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ストーラ・ハマール石碑 せきひ (en )
絵画 かいが 石碑 せきひ (かいがせきひ、英語 えいご :picture stone、image stone、figure stone)あるいは刻 こく 画 が 石碑 せきひ とは、ゲルマン鉄器 てっき 時代 じだい やヴァイキング時代 ときよ のスカンディナヴィア に建立 こんりゅう された装飾 そうしょく を施 ほどこ した石板 せきばん である。ほぼ石灰岩 せっかいがん で作 つく られており、その最 さい 多数 たすう がゴットランド島 とう にある[1] [2] 。
2023年 ねん 時点 じてん では400基 き 以上 いじょう が確認 かくにん されており[3] 、おそらく全 すべ て記念 きねん 碑 ひ として建立 こんりゅう されたと考 かんが えられるが[1] 、ごくまれに墓地 ぼち のかたわらに建 た てられたものもある[2] 。人目 ひとめ に付 つ くように道 みち や橋 はし のそばに置 お かれたものも存在 そんざい する[1] 。
ルーン石碑 せきひ とは用途 ようと が異 こと なり、絵画 かいが 石碑 せきひ のほとんどは伝達 でんたつ しようとしている事象 じしょう が絵画 かいが によって描 えが かれている。また、ルーン碑文 ひぶん を伴 ともな うものもあるが、誰 だれ に対 たい して捧 ささ げられたか刻 きざ まれることは稀 まれ である。そのため、言語 げんご による説明 せつめい を欠 か くために絵画 かいが 石碑 せきひ の正確 せいかく な解釈 かいしゃく は困難 こんなん とされている[2] 。
スウェーデン の西海岸 にしかいがん 地帯 ちたい に集中 しゅうちゅう して見 み られる青銅器 せいどうき 時代 じだい の岩石 がんせき 線画 せんが が自然 しぜん の平面 へいめん 岩 がん に刻 きざ まれたのに対 たい し、絵画 かいが 石碑 せきひ は石灰岩 せっかいがん を石板 せきばん の形状 けいじょう に加工 かこう したものを用 もち いている。何 なん らかの記念 きねん して建立 こんりゅう されたと考 かんが えられるが、死者 ししゃ 崇拝 すうはい や埋葬 まいそう 習慣 しゅうかん に起源 きげん を持 も つと考 かんが えられている[4] 。
石碑 せきひ が建立 こんりゅう 当時 とうじ の場所 ばしょ にそのままの姿 すがた で発見 はっけん されることはごく稀 まれ で、キリスト教 きりすときょう 伝来 でんらい 後 ご の墓石 はかいし や教会 きょうかい の石材 せきざい として再 さい 利用 りよう される形 かたち で見 み つかっている[5] 。
絵画 かいが 石碑 せきひ の各 かく グループに見 み られる代表 だいひょう 的 てき な形状 けいじょう の図 ず
第 だい 1グループの石碑 せきひ に見 み られる渦巻 うずまき 模様 もよう (ゴットランド島 とう 、歴史 れきし 博物館 はくぶつかん 蔵 ぞう )
第 だい 2グループに属 ぞく する小 ちい さい絵画 かいが 石碑 せきひ (ゴットランド島 とう 、歴史 れきし 博物館 はくぶつかん 蔵 ぞう )
第 だい 3グループ。スレイプニル に騎乗 きじょう したオーディン がヴァルハラ へ帰還 きかん する場面 ばめん の細部 さいぶ 。 シェングヴィーデ石碑 せきひ (en )
絵画 かいが 石碑 せきひ の年代 ねんだい は形状 けいじょう と装飾 そうしょく の研究 けんきゅう に基 もと づき分類 ぶんるい される。石碑 せきひ はさらに芸術 げいじゅつ 的 てき な観点 かんてん と建立 こんりゅう の立地 りっち や目的 もくてき により3つのグループに分類 ぶんるい できる。
紀元 きげん 400年 ねん から600年 ねん まで[ 編集 へんしゅう ]
第 だい 1グループは紀元前 きげんぜん 400年 ねん から600年 ねん までのものである。これらはまっすぐな形 かたち をしているが、上面 うわつら は斧 おの の刃 は のような形状 けいじょう をしている。装飾 そうしょく は大抵 たいてい は渦巻 うずまき 模様 もよう をともなう円 えん で、これは太陽 たいよう を象徴 しょうちょう するものと考 かんが えられる[6] 。船 ふね や人間 にんげん や動物 どうぶつ が描 えが かれたものもある。これらの古 ふる い石碑 せきひ はふつうは墓地 ぼち の近 ちか くに建 た てられるが、それら自体 じたい が墓 はか の上 うえ に置 お かれることはない[3] 。
紀元 きげん 500年 ねん から700年 ねん まで[ 編集 へんしゅう ]
第 だい 2グループは紀元 きげん 500年 ねん から700年 ねん までのもので様式 ようしき 的 てき な文様 もんよう が施 ほどこ された小 ちい さなもので[1] 、「こびと絵画 かいが 石碑 せきひ 」とも呼 よ ばれる。図式 ずしき 化 か された小舟 こぶね や船 ふね のほか、鳥 とり やシカと思 おも われる角 かく のある動物 どうぶつ が描 えが かれているが、装飾 そうしょく が両面 りょうめん に施 ほどこ されているものもある点 てん がより古 ふる いものと異 こと なっている。縁 えん 飾 かざ りの文様 もんよう がジグザク状 じょう になっているのも特徴 とくちょう のひとつである[7] 。
紀元 きげん 700年 ねん から1100年 ねん まで[ 編集 へんしゅう ]
第 だい 3グループは紀元 きげん 700年 ねん から1100年 ねん に作 つく られたもので、このグループには背 せ が高 たか く、弓 ゆみ なりに長 なが い両 りょう 側面 そくめん をした、いわゆるキノコ型 がた の石碑 せきひ が含 ふく まれている[1] [8] 。このグループの石碑 せきひ には格子 こうし 模様 もよう の入 はい った帆 ほ を張 は った船 ふね や、異 こと なる場所 ばしょ での出来事 できごと などの絵 え が多数 たすう 装飾 そうしょく として見 み られ[1] [2] 、石碑 せきひ の周囲 しゅうい は様々 さまざま なパターンの編 あ み目 め 文様 もんよう で飾 かざ られている[1] 。ほとんどは供 きょう 犠 や戦 たたか いの場面 ばめん であるが[3] 、馬 うま に乗 の った男性 だんせい が角 かく 杯 はい をかかげた女性 じょせい に出迎 でむか えられる絵 え もよく見 み られる[1] [2] 。絵画 かいが 石碑 せきひ には伝説 でんせつ や神話 しんわ の様々 さまざま な場面 ばめん が描 えが かれており[1] 、北欧 ほくおう 神話 しんわ や北欧 ほくおう の伝説 でんせつ の描写 びょうしゃ と同定 どうてい 出来 でき るものもあるが、絵画 かいが の背景 はいけい となった物語 ものがたり のほとんどは文書 ぶんしょ として現存 げんそん していない。
絵画 かいが 石碑 せきひ は船 ふね や帆 ほ についての考古学 こうこがく 的 てき な知識 ちしき を補完 ほかん するさまざまな情報 じょうほう 源 げん であり[2] 、武器 ぶき や馬車 ばしゃ 、橇 そり (そり)についての知識 ちしき も得 え られる[3] 。このグループの後期 こうき には、周囲 しゅうい をルーン文字 もじ で装飾 そうしょく されたものや、竜 りゅう などの動物 どうぶつ 文様 もんよう [9] 石碑 せきひ の上部 じょうぶ にキリスト教 おし えの影響 えいきょう と思 おも われる十字架 じゅうじか が刻 きざ まれたものが属 ぞく している[1] [10] 。これらは道 みち や橋 はし の近 ちか くなどよく見 み える場所 ばしょ に置 お かれた[3] 。
ゴトランド島 とう 最大 さいだい の絵画 かいが 石碑 せきひ はブトレ教区 きょうく 内 ない のエンゲで発見 はっけん されているが、これは高 たか さ3.7メートルあり、8世紀 せいき の様式 ようしき でふんだんに装飾 そうしょく が施 ほどこ されている[1] 。
マン島 とう の絵画 かいが 石碑 せきひ [ 編集 へんしゅう ]
マン島 とう の背 せ の高 たか い十字架 じゅうじか の墓石 はかいし には、ゴットランド島 とう の絵画 かいが 石碑 せきひ と類似 るいじ した戦士 せんし や北欧 ほくおう の神 かみ 々を題材 だいざい とする装飾 そうしょく がたくさん施 ほどこ されているものがある[11] 。
脚注 きゃくちゅう と出典 しゅってん [ 編集 へんしゅう ]
エーリック・ニーレン、ヤーン・ペーデル・ラム 『ゴトランドの絵画 かいが 石碑 せきひ 』岡崎 おかざき 晋 すすむ 訳 やく 、彩 いろどり 流 りゅう 社 しゃ 、1986年 ねん 。
ラーシュ・マーグナル・エーノクセン 『ルーン文字 もじ の世界 せかい 』荒川 あらかわ 明久 あきひさ 訳 やく 、国際 こくさい 語学 ごがく 社 しゃ 、2007年 ねん 。
菅原 すがわら 邦 くに 城 じょう 『北欧 ほくおう 神話 しんわ 』東京書籍 とうきょうしょせき 、1984年 ねん 。
著名 ちょめい な絵画 かいが 石碑 せきひ [ 編集 へんしゅう ]