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野田のだ醤油じょうゆ醸造じょうぞう

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野田のだ醤油じょうゆ醸造じょうぞう(のだのしょうゆじょうぞう)では、現在げんざい千葉ちばけん野田のだにおける醤油じょうゆ醸造じょうぞう歴史れきしあつかう。

野田のだまちいき大半たいはん醤油じょうゆ工場こうじょうめる。周辺しゅうへん醤油じょうゆ工場こうじょう位置いちする。
地図
野田のだえき位置いち周辺しゅうへん醤油じょうゆ工場こうじょう位置いちする。

概要がいよう[編集へんしゅう]

えいろく年間ねんかん飯田いいだ市郎いちろう兵衛ひょうえ甲斐かい武田たけだため醤油じょうゆ(たまりじょうゆ)をおさめ、「川中島かわなかじま御用ごようため醤油じょうゆ」としょうしたのが最古さいことされる。1661ねん寛文ひろふみ元年がんねん)に上花輪かみはなわむら名主なぬしであった髙梨へい左衛門さえもん醤油じょうゆ醸造じょうぞう開始かいしし、翌年よくねん(1662ねん) に茂木もき佐平治さへいじ味噌みそ製造せいぞう開始かいしした(茂木もきはその1764ねん醤油じょうゆ製造せいぞうがける)。

1704ねん甲田こうだ三郎兵衛さぶろべえ醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめ、1775ねん安永やすなが4ねん)には、杉崎すぎさき市郎いちろう兵衛ひょうえ大塚おおつかわたるまもる竹本たけもと五郎ごろう兵衛ひょうえ甲田こうだ治郎じろう兵衛ひょうえらが醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。

1781ねん高梨たかなしへい左衛門さえもん櫛形くしがた茂木もぎなな左衛門さえもんかしわ茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもん亀屋かめや飯田いいだ市郎いちろう兵衛ひょうえ杉崎すぎさき市郎いちろう兵衛ひょうえ竹本たけもと五郎ごろう兵衛ひょうえ大塚おおつかわたる兵衛ひょうえの7いえこう野田のだ醤油じょうゆ基礎きそになる「野田のだ醤油じょうゆ仲間なかま」を結成けっせいした。

1788ねん天明てんめい8ねん)に堀切ほりきり紋次郎もんじろう醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめた。その江戸えど人口じんこう増加ぞうか利根川とねがわ水運すいうん発達はったつとも野田のだ醤油じょうゆ醸造じょうぞう拡大かくだいする。1800年代ねんだい中頃なかごろには、髙梨へい左衛門さえもん茂木もき佐平治さへいじ醤油じょうゆが「幕府ばくふ御用ごよう醬油」の指定していける。

1822ねん文政ぶんせい5ねん)に河野こうの権兵衛ごんべえ醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。

1830ねん天保てんぽう元年がんねん)にキノエネのやま下平しもだいら兵衛ひょうえ醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめた。

1887ねん明治めいじ20ねん)に「野田のだ醤油じょうゆ醸造じょうぞう組合くみあい」が結成けっせいされた。1917ねん大正たいしょう6ねん)には茂木もき一族いちぞくと髙梨一族いちぞくの8いえ合同ごうどうによる「野田のだ醤油じょうゆ株式会社かぶしきがいしゃ」が設立せつりつされ、これがのちキッコーマン株式会社かぶしきがいしゃとなった。『亀甲きっこうよろず(キッコーマン)』は茂木もき佐平治さへいじ使つかっていたものである。

このときに野田のだ醤油じょうゆ醸造じょうぞう業者ぎょうしゃのほとんどが合流ごうりゅうしているが、キノエネ醤油じょうゆのみ合同ごうどう参加さんかせず、現在げんざいまで独立どくりつした事業じぎょうしゃとして存続そんぞくしている。

御用ごようぞう醤油じょうゆ[編集へんしゅう]

亀甲きっこうまん御用ごようぞう醤油じょうゆ1939ねん昭和しょうわ14ねん)から宮内庁くないちょうおさめつづけられている御用達ごようたししなである。 御用ごようぞうでは、国産こくさんまる大豆だいず小麦こむぎだけをつかって、おけで1年間ねんかんじっくりと熟成じゅくせいさせた天然てんねん醸造じょうぞう醤油じょうゆつくつづけられている。手作てづくりにちか少量しょうりょう生産せいさんのこの醤油じょうゆは、「御用ごようぞう醤油じょうゆ」という名前なまえ一部いちぶ限定げんてい販売はんばいされてきた、いわば醤油じょうゆだい吟醸ぎんじょうともいえるもの。「キッコーマン特選とくせんまる大豆だいずしょうゆ」の原点げんてんともいえる醤油じょうゆである。

醤油じょうゆはん城下町じょうかまち[編集へんしゅう]

大宅おおたく壮一そういち野田のだのことを「醤油じょうゆはん城下町じょうかまち」とんだ[1]

戦災せんさい無傷むきずまぬかれた野田のだまちには、廻船かいせん問屋とんやうえ河岸かわぎし五右衞門ごえもんていしも河岸かわぎし桝田ますだ仁左衛門にざえもんていや、醤油じょうゆざいをなした豪商ごうしょうたちの、江戸えど大名だいみょう屋敷やしき彷彿ほうふつとさせるお屋敷やしきくに指定してい名勝めいしょうの髙梨へい左衛門さえもんていや、登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい茂木もぎなな左衛門さえもんてい茂木もき佐平治さへいじてい茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもんてい茂木もき七郎しちろうてい茂木もきぼう五郎ごろうてい山下やましたたいら兵衛ひょうえていとうちょうきょだい邸宅ていたくが、近代きんだい産業さんぎょう遺産いさんとして数多かずおお現存げんそんし、ならんでいる。

醤油じょうゆ醸造じょうぞう[編集へんしゅう]

野田のだ醤油じょうゆ仲間なかま[編集へんしゅう]

野田のだ醤油じょうゆ仲間なかま

飯田いいだ市郎いちろう兵衛ひょうえ亀屋かめや

1558ねん飯田いいだ市郎いちろう兵衛ひょうえため醤油じょうゆづくりをはじめる。

杉崎すぎさき市郎いちろう兵衛ひょうえ

1775ねん杉崎すぎさき市郎いちろう兵衛ひょうえ醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。

竹本たけもと五郎ごろう兵衛ひょうえ

竹本たけもと五郎ごろう兵衛ひょうえが1775ねん醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。

大塚おおつかわたる兵衛ひょうえ

大塚おおつかわたる兵衛ひょうえが1775ねん醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめ、大塚おおつかから河野こうの権兵衛ごんべえが1809ねん分家ぶんけ
大塚おおつかわたる五右衛門ごえもん

高梨たかなし一族いちぞく[編集へんしゅう]

高梨たかなしたかしみぎ衛門えもんむすめ孝子たかこ

1105ねん先祖せんぞ野田のだたとつたわる[2]

高梨たかなしへい左衛門さえもん本家ほんけ

1661ねん高梨たかなしへい左衛門さえもん19だい醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。「ジョウジュウしるし」を商標しょうひょうひろられるようにになり、幕末ばくまつには最上さいじょう醤油じょうゆ呼称こしょう幕府ばくふからゆるされる[3]高梨たかなし周造しゅうぞうが1849ねん分家ぶんけして醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。 高梨たかなしたかしみぎ衛門えもんが1864ねん分家ぶんけして醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。
  • 髙梨へい左衛門さえもん 上花輪かみはなわむら名主なぬし醤油じょうゆ醸造じょうぞう(キッコーマン)。きゅう邸宅ていたくげん上花輪かみはなわ歴史れきしかんとして名勝めいしょう高梨たかなし庭園ていえん」に指定してい
  • 19だい髙梨へい左衛門さえもん 寛文ひろふみ高梨たかなしとしてはじめて醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる[3]
  • 23だい髙梨へい左衛門さえもん高梨たかなし信芳のぶよし、1749-1803) 1764ねん実兄じっけいである茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもん醸造じょうぞうぞう経営けいえい合併がっぺいおこなうが、1771ねんふたた経営けいえいかち、1772ねん上花輪かみはなわしんぞう建設けんせつしてのちの繁栄はんえい基礎きそかためる[3][4]。1783ねん天明てんめいだい飢饉ききんさい施米せまいをして名字みょうじ帯刀たいとうゆるされる[3]
  • 28だい髙梨へい左衛門さえもん高梨たかなし信太郎しんたろう[5] 1917ねんに、茂木もき6いえ中野なかの醤油じょうゆ経営けいえい合同ごうどうし、野田のだ醤油じょうゆ株式会社かぶしきがいしゃ(のちキッコーマンに改称かいしょう)を設立せつりつ[3]
  • 29だい髙梨へい左衛門さえもん高梨たかなし小太郎こたろう、1878年生ねんせい[5][6]

高梨たかなし周造しゅうぞう宝山たからやま

1849ねん高梨たかなしへい左衛門さえもんから分家ぶんけして河野こうの権兵衛ごんべえ工場こうじょうゆず醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。1888ねん茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもん工場こうじょう譲渡じょうと[7]

高梨たかなしたかしみぎ衛門えもん丸山まるやま

1864ねん高梨たかなしへい左衛門さえもんから分家ぶんけして醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。1894ねん茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもん工場こうじょう譲渡じょうと[7]
高梨たかなしたかしみぎ衛門えもんつま幕末ばくまつ豪商ごうしょう伊藤いとう八兵衛はちべえろくじょおき。おきのあね兼子かねこ渋沢しぶさわ栄一えいいち後妻ごさいこうみぎ衛門えもんとおきのむすめタカ子たかこ田中たなか孝子たかこ)は1909ねん明治めいじ42)渋沢しぶさわ英一ひでかず渡米とべい実業じつぎょうだん最年少さいねんしょう(23さい)で随行ずいこうし、のち田中たなか王堂おうどうとついだ。[8]

茂木もき一族いちぞく[編集へんしゅう]

キッコーマン、茂木もき佐平治さへいじ、1908ねんごろ

文政ぶんせい年間ねんかん(19世紀せいき前半ぜんはん)に系譜けいふ焼失しょうしつのため、詳細しょうさい不明ふめいながら、寛永かんえい年間ねんかん(17世紀せいきなかば)に野田のだ女性じょせい初代しょだいなな左衛門さえもん名乗なの茂木もぎ始祖しそとなったとつたわる[9][10]

茂木もきなな左衛門さえもん本家ほんけ

1662ねん茂木もきなな左衛門さえもん味噌みそ醸造じょうぞうはじめる。1764ねん醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。茂木もき佐平治さへいじが1688ねん分家ぶんけ茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもんが1768ねん分家ぶんけ茂木もきいさむみぎ衛門えもんが1822ねん分家ぶんけ
  • 茂木もきなな左衛門さえもん 醤油じょうゆ醸造じょうぞう(キッコーマン)。邸宅ていたくぐん登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい(建造けんぞうぶつ)(非公開ひこうかい
  • 11だい茂木もきなな左衛門さえもん (茂木もき英吉えいきち) ははのいま(今子いまこ)は2だい茂木もきぼうろうむすめ初代しょだい茂木もきあきら三郎さぶろうあね[11][10]

茂木もき佐平治さへいじ

1688ねん茂木もきなな左衛門さえもんから分家ぶんけ当初とうしょ穀物こくもつしょうだったが、3だい佐平治さへいじ(1729-1807)が1782ねん醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる[12][13]茂木もき利平りへいが1863ねん分家ぶんけ
  • 茂木もき佐平治さへいじ 醤油じょうゆ醸造じょうぞう(キッコーマン)。3代目だいめ醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめ、のちに亀甲きっこうまん(キッコーマン)をほんしるしとして成功せいこうし、領主りょうしゅ松平まつだいら勘太郎かんたろう奥向おくむきまかないきん用立ようだてけるまでの資産しさんきずいた[13]野田のだ有力ゆうりょく醤油じょうゆ醸造じょうぞうとなり、4代目だいめは1838ねん幕府ばくふ御用ごよう醤油じょうゆづくりめいじられ、4代目だいめ、5代目だいめ地代じだいかんつとめた[13]。6代目だいめは1877ねん茂木もき学校がっこう建設けんせつ[10]。1917ねん茂木もき高梨たかなし一族いちぞく8いえ合同ごうどうにより野田のだ醤油じょうゆ株式会社かぶしきがいしゃ結成けっせいされ、統一とういつ商標しょうひょうとして佐平治さへいじ商標しょうひょう亀甲きっこうまん採用さいようされた[13]きゅう邸宅ていたくくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざいげん野田のだ市民しみん会館かいかん)。
  • ななだい茂木もき佐平治さへいじ茂木もき亀雄かめお) 広告こうこくにより亀甲きっこうまん全国ぜんこくらしめたが家運かうんかたむけた[10]
  • はちだい茂木もき佐平治さへいじ茂木もきのべ太郎たろう)ロンドンに留学りゅうがくしたが、先代せんだいよりさきくなった[10]
  • きゅうだい茂木もき佐平治さへいじ茂木もき文吉ぶんきち)5さい家督かとく[14]
  • じゅうだい茂木もき佐平治さへいじ茂木もきいちろう

 茂木もき利平りへい 

1863ねん茂木もき佐平治さへいじから分家ぶんけし、味噌みそ醸造じょうぞうはじめ、1872ねんより醤油じょうゆ専業せんぎょうとする[15]

茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもんかしわ

1764ねんに4だい茂木もきなな左衛門さえもん孫娘まごむすめ(さと)に22だい高梨たかなしへい左衛門さえもん嫡男ちゃくなん養子ようしむかえて醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめ、1768ねん茂木もきなな左衛門さえもんから分家ぶんけ[12]茂木もきぼうろうが1821ねん分家ぶんけして醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。茂木もき七郎しちろうが1858ねん分家ぶんけ中野なかの長兵衛ちょうべえが1873ねん分家ぶんけ
  • さんだい茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもん 1821ねん上町うえまちより出火しゅっかひゃくじゅういた火災かさいまれ焼死しょうし[12]
  • よんだい茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもん茂木もき兵三ひょうぞうろう) 3だい長男ちょうなんちち急死きゅうしにより14さい家督かとく[10]
  • 五代ごだい茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもん茂木もきかしわまもる) 4だいむすめ婿むこ。1887ねん私設しせつ化学かがく試験しけんしょ設置せっち[16]
  • ろくだい茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもん野田のだ醤油じょうゆ初代しょだい社長しゃちょう)5だい長男ちょうなん
  • 茂木もき順三郎じゅんざぶろう 6だい長男ちょうなん

 茂木もきぼう五郎ごろうしろ

1821ねん茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもんより分家ぶんけして醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。 茂木もき啓三けいぞうろうが1877ねん分家ぶんけ茂木もきぼう五郎ごろうより茂木もき和三郎わさぶろうが1906ねん分家ぶんけ
  • 初代しょだい茂木もぎぼうろう茂木もきひろみぎ衛門えもん) 代目だいめ茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもん嫡男ちゃくなん分家ぶんけしたとし本家ほんけ当主とうしゅ茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもん3だい焼死しょうししたため、ぎょうはい本家ほんけ後見こうけんとなる[15]天保てんぽうだい飢饉ききんさいには茂木もき一族いちぞくこえをかけて窮民きゅうみん救済きゅうさい私財しざいとうじて尽力じんりょくし、郷土きょうど偉人いじんとして愛宕あたご神社じんじゃしろ祭神さいじんとしてまつられ、ほこらわきに「白神しらかみれい」が建立こんりゅうされた[17]
  • だい茂木もきぼうろう茂木もき広治ひろじ) 1855ねん飯田いいだ市郎いちろう兵衛ひょうえ工場こうじょう醤油じょうゆ仕込しこみはじめ、1872ねん自家じか醸造じょうぞうふく[15]
  • さんだい茂木もきぼうろうちょう幸三郎こうざぶろう) 2だいむすめ婿むこ[18]。1884ねんちゅう飯田いいだ市郎いちろう兵衛ひょうえ工場こうじょう[16]
  • よんだい茂木もきぼうろう茂木もき熊蔵くまぞう) 茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもんいもうと婿むこ
  • 五代ごだい茂木もきぼうろう茂木もきさんせんぞう) 4だいぼうろう長男ちょうなん

 茂木もきあきら三郎さぶろうほまれ

1877ねん茂木もきぼう五郎ごろうから分家ぶんけ

 茂木もき和三郎わさぶろう

1906ねん茂木もきぼう五郎ごろうから分家ぶんけ
  • 茂木もき和三郎わさぶろう 4だい茂木もきぼうろうおとうと

 茂木もき七郎しちろう・かねなな

1858ねん七郎しちろうみぎ衛門えもんから分家ぶんけ
  • 初代しょだい茂木もき七郎しちろう茂木もきよし三郎さぶろう) さんだい茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもん二男じなんしつしょうはじめ、ざいす。[10]
  • だい茂木もき七郎しちろうはやしけい) [10]
  • 茂木もき七郎しちろう (先代せんだい) 2だい長男ちょうなん。3代目だいめななろう[10]
  • 茂木もき七郎しちろう茂木もきこう治郎じろう) 3だい長男ちょうなん[10]

 中野なかの長兵衛ちょうべえ

1873ねん茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもんから分家ぶんけ中野なかのきょうこした。

茂木もきいさむみぎ衛門えもんむこうてん

1822ねん茂木もきなな左衛門さえもんから分家ぶんけして醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。
  • 茂木もきいさむみぎ衛門えもん 6だい茂木もきなな左衛門さえもん二男じなんつまは3だい茂木もきななみぎ衛門えもんむすめ。1841ねんに35さいぼつ[10]
  • だい茂木もきいさむみぎ衛門えもん茂木もき徳太郎とくたろう) 先代せんだい長男ちょうなん。15さい家督かとく相続そうぞく[10]

'''茂木もき一族いちぞく系図けいず'''

本家ほんけ茂木もきなな左衛門さえもん
 ┃1662 櫛形くしがた
 ┃
 ┣━━━━┳━━━━━━┳━━━━━━━┓
 ┃    ┃       ┃        ┃
 ┃  茂木もき佐平治さへいじ    ┃       ┃
   亀甲きっこうまん┃1688    ┃       ┃
      ┃   茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもん    ┃
      ┃      ┃1768 柏屋かしわや   ┃
          ┃      ┃     茂木もきいさむみぎ衛門えもん 
      ┃      ┃       1822 むこうてん
       ┣━━━┓    ┣━━━━┳━━━━━┳━━━━━━┓
            ┃      ┃    ┃        ┃          ┃            ┃
      ┃   ┃  ┃  茂木もきぼう五郎ごろう  ┃        ┃
          ┃       1921┃しろ  ┃      ┃  
                    ┃              ┃      茂木もき七郎しちろう     ┃
               茂木もき利平りへい        ┃   1858 かねなな    ┃
         1863       ┃           中野なかの長兵衛ちょうべえ 
                                    ┃                        1873
                  ┣━━━━━┳━━━━━━┓ 
                  ┃     ┃      ┃
                      茂木もきあきら三郎さぶろう   ┃
                                             1877 ほまれ       ┃
                                   茂木もき和三郎わさぶろう
                               1906



堀切ほりきり紋次郎もんじろう相模さがみ

堀切ほりきり紋次郎もんじろうは1766ねん流山ながれやまさけ醸造じょうぞうはじめる。しろ味淋みりんしゅを1814ねん発売はつばい。1917ねん野田のだ醤油じょうゆ合同ごうどう参加さんかしてまんじょう味淋みりん設立せつりつ[19]

濱口はまぐち吉右衛門きちえもん

ジガミサ濱口はまぐち吉右衛門きちえもん濱口はまぐちはヒゲタ田中たなかとカギダイ深井ふかいと1914ねん銚子ちょうし醤油じょうゆ(ヒゲタ醤油じょうゆ)を設立せつりつ。1937ねんには野田のだ醤油じょうゆ(キッコーマン)と資本しほん提携ていけい

吉田よしだ甚左衛門えもん

江戸えど後期こうきかしわ花野井はなのいだい地主じぬし吉田よしだ甚左衛門えもん広大こうだい屋敷やしき醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめた。キッコー千代ちよとジガミはながあり醸造じょうぞうとして順調じゅんちょう発展はってんしていくが、1922ねん野田のだ醤油じょうゆ売却ばいきゃくした。

正田しょうだぶんみぎ衛門えもん

群馬ぐんまけん館林たてばやし米穀べいこくしょう正田しょうでんぶんみぎ衛門えもん野田のだ茂木もきぼうろうから醤油じょうゆ醸造じょうぞう指導しどうけ、1873ねん醤油じょうゆ醸造じょうぞうぎょうはじめた。1917ねん正田醤油しょうだしょうゆ株式会社かぶしきがいしゃ社長しゃちょうとなる。

野田のだ醤油じょうゆ以外いがい[編集へんしゅう]

山下やましたたいら兵衛ひょうえ

1830ねん山下やましたたいら兵衛ひょうえまもる醸造じょうぞうはじめる。屋号やごう白木屋しらきや(きのへ醤油じょうゆ)創業そうぎょう合同ごうどうには参加さんかせず。14だい当主とうしゅ夫人ふじん巨匠きょしょう映画えいが監督かんとく小津おつあん二郎じろういもうと

あき元三もとぞう左衛門さえもん

あき元三もとぞう左衛門さえもんいえ流山ながれやま醸造じょうぞうするてんはれ味醂みりんは1873ねんウィーン万博ばんぱく賞牌しょうはいおくられた。秋元あきもとてんはれ味醂みりん戦時せんじちゅう産業さんぎょう統合とうごう国策こくさく東邦とうほう酒類しゅるい合併がっぺい。21世紀せいき現在げんざいMCフードスペシャリティーズてんはれ味醂みりんがれた。

甲田こうだ三郎兵衛さぶろべえ

甲田こうだ三郎兵衛さぶろべえが1704ねん醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。
甲田こうだ治郎じろう兵衛ひょうえ
甲田こうだ治郎じろう兵衛ひょうえが1775ねん醤油じょうゆ醸造じょうぞうはじめる。

河野こうの権兵衛ごんべえ

1809ねん河野こうの権兵衛ごんべえ大塚おおつかから分家ぶんけして、醤油じょうゆ醸造じょうぞうを1822ねんはじめる。

石川いしかわ仁平にだいらおさむ柳屋やなぎや

都邊とべ与四郎よしろう油屋あぶらや

上原うえはら長兵衛ちょうべえ

萬屋よろずや彦左衛門ひこざえもん

まちさんそうなないえ

宮田みやた輿こし兵衛ひょうえ

大津おおつ正三郎しょうざぶろう

鈴木すずき萬平まんぺい

窪田くぼた

窪田くぼたは1925ねん醸造じょうぞう窪田味噌醤油くぼたみそしょうゆ)をはじめた。

野田のだ醤油じょうゆ関連かんれん文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

近代きんだい産業さんぎょう遺産いさん[編集へんしゅう]

野田のだ醸造じょうぞう関連かんれん遺産いさん」 (はげしい産地さんちあいだ競争きょうそうとうつう近代きんだい産業さんぎょうへと発展はってんした利根川とねがわ流域りゅういきとう醸造じょうぞうぎょうあゆみを物語ものがた近代きんだい産業さんぎょう遺産いさんぐん)・・・神崎かんざきまち銚子ちょうし

髙梨庭園ていえん茂木もき本家ほんけ前景ぜんけいかんきゅう茂木もき佐平治さへいじてい御用ごようぞう煉瓦れんがぞう製造せいぞう管理かんり事務所じむしょだいいち給水きゅうすいしょ、 キノエネ醤油じょうゆ工場こうじょうぐんしも河岸かわぎしうえ河岸かわぎし春風しゅんぷうかん道場どうじょう利根運河とねうんが野田のだしょうさそえ銀行ぎんこうきょうふう会館かいかん茂木もき小学校しょうがっこうさんねんかんななねんかん

登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

きょうふう会館かいかん野田のだしょうさそえ銀行ぎんこう茂木もきなな左衛門さえもんてい茂木もき佐平治さへいじてい茂木もき七郎しちろうみぎ衛門えもんてい茂木もき七郎しちろうてい茂木もきぼう五郎ごろうてい五右衞門ごえもんてい桝田ますだ仁左衛門にざえもんてい

名勝めいしょう[編集へんしゅう]

髙梨庭園ていえん、髙梨本家ほんけぜんけやき並木なみき

日本にっぽん国外こくがい[編集へんしゅう]

海外かいがいへの輸出ゆしゅつ海外かいがいへの進出しんしゅつおこなわれた。敗戦はいせん途絶とだえたが、1949ねんより輸出ゆしゅつ再開さいかいし、その販売はんばい会社かいしゃ海外かいがい再度さいど設立せつりつされた。米国べいこくにおいては店頭てんとうプロモーションをおこない、人気にんきもと工場こうじょう建設けんせつ。その台湾たいわん中国ちゅうごくでも事業じぎょう展開てんかいしている[20]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 野田のだ 醤油じょうゆはん城下町じょうかまち」『大宅おおたく壮一そういち選集せんしゅう 5 紀行きこう日本にっぽんへん)』筑摩書房ちくましょぼう、1959ねん 
  2. ^ 年表ねんぴょう1野田のだ醤油じょうゆ(かぶ)『野田のだ醤油じょうゆ株式会社かぶしきがいしゃじゅうねん』(1940.10)
  3. ^ a b c d e 高梨たかなしへい左衛門さえもん(23だい)(み)たかなし・ひょうざえもんコトバンク
  4. ^ 年表ねんぴょう2野田のだ醤油じょうゆ(かぶ)『野田のだ醤油じょうゆ株式会社かぶしきがいしゃじゅうねん』(1940.10)
  5. ^ a b 高梨たかなし家憲かけん高梨たかなしへい左衛門さえもん日本にっぽん現代げんだい富豪ふごう名門めいもん家憲かけん岩崎いわさき徂堂 へん (博学はくがくかん編輯へんしゅうきょく, 1908)
  6. ^ 高梨たかなしへい左衞門さえもん人事じんじ興信録こうしんろくだい8はん [昭和しょうわ3(1928)ねん7がつ]
  7. ^ a b 年表ねんぴょう5野田のだ醤油じょうゆ(かぶ)『野田のだ醤油じょうゆ株式会社かぶしきがいしゃじゅうねん』(1940.10)
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  12. ^ a b c 年表ねんぴょう2キッコーマン醤油じょうゆ(かぶ)『キッコーマン醤油じょうゆ』(1968.10)
  13. ^ a b c d 茂木もき佐平治さへいじ(3だい)(み)もぎ・さへいじコトバンク
  14. ^ 茂木もき佐平治さへいじ人事じんじ興信録こうしんろくだい4はん [大正たいしょう4(1915)ねん1がつ]
  15. ^ a b c 年表ねんぴょう3キッコーマン醤油じょうゆ(かぶ)『キッコーマン醤油じょうゆ』(1968.10)
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  17. ^ 茂木もきぼうろう初代しょだい野田のだ郷土きょうど博物館はくぶつかん市民しみん会館かいかん
  18. ^ 茂木もきあきら三郎さぶろう公徳こうとく慈行日本にっぽん現代げんだい富豪ふごう名門めいもん家憲かけん岩崎いわさき徂堂 へん (博学はくがくかん編輯へんしゅうきょく, 1908)
  19. ^ Food culture. no. 32, キッコーマン国際こくさいしょく文化ぶんか研究けんきゅうセンター, 2022ねん3がつ, p3
  20. ^ 田中たなか則雄のりお醤油じょうゆから世界せかいる―野田のだ中心ちゅうしんとした東葛飾ひがしかつしか地方ちほう対外たいがい関係かんけい醤油じょうゆ書房しょぼう出版しゅっぱん、1999ねん[ようページ番号ばんごう]ぺーじISBN 978-4845510597 

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