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赤川あかがわ元保もとやす

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赤川あかがわ元保もとやす
赤川あかがわ左京さきょうあきら元助もとすけ
毛利もうり博物館はくぶつかん毛利もうり元就もとなり備図」より)
時代じだい 戦国せんごく時代じだい
生誕せいたん しょう
死没しぼつ えいろく10ねん3月7にち[1]1567ねん4がつ16にち
改名かいめい 赤川あかがわ元助もとすけはつ)→赤川あかがわ元保もとやす
官位かんい 左京さきょうあきら受領じゅりょうめい
主君しゅくん 毛利もうり元就もとなりりゅうはじめ元就もとなり
氏族しぞく 桓武かんむたいら良文よしふみりゅう小早川こばやかわ庶流赤川あかがわ
父母ちちはは ちちあか川房かわぶさしんははさかひろあきむすめ
兄弟きょうだい ぼうけいおんなもとひかり就秀元保もとやすおんなかつらぼうしつ)、
元久もとひさ長沼ながぬま元忠もとただ
孫三郎まごさぶろうおんな内藤ないとうもとさかえしつ
養子ようしまた三郎さぶろうもとつう
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赤川あかがわ 元保もとやす(あかがわ もとやす)は、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう毛利もうり家臣かしん赤川あかがわ桓武かんむたいら一家いっかけい土肥どい一門いちもん小早川こばやかわ庶流

生涯しょうがい

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毛利もうり重臣じゅうしん

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あか川房かわぶさしんよんおとことして誕生たんじょう

だいひさし3ねん1523ねん)、主家しゅか毛利もうりみゆき松丸まつまる死去しきょしたさいに、毛利もうり元就もとなり家督かとく相続そうぞく要請ようせいした宿老しゅくろう15めいうち1人ひとりであり[注釈ちゅうしゃく 1][2]あにの就秀ととも元就もとなりささえた。また、とおるろく5ねん1532ねん7がつ13にち毛利もうり家臣かしんだん32めいたがいの利害りがい調整ちょうせい元就もとなり要請ようせいした連署れんしょ起請文きしょうもんでは26番目ばんめに「赤川あかがわ左京さきょうあきら元助もとすけ」と署名しょめいしている[注釈ちゅうしゃく 2]

天文てんもん9ねん1540ねん)の吉田よしだぐん山城やましろたたか参加さんかし、天文てんもん11ねん1542ねん)からはじまる大内おおうち義隆よしたか出雲いずも遠征えんせいだいいち月山がっさん富田とみたじょうたたかい)にも従軍じゅうぐんした。天文てんもん12ねん1543ねん)に大内おおうちぐん撤退てったいするさいには、出雲いずもこく意宇いうぐん熊野くまのくちにおける尼子あまこぐん追撃ついげき井上いのうえもとゆう三戸さんのへもととみ児玉こだま就光井上いのうえ就重赤川あかがわ元秀もとひで内藤ないとう六郎ろくろうみぎ衛門えもんじょうらととも撃退げきたいした[3]

天文てんもん15ねん1546ねん)に元就もとなり次男じなん元春もとはる吉川よしかわ相続そうぞくについての交渉こうしょうおこなわれ、天文てんもん16ねん1547ねん2がつ11にち吉川よしかわきょうけい吉川よしかわ経世けいせい森脇もりわきゆうゆうさかいはるどおり使者ししゃとして元就もとなりりゅうはじめ元春もとはるのもとに派遣はけんし、かたなうま進上しんじょうしてべさせると、りゅうはじめ返礼へんれい使者ししゃとしてもと吉川よしかわきょうけいのもとに派遣はけんしている[4]

天文てんもん19ねん1550ねん)に毛利もうり奉行ぶぎょう制度せいどはじまると、毛利もうりたかしもと直属ちょくぞく奉行ぶぎょうじん筆頭ひっとう任命にんめいされた。たかしもと側近そっきん重臣じゅうしんとして活躍かつやくするも、おやりゅうはじめとして驕慢きょうまんいがおおく、親元おやもと就派の重臣じゅうしんであった児玉こだま就忠かつら元忠もとただらとしばしば対立たいりつした。

厳島いつくしまたたかいとぼうちょう経略けいりゃく

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天文てんもん24ねん1555ねん)の厳島いつくしまたたかでも毛利もうり元就もとなりりゅうはじめしたがって出陣しゅつじんした[5]

厳島いつくしまたたかいののちからはじまったぼうちょう経略けいりゃく最中さいちゅう弘治こうじ2ねん1556ねん)2がつ周防すおうこく玖珂くがぐん山代やましろ[注釈ちゅうしゃく 3]一揆いっきこると、坂元さかもとゆう粟屋あわやもとつう一揆いっき討伐とうばつにあたり、現地げんち土豪どごうであるさんふんいちぬし殿どのまことさんふんいち式部しきぶまことさんふんいち刑部おさかべまことさんふんいちみぎ衛門えもんじょう舟越ふなこしとおるきち神田かんだ隆久たかひさ助藤すけとう土佐とさもりじょふじ左衛門尉さえもんのじょうらをはじめとする玖珂くがぐんこころざしまえ藤屋ふじや阿賀あが協力きょうりょくたが、それだけでは兵力へいりょく不足ふそくするため、元就もとなりりゅうはじめこころざしどう元保もとやす南方みなかたもとめぐみ児玉こだま就方香川かがわ光景こうけい市川いちかわけいこのみらを先鋒せんぽうとして派遣はけんし、さらに2がつ9にち福原ふくはらさだしゅんもとらを援軍えんぐんとして派遣はけんしている[6]

弘治こうじ3ねん1557ねん)3がつ大内おおうち義長よしなが内藤ないとうたかしらが周防すおうこく山口やまぐち放棄ほうきして長門ながとこく且山じょう籠城ろうじょうすると、かつら元親もとちか粟屋あわや元親もとちか児玉こだま就忠らとともに且山じょう攻撃こうげき元就もとなりめいじられる[7]。且山じょうへのそう攻撃こうげきにおいては渡辺わたなべおさむ市川いちかわけいこのみとも下関しものせき守備しゅびにあたり、大内おおうち大友おおともあいだ連絡れんらく遮断しゃだんした[8]

毛利もうりたかしもと急死きゅうし

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えいろく6ねん1563ねん8がつ3にち出雲いずもこく尼子あまこめに出陣しゅつじんする途上とじょう和智わちまことはる饗応きょうおうけたたかしもと直後ちょくご体調たいちょうくずし、よく8がつ4にち安芸あきこく高田たかだぐん佐々部ささべ急死きゅうしする事件じけんきた[9]りゅうはじめ急死きゅうしについて、もと尼子あまこつうじて和智わちまことはるむすんだ結果けっかではないかとの嫌疑けんぎしょうじたため、元就もとなりもと尼子あまこめに従軍じゅうぐんさせず、大友おおともへのそなえとして長門ながとこく下関しものせき駐屯ちゅうとんさせた[10]。このとき元保もとやす嫌疑けんぎたいしてすすんで潔白けっぱく証明しょうめいすることがなかったばかりか、元就もとなり遺恨いこん態度たいどしめしたとされ、駐屯ちゅうとんした下関しものせきにおいても一向いっこう誠意せいいあるはたらきをせず、警備けいびちゅうわずかにずね負傷ふしょうしたのみであったとされる[10]

赤川あかがわ元保もとやす一族いちぞく粛清しゅくせい

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元就もとなりすくなくとも尼子あまこめが完了かんりょうするまではしょしょう動揺どうよう回避かいひするため、もとへの責任せきにん追及ついきゅう処分しょぶん保留ほりゅうしていたが、えいろく9ねん1566ねん11月28にち尼子あまこ義久よしひさ降伏ごうぶくし、えいろく10ねん1567ねん)2がつ吉田よしだぐん山城やましろ帰還きかんした元就もとなりは、もと直接ちょくせつはなうためもと下関しものせきから帰還きかんさせた。しかし、吉田よしだ帰還きかんしたもと登城とじょうせず、まれ登城とじょうしようと居館きょかんても途中とちゅうかえうごきがられたため、もと弁解べんかいがた事情じじょうがあって警戒けいかいしているのではないかと元就もとなりうたがった[10]

ことここにいたって、元就もとなり近臣きんしん平佐ひらさ就之に「たかしもと存命ぞんめいちゅう心強こころづよおもっていたが、いま赤川あかがわ元保もとやすのように遺恨いこんふくものがいるのに親身しんみになってくれるもの一人ひとりもいない。後継こうけいたる輝元てるもとはまだ15さい若年じゃくねんであり、老齢ろうれい自分じぶんなにかあればいち大事だいじであるので、自分じぶんまんいち用心ようじんをしなければならず、もと処分しょぶんいそぎたいとおもっている。とく近頃ちかごろ鉄砲てっぽうがあって、世上せじょうにも不慮ふりょことがあるから油断ゆだんならない」とのかんがえをらしており、吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげとの協議きょうぎにおいて元就もとなりは、もと警戒けいかいしている以上いじょう機先きせんせいして誅殺ちゅうさつすべきとのかんがえをしめした。もとはる隆景たかかげは、もとについてはかつらもときよしかつら元忠もとただくちどおりりょう一任いちにんしているとして慎重しんちょう姿勢しせいしめしたが、元就もとなりかつらもときよしらに了解りょうかいもとめて準備じゅんびととのえ、もと自刃じじんめいじた[11]元就もとなりからの自刃じじんいのちけた元保もとやすは、いまのがれることはできないとして3月7にち[1]自刃じじんした[12]

さらに、元就もとなり粟屋あわや就信らを派遣はけんして、吉田よしだすみという場所ばしょにあるもとおとうと赤川あかがわ元久もとひさ居館きょかん襲撃しゅうげきさせた[12]もとひさ襲撃しゅうげき覚悟かくごして居館きょかん討手うってかまえ、粟屋あわや就信とちがえてたれた[12]。また、吉田よしだ山手やまてもと養子ようし赤川あかがわ又五郎またごろうたいしてもかつらもときよしらを派遣はけんして居館きょかん襲撃しゅうげきさせると、又五郎またごろうただちに一室いっしつもり、鉄砲てっぽう使用しようして頑強がんきょう抵抗ていこうした[13]。そこで討手うって一人ひとりである中村なかむらもとむね茶釜ちゃがまぶた胸部きょうぶてて突入とつにゅうし、重傷じゅうしょういながらも又五郎またごろうせてったが、きずがもとで死去しきょした[13]

いえ再興さいこう

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そのりゅうはじめ和智わちまことはる饗応きょうおうさそいをけたさいもとは「吉田よしだぐん山城やましろにもらなかったのに、どのようなはかりごとがあるかからない和智わちまことはるのもとにおもむかれる必要ひつようはない」と反対はんたいしていたことが判明はんめいし、その潔白けっぱく確認かくにんされた。元就もとなりもと一族いちぞく粛清しゅくせいしたことをい、えいろく10ねん1567ねん11月29にちもとあに赤川あかがわ就秀次男じなんであるもとつうおい元之もとゆき赤川あかがわ再興さいこうさせた[13]

登場とうじょう作品さくひん

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テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ このとき家督かとく相続そうぞく要請ようせい連署れんしょじょう署名しょめいした15めい宿老しゅくろうは、署名しょめいじゅん福原ふくはらひろしゅん中村なかむら元明もとあきさかひろしゅう渡辺わたなべまさる粟屋あわや元秀もとひで赤川あかがわ元助もとすけ元保もとやす井上いのうえ就在井上いのうえもともり赤川あかがわ就秀飯田いいだ元親もとちか井上いのうえもとさだ井上いのうえ元吉もとよし井上いのうえもとけんかつらもときよしこころざし道広みちひろりょう
  2. ^ 毛利もうり文書ぶんしょだい396ごうとおるろく5ねん7がつ13にちづけ 福原ふくはらひろしゅん以下いか家臣かしん連署れんしょ起請文きしょうもん。このとき連署れんしょじょう署名しょめいした32めいは、署名しょめいじゅん福原ふくはらひろしゅんこころざし道広みちひろりょうかつらもときよし福原ふくはらもとかちさかひろあきらげんさだ山中やまなかもとこう光永みつながもとたかしきた就勝井上いのうえ元吉もとよし粟屋あわや元秀もとひで井上いのうえ就在長屋ながやよしちかし井上いのうえもともり井上いのうえもとさだ国司こくしゆうしょう井上いのうえゆうけい井上いのうえもとつづけ井上いのうえ俊秀としひで井上いのうえりょうざい井上いのうえ俊久としひさ国司こくし就連粟屋あわや元親もとちか粟屋あわやもとくに赤川あかがわ就秀飯田いいだひろおや赤川あかがわ元助もとすけ元保もとやす佐々部ささべゆうけん南方みなかたちかししゅう内藤ないとう元康もとやす秋山あきやまちかしきち三田みたもと井原いはらもと
  3. ^ 現在げんざい山口やまぐちけん岩国いわくに本郷ほんごうまちおよびにしきまち

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 防長新聞社ぼうちょうしんぶんしゃ山口やまぐち支社ししゃへん へん近世きんせいぼうちょう諸家しょか系図けいず綜覧そうらん三坂みさかけい監修かんしゅう防長新聞社ぼうちょうしんぶんしゃ、1966ねん3がつNCID BN07835639OCLC 703821998全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:73004060 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  • さんきょうでん編纂へんさんしょ, 渡辺わたなべゆう毛利もうり元就もとなりきょうでん』(限定げんていばん)マツノ書店しょてん、1984ねん全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:21490091https://id.ndl.go.jp/bib/000009544525 
  • 本多ほんだ博之ひろゆき毛利もうり領国りょうごくにおける基準きじゅんぜに流通りゅうつうぜに」『内海うつみ文化ぶんか研究けんきゅう紀要きようだい20かん広島大学ひろしまだいがく文学部ぶんがくぶ内海うつみ文化ぶんか研究けんきゅう施設しせつ、1991ねん3がつ、29-54ぺーじCRID 1390853649784659456doi:10.15027/25239ISSN 03863182NAID 120000872335