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金子かねこ重之しげゆき

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金子かねこ 重之しげゆき
吉田よしだ松陰しょういん金子かねこしげる輔のぞうはぎ
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ
生誕せいたん 天保てんぽう2ねん2がつ13にち1831ねん3月26にち
死没しぼつ 安政あんせい2ねん1がつ11にち1855ねん2がつ27にち
別名べつめい 貞吉さだきち卯之助うのすけ直三郎なおさぶろうじゅう輔、変名へんめい渋木しぶき松太郎まつたろう市木いちきこうふとし
墓所はかしょ 山口やまぐちけんはぎ北古萩きたふるはぎまち 保福寺ほふくじ
官位かんい おくせい
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 長州ちょうしゅうはん
父母ちちはは ちちしげる左衛門さえもんはは:つる
養父ようふ金子かねこ
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金子かねこ 重之しげゆき(かねこ しげのすけ)は幕末ばくまつ長州ちょうしゅうはんである。じゅうとも。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

長門ながとこく阿武あぶぐん紫福しぶきむら商人しょうにんしげる左衛門さえもんとつるの長男ちょうなんとしてまれる。のち足軽あしがる金子かねこ養子ようしとなる。幼時ようじより白井しらいしょうすけいで土屋つちやしょううみまなよしみひさし6ねん1853ねん)、家業かぎょうきらって江戸えど長州ちょうしゅう藩邸はんてい雑役ざつえきとなる。

同年どうねん熊本くまもとはん永島ながしま三平さんぺいつてにして吉田よしだ松陰しょういん出会であいその弟子でしとなる。よしみなが7ねん1854ねん)、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくひがしインド艦隊かんたい再来さいらいさいして松陰しょういんとも渡米とべい計画けいかくして藩邸はんてい脱走だっそう鳥山とりやまかくとき私塾しじゅく寄宿きしゅくして、世界せかい地誌ちしまなびながら機会きかいうかがった。

日米にちべい和親わしん条約じょうやく締結ていけつされると松陰まつかげとも下田しもだおもむいてべいかんもうとするがアメリカがわ拒否きょひされたためにやむなく計画けいかく中止ちゅうし自首じしゅした。伝馬てんままちろう屋敷やしき収容しゅうよう国許くにもと蟄居ちっきょ判決はんけつけ、幕吏ばくりによってはぎおりおくされ安政あんせい2ねん(1855ねん)、士分しぶん以外いがいものはい岩倉いわくらごく病没びょうぼつした。享年きょうねん25(まん23さいぼつ)。

明治めいじ44ねん(1911ねん)、せい追贈ついぞうされた[1]

金子かねこ重之しげゆき輔のぞうは、吉田よしだ松陰しょういん誕生たんじょうにある松陰まつかげ銅像どうぞうのそばで松陰まつかげ見上みあげる姿すがたのこっている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 田尻たじりたすく へん贈位ぞうい諸賢しょけんでん 増補ぞうほばん じょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1975ねん特旨とくし贈位ぞうい年表ねんぴょう p.28

登場とうじょうするおも作品さくひん[編集へんしゅう]