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花鏡 (陳コウ子) - Wikipedia コンテンツにスキップ

はなきょう (ひねコウ)

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はなきょう』(かきょう)は、しんだい初期しょきかんひろし27ねん1688ねん)に刊行かんこうされた園芸えんげいしょ園芸えんげい植物しょくぶつ栽培さいばいほうべた実践じっせんてき書物しょもつとしては中国ちゅうごく最初さいしょのものとされる。中国ちゅうごくでは『はなきょう』、日本にっぽんでは『秘伝ひでんはなきょう』としょうすることがおおい。著者ちょしゃめい従来じゅうらい版本はんぽんにしたがってちん淏子としるされてきたが、近年きんねんちんという本名ほんみょうあきらかになったため、中国ちゅうごくではこれをもちいるれいてきている。

著者ちょしゃ

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著者ちょしゃちんは爻一。扶揺、西湖さいこはなかくれおきななどのごうをもちいた。浙江せっこうしょう杭州こうしゅう銭塘ぜんどもけんひと。はじめ『はなきょう』はひね淏子の刊行かんこうされたため、近時きんじまでながらく本名ほんみょう生涯しょうがいもほとんどわからないままであった[1]。1978ねんまことどう署名しょめいした短文たんぶんはやしくもめい寿ことぶきひね扶揺先生せんせいななじゅうじょ」をもとに著者ちょしゃひね淏子の生年せいねんあやまりをただすとともに、『はなきょう序文じょぶんから想像そうぞうされてきた著者ちょしゃ人物じんぶつぞう修正しゅうせいされるべきことを指摘してきした[2]。これを端緒たんしょとしてごうがただされ、その生涯しょうがい人物じんぶつぞうもある程度ていどまで解明かいめいされるにいたった[3]

版本はんぽん

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はなきょう』はよくまれた書物しょもつで、中国ちゅうごくはんかさねたのみならず、日本にっぽんにも舶載はくさいされてすうにわたってこくほんされた。中国ちゅうごく木版もくはんほんには、

  • 文治ぶんじ堂本どうもと 6かん6さつ(6かん4さつ) かんひろし27ねん(1688ねんじょ
  • きむ閶書ぎょう堂本どうもと かんひろし27ねんじょ
  • 文光ぶんこう堂本どうもと かんひろし27ねんじょ
  • ぶんかい堂本どうもと かんひろし27ねんじょ
  • 善成よしなり堂本どうもと かんひろし27ねんじょ
  • りょう古山ふるさんぼうほん いぬいたかし48ねん(1783ねんじょ
  • ぶん堂本どうもと いぬいたかし48ねんじょ
  • だいぶん堂本どうもと いぬいたかし48ねんじょ
  • まきいさお堂本どうもと いぬいたかし48ねんじょ
  • 文徳ふみのり堂本どうもと いぬいたかし48ねんじょ

等々とうとうがあり、石印せきいんほんくわえると20すうしゅ版本はんぽんられている。このうち、はらこくほん文治ぶんじ堂本どうもとである。きむ閶書ぎょう堂本どうもと以下いかかんひろし27ねん自序じじょだけをもつ翻刻ほんこくほんは、描画びょうがいたこくなどいずれも文治ぶんじ堂本どうもとおよばない。いくつかの版元はんもとしたいぬいたかし48ねんじょ小本こもとはさらにおとる。『はなきょう』にかぎってえば版本はんぽん保存ほぞんなんのある中国ちゅうごくでは、はらこくほんでありもっと価値かちたか文治ぶんじ堂本どうもとたいして正当せいとう位置いちあたえられていない。日本にっぽんでもいち例外れいがいをのぞいてその重要じゅうようせい看過かんかされている。文治ぶんじ堂本どうもと文治ぶんじどうにそれなりの注意ちゅういがはらわれるようになったのは近年きんねんのことである。
文治ぶんじ堂本どうもと国内こくないすくなくとも9つてそんられている。版木はんぎ摩滅まめつ毀損きそん程度ていどまき4のちゅう翠雲すいうんくさ」(だい4ようb)有無うむふうめん版元はんもとしるし有無うむちょう澎序・ちょうこくたいじょ自序じじょ有無うむなどのてんから比較ひかくすると、不完全ふかんぜん調査ちょうさであるが、このうち宮内庁くないちょうしょりょう蔵本ぞうほんもっとはや時期じきりとられる。
こくほんでは、安永やすなが2ねん(1773ねん)に刊行かんこうされた『(日本にっぽん平賀ひらか先生せんせい校正こうせい重刻じゅうこく秘伝ひでんはなきょう』6かん6さつ(いわゆるはなせつ堂本どうもと)が最初さいしょである。平賀ひらか先生せんせいとは平賀ひらが源内げんないである。ひのとじょちょうじょ自序じじょがそろっているなど、文治ぶんじどうげんこくほんをもとにしたとみとめられる。じょ本文ほんぶん訓点くんてんほどこし、項目こうもくにあげられた植物しょくぶつめい大半たいはん和名わみょうくわえてある。このみなもとない校正こうせいほんはその文政ぶんせい元年がんねん(1818ねん)、文政ぶんせい12ねん(1829ねん)、ひろし3ねん(1846ねん)とはんかさねた。

内容ないよう

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国内こくないられる最初さいしょ文治ぶんじ堂本どうもと体裁ていさいつぎのようになっている。

  • ちょう澎序 5よう たくみたい すえしょは「ときかんひろしつちのえたつ立春りっしゅん三日葯園丁澎題於扶茘堂東軒」
  • ちょうこくたいじょ 5よう 隷書れいしょ すえしょは「ときかんひろしつちのえたつはなあさ同学どうがく眷小侄張こくたい頓首とんしゅはいだい
  • 自序じじょ 6よう 隷書れいしょ すえしょは「ときかんひろしつちのえたつ桂月けいげつ西湖さいこはなかくれおうひね淏子漫題」
  • 巻一けんいち 花暦はなごよみしん
  • まき はなじゅうはちほう 附録ふろく
  • まきさん はなきょう 花木はなのきるい
  • まきよん はなきょう 藤蔓ふじづるるい
  • まき はなきょう はなくさるい
  • まきろく はなきょう やしなえ禽鳥ほう やしなえじゅう畜法 やしなえ鱗介りんかいほう やしなえ昆虫こんちゅうほう

影響えいきょう

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日本にっぽんでは木下きのしたじゅんあん新井あらい白石はくせき松平まつだいらつなゆたか(のちのろくだい将軍しょうぐん家宣いえのぶ)が『はなきょう』のもっとはや読者どくしゃであったとおもわれる。じゅんあん白石しろいしをとおしてつなゆたかすすめたものであるという(『新井あらい白石はくせき全集ぜんしゅうまき5「白石しらいし先生せんせい手簡しゅかんあずか安積あさか澹泊たんぱくしょ」、『徳川とくがわ実紀みきだい7へん文昭ふみあきいん殿御とのご実紀みき附録ふろくまき)。じゅんあん存命ぞんめいちゅう、すなわち元禄げんろく11ねん以前いぜんには『はなきょう』は舶載はくさいされていたわけで、貝原かいばら益軒えきけん元禄げんろく12ねん正月しょうがつにこれをんでいる(益軒えきけん『玩古目録もくろく』)。京都きょうと本草学ほんぞうがくについてえば、山本やまもと亡羊ぼうようあたりから師承ししょう関係かんけいをさかのぼって小野おの蘭山あららぎやま松岡まつおかげんたち稲生いのう若水じゃくすいとたどると、これらの博物学はくぶつがくしゃはいずれも『はなきょう』との関係かんけい密接みっせつである。げんたち若水わかみず時代じだいはあたかも『はなきょう舶載はくさい初期しょきにあたるが、とく若水わかみず自分じぶん著作ちょさくにこれを最大限さいだいげん活用かつようしている。元禄げんろく14ねん3がつ金沢かなざわにおいて前田まえだ綱紀つなのりに「もうぞく」10さつ、「うろこぞく」「はねぞく拾遺しゅうい2さつけんじた若水わかみずよく4がつ7にち葛巻かずらまき新蔵しんくら提出ていしゅつした書類しょるいに「わたし一見いっけんつかまつこうぶん」としてあげた11しゅの「はなはてるいしょ」のひとつは『はなきょう』であった[4]。『庶物しょぶつ類纂るいさん』「はなぞく」「はてぞく」の編纂へんさん参照さんしょうした書籍しょせきという意味いみであろう。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 欽恒こう註『はなきょう
  2. ^ まことどうはなきょう作者さくしゃひね淏子」『中華ちゅうかぶん論叢ろんそうだい7輯復刊ふっかんごう
  3. ^ かつ正義まさよし湖上こじょう扶揺ひね淏」
  4. ^ 上野うえの益三ますぞう年表ねんぴょう日本にっぽん博物学はくぶつがく

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 杉本すぎもと行夫ゆきお訳註やくちゅう秘伝ひでんはなきょう』 弘文こうぶんどう書房しょぼう 1944ねん
  • 欽恒こう註『はなきょう』 農業のうぎょう出版しゅっぱんしゃ 1962ねん
  • まことどうはなきょう作者さくしゃひね淏子」『中華ちゅうかぶん論叢ろんそうだい7輯復刊ふっかんごう 1978ねん
  • 上野うえの益三ますぞう西湖さいこと『秘伝ひでんはなきょう』」『博物学はくぶつがくたのしみ』八坂やさか書房しょぼう  1989ねん
  • 上野うえの益三ますぞう年表ねんぴょう日本にっぽん博物学はくぶつがく八坂やさか書房しょぼう 1989ねん
  • 塚本つかもと洋太郎ようたろう秘伝ひでんはなきょうしょうこう」『ひがしアジアの本草ほんぞう博物学はくぶつがく世界せかいじょう おもえぶんかく 1995ねん
  • かつ正義まさよし湖上こじょう扶揺ひね淏」『北九州大学きたきゅうしゅうだいがく外国がいこく学部がくぶ紀要きようひらきがくじゅう周年しゅうねん記念きねんごう 1997ねん
  • ちん淏撰、ちんけんてんこうはなきょう』 淅江人民じんみん美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ 2015ねん