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かん (西にしあまね)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
かん
くにせい ひめせいかん
爵位しゃくい 侯爵こうしゃく
くに 1. かたやす 2. かんげん
分封ぶんぽうしゃ たけおう
始祖しそ かんこう
滅亡めつぼう原因げんいん すすむにより滅亡めつぼう
史書ししょ記載きさい 1. 史記しき
(まき45 かん)
しゅうちょう諸侯しょこうこく一覧いちらん
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かん(かん)は、古代こだい中国ちゅうごく西にしあまね時代じだい存在そんざいした都市とし国家こっか紀元前きげんぜん1122ねん? - 紀元前きげんぜん756ねん)。はじ現在げんざい河北かほくしょうにあり、のち現在げんざい陝西せんせいしょううつった。

歴史れきし

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さつふう

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かんしゅうたけおうなりおうおとうとであるかん叔であり[1]いんしゅう革命かくめいさい現在げんざい北京ぺきん南方なんぽうにあるかたやす現在げんざい河北かほくしょうろうぼうかたやすけん)にふうじられたのを起源きげんとする[2]。その領地りょうち地名ちめいとするようになった。

中原なかはらへの移転いてん

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あになりおうだいに、かんげん現在げんざい陝西せんせいしょうかん城市じょうし山西さんせいしょう河津かわづ境目さかいめ)にうつりふうされた[3][4]

滅亡めつぼう

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紀元前きげんぜん757ねんもしくは756ねんすすむによってほろぼされた[5]

戦国せんごくかんとの関係かんけい

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そののこりょうすすむおおやけしつ直轄ちょっかつりょうになったのか、いずれかの大夫たいふさづけられたのか詳細しょうさい不明ふめいであるが、すすむおおやけしつ分家ぶんけであるきょく桓叔庶子しょしかんよろずかん武子たけこ)がおり、のちにこのものしょくとしてあたえられた。これが戦国せんごくかん起源きげんである。

史記しき かん

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かんこれさきあずかしゅう同姓どうせい[いち]、せいひめ。其後苗裔びょうえいごとすすむとくふう於韓ばら[]、曰韓武子たけし武子たけしさんせい[さん]、ゆうかん厥,したがえふうせいためかん

そのちゅう
  • [いち]さくかくれ按:ひだりでんうん「邘・すすむおうかん武之たけゆききよし」、たけおう之子ゆきこしょうかんほういずる」、ゆうかん而先めつこんよりどころ此文、うん「其後裔事すすむふう于韓ばら、曰韓武子たけこ」、則武のりたけほんかんこうこれすすむまたふう於韓ばらいま馮翊かんじょう是也これやしか按系ほん及左でんきゅうせつみないいかん萬是曲沃桓叔之子、そくすすむささえ庶。また國語こくご叔向いいかん宣子のぶこのうおさむ武子たけしとくおこり再拜さいはいしゃ曰「桓叔以下いかよしみ吾子あごたまもの」、またげん桓叔かん也。こん以韓こうこれべつゆう桓叔、かんきょく沃之桓叔、如此そく與太よたこうまたゆうたがえ
  • []正義まさよしくくこころざしうん:「かんげんざいどうしゅう韓城縣かんじょうけん西南せいなんはちさとまたかんじょうざい縣南けんなんじゅうはち韓國かんこく也。古今ここん地名ちめいうんかん武子たけこしょくさい於韓はらしろ也。」
  • [さん]さくかくれけいほんうん:「まんなま賕伯、賕伯せいていはく簡、簡生輿こし輿こしせいけんじ厥。」

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 春秋しゅんじゅうひだりでん
  2. ^ このころかんいきおいは強大きょうだいで、北方ほっぽう民族みんぞくそなえとして期待きたいされていたようが『詩経しきょう』の「かんまた」にうたわれている。
  3. ^ なお、交代こうたい山東さんとうしょうつばめが、しろのすぐ北側きたがわいま北京ぺきん移転いてんされてきた。
  4. ^ このさいのこされた都市とし国家こっか住民じゅうみんは「かん」をとして四散しさんしたため、河北かわきた省一しょういちたいには古来こらいかん」をとするものおおく、はたまつつばめおうかんひろ」、まもる朝鮮ちょうせん宰相さいしょうかんかげ」などがいる。らくなみぐんおびかたぐんにもかん山東さんとうけいおういでおおかった。朝鮮ちょうせんさんかんというも、らくなみぐんばんぐんかんからこったとのせつがある。
  5. ^ 同姓どうせい諸侯しょこうあいだ放伐ほうばつとしてはもっと初期しょきれいぞくす。