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大久保おおくぼ長安ながやす

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大久保おおくぼ 長安ながやす
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 江戸えど時代じだい初期しょき
生誕せいたん 天文てんもん14ねん1545ねん
死没しぼつ 慶長けいちょう18ねん4がつ25にち1613ねん6月13にち
別名べつめい 土屋つちや長安ながやす藤十郎とうじゅうろう通称つうしょう十兵衛じゅうべえ
渾名あだな天下てんかそう代官だいかん
墓所はかしょ 大田おおた大安寺だいあんじあと
官位かんい したがえ石見いわみもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふところつとむ奉行ぶぎょう年寄としより
主君しゅくん 武田たけだ信玄しんげん勝頼かつより徳川とくがわ家康いえやす
氏族しぞく 大蔵おおくらはた)→土屋つちや大久保おおくぼ
父母ちちはは ちち大蔵おおくらしんやす大蔵おおくら太夫たゆうじゅうろう
兄弟きょうだい しんすすむ長安ながやす
つま 正室せいしつ大久保おおくぼただしためむすめ
大久保おおくぼ藤十郎とうじゅうろう大久保おおくぼそと青山あおやましげるこく大久保おおくぼくもじゅうろう大久保おおくぼ内膳ないぜん大久保おおくぼ右京うきょうちょうきよしおとこ1にん[1]
服部はっとりただしじゅう正室せいしつ三井みつい吉正よしまさしつ花井はない義雄よしおしつ
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大久保おおくぼ 長安ながやす(おおくぼ ながやす/ちょうあん)/土屋つちや 長安ながやす(つちや ながやす)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての武将ぶしょう甲斐かい武田たけだいで徳川とくがわ家臣かしんとなった。徳川とくがわ家康いえやすのもとで吏僚として活躍かつやくし、鉱山こうざん開発かいはつになった。

生涯しょうがい

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出生しゅっしょう

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天文てんもん14ねん1545ねん)、猿楽さるがく大蔵おおくらしんやす次男じなんとしてまれる。長安ながやす祖父そふ春日大社かすがたいしゃ奉仕ほうしする猿楽さるがくげんのう金春こんぱるりゅう猿楽さるがくで、ちちしんやす時代じだい大和やまとこくから播磨はりまこく大蔵おおくらながれて大蔵おおくらりゅう創始そうしした。このころまれたのが長安ながやすであったという。

武田たけだ家臣かしん時代じだい

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ちちしんやす猿楽さるがくとして甲斐かいこくながれ、武田たけだ信玄しんげんかかえの猿楽さるがくとしてつかえるようになったという。長安ながやす信玄しんげん見出みいだされて、猿楽さるがくではなく家臣かしんとしててられ、譜代ふだい家老がろう土屋つちやあきらつづけ与力よりきにんじられたという。このときせい大蔵おおくらから土屋つちやあらためている。長安ながやす蔵前くらまえしゅうとしててられ、武田たけだ領国りょうごくにおける黒川くろかわ金山かなやまなどの鉱山こうざん開発かいはつ税務ぜいむなどに従事じゅうじしたという。

武田たけだ信玄しんげんぼつはその勝頼かつよりつかえた。天正てんしょう3ねん1575ねん)の長篠ながしのたたかでは、あにしんすすむよせおや土屋つちやあきらつづけ出陣しゅつじんして討死うちじにしているが、長安ながやす出陣しゅつじんしていない。天正てんしょう10ねん1582ねん)、織田おだ信長のぶなが徳川とくがわ家康いえやす連合れんごうぐん侵攻しんこう甲州こうしゅう征伐せいばつ)によって武田たけだ滅亡めつぼうする。

ただし一説いっせつでは、武田たけだ勝頼かつよりからうとまれたため、武田たけだみずかはなれて猿楽さるがくもどり、三河みかわこくうつんでいたともわれている。

徳川とくがわ家臣かしん時代じだい

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遠江とおとうみこく佐野さのぐんかかかわ宿やど年寄としよりたいするおきてしょ(『德川とくがわ奉行ぶぎょうしゅ連署れんしょ傳馬てんまおきてしょ慶長けいちょう6ねん1がつ個人こじんぞう[2]伊奈いな忠次ただつぐ彦坂ひこさか元正がんしょう連署れんしょしており、「大久保おおくぼ十兵衛じゅうべえ[3]しるされくろしるしされている

甲斐かい武田たけだほろんだのち長安ながやす徳川とくがわ家康いえやす家臣かしんとしてつかえるようになる。家康いえやす甲州こうしゅう征伐せいばつさい逗留とうりゅうようかりかん長安ながやす建設けんせつしたが、このとき家康いえやすがそのかん長安ながやす作事さくじ才能さいのう見抜みぬき、仕官しかんゆるしたといわれている。また、一説いっせつでは家康いえやす近臣きんしんで、きゅう武田たけだ家臣かしん成瀬なるせ正一しょういちつうじて自分じぶん信玄しんげんにもみとめられた優秀ゆうしゅう官僚かんりょうであり、金山かなやまかんする才能さいのうめぐまれていることをんで、家康いえやすつかえるようになったともいわれている。

長安ながやす大久保おおくぼ忠隣ただちか与力よりきにんじられ、その庇護ひごけることとなる。このさい名字みょうじたまわり、せい大久保おおくぼあらためた[4]天正てんしょう10ねん6がつ本能寺ほんのうじへん信長のぶなが死去しきょして甲斐かい家康いえやす所領しょりょうとなる。しかし当時とうじ甲斐かいは、武田たけだ滅亡めつぼう混乱こんらんからみだれていた。そこで家康いえやす本多ほんだ正信まさのぶ伊奈いな忠次ただつぐところつとむかたにんじて、甲斐かい内政ないせい再建さいけんめいじた。ただし、実際じっさいところつとむかたとして再建さいけんおこなったのは長安ながやすであるとされている。長安ながやす釜無川かまなしがわ笛吹川ふえふきがわ堤防ていぼう復旧ふっきゅう新田にった開発かいはつ金山かなやま採掘さいくつなどに尽力じんりょくし、わずかすうねん甲斐かい内政ないせい再建さいけんしたとわれている。

天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつ家康いえやす関東かんとううつることになる。このとき長安ながやす青山あおやまただしなり江戸えどまち奉行ぶぎょう)、伊奈いな忠次ただつぐ長谷川はせがわちょうつな彦坂ひこさか元正がんしょうらととも奉行ぶぎょう代官だいかんあたま)ににんじられ、家康いえやす関東かんとうはいったのち土地とち台帳だいちょう作成さくせいおこなった。これは家康いえやすのち関東かんとう家臣かしんだん所領しょりょう分配ぶんぱいするときに、おおいに役立やくだったとわれている。長安ながやすおこなった検地けんち石見いわみ検地けんちばれ、従来じゅうらいの1あいだ=6しゃく5すんを6しゃく1ふん短縮たんしゅくしてしを強化きょうかするとともに、自作農じさくのう保護ほごにもあてるというものであった[5]

また、関東かんとう250まんせきのうち、100まんせき家康いえやす直轄ちょっかつりょうとなったが、このとき長安ながやす長谷川はせがわちょうつな彦坂ひこさか元正がんしょう伊奈いな忠次ただつぐとも関東かんとう代官だいかんあたまとして家康いえやす直轄ちょっかつりょう事務じむ差配さはい一切いっさいまかされている。

天正てんしょう19ねん1591ねん)には家康いえやすから武蔵むさしこく八王子はちおうじのち横山よこやま)に8,000せき所領しょりょうあたえられた。ただし、八王子はちおうじ以前いぜん支配しはいしていた北条ほうじょう氏照うじてる旧領きゅうりょうをそのままあたえられたかたちとなったらしく、実際じっさいは9まんせきあたえられていたという。長安ながやす八王子はちおうじ宿やどげん東京とうきょう八王子はちおうじ)に陣屋じんやき、八王子はちおうじじゅうはちにん代官だいかんき、宿場しゅくば建設けんせつすすめ、浅川あさがわ氾濫はんらんふせぐため土手どてきずいた。石見いわみ土手どてばれている。

長安ながやすはまた、家康いえやすたいして武蔵むさし治安ちあん維持いじ国境こっきょう警備けいび重要じゅうようさを指摘してきし、八王子はちおうじひゃくにん同心どうしん創設そうせつ具申ぐしんしてみとめられ、ここにきゅう武田たけだ家臣かしんだん中心ちゅうしんとした八王子はちおうじひゃくにん同心どうしん誕生たんじょうした。慶長けいちょう4ねん1599ねん)には同心どうしんばいやすことを家康いえやすからゆるされ、八王子はちおうじせんにん同心どうしんとなった。

慶長けいちょう5ねん1600ねん)、関ヶ原せきがはらたたかこると、長安ながやす忠次ちゅうじとも徳川とくがわ秀忠ひでただひきいる徳川とくがわぐん輜重しちょうやくつとめている。戦後せんご豊臣とよとみ支配しはいにあった佐渡さど金山かなやま生野いくの銀山ぎんざんなどがすべ徳川とくがわ直轄ちょっかつりょうになる。すると長安ながやす同年どうねん9がつ大和やまと代官だいかん、10月に石見いわみ銀山ぎんざん検分けんぶんやく、11月に佐渡さど金山かなやま接収せっしゅうやくとなる。

慶長けいちょう6ねん1601ねんはる徳川とくがわよん奉行ぶぎょう補佐ほさにて甲斐かい奉行ぶぎょう、8がつ石見いわみ奉行ぶぎょう、9月には美濃みの代官だいかんにんじられた。これらはすべ兼任けんにんかたち家康いえやすから任命にんめいされている。異例いれい昇進しょうしんってもよく、家康いえやす長安ながやす経理けいり才能さいのうたか評価ひょうかしていたことがうかがえるものである。

慶長けいちょう8ねん1603ねん)2がつ12にち家康いえやす将軍しょうぐん任命にんめいされると、長安ながやす特別とくべつしたがえ下石見しもいわみもり叙任じょにんされ、家康いえやすろくなん松平まつだいらただしてる家老がろうにんじられた。7月には佐渡さど奉行ぶぎょうに、12月にはところつとむ奉行ぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょう)ににんじられ、同時どうじ年寄としより老中ろうじゅう)にれっせられた。

慶長けいちょう10ねん1605ねん)、大久保おおくぼ長安ながやす普請ふしん奉行ぶぎょうとして武蔵むさし御嶽おんたけ神社じんじゃ本社ほんしゃ普請ふしん

慶長けいちょう11ねん1606ねん)2がつには伊豆いず奉行ぶぎょうにもにんじられた。つまり長安ながやす家康いえやすから全国ぜんこくかね銀山ぎんざん統轄とうかつや、関東かんとうにおける交通こうつうもう整備せいび一里塚いちりづか建設けんせつなどの一切いっさいまかされていたのである。現在げんざいられる里程りていしるべ、すなわち1さと=36まち、1まち=60あいだ、1あいだ=6しゃくという間尺ましゃくととのえたのも長安ながやすである。

これら一切いっさい奉行ぶぎょうしょく兼務けんむしていた長安ながやす権勢けんせい強大きょうだいであったとわれる。また、7にん息子むすこ石川いしかわ康長やすなが池田いけだ輝政てるまさむすめ結婚けっこんさせ、ちゅうてる伊達だてまさしむね長女ちょうじょ五郎八ごろうはちひめ結婚けっこん交渉こうしょうち、ちゅうてる岳父がくふせいむねとなったことからせいしゅうとも親密しんみつ関係かんけいきずいていたとわれている。そのため、その権勢けんせいしょ大名だいみょうとの人脈じんみゃくから「天下てんかそう代官だいかん」としょうされた。このころ長安ながやす所領しょりょう八王子はちおうじ8,000せき実際じっさいは9まんせき)にくわえて、家康いえやす直轄ちょっかつりょうの150まんせき実質じっしつてき支配しはいまかされていたとわれている。

しかし晩年ばんねんはいると、全国ぜんこく鉱山こうざんからの金銀きんぎん採掘さいくつりょう低下ていかから家康いえやす寵愛ちょうあいうしない、美濃みの代官だいかんはじめとする代官だいかんしょく次々つぎつぎ罷免ひめんされていくようになる。さらに正室せいしつ早世そうせいするなどの不幸ふこう相次あいつなかで、慶長けいちょう17ねん1612ねん)7がつ27にち中風ちゅうぶにかかり、家康いえやすからがらすさいえんあたえられている(『駿府すんぷ』)[6]慶長けいちょう18ねん1613ねん)4がつ25にち中風ちゅうぶのために死去しきょした[7]享年きょうねん69。

長安ながやす死後しご生前せいぜん不正ふせい蓄財ちくざいわれ、また長安ながやす蓄財ちくざい調査ちょうさ拒否きょひしたため、慶長けいちょう18ねん1613ねん)7がつ9にち大久保おおくぼ藤十郎とうじゅうろう大久保おおくぼそと青山あおやましげるこく大久保おおくぼくもじゅうろう大久保おおくぼ内膳ないぜん大久保おおくぼ右京うきょうちょうきよし越後えちご在住ざいじゅう)、おとこ1にん播磨はりま在住ざいじゅう[8]以上いじょう7にん切腹せっぷくとなった。また大久保おおくぼ忠隣ただちか縁戚えんせき関係かんけいしょ大名だいみょう改易かいえきなどのにあった(大久保おおくぼ長安ながやす事件じけん)。

島根しまねけん大田おおた大安寺だいあんじ温泉津ゆのつまち愛宕あたご神社じんじゃには大久保おおくぼ生前せいぜん建立こんりゅうした逆修ぎゃくしゅが、さらに大安寺だいあんじには寛政かんせい6ねん1794ねん)に事績じせき顕彰けんしょうしててられたきのいさお五輪ごりん存在そんざいする[9]

人物じんぶつ逸話いつわ

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  • きゅう武田たけだ家臣かしんからいちだい年寄としよりばん)まで出世しゅっせしたが、没後ぼつごにたちまちいえ断絶だんぜつした。そのなぞめいた生涯しょうがいおおくのフィクションの対象たいしょうとなっている。
  • 無類むるい女好おんなずきで、がわおんなを70にんから80にんかかえていたとわれている。
  • 金山かなやま奉行ぶぎょうなどをしていた経緯けいいから派手はできであり、死後しご自分じぶん遺体いたい黄金おうごんかんれて華麗かれい葬儀そうぎおこなうように遺言ゆいごんしたという[10]
  • 徳川とくがわ実紀みき』はうたがわしいはなしとしてつぎのような一説いっせつせている。長安ながやす没後ぼつご寝所ねどこした石室いしむろから連判れんばんじょうつかり、朝鮮ちょうせん財宝ざいほうひそかにおくったことや、しょ大名だいみょう私的してきつうじ、「だい不敬ふけい」のこともあったとされる[11]。このため、長安ながやすちゅうてるつうじてしょ大名だいみょう幕府ばくふ転覆てんぷく陰謀いんぼうはかっていたとされることもある[11]
  • 島根しまねけん大田おおた天然記念物てんねんきねんぶつ指定していされていたクロマツさだめのまつ)は、大久保おおくぼ長安ながやす一里塚いちりづか目印めじるしとしてえたものとしてつたえられていた。このマツは2023ねんまでに枯死こししている[12]

家族かぞく

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長安ながやす嫡男ちゃくなん大久保おおくぼ藤十郎とうじゅうろう奈良なら奉行ぶぎょうつとめ、石川いしかわ康長やすながむすめとついでいた。長安ながやす次男じなん大久保おおくぼそとには、池田いけだ輝政てるまさ養女ようじょしもあいだよりゆきりゅうむすめ)がとついでいる[13]三男さんなんなりこく奉行ぶぎょうしゅ青山あおやましげるじゅう婿養子むこようしになっている。ろくなん右京うきょうちょうきよしには松平まつだいらただしてる異父いふあね重臣じゅうしん花井はない吉成よしなりむすめとついでいる。長安ながやす没後ぼつごには石川いしかわ康長やすながおとうとにんとともに改易かいえきとなり、青山あおやましげるじゅう改易かいえきとなった。 また長安ながやすには処刑しょけいされた7にん男子だんしほか女子じょしが2にんおり、長女ちょうじょ服部はっとり半蔵はんぞう正成まさしげ息子むすこせいじゅう次女じじょ剣豪けんごう三井みつい吉正よしまさとついだ。この女子じょし2めい処罰しょばつ対象たいしょうとならず、それぞれのおっととのあいだ男子だんしをもうけたので、長安ながやす系譜けいふ外孫そとまご家系かけいつたわりのこったとえる。

長安ながやすによる開発かいはつおこなわれた都市とし

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関連かんれん作品さくひん

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テレビドラマ
小説しょうせつ
その

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 駿府すんぷ』『柳営りゅうえい婦女ふじょでんけい
  2. ^ 靜岡しずおかけん史料しりょう』4輯、靜岡しずおかけん、1938ねん、178-179ぺーじ
  3. ^ 靜岡しずおかけん史料しりょう』4輯、靜岡しずおかけん、1938ねん、179ぺーじ
  4. ^ 本多ほんだVS大久保おおくぼ 徳川とくがわ政権せいけんのスキャンダル合戦かっせん”. NHKラジオ (2023ねん6がつ4にち). 2023ねん12月12にち閲覧えつらん
  5. ^ 村上むらかみただし. "石見いわみ検地けんち". 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ). コトバンクより2023ねん8がつ29にち閲覧えつらん
  6. ^ 宮本みやもと義己よしみ ちょ徳川とくがわ家康いえやす本草学ほんぞうがく」、りゅうたに和比古かずひこ へん徳川とくがわ家康いえやす―その政治せいじ文化ぶんか芸能げいのう―』みやたい出版しゅっぱんしゃ、2016ねん 
  7. ^ 駿府すんぷ』、なお『当代とうだい』は好色こうしょくゆえのきょやめ腎虚じんきょ花柳病かりゅうびょう)か)を遠因えんいんげている。
  8. ^ 駿府すんぷ』『柳営りゅうえい婦女ふじょでんけい
  9. ^ 大久保おおくぼ石見いわみまもる長安ながやす逆修ぎゃくしゅ”. 大田おおた観光かんこう協会きょうかい. 2023ねん12月12にち閲覧えつらん
  10. ^ このような派手はで出費しゅっぴぶりが家康いえやす長安ながやす不正ふせい蓄財ちくざいうたがいをいだかせたとも。
  11. ^ a b 平川ひらかわしんせいむね謀反むほんうわさ徳川とくがわ家康いえやす」『東北とうほく文化ぶんか研究けんきゅうしつ紀要きよう / 東北大学とうほくだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう東北とうほく文化ぶんか研究けんきゅうしつ へんだい52かん東北大学とうほくだいがく大学院だいがくいん文学ぶんがく研究けんきゅう東北とうほく文化ぶんか研究けんきゅうしつ、2010ねん、10-11ぺーじISSN 13430939NAID 40018902321 
  12. ^ めいまつさだめのまつ」が枯死こし 樹齢じゅれい400ねん天然記念物てんねんきねんぶつ指定してい解除かいじょ”. 朝日新聞あさひしんぶん (2023ねん12月12にち). 2023ねん12月12にち閲覧えつらん
  13. ^ 大森おおもり映子えいこ岡山おかやまはん池田いけだにおける婚姻こんいん事例じれい : 分家ぶんけとの比較ひかく中心ちゅうしんとして」『湘南しょうなん国際こくさい女子じょし短期大学たんきだいがく紀要きようだい5ごう湘南しょうなん国際こくさい女子じょし短期大学たんきだいがく、1998ねん2がつ、144-124ぺーじISSN 09198938NAID 110006184476 
  14. ^ 大久保おおくぼ長安ながやす怨霊おんりょう帝都ていと壊滅かいめつ目論もくろむラスボスとして登場とうじょうする。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ところ三男みつお ちょ大久保おおくぼ石見いわみまもる長安ながやす信濃しなの」、いち志茂しもいつき先生せんせい還暦かんれき記念きねんかい へん地方ちほう研究けんきゅう論叢ろんそう』1954ねん 
  • 村上むらかみただし大久保おおくぼ石見いわみまもる長安ながやす研究けんきゅう覚書おぼえがき(1)~(5)」『信濃しなのだい19かん1~3,5,6ごう 
  • 大野おおの瑞男みずお大久保おおくぼ長安ながやすの「遺書いしょ」」『日本にっぽん歴史れきしだい472ごう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1987ねん9がつ、93-97ぺーじISSN 03869164NAID 40003066963 
  • はやしはじめ奥州おうしゅう江戸えどあいだ内陸ないりく舟運しゅううん初期しょき段階だんかい(1)~(7)」『専修せんしゅう史学しがく』16~22、1984-1990ねん 
  • 藤井ふじい讓治じょうじ へん近世きんせい前期ぜんき政治せいじてき主要しゅよう人物じんぶつ居所きょしょ行動こうどう京都大学きょうとだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ、1994ねん 
  • 曽根そね勇二ゆうじ近世きんせい国家こっか形成けいせい戦争せんそう体制たいせい校倉あぜくら書房しょぼう、2004ねん 
  • 曽根そね勇二ゆうじ秀吉ひでよし家康いえやす政権せいけん政治せいじ経済けいざい構造こうぞう校倉あぜくら書房しょぼう、2008ねん