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あわび

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あわび(ほうしゅく、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごく春秋しゅんじゅう時代じだいひとし政治せいじせい封地ほうちからあわびいみなきばあわび叔牙とも。桓公かんこうつかえた。

あわび叔の祖先そせんは姒姓のくに公子こうしで、ひとしつかえてあわびあたえられたことから、あわび名乗なのるようになる。

あわび叔はわかころかんなかしたしくまじわっていた。かれかんなかとも商売しょうばいおこなっていたが、かんなかだい損失そんしつしても商売しょうばいには時勢じせいがあるとしてけっしてとがめず、また、多大ただい利益りえきげても、貧乏びんぼうかんなかためにその利益りえきのほとんどをあたえていた。あわび叔のこの厚情こうじょうかんなかは「わたしんだのは父母ちちははだが、父母ちちはは以上いじょうわたしものあわび叔である」とだいおんかんじていた。このことから後世こうせいひと二人ふたりあつ友情ゆうじょうかんあわびまじわりんでおおいにとなえた。

こののちあわび叔は、釐公公子こうししょうしろつかえるようになるが、しょうしろあにじょうおおやけ圧迫あっぱくけるために、しょうしろとも亡命ぼうめいした。そのじょうこう暗殺あんさつされると、ひとしでは後継こうけいしゃあらそいがこり、莒からもどってきたしょうしろ公子こうしあらそったが、あわび叔の活躍かつやくによりしょうしろ勝利しょうりひとしくんとなった。

公子こうし糾に味方みかたをしたから公子こうし糾のしんかんなか召忽桓公かんこうつかえさせようとした。 召忽は公子こうし糾がんだこと自害じがいするがかんなかつかえさせること成功せいこうする。

桓公かんこうかんなか宰相さいしょうとして覇者はしゃとなったが、あわび叔はかんなかをよくたすけてともに政治せいじにあたった。史記しきには、人々ひとびと桓公かんこう覇者はしゃげたかんなかよりも、かんなか力量りきりょう見抜みぬ信頼しんらいつづけたあわび叔をとなえた、とある。