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ささぬき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ささぬき
指定してい情報じょうほう
種別しゅべつ 重要じゅうよう文化財ぶんかざい
名称めいしょう 太刀たちめい平行へいこうやす/〉
  くろうるし太刀だちこしらえ
基本きほん情報じょうほう
種類しゅるい 太刀たち
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ
刀工とうこう なみ平行へいこうやす
かたな 波平なみひら
ちょう 72.5 cm
2.3 cm
所蔵しょぞう 京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん京都きょうと東山ひがしやま
所有しょゆう 独立どくりつ行政ぎょうせい法人ほうじん国立こくりつ文化財ぶんかざい機構きこう
番号ばんごう Eかぶと186(京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん台帳だいちょう番号ばんごう

ささぬき(ささぬき)は、鎌倉かまくら時代ときよつくられたとされる日本にっぽんがたな太刀たち)である。日本にっぽん重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされており、京都きょうと東山ひがしやまにある京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞうする[1]

概要がいよう

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鎌倉かまくら時代じだい活躍かつやくした波平なみひら刀工とうこうなみ平行へいこうやすによりつくられた太刀たちである[2]波平なみひら平安へいあん時代じだい末期まっきから明治めいじ時代じだいにかけて薩摩さつまこく活躍かつやくしていた刀匠とうしょういちであり、ほんさく波平なみひらはつ代行だいこうやす代表だいひょうさくとして波平なみひら伝統でんとういまつたえるものとされている[2]。なお、くだりやす刀工とうこうめい江戸えど時代じだいまでつづいているが、くだりやすめい初期しょきにあたる初代しょだいと2代目だいめでもめいかたかれており、初代しょだいくだりやすなみ平行へいこうやすり、2代目だいめなみ平行へいこうやす薩州住人じゅうにん平行へいこうやすっている[2][1]

ささぬき名前なまえ由来ゆらいは、あるぎょうやす鍛冶たんやじょうのぞいてはいけないとつま厳命げんめいしてさくがたな集中しゅうちゅうしていたところ、仕上しあげの段階だんかいつま鍛冶たんやじょうのぞいたために集中しゅうちゅうれたくだりやす激怒げきどし、仕上しあちゅうにもかかわらずかたな竹藪たけやぶなかててしまった[3]。しかし、その竹藪たけやぶなかからあやしいひかりはなたれるようになったのを村人むらびといぶかして竹藪たけやぶのぞいてみると、かたなさかさにさってっておりその切先きっさきにはちたささ無数むすうさっていたという逸話いつわ由来ゆらいする[3]

また、その逸話いつわにはつづきがあり、妖刀ようとうであるとして今度こんどうみれたところ、今度こんどうみからあやしいひかりはなつようになったため再度さいどげることになった[3]。この妖刀ようとうはなしいた島津しまつ分家ぶんけすじたる樺山かばやまおとひさほんさく本家ほんけ島津しまつ献上けんじょうしたところ、島津しまつでも怪奇かいき現象げんしょうきたことから樺山かばやま返却へんきゃくされたとされている[3]。ただし、刀剣とうけん研究けんきゅうである福永ふくながよいけん著書ちょしょの『日本にっぽんがたなだい百科ひゃっか事典じてん』でおこなった説明せつめいによれば、上記じょうき逸話いつわ波平なみひら刀工とうこうらが上福元かみふくもとむらささぬき現在げんざい鹿児島かごしま東谷山ひがしたにやまいち丁目ちょうめ付近ふきん)に居住きょじゅうしていたことから創作そうさくされた逸話いつわであろうとしている[3]。なお、ささぬきという地名ちめい東谷山ひがしたにやまいち丁目ちょうめ北部ほくぶ町内ちょうないかい名称めいしょうとしてのこっているほか、刀剣とうけんづくりに使用しようされたとつたえられている井戸いどのこっている[4]。いずれにせよほんさくふるくからささぬき名付なづけられて地元じもと薩摩さつまつたわっていたようであり、室町むろまち時代じだい初期しょきつくられたくろうるし太刀だちこしらえとともに薩摩さつま樺山かばやま伝来でんらいしていた[1]。その国有こくゆうぶつとなり1972ねん昭和しょうわ47ねん)5がつ30にちには重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた。

作風さくふう

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刀身とうしん

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みやつここめ(つくりこみ)[用語ようご 1]は鎬造(しのぎつくり、平地ひらち<ひらじ>と鎬地<しのぎじ>を区切くぎ稜線りょうせん刀身とうしんにあるもの)であり鎬部分ぶぶんあつつくまれている。むねあんとう(いおりむね、かたな背面はいめんから断面だんめんさい屋根やねかたちえるむね)となっている[6]切先きっさき(きっさき、かたな先端せんたん部分ぶぶん)は先端せんたん猪首いくび切先きっさき(いくびきっさき、さきはばおおきいがながさがみじかいこと)[用語ようご 2]で、全体ぜんたいり(切先きっさきから鎺元まで直線ちょくせんいて直線ちょくせんからむね一番いちばんはなれているながさ)がふか[6]

てつ(じがね)[用語ようご 3]は、板目いため(いため、板材いたざい表面ひょうめんのような文様もんよう)に柾目まさめ(まさめ、高級こうきゅう板材いたざい柾目まさめのようにほとんど蛇行だこう湾曲わんきょくせず刀身とうしん方向ほうこうっすぐな並行へいこうせんがみえるもの)がっており、にえ(じにえ、平地ひらち<ひらじ>の部分ぶぶんはがね粒子りゅうしぎんすなをまいたようにこまかくきらきらとかがやいてえるもの)がついている[6]

ぶん(はもん)[用語ようご 4]は、ちょく(すぐは、もっと基本きほんてき直線ちょくせんじょうぶん)であり大和やまとでん作風さくふう近似きんじしている[6]

外装がいそう

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ほんさくには外装がいそうとしてくろうるし太刀だちこしらえ(こくしつたちこしらえ)が付属ふぞくしており、刀身とうしんあわせて重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている[6]くろうるし太刀だちこしらえ平安へいあん時代じだいからもちいられていたとされるが、現存げんそんするのくろうるし太刀だちこしらえおおくはかわつつみ太刀だちこしらえとも南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代じだい盛行せいこうした実戦じっせんよう太刀たちこしらえである[6]ほんさく太刀たちこしらえ室町むろまち時代じだい前期ぜんき制作せいさくされたものであり、金具かなぐにはまる十字じゅうじ島津しまづ家紋かもんえられている[6](つか、かたなにぎしゅのところ)までくろうるしりされている一方いっぽうで、さやではうるし調子ちょうしがややことなっているため、元々もともとまき(つかまき、全体ぜんたいひもおおうようにけること)であったものを現在げんざいかたちなおされたものとかんがえられる[6]

脚注きゃくちゅう

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用語ようご解説かいせつ

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  • 作風さくふうぶしのカッコない解説かいせつおよ用語ようご解説かいせつについては、刀剣とうけん春秋しゅんじゅう編集へんしゅう日本にっぽんがたなたしなむ』に準拠じゅんきょする。
  1. ^ みやつここみ」は、かた刀身とうしん断面だんめん形状けいじょうちがいなど形状けいじょう区分くわけのことを[5]
  2. ^ 猪首いくび切先きっさき」は、その特徴とくちょうからイノシシのくびようみじかようから名付なづけられた[7]猪首いくび切先きっさき鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうき太刀たちでよくみられる[7]
  3. ^ てつ」は、別名べつめいきたえや地肌じはだともばれており、いグレーやうすいグレーがかさなってえてる文様もんようのことである[8]。これらの文様もんよう原料げんりょうてつかえしてはばすのをかえ鍛錬たんれんて、きたえちゃくしためんせんとなって刀身とうしん表面ひょうめんあらわれるものであり、1つのかたな様々さまざま文様もんようはだ)があらわれるなかで、もっとつよている文様もんようしている[8]
  4. ^ ぶん」は、あかけた刀身とうしんみずれをおこなったさいに、急冷きゅうれいすることであられる部分ぶぶんしろ模様もようである[9]焼付やきつけ刀身とうしんにつけるが、てつ部分ぶぶん部分ぶぶん焼付やきつけあつみがことなるので急冷きゅうれい温度おんどしょうじることでてつ組織そしき変化へんかして発生はっせいする[9]。この焼付やきつけかたによってぶん変化へんかするため、流派りゅうは刀工とうこう特徴とくちょうがよくあらわれる[9]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 刀剣とうけん春秋しゅんじゅう編集へんしゅう日本にっぽんがたなたしなむ』ナツメしゃ、2016ねん3がつ1にちISBN 978-4816359934NCID BB20942912 
  • 福永ふくながよいけん日本にっぽんがたなだい百科ひゃっか事典じてん』 3かん雄山閣ゆうざんかく出版しゅっぱん、1993ねん11月20にちISBN 4639012020NCID BN10133913 
  • 兵頭ひょうどうあきらだけ右田みぎた雄二ゆうじ川畑かわはた美佳みか「373ワイド ささぬき新聞しんぶん」『みなみ日本にっぽん新聞しんぶん』2012ねん5がつ22にち、15めん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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