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網引あびき金村かなむら

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網引あびき 金村かなむら(あびき の かなむら、なま没年ぼつねんしょう)は、奈良なら時代じだい人物じんぶつせいおおやけ

概要がいよう

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備後びんごこくあしぐんげん広島ひろしまけん福山ふくやま新市しんいちまち)の人物じんぶつ。『ぞく日本にっぽん』の記述きじゅつによると、「8さいときちちくし、そのかなしみにほそってしまった。つぎははにあたって、した気持きもちがますますふかくなった。神護かんごけいくも2ねん768ねん2がつ17にちしょうとく天皇てんのうとなえて位階いかいあたえ、田租でんそ終身しゅうしん免除めんじょとした」とある[1]

伝説でんせつ

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福山ふくやまこころざしりょう』などの郷土きょうどによると、金村かなむら孝心こうしんふか孝養こうようとどかないところはなかったこと、このことがとなえられかた30まちたまわさかえたこと、新市しんいちむら現在げんざい広島ひろしまけん福山ふくやま新市しんいちまち新市しんいち地区ちく大平山おおひらやま西側にしがわ山下やましたかすさんというおか屋敷やしきあとがあり、長者ちょうじゃ屋敷やしきという地名ちめい由来ゆらいとなったこと[2]、さらにまずしかったころに、やまりにはいったときいずみ発見はっけんし、そのみず父母ちちははあたえたところそれは美酒びしゅであった[2]などの口碑こうひ紹介しょうかいされている。

異説いせつ

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江戸えど時代じだい後期こうき学者がくしゃ小寺こでら清之きよゆき著作ちょさく備後びんご略記りゃっき』のなかで、金村かなむら居所きょしょ通説つうせつにいう新市しんいちむらではなく金丸かねまるむら現在げんざい広島ひろしまけん福山ふくやま新市しんいちまち金丸かねまる地区ちく)であるとし、おも論拠ろんきょとしてつぎ事柄ことがらげている[3]

  • ぞく日本にっぽん本文ほんぶんに「備後びんごこくあしぐん」とあるのであしぐん居住きょじゅうしていたことはあきらかであり、ぐん居所きょしょもとめるのはあやまりである。
  • あしぐん金丸かねまる(カネマル)というむらがあり、(新市しんいちむら隣接りんせつする)宮内くないむらつづいている。金村かなむら居住きょじゅうしていたからこそ名前なまえ地名ちめいてんじたのではないか。
  • 金丸かねまるむら村長そんちょう馬屋うまやはら九郎くろうみぎ衛門えもんいえ宿やどって当地とうちはなしいたさいいにしえより「金丸かねまるはたけ」という1たん15はたけがあるということで、当所とうしょ金村かなむら居住きょじゅうしていたことのあきらかな証拠しょうこである。
  • 新市しんいちむらは(しなぐんであり)ぐんことなる。また往事おうじは(あなうみの)海中かいちゅうであり、居住きょじゅうできる場所ばしょはあってはならないはずである。
  • 新市しんいちむら当時とうじあしぐんであったとすると宮内くないむらしなぐんということになる。また新市しんいちむら宮内くないむらとも当時とうじあしぐんであったというのは、『延喜えんぎしきかみめいちょう』が宮内くないむらにある神社じんじゃ吉備津きびつ神社じんじゃ境内けいだいしゃ)を「しなぐん一座いちざ」としるすことを説明せつめいできていない。

氏姓しせい

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網引あびきこうという氏姓しせいは、「あみって漁獲ぎょかくごうとするみん」のちょうたる地方ちほう豪族ごうぞくのものであって、全国ぜんこく各地かくち分布ぶんぷしている。そのうち、あしぐん移住いじゅうした氏族しぞくもあったとかんがえられる[4]

評価ひょうか

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郷土きょうど史家しか村上むらかみ正名まさなは、江戸えど時代じだい中期ちゅうき以降いこう備後びんご福山ふくやまはんでは頻発ひんぱつする百姓ひゃくしょう一揆いっき対策たいさくとして、朱子学しゅしがくてき発想はっそうから孝子たかこ節婦せっぷ顕彰けんしょうにより人身じんしん安定あんていさくこうじた時代じだい背景はいけいもとで、金村かなむら業績ぎょうせき誇張こちょうされていったと指摘してきしている[5]

史跡しせき

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網引あびきおおやけ(2020ねん9がつ撮影さつえい
至孝しこうどうあと(2020ねん9がつ撮影さつえい

網引あびきおおやけ至孝しこうどうあと - 1837ねん天保てんぽう8ねん)、宮内くないむら庄屋しょうやはやし吉助きちすけふか金村かなむら公徳こうとく追慕ついぼし、あとである神谷かみやがわ川岸かわぎし顕彰けんしょう建立こんりゅうし、私塾しじゅく至孝しこうどう」をもうけた。当所とうしょ福山ふくやまはん儒で藩校はんこう教授きょうじゅ衣川きぬがわ閑斎まねいて庶民しょみんみちこうじさせた。塾舎じゅくしゃ老朽ろうきゅうによりこわされた[6]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ぞく日本にっぽん1. 東洋文庫とうようぶんこ. (1986). p. 231 
  2. ^ a b 西にし備名まきよんじゅうよん ひんぐん(『備後びんご叢書そうしょだい4かん、1,042ぺーじ. 東洋とうよう書院しょいん. (1990) 
  3. ^ 備後びんご略記りゃっき』(『備後びんご叢書そうしょだい8かん、158ぺーじ).東洋とうよう書院しょいん.(1990)
  4. ^ 広島ひろしまけん 古代こだい通史つうしⅠ』、272ぺーじ
  5. ^ 村上むらかみ正名まさなちょ『ふるさと探訪たんぼうシリーズ5 府中ふちゅう散策さんさく』(1981ねん)、125-126ぺーじ
  6. ^ 網引あびきおおやけ至孝しこうどう”. 新市しんいちまち観光かんこう協会きょうかい. 2020ねん6がつ21にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 直木なおき孝次郎こうじろう訳注やくちゅうぞく日本にっぽん1』、1986ねん
  • 広島ひろしまけん 古代こだい通史つうしⅠ』、広島ひろしまけん、1981ねん
  • 西にし備名』(得能とくのうただしどおりへん備後びんご叢書そうしょだい4かん所収しょしゅう


外部がいぶリンク

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