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平佐ひらさ就之

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平佐ひらさ就之
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん とおるろく3ねん1530ねん
死没しぼつ 慶長けいちょう17ねん5月29にち1612ねん6月28にち
改名かいめい しょう法師ほうし幼名ようみょう)→平佐ひらさ就之
別名べつめい 通称つうしょうみなもと七郎しちろうふじみぎ衛門えもんじょう
官位かんい したがえろく伊豆いずまもる
主君しゅくん 毛利もうり元就もとなり輝元てるもと
氏族しぞく 大江おおえせい毛利もうり庶流たいらたすく
父母ちちはは ちち平佐ひらさ就有
つま 粟屋あわや就俊もとしつ
養子ようしげんさだ粟屋あわや就貞
テンプレートを表示ひょうじ

平佐ひらさ 就之(ひらさ なりゆき)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての武将ぶしょう毛利もうり家臣かしん

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

たいらたすく毛利もうりの庶流。毛利もうり元春もとはるよんなん中馬ちゅうま忠広ただひろ次男じなんである中馬ちゅうまひろさだ安芸あきこく高田たかだぐん平佐ひらさきょうりょうして、地名ちめいからたいらたすく名乗なのった。

とおるろく3ねん1530ねん)、平佐ひらさ就有として誕生たんじょう

毛利もうり元就もとなりまわりやくとなって毛利もうり家臣かしんから元就もとなりへのもうぎや、使者ししゃつとめるなど、元就もとなり側近そっきんとして活躍かつやく年寄としよりしゅ一人ひとりとなる。天文てんもん9ねん1540ねん)の吉田よしだぐん山城やましろたたか局地きょくちせん青山あおやま土取場つちとりばたたかしょしょうとも尼子あまこ三沢みさわためこうやぶった。

えいろく6ねん1563ねん)の出雲いずもこくしろ鹿しかじょうめでも桜井さくらい就綱とも小高おだかまる奪取だっしゅする戦功せんこうげ、元就もとなりから感状かんじょうている。また、天正てんしょう4ねん1576ねん)のきゅうづけりつによると、安芸あき高田たかだぐん多治比たじひ河田かわためい・かけめい安芸あき山県やまがたぐん壬生みぶ沼田ぬまたぐんばん佐東さとうぐん上安かみやす周防すおうこく都濃つのぐん小畑おばたなどをりょうしているが、天正てんしょうまつねんそうこく検地けんちにおいてきゅうえがおこなわれ、天正てんしょう19ねん1591ねん)には備後びんごこく府中ふちゅう木梨きなしりょうないに200せきあたえられた。

慶長けいちょう17ねん1612ねん)、死去しきょ享年きょうねん83。

天文てんもん21ねん1552ねん)、粟屋あわや就俊戦死せんししたため、元就もとなりいのちによって就俊しつが就之に再嫁さいかした。彼女かのじょはこのとき就俊の男子だんし懐妊かいにんしており、ほどなくして男子だんし誕生たんじょうしたため、元就もとなりはこの男子だんしに就俊ののちがせて粟屋あわや就貞名乗なのらせた。しかし、就貞は天正てんしょう元年がんねん1573ねん)に死去しきょしたため、就之は就貞の嫡男ちゃくなんであるげんさだ養子ようしとしている。

なお、弘治こうじ3ねん1557ねん)に毛利もうり元就もとなり毛利もうりたかしもと吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげてた有名ゆうめいな「三子みつご教訓きょうくんじょう」への返書へんしょ宛先あてさきも、元就もとなり側近そっきんであった就之あてとなっている。