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粟屋あわやもとくに

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粟屋あわやもとくに
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん しょう
死没しぼつ とししょう1がつ7にち
別名べつめい 通称つうしょう孫次まごじろう
官位かんい 掃部すけ
主君しゅくん 毛利もうり元就もとなり
氏族しぞく みなもとせい粟屋あわや
父母ちちはは ちち粟屋あわやもとこのみ はは中馬ちゅうまひろこくむすめ
兄弟きょうだい もとくに元方もとかた元重もとしげ
つま 祖式そじきちょうけんむすめ
もとけん渡辺わたなべ就国
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粟屋あわや もとくに(あわや もとくに)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう毛利もうり譜代ふだい家臣かしん

生涯しょうがい

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毛利もうり譜代ふだい家臣かしんである粟屋あわや惣領そうりょう当主とうしゅ粟屋あわやもとこのみ長男ちょうなんとしてまれる。

だいひさし3ねん1523ねん)、毛利もうりみゆき松丸まつまる死後しご家督かとく相続そうぞくをめぐって家中いえじゅう対立たいりつした。このときもとくにやまいだったことを利用りようし、一族いちぞく粟屋あわや元秀もとひで神仏しんぶつもうでとしょうして上洛じょうらくさせ、将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはる毛利もうり元就もとなり家督かとく相続そうぞく直訴じきそさせ、元就もとなり家督かとく相続そうぞくみとめられた。

とおるろく2ねん1529ねん5月2にち安芸あきこく松尾まつおにおける合戦かっせんや、同年どうねん8がつ16にち安芸あきこく壬生みぶにおける合戦かっせん戦功せんこうげ、元就もとなりから感状かんじょうあたえられた。

とおるろく5ねん1532ねん7がつ13にちづけ毛利もうり家臣かしんだん32めいたがいの利害りがい調整ちょうせい元就もとなり要請ようせいした連署れんしょ起請文きしょうもんでは、23番目ばんめに「粟屋あわや掃部じょもとくに」と署名しょめいしている[1]

没年ぼつねん不明ふめいであるが50さい死去しきょし、長男ちょうなんもとけんいだ。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 毛利もうり文書ぶんしょだい396ごうとおるろく5ねん7がつ13にちづけ 福原ふくはらひろしゅん以下いか家臣かしん連署れんしょ起請文きしょうもん。このとき連署れんしょじょう署名しょめいした32めいは、署名しょめいじゅん福原ふくはらひろしゅんこころざし道広みちひろりょうかつらもときよし福原ふくはらもとかちさかひろあきらげんさだ山中やまなかもとこう光永みつながもとたかしきた就勝井上いのうえ元吉もとよし粟屋あわや元秀もとひで井上いのうえ就在長屋ながやよしちかし井上いのうえもともり井上いのうえもとさだ国司こくしゆうしょう井上いのうえゆうけい井上いのうえもとつづけ井上いのうえ俊秀としひで井上いのうえりょうざい井上いのうえ俊久としひさ国司こくし就連粟屋あわや元親もとちか粟屋あわやもとくに赤川あかがわ就秀飯田いいだひろおや赤川あかがわ元助もとすけ元保もとやす佐々部ささべゆうけん南方みなかたちかししゅう内藤ないとう元康もとやす秋山あきやまちかしきち三田みたもと井原いはらもと

参考さんこう文献ぶんけん

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