(Translated by https://www.hiragana.jp/)
芥川城 - Wikipedia コンテンツにスキップ

芥川あくたがわしろ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
芥川あくたがわしろ
大阪おおさか
芥川城(址石碑)
芥川あくたがわじょう石碑せきひ
城郭じょうかく構造こうぞう 平城ひらじろ
築城ちくじょうぬし 芥川あくたがわあくたかわ
築城ちくじょうねん 鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき[1]
おも城主じょうしゅ 芥川あくたがわ
はいじょうねん 不明ふめい
遺構いこう なし
再建さいけん造物ぞうぶつ なし
位置いち 北緯ほくい3451ふん10.818びょう 東経とうけい13536ふん31.003びょう / 北緯ほくい34.85300500 東経とうけい135.60861194 / 34.85300500; 135.60861194
地図ちず
芥川城の位置(大阪府内)
芥川城
芥川あくたがわしろ
テンプレートを表示ひょうじ

芥川あくたがわしろ(あくたがわじょう)は、大阪おおさか高槻たかつきにあったとされる日本にっぽんしろ近年きんねんではその存在そんざい疑義ぎぎていされている(後述こうじゅつ)。おな高槻たかつき三好みよしさんにある山城やましろも「芥川あくたがわしろ」と呼称こしょうされており、『日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけい』ではその山城やましろを「芥川あくたがわ山城やましろ」、本城ほんじょうを「芥川あくたがわしろ」と区別くべつしている[2]

概要がいよう

[編集へんしゅう]

芥川あくたがわじょうは、平安へいあん時代じだい末期まっきより摂津せっつこく島上しまがみぐん芥川あくたがわ宿やど拠点きょてんとした芥川あくたがわあくたかわ)の屋敷やしきとされる[3]芥川あくたがわ鎌倉かまくら時代ときよには幕府ばくふ御家人ごけにんへと成長せいちょうし、南北なんぼくあさ時代じだい前後ぜんごには北摂ほくせつ地域ちいき国人くにびと一揆いっき中心ちゅうしんとなっている[4]芥川あくたがわ成長せいちょうするのにわせ、芥川あくたがわじょうしろいき拡大かくだいしていったとかんがえられた[5]

その推定すいていは、芥川あくたがわ宿やど西端せいたん北部ほくぶ一帯いったい芥川あくたがわきょうひがし北部ほくぶ一帯いったい)で、芥川あくたがわまち3・4丁目ちょうめむらさきまち殿町とのまちにわたって東西とうざい4まち(436メートル)、南北なんぼく2まち(218メートル)のしろいきゆうしていたと推測すいそくされた[1]京都きょうと方面ほうめんから西進せいしんしてきた西国さいごく街道かいどうは、芥川あくたがわきょうからひがしやく550メートルの地点ちてんみなみれ、100メートルほどすすんだのちふたた西にしすすんでいるが[1]、『高槻たかつき』では、芥川あくたがわじょう拡張かくちょうにあたりそのしろいき確保かくほしたことによるものとされている[6]

応仁おうにんらんきると、芥川あくたがわ西にしぐん軍門ぐんもんり、それ以後いご芥川あくたがわ本家ほんけ活動かつどうえなくなる[7]文明ぶんめい14ねん1482ねん)に細川ほそかわまさしもと対立たいりつした摂津せっつ国人くにびと一揆いっき守護しゅごだい薬師寺やくしじ元長もとながにより鎮圧ちんあつされており、芥川あくたがわもこのとき弾圧だんあつけた可能かのうせいかんがえられる[8]。こののち延徳えんとく2ねん1490ねん)12月に細川ほそかわまさしもと芥川あくたがわたずね、本所ほんじょりょう人足ひとあし賦課ふかしている[8][注釈ちゅうしゃく 1]

えいただし13ねん1516ねん)1がつには、細川ほそかわだかこくいのちけた能勢のせよりゆきのりにより芥川あくたがわ山城やましろきずかれていた[9][10]芥川あくたがわじょうはこれにともなって、平時へいじ居館きょかんとして活用かつようされるようになったとの見方みかたがある[11]

なお、本城ほんじょう存在そんざいしめ唯一ゆいいつどう時代じだい史料しりょうとして『宇津うつさん』があり、これによるとえいただし2ねん1505ねん)1がつ時点じてん能勢のせよりゆきそく芥川あくたがわ城主じょうしゅつとめているとされている[10]。しかし、これはえいただし13ねん(1516ねん)1がつあやまりであるとかんがえられ、ここでの芥川あくたがわじょう芥川あくたがわ山城やましろすものとなる[10]後世こうせい伝承でんしょうにおいては、元禄げんろく14ねん1701ねん)の地誌ちしぐんだん』やとおる20ねん1735ねん)の『摂津せっつこころざし』、寛永かんえい元年がんねん1748ねん)のだい絵図えずに、芥川あくたがわ山城やましろすとみられるしろはあるものの、芥川あくたがわじょう確認かくにんできない[10]天保てんぽう7ねん1836ねん)のだい絵図えずでは芥川あくたがわ宿やど北部ほくぶに「芥川あくたがわ古城こじょう」との記載きさいがあるが、信憑しんぴょうせいうたがいがある[10]。これらのことから、芥川あくたがわじょう実在じつざい不確ふたしかとなっている[10]

城跡じょうせきへのアクセス

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ こうほうきょう院政いんせい延徳えんとく3ねん正月しょうがつ25にちじょうに「しゅうあくたかわ近辺きんぺんりつ、押妨しょ本所ほんじょりょう」とある[8]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c 平井ひらいほか 1981, p. 57.
  2. ^ 平井ひらいほか 1981, pp. 59–60. 「芥川あくたがわ山城やましろ」という用語ようごはつは『高槻たかつきだい1かんとされる。
  3. ^ 高槻たかつきへんさん委員いいんかい 1977, pp. 490, 549; 平井ひらいほか 1981, p. 57.
  4. ^ 高槻たかつきへんさん委員いいんかい 1977, pp. 487–490, 546–549; 平井ひらいほか 1981, p. 57.
  5. ^ 高槻たかつきへんさん委員いいんかい 1977, p. 549; 平井ひらいほか 1981, p. 57.
  6. ^ 高槻たかつきへんさん委員いいんかい 1977, p. 549.
  7. ^ 高槻たかつきへんさん委員いいんかい 1977, pp. 646–647; 平井ひらいほか 1981, p. 57.
  8. ^ a b c 天野あまの忠幸ただゆき摂津せっつにおける地域ちいき形成けいせい細川ほそかわきょうちょういえ」『増補ぞうほばん 戦国せんごくさんこう政権せいけん研究けんきゅう清文せいぶんどう出版しゅっぱん、2015ねんISBN 978-4-7924-1039-1 
  9. ^ 平井ひらいほか 1981, pp. 58–59.
  10. ^ a b c d e f 中西なかにし裕樹ゆうき ちょ芥川あくたがわ山城やましろ芥川あくたがわじょう初出しょしゅつ典拠てんきょ築城ちくじょう年代ねんだいについて―」、高槻たかつき市立しりつしろあと歴史れきしかん へん『しろあとだより』21ごう高槻たかつき市立しりつしろあと歴史れきしかん、2020ねんhttps://www.city.takatsuki.osaka.jp/site/history/4538.html 
  11. ^ 平井ひらいほか 1981, p. 59.

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]