芦峅寺あしくらじえき

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芦峅寺あしくらじえき
あしくらじ
本宮もとみや (1.5 km)
所在地しょざいち 富山とやまけん上新川かみしんかわぐん大山おおやまむら本宮もとみや
北緯ほくい3834ふん45.9055びょう 東経とうけい13724ふん29.8232びょう / 北緯ほくい38.579418194 東経とうけい137.408284222 / 38.579418194; 137.408284222 (芦峅寺あしくらじえき)
所属しょぞく事業じぎょうしゃ 立山たてやま開発かいはつ鉄道てつどう
所属しょぞく路線ろせん 立山たてやま開発かいはつ鉄道てつどう立山線たてやません
キロほど 3.0 km(小見おみ起点きてん
えき構造こうぞう 地上ちじょうえき
開業かいぎょう年月日ねんがっぴ 1937ねん昭和しょうわ12ねん10月1にち
廃止はいし年月日ねんがっぴ 不明ふめい
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芦峅寺あしくらじえき(あしくらじえき)は、かつて富山とやまけん上新川かみしんかわぐん大山おおやまむらげん富山とやま本宮ほんぐうにあった富山とやま地方ちほう鉄道てつどう立山線たてやませんはいえきである。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

概況がいきょう[編集へんしゅう]

とうえき1937ねん昭和しょうわ12ねん)10がつ1にち富山とやま県営けんえい鉄道てつどうせん千垣ちがきえき - 粟巣野あわすのえきあいだ運輸うんゆ営業えいぎょう開始かいしとも停留ていりゅうじょうとして開設かいせつされた[1][2][注釈ちゅうしゃく 1]開業かいぎょう当初とうしょより旅客りょかくおよ貨物かもつ取扱とりあつかいおこなったが、その取扱とりあつかいりょうきわめてすくなかった[2]周辺しゅうへんには人家じんかもなく、駅名えきめいとなった芦峅寺あしくらじ地区ちくとうえきとは常願寺川じょうがんじがわ対岸たいがん位置いちしており、徒歩とほ連絡れんらくすることはできなかった[4]

だが、1937ねん昭和しょうわ12ねん設立せつりつ立山たてやま鉱業こうぎょう芦峅寺あしくらじないにおいて1938ねん昭和しょうわ13ねん)より試掘しくつ開始かいしすると、採掘さいくつずみ輸送ゆそうおこなうためにとうえき設備せつび拡充かくじゅうおこなわれ、1939ねん昭和しょうわ14ねん)3がつには停車場ていしゃじょう変更へんこう申請しんせいおこない、鉄道てつどうしょうより認可にんかけて、同年どうねん8がつ25にち停車場ていしゃじょう設備せつび完成かんせいした[2]。また、どう鉱山こうざんとうえきむす索道さくどう開設かいせつされた[2]

どう鉱山こうざん経営けいえいしゃは1947ねん昭和しょうわ22ねん)1がつ立山たてやま鉱業こうぎょうから不二越ふじこし鉱業こうぎょうわった[2]採掘さいくつされた石炭せきたんしつ不良ふりょうであったが、政府せいふ傾斜けいしゃ生産せいさん方式ほうしき背景はいけいとして生産せいさんりょう増大ぞうだいしており、鉱山こうざん労働ろうどうしゃ家族かぞくのために分教場ぶんきょうじょう設置せっちされた[2]。しかし1949ねん昭和しょうわ24ねん)の統制とうせい撤廃てっぱいとう政府せいふ方針ほうしん転換てんかんによっててい品位ひんいずみ採掘さいくつ採算さいさんわなくなり、これに反対はんたいしたどう鉱山こうざんでは労使ろうし共同きょうどう罷業ひぎょうおこな休山やすみやまするにいたった[2]。そのどう鉱山こうざん再開さいかいされることはなく、1950ねん昭和しょうわ25ねん)1がつまでには閉鎖へいさされたといわれる[2]

こうしてとうえき石炭せきたん輸送ゆそう使命しめいうしない、廃止はいしされたものとかんがえられている[2][4]。その正確せいかく年月日ねんがっぴあきらかではないが、『日本にっぽん鉄道てつどう旅行りょこう地図ちずちょう 全線ぜんせんぜんえき全廃ぜんぱいせん 6ごう』においては1953ねん昭和しょうわ28ねん)-1957ねん昭和しょうわ32ねん)のあいだはいえきとなったとしるされている[5]

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

  • 1936ねん昭和しょうわ11ねん)5がつ6にち - 富山とやま県営けんえい鉄道てつどう千垣ちがき - 粟巣野あわすのあいだ鉄道てつどう敷設ふせつ免許めんきょける[6]
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん)10がつ1にち - 富山とやま県営けんえい鉄道てつどうせん千垣ちがきえき - 粟巣野あわすのえきあいだ運輸うんゆ営業えいぎょう開始かいしともない、とうえき開業かいぎょう旅客りょかくおよ貨物かもつ取扱とりあつかい開始かいしする[1][2]開業かいぎょう当初とうしょ区分くぶん停留ていりゅうじょうであった[2]
  • 1939ねん昭和しょうわ14ねん
    • 3月 - 鉄道てつどうしょう停車場ていしゃじょう変更へんこう申請しんせい認可にんかされる[2]
    • 4がつ17にち - 立山たてやま鉱業こうぎょう芦峅寺あしくらじない立山たてやま鉱山こうざんにおける採掘さいくつけん登録とうろくする[2]
    • 7がつ - 立山たてやま鉱山こうざん芦峅寺あしくらじえきむす索道さくどう試運転しうんてんおこな[2]
    • 8がつ25にち - 停車場ていしゃじょう設備せつび完成かんせいする[2]同月どうげつより立山たてやま鉱業こうぎょう採掘さいくつ開始かいしする[2]
  • 1942ねん昭和しょうわ17ねん)5がつ28にち - 富山とやま県営けんえい鉄道てつどうせん千垣ちがきえき - 粟巣野あわすのえきあいだ日本にっぽんはつ送電そうでん移管いかんされ、同社どうしゃせん所属しょぞくえきとなる[5]
  • 1943ねん昭和しょうわ18ねん)1がつ1にち - 日本にっぽん発送はっそうでん千垣ちがきえき - 粟巣野あわすのえきあいだ富山とやま地方ちほう鉄道てつどう移管いかんされ、同社どうしゃせん所属しょぞくえきとなる[5]
  • 1949ねん昭和しょうわ24ねん)5がつ - 立山たてやま鉱山こうざん休山やすみやまする[2]
  • 1950ねん昭和しょうわ25ねん)1がつ - このころまでに立山たてやま鉱山こうざん閉鎖へいさされる[2]
  • 1954ねん昭和しょうわ29ねん)4がつ1にち - 富山とやま地方ちほう鉄道てつどう小見おみえき - 粟巣野あわすのえきあいだ立山たてやま開発かいはつ鉄道てつどう移管いかんされ、同社どうしゃせん所属しょぞくえきとなる[5]
  • 1953ねん昭和しょうわ28ねん)-1957ねん昭和しょうわ32ねん) - このころまでにとうえき廃止はいしされる[5]

脚註きゃくちゅう[編集へんしゅう]

註釈ちゅうしゃく

  1. ^ 地方ちほう鉄道てつどう建設けんせつ規程きてい大正たいしょう8ねんかくれいだい11ごうだい3じょうにおいてさだめる地方ちほう鉄道てつどうにおける停車場ていしゃじょう区分くぶんであり、転轍機てんてつきのあるものを停車ていしゃじょう転轍機てんてつきなきものを停留ていりゅうじょうしょうする[3]

出典しゅってん

  1. ^ a b 官報かんぽう』(372ぺーじ)、1937ねん昭和しょうわ12ねん)10がつ13にち内閣ないかく印刷いんさつきょく
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 吉野よしの俊哉としや、「きゅう立山たてやま炭鉱たんこう坑道こうどう入口いりくち銘板めいばんと、かつて芦峅寺あしくらじ存在そんざいした炭鉱たんこうをめぐる覚書おぼえがき」、『研究けんきゅう紀要きようだい25ごう(3より20ぺーじ)、2019ねん平成へいせい31ねん)3がつ富山とやまけん立山たてやま博物館はくぶつかん
  3. ^ 官報かんぽう』(265ぺーじ)、1919ねん大正たいしょう8ねん)8がつ13にち内閣ないかく印刷いんさつきょく
  4. ^ a b 川島かわしまれいさんへん、『中部ちゅうぶライン 全線ぜんせんぜんえきぜん配線はいせんだい7かん 富山とやま糸魚川いといがわ黒部くろべエリア』(74ぺーじ)、2010ねん平成へいせい22ねん)10がつ講談社こうだんしゃ(ISBN:978-4-06-270067-2)
  5. ^ a b c d e 今尾いまおめぐみかい監修かんしゅう、『日本にっぽん鉄道てつどう旅行りょこう地図ちずちょう 全線ぜんせんぜんえき全廃ぜんぱいせん 6ごう』(38ぺーじ)、2008ねん平成へいせい20ねん)10がつ新潮社しんちょうしゃ(ISBN:978-4-10-790024-1)
  6. ^ 富山とやま地方ちほう鉄道てつどう株式会社かぶしきがいしゃへん、『富山とやま地方ちほう鉄道てつどうじゅうねん』、1983ねん昭和しょうわ58ねん)3がつ富山とやま地方ちほう鉄道てつどう