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ちょう

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ちょう(ちょう おう、? - 紀元前きげんぜん476ねん)は、中国ちゅうごく春秋しゅんじゅう時代じだいすすむ政治せいじせいちょういみなおくりなちょう簡子ばれる。ちょうたけしちょう文子ふみこ)のまごで、ちょうしげるちょう景子けいこ)のちょうはくちょうちょうじょう)らのちち

生涯しょうがい

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出生しゅっしょう

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ちょう鞅はすすむぶんこうつかえたちょうおとろえちょう成子しげこ)を初代しょだいとする6代目だいめちょう当主とうしゅで、ちょうさくちょうそう)のだい一時いちじ衰退すいたいしたちょう興隆こうりゅうさせたちょうたけし祖父そふつ。そのちょうたけし宰相さいしょうにあたるせいきょうちゅうぐんしょうとなり権勢けんせいきずいた。しかし、ちちであるちょうしげる祖父そふことなり、きょうちゅうぐんまで昇進しょうしんしたものの、せいきょうにはならずにくなった。いだちょう鞅はしたぐんひだりとなり ろくきょう一角いっかくとなる

ちょう鞅の立身りっしん

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あるときちょう鞅は、すすむ随一ずいいちけんしんとして名高なだかひつじした肸(叔向)に「宰相さいしょうなかまごはじめけんじ)は、かれためたたか家臣かしんが5にんもいるのに、わたしには何故なぜ1人ひとりもいないのでしょうか?」とこぼしたが、それにたいし叔向が「それはあなたがほっしないからです。もしあなたがほっするのなら、わたしがその勇者ゆうしゃになりましょう」とこたえるなど、ちょう鞅の才能さいのうは叔向からもみとめられていた。

紀元前きげんぜん520ねんしゅう王室おうしつにてけいおうりの最中さいちゅう心臓しんぞう発作ほっさ崩御ほうぎょしたのち即位そくいした太子たいしたけし悼王)とおうの庶兄・王子おうじあさとのあいだ後継こうけいあらそいが勃発ぼっぱつし、しゅう灰燼かいじんかえしたさいに、ちょう鞅は太子たいしたけし要請ようせいにてすすむぐんひきいて王子おうじちょうぐんやぶり、紀元前きげんぜん516ねん太子たいしたけし即位そくいさせるとう功績こうせきのこした。

紀元前きげんぜん514ねんちょう鞅はせいきょうちゅうぐんしょうたかしけんじ)やろくきょうさそいにり、おおやけぞくひつじした(叔向のいえ)と祁氏(祁奚祁午いえ)をほろぼし、その領地りょうち子息しそくたち大夫たいふとして配置はいちして勢力せいりょくかためるなど、調和ちょうわ目指めざした祖父そふちょうたけしとはせい反対はんたいみちあゆむようになる。

その翌年よくねん紀元前きげんぜん513ねんちょう鞅は荀寅ちゅう行文こうぶん)とともに、(范宣)がさだめたほうかなえけたけいかなえ公開こうかいし、これがすすむはじめての成文法せいぶんほうとなった。

紀元前きげんぜん501ねんには、魯で数々かずかず悪名あくめいながしてすすむ亡命ぼうめいしたとらを、ぜん家臣かしん反対はんたいってかかえた。このことおんかんじたとらは、以後いごちょう鞅のために奮闘ふんとうするようになる。

末子まっしちょう恤を後継こうけいしゃ

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ちょう鞅はあるとき自宅じたくしゅうと布子ぬのこきょうという人相見にんそうみ名人めいじんまねいた。子供こどもたちの人相にんそうしゅうと布子ぬのこきょうは「将軍しょうぐんになられるような人相にんそうったほうはおられません」とつたえた。ちょう鞅は落胆らくたんしたが、じつしゅうと布子ぬのこきょうには末子まっしせておらず、しゅうと布子ぬのこきょうはこの末子まっし瞬間しゅんかん、「将軍しょうぐんになられるほうである」と予言よげんした。そのこそ、ちょう恤である。当初とうしょちょう鞅は長子ちょうしはく魯を後継こうけいしゃにしていたが、かれ恤の能力のうりょくみとめてかれ後継こうけいしゃへとえた。

またちょう鞅があるとき大病たいびょう罹患りかんして丸々まるまる2日間にちかんはん昏睡こんすい状態じょうたいおちいり、当時とうじ名医めいいとしてられるひらたかささぎ診察しんさつけたことがあった。この最中さいちゅう不思議ふしぎゆめた。そのゆめなかでは天帝てんていのもとでひゃくかみあそんでいた。

ちょう鞅は

  1. 2とうくまころし、それによろこんだ天帝てんていは、
  2. 2つのはこちょう鞅に下賜かし
  3. 天帝てんていのそばには1人ひとりがいて、
  4. 天帝てんていから狄(てき)のいぬあづけられて、子供こども壮年そうねんになったらあたえるように、とわれていた。

意味いみわからずいたところ天帝てんていから派遣はけんされたおとこ遭遇そうぐうし、意味いみげられた。

  1. すすむ国内こくないにいるきょうを2いえ討伐とうばつするということ、
  2. ちょう鞅の子供こどもが狄(てき)のにおいて2つのくにつということ、
  3. はそのちょう鞅のであり、
  4. 狄(てき)のいぬとは北方ほっぽうだいという地域ちいきおさめている君主くんしゅことで、だいちょう鞅の支配しはいするようになる、

ということであることがわかった。これらはすべちょう鞅と恤の将来しょうらいをいいあてており、

  1. なかこう(荀氏本家ほんけ)と范氏(分家ぶんけ)をほろぼすこと、
  2. 恤がだいほろぼし、すすむきょうであるさとし(荀氏分家ぶんけ)をほろぼすこと、
  3. っているとは恤であること、
  4. 恤がだいほろぼした結果けっか領有りょうゆうするようになったこと、

以上いじょうの4つのことをしている。

ろくきょう内紛ないふん

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そのすすむ国内こくないでも権勢けんせいにぎっていたろくきょうなかあらそいが勃発ぼっぱつちょう鞅はなかこう当主とうしゅの荀寅(ちゅう行文こうぶん)と、その姻戚いんせき当主とうしゅきちしゃ(范昭)と敵対てきたいするようになり、紀元前きげんぜん497ねんに、すすむおおやけしつ名目めいもくじょううしたてとして、ちょうたかしじょう)・さとしさとしさとし文子ふみこ)・かんかん不信ふしんかん簡子)の4合同ごうどうで2滅亡めつぼうさせることになった。これ以降いこうすすむ国内こくないには諸侯しょこう匹敵ひってきする広大こうだい領地りょうちつ4いえ台頭たいとうんだ。

まもるおおやけしつへの介入かいにゅう

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ちょう鞅がなかこう抗争こうそうつづけている最中さいちゅう紀元前きげんぜん493ねんころまもる太子たいし蒯聵が後継こうけいあらそいにやぶれてすすむ亡命ぼうめいしてくる事件じけんき、ちょう鞅は蒯聵を保護ほごする。その13ねん紀元前きげんぜん480ねんちょう鞅はまもる攻撃こうげきして、蒯聵のまもるおおやけとなっていたこう出奔しゅっぽんさせ、蒯聵をまもるこうそうこう)のけた。

その一方いっぽうちょう鞅は、まもる国内こくないちょう勢力せいりょく多数たすう扶植ふしょくしており、そのひとつのえびすしゅうそうこう攻撃こうげきにあったさいには出兵しゅっぺいしてそうこう謝罪しゃざいさせ、このことこうそうこう横死おうしつながるなど、ちょう鞅の権力けんりょく中堅ちゅうけん諸侯しょこうをも上回うわまわるものとなっていた。

ちょう鞅は恤に、ちょうことだいへのゆめたくし、くなった。死後しご、「」をおくりなされ、ちょう簡子ばれる。

ちょう鞅を題材だいざいにした小説しょうせつ

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参考さんこう資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
ちょうしげる
すすむちょう当主とうしゅ
6代目だいめ
次代じだい
ちょう