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高井たかいとしを

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たかい としを

高井たかい としを
生誕せいたん ほり としを
(1902-10-26) 1902ねん10月26にち
岐阜ぎふけん揖斐川いびがわまち東津汲ひがしつくみ
死没しぼつ (1983-11-09) 1983ねん11月9にち(81さいぼつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
団体だんたい 伊丹いたみ地方ちほう自由じゆう労働ろうどう組合くみあい
著名ちょめい実績じっせき 細井ほそい和喜蔵わきぞうの『女工じょこうあい執筆しっぴつへの協力きょうりょく
代表だいひょうさく 『わたしの女工じょこうあい
肩書かたが 伊丹いたみ地方ちほう自由じゆう労働ろうどう組合くみあい 委員いいんちょう
配偶はいぐうしゃ 高井たかい信太郎しんたろう
こん配偶はいぐうしゃ 細井ほそい和喜蔵わきぞう
子供こども 5にん
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高井たかい としを(たかい としを、1902ねん明治めいじ35ねん10月26にち - 1983ねん昭和しょうわ58ねん11月9にち[1])は、日本にっぽん労働ろうどう運動うんどう[1]文筆ぶんぴつ細井ほそい和喜蔵わきぞう事実じじつこんうえつまであり、自身じしん女工じょこうとしての経験けいけん細井ほそいつたえ、当時とうじ女工じょこう過酷かこく労働ろうどう実態じったい告発こくはつする細井ほそいしょ女工じょこうあい発行はっこう協力きょうりょくした[2]同書どうしょ事実じじつじょうきょう作者さくしゃでもある[3][4]

経歴けいれき

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岐阜ぎふけん揖斐川いびがわまち東津汲ひがしつくみ誕生たんじょうした[2]いえまずしく[5]小学校しょうがっこうには3かげつしかけなかった[6]。10さい紡績ぼうせきこうとしてつとめた。生活せいかつのぞくと収入しゅうにゅうはほとんど手元てもとのこらなかった[5]仕事しごと長時間ちょうじかん過酷かこく食事しょくじ粗末そまつで、栄養失調えいようしっちょう病気びょうきたおれるもの続出ぞくしゅつした[2]

1920ねん大正たいしょう9ねん)、ストライキ現場げんばで、労働ろうどうしゃ同士どうし団結だんけつ平等びょうどう生活せいかつ向上こうじょうなどをうったえるビラをにした。そのうちまわりのものはらって旅費りょひ工面くめん[7]、そのよる上京じょうきょうして[2]東京とうきょうモスリン亀戸かめいど工場こうじょう入社にゅうしゃした。読書どくしょはげみ、ストライキへの参加さんかはじめた。これが、終生しゅうせいをかけた労働ろうどう運動うんどうはじまりとなった[5]

1921ねん大正たいしょう10ねん)、ストライキをつうじて細井ほそい和喜蔵わきぞう出会であい、同棲どうせいはじめた[1]病弱びょうじゃくしょくうしなった細井ほそい生活せいかつささえるとともに、女性じょせいしかれない工場こうじょう寄宿舎きしゅくしゃでの逸話いつわ女工じょこうたちのかんがかたかた[2]、『女工じょこうあい完成かんせい目指めざして協力きょうりょくした[5]

1925ねん大正たいしょう14ねん)に『女工じょこうあい』が完成かんせい実体験じつたいけんもとづくその内容ないようは、おおきな反響はんきょうんだ[2]。「としをの存在そんざいがなければ、このしょることはなかった」とのこえもある[6]。しかし完成かんせい直後ちょくごに、細井ほそい死去しきょした。としをは細井ほそいごもったが、細井ほそいうしなった衝撃しょうげき疲労ひろうがもとで早産そうざん子供こども夭折ようせつした[2]。さらに「『女工じょこうあい』の著者ちょしゃつま」とにらまれたために就職しゅうしょく困難こんなんで、事実じじつこんのために著作ちょさくけんぐこともできなかった[5]

1927ねん昭和しょうわ2ねん)、大阪おおさか活動かつどう高井たかい信太郎しんたろう結婚けっこん[2][5]特高とっこう監視かんしびながらもはたらいた[5]戦後せんご1946ねん昭和しょうわ21ねん)におっと死別しべつ懸命けんめいはたらきつつ[1][5]、5にん子供こどもそだてた[5]一方いっぽうでは1951ねん昭和しょうわ26ねん兵庫ひょうごけん伊丹いたみ地方ちほう自由じゆう労働ろうどう組合くみあい委員いいんちょうつと[1]労働ろうどう現場げんばで、差別さべつゆるさない運動うんどうつづけた[5]

高齢こうれいのために労働ろうどうから退しりぞいたのち自伝じでん『わたしの女工じょこうあい』をあらわした。同書どうしょ女工じょこう時代じだい体験たいけん細井ほそいとの出逢であいとわかれ、その生活せいかつあらわすととも[7]、「わたしはたらくの大好だいすきです。だけどむかしから差別さべつされるのだいきらいです」とうったえた[5]晩年ばんねんには生涯しょうがいかえり、「いしにかじりついてもきてはいけないけれど、仲間なかまはしっかりとにぎってはなさないつもりでいてきた」とかたった。1983ねん昭和しょうわ58ねん)11月9にち、81さい死去しきょした[5]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 上田うえだ監修かんしゅう 2001, p. 1088
  2. ^ a b c d e f g h 沢田さわだ千秋ちあき特報とくほう女工じょこうあい筆者ひっしゃつま 高井たかいとしを 困窮こんきゅうたたかどうひら過酷かこく紡績ぼうせき工場こうじょう内情ないじょうつたえる 日雇ひやと労働ろうどうしゃ組合くみあい組織そしき」『中日新聞ちゅうにちしんぶん中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ、2015ねん7がつ11にち朝刊ちょうかん、19めん
  3. ^ 渡邊わたなべ十絲子としこ「「わたしの女工じょこうあい」」『週刊しゅうかん新潮しんちょうだい60かんだい28ごう新潮社しんちょうしゃ、2015ねん7がつ23にち、120ぺーじNCID AN1016794X 
  4. ^ 「ポケットに1さつ「わたしの『女工じょこうあい』」高井たかいとしをちょ」『読売新聞よみうりしんぶん読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、2015ねん5がつ31にち東京とうきょう朝刊ちょうかん、13めん
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 東京とうきょう女性じょせい財団ざいだん 1994, p. 169
  6. ^ a b 久保くぼ 2003, pp. 16–18
  7. ^ a b 生方うぶかた 1982, pp. 111–113

参考さんこう文献ぶんけん

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