青山あおやましげるじゅう

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青山あおやましげるじゅう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 天文てんもん18ねん1549ねん
死没しぼつ 元和がんわ元年がんねん9月7にち1615ねん10月19にち
別名べつめい ななみぎ衛門えもん
官位かんい 図書としょすけ
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ 老中ろうじゅう
主君しゅくん 徳川とくがわ家康いえやす
はん 下総しもうさ飯田いいだはんあるじ
氏族しぞく 服部はっとり青山あおやま
父母ちちはは 服部はっとり正信まさのぶ青山あおやま忠教ただたかむすめ
兄弟きょうだい ただしなおなりおも
つま つねおかとうむすめ
なり浅羽あさば幸正ゆきまさしつなりこく
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青山あおやま しげるじゅう(あおやま なりしげ)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての武将ぶしょう大名だいみょう江戸えど幕府ばくふ老中ろうじゅう

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

服部はっとり正信まさのぶ平蔵へいぞう)の次男じなんとして誕生たんじょうした。もとかめ2ねん1571ねん)、はは従兄じゅうけい青山あおやま忠重ただしげ戦死せんしし、がなかったため、主君しゅくん徳川とくがわ家康いえやすいのち青山あおやまぐ。

徳川とくがわ秀忠ひでただ後見こうけんやくとなり、天正てんしょう18ねん1590ねん)の家康いえやす関東かんとうにゅうふうさい下総しもうさこく香取かとりぐんに3000せきあたえられた。慶長けいちょう5ねん(1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかいでは秀忠ひでただぐん従軍じゅうぐんし、信濃しなのこく上田うえだじょう攻撃こうげきくわわる。そのこうによって翌年よくねん慶長けいちょう6ねん1601ねん)に2000せき加増かぞうされて5000せきとなり、慶長けいちょう8ねん1603ねん12月25にちには下総しもうさ国内こくないにおいて5000せき加増かぞうされ、石高こくだかが1まんせきたっしたため下総しもうさ飯田いいだはんだてはんした。

慶長けいちょう13ねん1608ねん)、老中ろうじゅう就任しゅうにんするが、大久保おおくぼ長安ながやすなりこく養子ようしにしたことから、慶長けいちょう18ねん1613ねん)の大久保おおくぼ長安ながやす事件じけん連座れんざし、罷免ひめん改易かいえきされる。7000せきげんされ、飯田いいだ蟄居ちっきょした。大坂おおさかじんでは本多ほんだ正信まさのぶ供奉ぐぶ懇請こんせいして武功ぶこうげて挽回ばんかいはかろうとしていたが、結局けっきょく赦免しゃめんされることのないまま死去しきょした。

3000せきなりじゅう赦免しゃめんされず死去しきょしたため、おさむおおやけとなったが、あらためて嫡男ちゃくなんなり新知しんち1000せきあたえられ、子孫しそん旗本はたもととして存続そんぞくする。なりなりせいだいに1200せきとなり、4だいあとのなりそん勘定かんじょう奉行ぶぎょうになっている。

系譜けいふ[編集へんしゅう]