(Translated by https://www.hiragana.jp/)
織田淳哉 - Wikipedia コンテンツにスキップ

織田おだ淳哉じゅんや

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
織田おだ 淳哉じゅんや
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 宮崎みやざきけん東臼杵ひがしうすきぐん西郷さいごうむらげん美郷みさとまち[1]
生年月日せいねんがっぴ (1972-08-08) 1972ねん8がつ8にち(52さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
182 cm
90 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 投手とうしゅ捕手ほしゅ
プロ 1994ねん ドラフト2
はつ出場しゅつじょう 1995ねん7がつ12にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1995ねん10がつ3にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど

織田おだ 淳哉じゅんや(おりた じゅんや、1972ねん8がつ8にち - )は、宮崎みやざきけん出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅ一時いちじ捕手ほしゅ転向てんこう)。

来歴らいれき

[編集へんしゅう]

プロまえ

[編集へんしゅう]

日向ひなた高校こうこう2ねんなつ甲子園こうしえん出場しゅつじょう初戦しょせん敗退はいたい[1]

早稲田大学わせだだいがく進学しんがくし、東京とうきょうろく大学だいがくリーグでは1ねんはるから出場しゅつじょう[1]はつ登板とうばんはつ勝利しょうりおさめると、開幕かいまく時点じてんでリーグせん勝利しょうりした投手とうしゅがいないほど投手とうしゅじん不足ふそくしていた早大そうだいでたちまちエースのき、1ねんはる投手とうしゅとしては1927ねん宮武みやたけ三郎さぶろう慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく以来いらいの5しょうげた[1]。1学年がくねんじょうには仁志にし敏久としひさが、1学年がくねんにはバッテリーをんだ荒井あらいおさむこうがいた。

当時とうじ1990年代ねんだい前半ぜんはん東京とうきょうろく大学だいがく野球やきゅう代表だいひょうする選手せんしゅだった。チームの投手とうしゅ事情じじょうから入学にゅうがく以来いらい織田おだ織田おだまた織田おだ、1しゅうはさんでまた織田おだ」といわれるほどにまい試合しあいのようにマウンドにがった。4年間ねんかん史上しじょう5タイの74試合しあい登板とうばん、527 1/3投球とうきゅうかい関根せきねじゅんさん若林わかばやし忠志ただし末吉すえきち俊信としのぶ江川えがわたくらに史上しじょう6にランクされる。

打者だしゃとしてもすぐれ、投手とうしゅ登録とうろく)としては宮武みやたけ三郎さぶろう通算つうさん9本塁打ほんるいだのリーグ記録きろく樹立じゅりつ[1]。4ねんには主将しゅしょうつとめるだけでなく4ばんち、大学だいがく球界きゅうかいでも過去かこ存在そんざいになっていた「主将しゅしょう投手とうしゅ・4ばん」をつとめた[1]。なお、当時とうじ監督かんとくがやはり「主将しゅしょう投手とうしゅ・4ばん」を経験けいけんした石井いしいれんぞうだった。逆転ぎゃくてん優勝ゆうしょうのためにもけられない1993ねんあきたい明大めいだい3回戦かいせんではブルペンからそのまま代打だいだち、つぎ守備しゅびからマウンドにのぼ勝利しょうり投手とうしゅとなり、チームの7ぶりの優勝ゆうしょうだい貢献こうけんした。明治めいじ神宮じんぐう大会たいかいでは初戦しょせんみずかはなち、完投かんとう勝利しょうりしたが決勝けっしょうせん駒大こまだい高木たかぎ浩之ひろゆき先発せんぱつ登板とうばんし、河原かわはら純一じゅんいちへの継投けいとう自身じしん完投かんとうするもやぶれた。

リーグ通算つうさん74試合しあい登板とうばん33しょう歴代れきだい10タイ)26はい防御ぼうぎょりつ2.83、396だつ三振さんしん[1]。ベストナイン2かい(1993ねん秋季しゅうき、1994ねん春季しゅんき)を獲得かくとく。4年生ねんせいとなった1994年度ねんどだい84だい主将しゅしょうつとめた。また打撃だげきでもチームをり、通算つうさん成績せいせきは、リーグ通算つうさん78試合しあい出場しゅつじょう、209打数だすう47安打あんだ打率だりつ.225、9本塁打ほんるいだ、17打点だてん、6盗塁とうるい記録きろく登板とうばんしないさい一塁いちるいしゅ出場しゅつじょうもあった。

プロ時代じだい

[編集へんしゅう]

1994ねん巨人きょじんぎゃく指名しめいしドラフト2入団にゅうだん[1]

1995ねん好成績こうせいせきげた西山にしやま一宇いちうならんで「投手とうしゅのON」とマスコミに紹介しょうかいされたこともあった。開幕かいまくからぐんで5しょう1はい防御ぼうぎょりつ2てんだい好成績こうせいせきのこ一軍いちぐん昇格しょうかく好投こうとうかさ夏場なつば一軍いちぐんはつ登板とうばんだまのフォークボールを武器ぶき中継なかつぎとして当初とうしょ好投こうとうしていたが、アームしきとうほう連投れんとうしづらくつかれだしたらまれてしまい16試合しあい登板とうばんわる。入団にゅうだんから打者だしゃとして評価ひょうかするこえもあった[2]

1996ねんシーズン終盤しゅうばん長嶋ながしま茂雄しげお監督かんとく発案はつあんにより、手薄てうす捕手ほしゅじん補強ほきょうのため捕手ほしゅ転向てんこう[1]学生がくせい時代じだいからの非凡ひぼん打撃だげきセンスで打者だしゃとしても期待きたいかり、ぐん若手わかて注目ちゅうもくかぶとして注目ちゅうもくされた。

1997ねんにはぐん活躍かつやくおさめていた。ところが、肝心かんじん守備しゅびほうは、捕手ほしゅとしてはかたよわく、さらにキャッチングになんがあり失策しっさくおおかったため、短期間たんきかん捕手ほしゅ断念だんねん以降いこう一塁いちるいしゅとしてぐん試合しあい出場しゅつじょうしていた。

1998ねんシーズンちゅう投手とうしゅさい転向てんこう[1]し、ぐんおさやくつとめた。同年どうねんのシーズン終了しゅうりょう結婚けっこん

1999ねん若手わかて台頭たいとう戦力せんりょく補強ほきょうにより、ぐんでもほとん出場しゅつじょう機会きかいめぐまれず、シーズン終了しゅうりょう戦力せんりょくがい通告つうこくけて現役げんえき引退いんたい[1]本人ほんにん意思いしとは関係かんけいのない球団きゅうだん事情じじょうによる2のコンバートなど、織田おだたいする過去かこあつかいを球団きゅうだんがわ配慮はいりょし、球団きゅうだん職員しょくいんとして巨人きょじん残留ざんりゅうした[1]

2000ねんから一軍いちぐん広報こうほうつとめた。

2006ねん巨人きょじん関東かんとう地区ちく担当たんとうスカウトに異動いどうした。担当たんとうだい累進るいしん太田おおたりゅうなど。

詳細しょうさい情報じょうほう

[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

[編集へんしゅう]
とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1995 巨人きょじん 16 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 94 21.2 22 3 7 1 1 20 0 0 11 11 4.57 1.34
通算つうさん:1ねん 16 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 94 21.2 22 3 7 1 1 20 0 0 11 11 4.57 1.34

記録きろく

[編集へんしゅう]

背番号せばんごう

[編集へんしゅう]
  • 20 (1995ねん - 1996ねん
  • 36 (1997ねん - 1998ねん
  • 52 (1999ねん

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l プロ野球やきゅう人名じんめい事典じてん 2003(2003ねん日外にちがいアソシエーツ)、135ページ
  2. ^ 95スポニチプロ野球やきゅう手帳てちょう

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]