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西井にしいすみれとき

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西井にしい すみれとき(にしい きんさい、慶応けいおう3ねん8がつ24にち1867ねん9月21にち[1] - 没年ぼつねん不明ふめい)とは、明治めいじ時代じだいから大正たいしょう時代じだいにかけての円山まるやま日本にっぽん画家がか

来歴らいれき

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月岡つきおか芳年よしとしおよもり寛斎かんさい門人もんじん本名ほんみょう西井にしい祐造ゆうぞうくわすぎやぶこしきどうごうす。そう彜。江戸えど東京とうきょう)にてうまれる。『増補ぞうほ浮世絵うきよえ人名じんめい辞書じしょ』(昭和しょうわ5ねん〈1930ねんかん)に「としひろし 芳年ほうねん門人もんじん西井にしい祐造ゆうぞうすみれときごうす。後森うしろもり寛斎かんさいまなぶ、慶応けいおうさん年生ねんせい」とあり「としひろし」と名乗なのっていたことがられる。明治めいじ19ねん(1886ねん)ごろ芳年ほうねん門人もんじんたち27めいてた書状しょじょう芳年ほうねん門人もんじん一覧いちらん)には、「本所ほんじょ若宮わかみやまちろく番地ばんち 西井にしい祐造ゆうぞう殿どの」とある。明治めいじ26ねんだいかい絵画かいが共進きょうしんかいに「うえ甘楽かんらがわ水源すいげん雪景せっけい」を出品しゅっぴんする[2]明治めいじ28ねん京都きょうと開催かいさいされただいよんかい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかいでは「かまあしたてまつ鞾図」を出品しゅっぴんしており、『だい四回内国勧業博覧会授賞人名録』によればその住所じゅうしょは「東京とうきょうきた豊島としまぐん日暮里にっぽりもと金杉かなすぎむら」であった[1]大正たいしょう2ねん(1913ねん刊行かんこうの『帝国ていこく絵画かいが名鑑めいかん 現代げんだい』には「帝国ていこく絵画かいが協会きょうかい会員かいいんにして、げん東京とうきょう本郷ほんごう東片ひがしかたまちひゃくじゅうよん番地ばんちじゅうす」とあり、また余技よぎとして木彫きぼりくしたという。

作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 帝国ていこく絵画かいが年鑑ねんかん 現代げんだい』(大正たいしょう2ねん7がつだい3はん)777ぺーじ。『日本人にっぽんじんぶつ情報じょうほう大系たいけいだい62かん 書画しょがへん2』(あきらほししゃ、2001ねん)394ぺーじ参照さんしょう
  2. ^ 日本にっぽん美術びじゅついんひゃくねん いちかんじょう図版ずはんへん)』490ぺーじ。ただしめいを「西井にしいかおるとき」としている。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 桑原くわばらひつじ次郎じろう 『増補ぞうほ浮世絵うきよえ人名じんめい辞書じしょ』 げいそうこうどう、1930ねん
  • 西井にしい正氣しょうきへん 『月岡つきおか芳年よしとしてん』 日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、1995ねん ※「芳年ほうねん門人もんじん一覧いちらん」(141ぺーじ
  • 日本人にっぽんじんぶつ情報じょうほう大系たいけいだい62かん 書画しょがへん2』 あきらほししゃ、2001ねん ※『帝国ていこく絵画かいが名鑑めいかん 現代げんだい』(大正たいしょう2ねん7がつだい3はん所収しょしゅう、394ぺーじ