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豊原とよはらてら

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
豊原とよはらてら
豊原三千坊跡の標柱
豊原とよはらさんせんぼうあと標柱ひょうちゅう
所在地しょざいち 福井ふくいけん坂井さかい丸岡まるおかまち豊原とよはら
位置いち 北緯ほくい369ふん0.2びょう 東経とうけい13618ふん17びょう / 北緯ほくい36.150056 東経とうけい136.30472 / 36.150056; 136.30472座標ざひょう: 北緯ほくい369ふん0.2びょう 東経とうけい13618ふん17びょう / 北緯ほくい36.150056 東経とうけい136.30472 / 36.150056; 136.30472
山号さんごう 白山はくさん
宗派しゅうは 天台宗てんだいしゅう
本尊ほんぞん じゅういちめん観音かんのん
創建そうけんねん 大宝たいほう2ねん702ねん
開山かいさん やすしきよし大師だいし
正式せいしきめい 白山しろやま豊原とよはらてら
豊原寺の位置(福井県内)
豊原寺
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豊原とよはらてら(とよはらじ)は、かつて越前えちぜんこく坂井さかいぐんげん福井ふくいけん坂井さかい丸岡まるおかまち豊原とよはら)にあった天台宗てんだいしゅう寺院じいん白山しろやま信仰しんこう有力ゆうりょく拠点きょてんで、白山しろやま豊原とよはらてらともばれた。1974ねん1がつ8にち坂井さかい文化財ぶんかざい指定してい[1]された。

歴史れきし

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豊原とよはらてらは、『白山はくさん豊原とよはらてら縁起えんぎ』によると大宝たいほう2ねん702ねん)に越前えちぜん修験しゅげんしゃであったやすしきよし大師だいしみずかじゅういちめん観音かんのんきざんで本尊ほんぞんとし、豊原とよはらはちしゃ権現ごんげんをもまつ寺院じいんとして建立こんりゅうしたとある[2][3][4]

平安へいあん時代じだいには天台宗てんだいしゅう寺院じいんとなって、白山はくさん信仰しんこう拠点きょてんである禅定ぜんじょうどう越前えちぜん馬場ばばとして広大こうだい領土りょうどほこっていた平泉寺ひらいずみじとも越前えちぜんでその権勢けんせいほこった[4]。また藤原ふじわらとしひとしとその子孫しそんである藤原ふじわら以成豊原とよはら権現ごんげん帰依きえしておおくの荘園しょうえん寄進きしんしている[3]うけたまわ寿ことぶきひさしらんさいには源義仲みなもとのよしなか木曽きそ義仲よしなか味方みかたになった[5]

室町むろまち時代ときよはいっても豊原とよはらてら威勢いせいおとろえることはなく、豊原とよはらさんせんぼうわれるほどの僧兵そうへい集団しゅうだんかか[6]、また僧坊そうぼうしゅの『豊原とよはらさけ』(ほうげんしゅ)もそのせていた。

戦国せんごく時代じだいはいると隣国りんごく加賀かが加賀かが一向いっこう一揆いっき発生はっせいして浄土真宗じょうどしんしゅう寺院じいん門徒もんとがこれを占領せんりょうし、えいただし3ねん1506ねん)にはいって朝倉あさくらさだけいりょうする越前えちぜんこくみ、九頭竜川くずりゅうがわたたか勃発ぼっぱつした。このとき豊原とよはらてら平泉寺へいせんじとも朝倉あさくらかたについて一向いっこう一揆いっきたたかい、勝利しょうりした[6]翌年よくねん朝倉あさくらぐん味方みかたをしたためか豊原とよはらてら一揆いっきぐん標的ひょうてきとなってまれるも、塔頭たっちゅう明王みょうおういんはなぞういん活躍かつやく朝倉あさくらぐん援軍えんぐんもあってこれを撃退げきたいした。

しかしその天正てんしょう元年がんねん1573ねん)8がつ織田おだ信長のぶながによる越前えちぜん侵攻しんこう朝倉あさくら義景よしかげ自刃じじん天正てんしょう2ねん1574ねん)1がつ富田とみたちょうしげる反乱はんらん、それにつづく2がつ越前えちぜん一向いっこう一揆いっき勃発ぼっぱつと、戦国せんごく時代じだい後期こうき越前えちぜん収拾しゅうしゅうがつかないだい混乱こんらん見舞みまわれ[5]同年どうねん2がつ一向いっこう一揆いっき大軍たいぐんめられた豊原とよはらてらはやむなく降伏ごうぶくし、一揆いっきぐん大将たいしょうである本願寺ほんがんじぼうかんしもあいだ頼照よりてる本陣ほんじんにされてしまった。4月には朝倉あさくらけいきょうとも平泉寺ひらいずみじ一揆いっきぐんによりぜんやまちされて衰亡すいぼうした一方いっぽうで、豊原とよはらてら命脈めいみゃくたもったかにえたが、天正てんしょう3ねん1575ねん)に織田おだ信長のぶなが大軍たいぐんふたた越前えちぜん雪崩なだむと、9月2にち一向いっこう一揆いっき味方みかたをしたかどでさんせんぼうわれたぼうしゃすべてを信長のぶながによりはらわれ、いったん滅亡めつぼうした[3][4][5]

一向いっこう一揆いっき制圧せいあつ越前えちぜんには柴田しばた勝家かついえはいり、そのおいである柴田しばたかつゆたか豊原とよはら寺跡てらあとはいって豊原とよはらてらじょうきずくことになった。このとき豊原とよはらてらかつゆたか支援しえんにより復興ふっこうゆるされて83せきあたえられ、ぼうあたまとしてひがしとくぼう西にしとくぼう建立こんりゅうされた。かつゆたか天正てんしょう4ねん1576ねん)にはあらたに丸岡まるおかしろきずき、豊原とよはらてらきゅう返還へんかんされた[4]

近世きんせい豊原とよはらてらは、越前えちぜん入部にゅうぶした結城ゆうき秀康ひでやすから50せき寄進きしんされるなどし、以降いこう江戸えど時代じだいつうじて福井ふくいはん丸岡まるおかはんからの支援しえんけて白山はくさん信仰しんこう拠点きょてんとしての地位ちいたもったが、往古おうこ勢力せいりょく回復かいふくするまでにはいたらず[7]明治めいじ2ねん1869ねん)のはなぞういん焼失しょうしつ神仏しんぶつ分離ぶんりれい影響えいきょうもあり、白山はくさん神社じんじゃのこして豊原とよはらてら廃寺はいじとなった[4][5][7]

豊原とよはらさんせんぼう史料しりょうかん

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豊原とよはらさんせんぼう資料しりょうかん

2010ねん12月4にち開館かいかん北緯ほくい369ふん6.4びょう 東経とうけい13617ふん44.3びょう個人こじんたく保管ほかんされていた『豊原とよはらてら』にまつわる仏像ぶつぞう朱印しゅいんじょうなどの史料しりょうやく30てん展示てんじされている[8]

  • おも収納しゅうのうぶつ
    • 豊原とよはらてら木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞう[9] - 坂井さかい指定してい文化財ぶんかざい
    • 豊原とよはらてら木造もくぞう薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう[9] - 坂井さかい指定してい文化財ぶんかざい

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 坂井さかい指定してい文化財ぶんかざい史跡しせき 豊原とよはら寺跡てらあと”. 坂井さかい (2017ねん8がつ15にち). 2017ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  2. ^ 福井ふくい新聞しんぶん 1991, p. 661.
  3. ^ a b c 福井ふくいけん 2010, p. 85.
  4. ^ a b c d e 中世ちゅうせい丸岡まるおか 豊原とよはら歴史れきし”. 坂井さかい丸岡まるおか観光かんこう協会きょうかい. 2017ねん1がつ14にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c d 福井ふくい新聞しんぶん 1991, p. 662.
  6. ^ a b 網田あみた 2011, p. 179.
  7. ^ a b 福井ふくいけん 2010, p. 86.
  8. ^ 豊原とよはら権勢けんせいつたえる史料しりょうかん 栄華えいがあかし数々かずかず展示てんじ”. 坂井さかい市役所しやくしょ (2016ねん2がつ25にち). 2017ねん1がつ14にち閲覧えつらん
  9. ^ a b 豊原とよはらてら木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい坐像ざぞう豊原とよはらてら木造もくぞう薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう(坂井さかい指定してい文化財ぶんかざい彫刻ちょうこく)”. 坂井さかい (2017ねん8がつ15にち). 2017ねん9がつ17にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 網田あみた義雄よしお越前えちぜん真宗しんしゅう法蔵館ほうぞうかん、2011ねん5がつ1にち 
  • 福井ふくいけん歴史れきし散歩さんぽ編集へんしゅう委員いいんかい へん福井ふくいけん歴史れきし散歩さんぽ』 (18)まきはつ)、山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ歴史れきし散歩さんぽ〉、2010ねん12月1にちISBN 978-4-634-24618-8 
  • 福井新聞社ふくいしんぶんしゃ 百科ひゃっか事典じてん刊行かんこう委員いいんかい へん福井ふくいけんだい百科ひゃっか事典じてん』(はつ福井新聞社ふくいしんぶんしゃ、1991ねん6がつ30にち 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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