)、たかさ2.2-2.6メートル
  • 羨道せんどうながさ8.0メートル、はば1.81-1.98メートル、たかさ1.7-1.85メートル

石室いしむろ石材せきざいは、竜田川たつたがわ付近ふきん花崗岩かこうがんおもとする。玄室げんしつは、おくかべ2だんみ、ひがしかべ4だんみ、西にしかべ3だんみで、天井てんじょうせきは2まいである。玄室げんしつゆかめんには扁平へんぺい石材せきざいく。羨道せんどうでは、ひがしかべに2まい西にしかべに1まい巨石きょせきて、は3-4だんみとする。羨道せんどうからはかどうゆかめんには排水溝はいすいこうみとめられる[2][1]

石室いしむろない調査ちょうさでは、しゅりの二上山にじょうざんさん凝灰岩ぎょうかいがんせいいえがた石棺せっかん破片はへんのほか、須恵すえへん検出けんしゅつされている。また、平安へいあん時代じだいにはかん使用しようしたかんじんかんはかとしてさい利用りようされており、羨道せんどうひがしかべ沿って炭化たんかかんざいくぎ黒色こくしょく土器どき大理石だいりせきせいいしたいじゅんかた検出けんしゅつされているほか、楕円だえん形状けいじょうしゅ炭化物たんかぶつ集積しゅうせき遺構いこうはしらあな7はしられつ遺構いこうみとめられている。同様どうよう平安へいあん時代じだいはかとしてのさい利用りようは、小泉こいずみ狐塚きつねづか古墳こふんでもられる。さらに、鎌倉かまくら時代ときよには祭祀さいし信仰しんこうとしてさい利用りようされており、かわら散在さんざいするほか、しょうはいこんじるあな3みとめられている[2]

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 史跡しせき説明せつめいばん国立こくりつ療養りょうようしょ松籟荘しょうらいそう、1996ねん設置せっち
  • 大和郡山やまとこおりやま 笹尾ささお古墳こふん 発掘はっくつ調査ちょうさがいほう」『奈良ならけん遺跡いせき調査ちょうさがいほう 1981年度ねんどだい1分冊ぶんさつ奈良なら県立けんりつ橿原考古学研究所かしはらこうこがくけんきゅうしょ、1983ねん 
  • 古墳こふん時代じだい > 笹尾ささお古墳こふん」『郡山こおりやま歴史れきし文化ぶんか -平和へいわのシンボル、金魚きんぎょおよ城下町じょうかまち。-』大和郡山やまとこおりやま、2022ねん 

外部がいぶリンク

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