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長谷部はせべ栄二郎えいじろう

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長谷部はせべ 栄二郎えいじろう(はせべ えいじろう、1887ねん明治めいじ20ねん10月28にち - 1972ねん昭和しょうわ47ねん12月26にち)は、日本にっぽん神官しんかん

虎杖いたどりごうする俳人はいじんとしてもられる。北海道ほっかいどう俳壇はいだん重鎮じゅうちんばれ、門弟もんていかずは700にん以上いじょうにおよんだ[1]

経歴けいれき

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1887ねん明治めいじ20ねん)10がつ28にち宮城みやぎけん亘理わたりぐん亘理わたりむら尾形おがたまれる[2]

幼少ようしょう自家じか火災かさい焼失しょうしつしたため、両親りょうしんとともに1890ねん明治めいじ23ねん)、北海道ほっかいどう有珠うすぐん伊達だてむら移住いじゅうする[2]。これは、本家ほんけ尾形おがた弥平やへい伊達だてくになり家臣かしんで、1873ねん明治めいじ6ねん)に伊達だて入植にゅうしょくしていたのをたよったものであった[2]

やがて成長せいちょうした栄二郎えいじろうは、札幌さっぽろ帝国ていこくせいあさ琴似ことにせいせん工場こうじょう就職しゅうしょく[2]。そして当別とうべつまち神官しんかん長谷部はせべはちの3じょであるかめきく結婚けっこんし、長谷部はせべ婿養子むこようしとなった[1]。また工場こうじょう勤務きんむのかたわらで俳人はいじんとして頭角とうかくあらわし、『北海ほっかいタイムス』の俳句はいく選者せんじゃつとめた[2]

1921ねん大正たいしょう10ねん)、牛島うしじま滕六時雨しぐれ』を創刊そうかんすると、これに参画さんかくした[3]

沼田ぬまた栗沢くりさわ名寄なよろ本別ほんべつ北海道ほっかいどう各地かくち工場こうじょうちょう歴任れきにんしたのち、1931ねん昭和しょうわ6ねん)、28年間ねんかんにわたって勤務きんむした帝国ていこくせいあさ退職たいしょく[2]以降いこう神職しんしょくささげつつ、俳壇はいだんでの活動かつどうつづけた[2]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)、廃刊はいかんとなった『時雨しぐれ』を改組かいそし、あらたに『あしきば』として発刊はっかんした[3]

1964ねん昭和しょうわ39ねん)、北海道ほっかいどう文化ぶんか奨励しょうれいしょう受賞じゅしょう[4]

1972ねん昭和しょうわ47ねん)12月26にち札幌さっぽろにて85さいぼっした[4]

いしぶみ

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長谷部はせべ虎杖いたどり句碑くひは、小樽おたる御膳ごぜんすいみやとなりや、2代目だいめ宮司ぐうじつとめた[5]西当にしとうべつ神社じんじゃ境内けいだいにある。

くるまぐみむや いちてきあぶら ひら — 小樽おたる句碑くひ
うまよゆこう すずしきうちの いち仕事しごと — 西当にしとうべつ神社じんじゃ句碑くひ

また西当にしとうべつ神社じんじゃには、神職しんしょくとしての栄二郎えいじろう顕彰けんしょうしたいしぶみてられている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 当別とうべつまち 1972, pp. 714–715.
  2. ^ a b c d e f g 当別とうべつまち 1972, p. 715.
  3. ^ a b 現代げんだい俳句はいく協会きょうかい - くるまぐみむやいちてきあぶらにひらく 長谷部はせべ虎杖いたどり 評者ひょうしゃ: 十河そごうせんよう
  4. ^ a b 小樽おたる御膳ごぜんすいみやとなりにある句碑くひ説明せつめいばんより。文面ぶんめん画像がぞう参照さんしょう可能かのう
  5. ^ 当別とうべつまち 1972, p. 719.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 当別とうべつまち』1972ねん5がつ30にち