もととお

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もと とお(きょ えん、けいくも3ねん709ねん) - 至徳しとく2757ねん))は、とう政治せいじ杭州こうしゅうしおかんけんひと安史やすしらんさいし、ちょうじゅんとともに睢陽しろ防御ぼうぎょ活躍かつやくしたが、らえられのちころされた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

みぎ羽林はばやし将軍しょうぐんもともちとしてまれた。こうはじめつかえたもとけいむね玄孫げんそん寛厚かんこう人柄ひとがらで、事務じむあかるかったという。河西かさい従軍じゅうぐんし、そのけんみなみ節度せつど使あきらかたきけん瓊にぞくし、吐蕃とのたたかいでやすえびすじょう守備しゅび従事じゅうじした。しかし、あきらかたきけん瓊のむすめとの婚姻こんいんばなしことわり、いかりをったため、こうかなめじょう左遷させんされ、のちゆるされている。

やすろくやま反乱はんらんさいして、げんむねに睢陽太守たいしゅ任命にんめいされた。ちょうじゅんいちになったとき才能さいのうおよばないとして、軍事ぐんじじょう配下はいかになりたいとったが、ちょうじゅん辞退じたいしたため、もととお兵糧ひょうろう兵器へいきだけをあつかうことにした。ちょうじゅんとは、同年どうねんまれで、ちょうじゅんほう早生はやうまれであったため、あにんだという。ちょうじゅんと睢陽じょう守備しゅびおこなったが、援軍えんぐんられなかった。落城らくじょうのちちょうじゅんみなみ霽雲かみなりまんはる姚誾らはころされたが、ただ一人ひとり洛陽らくよう連行れんこうされ、あんけいいとぐち洛陽らくよう放棄ほうきさいころされている。なお、援軍えんぐんられなかったのは、とうぐんないにおける不和ふわ原因げんいんであった。

落城らくじょうさいてきもととお守備しゅびしたところから進入しんにゅうしたのと、一人ひとりだけなずに捕虜ほりょになったため、降伏ごうぶくしたのではないかという死後しご批判ひはん一部いちぶあったが、死後しご、睢陽にびょうてられている。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]

  • きゅうとうしょまきひゃくはちじゅうなな 列伝れつでんだいひゃくさんじゅうなな 忠義ちゅうぎもととおでん
  • しんとうしょまきひゃくきゅうじゅう 列伝れつでんだいひゃくいちじゅうなな 忠義ちゅうぎちゅうもととおでん
  • かんいよいよちょうなかすすむでんじょ