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藤原ふじわら高房たかふさ

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藤原ふじわら 高房たかふさ
藤原ふじわら高房たかふさ菊池きくち容斎ようさいふで前賢ぜんけん故実こじつ』より
時代じだい 平安へいあん時代じだい初期しょき
生誕せいたん のべれき14ねん795ねん
死没しぼつ じん寿ことぶき2ねん2がつ25にち852ねん3月19にち
官位かんい せい越前えちぜんまもる
主君しゅくん 嵯峨天皇さがてんのう淳和天皇じゅんなてんのう仁明天皇にんみょうてんのう文徳ふみのり天皇てんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらきたさかな名流めいりゅう
父母ちちはは ちち藤原ふじわらふじははきの佐美さびむすめ
兄弟きょうだい つねぼう高房たかふさみやぼうみやさく春岡はるおか善本ぜんぽん三清さんきょううえささええつわたるぼうさだただし
つま 藤原ふじわら真夏まなつむすめ
なまおかさとしいずみ山蔭やまかげ時長ときなが積善せきぜんあさぎょうなおただし
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藤原ふじわら 高房たかふさ(ふじわら の たかふさ)は、平安へいあん時代じだい初期しょき貴族きぞく藤原ふじわらきたさかなめいながれ参議さんぎ藤原ふじわらふじ三男さんなん官位かんいせい越前えちぜんまもる

経歴けいれき

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ひろしひとし13ねん822ねん右京うきょうしょうすすむてんちょう3ねん826ねん式部しきぶだいすすむてんちょう4ねん827ねんしたがえ叙爵じょしゃくして、美濃みのかいにんぜられて現地げんち下向げこう任地にんちでは何事なにごと人任ひとまかせにせず、硬軟こうなんぜた対応たいおう統治とうちおこなった。また、陰謀いんぼう悪事あくじをことごとくあばき、国内こくない盗賊とうぞくがいなくなってしまったという[1]

仁明にんみょうちょうでも備後びんご肥後ひご越前えちぜんひとし国守くにもりにんぜられて、地方ちほうかんとして治績ちせきげるが[1]昇進しょうしんはわずかにうけたまわ8ねん841ねん)に14ねんぶりにじょせられたしたがえじょうとどまった。

よしみさち3ねん850ねん文徳ふみのり天皇てんのう即位そくいともなってせい昇叙しょうじょされ、よしみさち4ねん851ねん侍従じじゅうにんぜられるが、背中せなかにできた悪性あくせい腫瘍しゅようによりじん寿ことぶき2ねん852ねん)2がつ25にち卒去そっきょ享年きょうねん58。最終さいしゅう官位かんい越前えちぜん守正もりまさ

人物じんぶつ

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身長しんちょうが6しゃくやく180cm)という長身ちょうしんで、人並ひとなはずれた膂力りょりょくぬしであった。また、意気いきさかんで、こまかいことにはかかわらない性格せいかくであったという[1]

逸話いつわ

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美濃みのかいにんぜられ現地げんち下向げこうしたさい治績ちせきとして、以下いかはなしつたわっている[1]

  • 安八あんぱちぐんでは、貯水ちょすいようみぞ堤防ていぼう決壊けっかいしており農業のうぎょう用水ようすいたくわえることができない状況じょうきょうであったため、高房たかふさ堤防ていぼう修理しゅうりおこなおうとした。しかしながら、みぞかみ渇水かっすいほっしておりさからうものぬとのたたがあり、まえ国司こくし堤防ていぼう修理しゅうりをしなかったことを、現地げんちみんうったえた。高房たかふさは、いやしくもみん利益りえきがあることであれば、たとえたたりでんでもうらむところはないとい、農民のうみんしてつつみきずかせ、用水ようすい灌漑かんがいおこなった。
  • せきぐんでは、あやしい巫女ふじょがおり人心じんしんまどわせていたが、かんじんおそれてその土地とちはいることができなかった。そこへこうぼう単騎たんきみ、巫女ふじょ一味いちみついきびしくばっし、人心じんしん安定あんていさせた。

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『ろく国史こくし』による。

系譜けいふ

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尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』による。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d 日本にっぽん文徳ふみのり天皇てんのう実録じつろくひとし寿ことぶき2ねん(852ねん)2がつ25にちじょう
  2. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく

参考さんこう文献ぶんけん

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