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この項目 こうもく では、イタリアの公共 こうきょう 交通 こうつう について説明 せつめい しています。ATACを略称 りゃくしょう とするアメリカの企業 きぎょう については「ATAC (企業 きぎょう ) 」をご覧 らん ください。
n. 7071: ローマの路上 ろじょう で約 やく 60年 ねん 運用 うんよう されているスタンガ 製 せい の路面 ろめん 電車 でんしゃ
n. 4297:850系統 けいとう で運用 うんよう されるメタン燃料 ねんりょう の新型 しんがた バス
バス停 ばすてい
ATAC (アタク)は、イタリア ・ローマ の公共 こうきょう 交通 こうつう 会社 かいしゃ である。
「Azienda Tranvie ed Autobus del Comune di Roma 」(ローマのコムーネの路面 ろめん 電車 でんしゃ とバスの会社 かいしゃ )のアクロニム だったが、ローマ市 し (コムーネ )から分離 ぶんり され公共 こうきょう 交通 こうつう を委託 いたく される株式会社 かぶしきがいしゃ となった現在 げんざい では「Agenzia per i Trasporti Autoferrotranviari del Comune di Roma 」(ローマのコムーネのバスと鉄道 てつどう と路面 ろめん 電車 でんしゃ を扱 あつか う会社 かいしゃ )の略 りゃく としている。
地下鉄 ちかてつ (Metro)
都市 とし 鉄道 てつどう (Ferrovie ATAC)
トラム (Tram)
バス
1909年 ねん にエルネスト・ナタン によりAATM (Azienda Autonoma Tramviaria Municipale ) として設立 せつりつ され、すぐに名称 めいしょう をATM (Azienda Tramvie Municipali )に変更 へんこう し、1911年 ねん 3月21日 にち にコロンナ広場 ひろば とサンタクローチェ・イン・ジェルサレンメ 間 あいだ の営業 えいぎょう を開始 かいし した(市電 しでん 路線 ろせん 網 もう の大 だい 部分 ぶぶん を営業 えいぎょう していたSRTOの路線 ろせん と区別 くべつ するためにATMの路線 ろせん はローマ数字 すうじ で採 と 番 ばん された)。
1919年 ねん 、ATMはSRTOの機材 きざい と路線 ろせん を段階 だんかい 的 てき に吸収 きゅうしゅう し始 はじ めた。
1926年 ねん 、コムーネにかわり政府 せいふ 直轄 ちょっかつ 区 く ローマ (Governatorato di Roma ) が設立 せつりつ されたためATMはATGと改名 かいめい 、2年 ねん 後 ご 最初 さいしょ のバス路線 ろせん を設立 せつりつ した際 さい にATGからATAG (Azienda Tramvie e Autobus del Governatorato ) に改名 かいめい した。
1929年 ねん 12月21日 にち 、一 いち 路線 ろせん だけを営業 えいぎょう していたSRTOが廃止 はいし となり、そのすべての機材 きざい がATAGに回 まわ された。それから数日 すうじつ 後 ご の1930年 ねん 1月 がつ 1日 にち に路線 ろせん 網 もう の根本 こんぽん 的 てき な整備 せいび が行 おこな われ、すべての歴史 れきし 的 てき 中心 ちゅうしん にある路面 ろめん 電車 でんしゃ 路線 ろせん が廃止 はいし されバス路線 ろせん が休止 きゅうし となった。整備 せいび 後 ご の営業 えいぎょう では、内 うち 環状 かんじょう 線 せん 「チルコラーレ・インテルナ」 (circolare interna ) から出発 しゅっぱつ して、郊外 こうがい 側 がわ にある外 そと 環状 かんじょう 線 せん 「チルコラーレ・エステルナ」 (circolare esterna ) に接続 せつぞく する一連 いちれん の放射状 ほうしゃじょう の路線 ろせん を構築 こうちく した。路面 ろめん 電車 でんしゃ 線 せん の郊外 こうがい 始発駅 しはつえき からは、バスによる周辺 しゅうへん 地域 ちいき への路線 ろせん が展開 てんかい する。これでその後 ご の数 すう 十 じゅう 年 ねん ローマの路線 ろせん 網 もう の特徴 とくちょう がつくられた。
1937年 ねん 1月 がつ 8日 にち 、フラミーニオ 区 く で137番 ばん と138番 ばん の2つのトロリーバス 路線 ろせん の営業 えいぎょう を始 はじ めた。
1944年 ねん 8月 がつ 9日 にち 、独裁 どくさい 政権 せいけん の終 お わりとともに街 まち の扱 あつか いはコムーネに戻 もど り、ATAGはATACと変 か わり、路線 ろせん 網 もう と車両 しゃりょう 基地 きち の再 さい 構築 こうちく という難 むずか しい課題 かだい に直面 ちょくめん し始 はじ めることとなった。戦後 せんご の最初 さいしょ の2年間 ねんかん 「カミオネッタ」による最小限 さいしょうげん の営業 えいぎょう で、1947年 ねん 2月 がつ からATACは最初 さいしょ に修復 しゅうふく した6路線 ろせん で、1948年 ねん には戦前 せんぜん の路線 ろせん 網 もう に回復 かいふく した。
1950年代 ねんだい には、トロリーバス網 もう の拡張 かくちょう から路面 ろめん 電車 でんしゃ のそれを援助 えんじょ し、1960年 ねん には大 おお きな打撃 だげき を受 う けることとなる。その年 とし のオリンピック 見物 けんぶつ 用 よう の路線 ろせん システムで、チルコラーレ・インテルナ(CD、CS)やチルコラーレ・エステルナ (ES) 多 おお くの路面 ろめん 電車 でんしゃ 線 せん が廃止 はいし されバスによる運行 うんこう とされた。
1972年 ねん 7月 がつ に最後 さいご のトロリーバス路線 ろせん (47番 ばん )が廃止 はいし され、さらに路線 ろせん 電車 でんしゃ 網 もう が縮小 しゅくしょう されて、ATACの路線 ろせん 網 もう はほとんどバスが独占 どくせん 的 てき となりそれは現在 げんざい でもそうである。
2000年 ねん には、ようやく最後 さいご の改革 かいかく となる。ATACは車両 しゃりょう 、路面 ろめん 電車 でんしゃ とトロリーバスの設備 せつび のみ維持 いじ することとして、商業 しょうぎょう 的 てき な経営 けいえい 問題 もんだい は外部 がいぶ の委託 いたく 団体 だんたい に移譲 いじょう した。ATACの屋台骨 やたいぼね であるローマの路線 ろせん の大 だい 部分 ぶぶん はトラムブスに譲渡 ゆずりわた され、いくつかの第 だい 三 さん の会社 かいしゃ が周辺 しゅうへん とそのさらに周辺 しゅうへん のいくつかの路線 ろせん を委託 いたく された。
2006年 ねん から歴史 れきし 的 てき な所在地 しょざいち であるヴォルトゥルノ通 どお りを手放 てばな し、「青 あお 帯 たい 」 (strisce blu)と呼 よ ばれる有料 ゆうりょう 駐車 ちゅうしゃ 場所 ばしょ を運営 うんえい していた「STA」を吸収 きゅうしゅう し、Agenzia per la Mobilità del Comune di Roma となった。そのため、今 いま ではATACは駐車 ちゅうしゃ 、信号 しんごう 、優先 ゆうせん 車線 しゃせん 、路面 ろめん 電車 でんしゃ 線 せん の経営 けいえい といった公共 こうきょう の移動 いどう 手段 しゅだん を独占 どくせん 的 てき に支配 しはい する。