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韓(かん)は、古代中国の西周時代に存在した都市国家(紀元前1122年? - 紀元前756年)。初め現在の河北省にあり、のち現在の陝西省に移った。
韓の祖は周の武王の子で成王の弟である韓叔であり[1]、殷周革命の際に現在の北京の南方にある固安(現在の河北省廊坊市固安県)に封じられたのを起源とする[2]。その後、領地の地名を氏とするようになった。
兄の成王の代に、韓原(現在の陝西省韓城市~山西省河津市の境目)に移封された[3][4]。
紀元前757年もしくは756年、晋によって滅ぼされた[5]。
その遺領は晋の公室の直轄領になったのか、いずれかの大夫に授けられたのか詳細は不明であるが、晋の公室の分家である曲沃の桓叔の庶子に韓万(韓武子)がおり、のちにこの者に食邑として与えられた。これが戦国の韓の起源である。
韓之先與周同姓[一]、姓姫氏。其後苗裔事晋、得封於韓原[二]、曰韓武子。武子後三世[三]、有韓厥,従封姓為韓氏。
- その注
- [一]索隠按:左氏傳云「邘・晋・應・韓、武之穆」、是武王之子、故詩稱「韓侯出祖」、是有韓而先滅。今據此文、云「其後裔事晋、封于韓原、曰韓武子」、則武子本是韓侯之後、晋又封之於韓原、今之馮翊韓城是也。然按系本及左傳舊説、皆謂韓萬是曲沃桓叔之子、即是晋之支庶。又國語叔向謂韓宣子能修武子之徳、起再拜謝曰「自桓叔以下、嘉吾子之賜」、亦言桓叔是韓之祖也。今以韓侯之後別有桓叔、非關曲沃之桓叔、如此則與太史公之意亦有違。
- [二]正義括地志云:「韓原在同州韓城縣西南八里。又韓城在縣南十八里、故古韓國也。古今地名云韓武子食采於韓原故城也。」
- [三]索隠系本云:「萬生賕伯、賕伯生定伯簡、簡生輿、輿生獻子厥。」
- ^ 『春秋左氏伝』
- ^ この頃の韓の勢いは強大で、北方民族の備えとして期待されていた様が『詩経』の「韓亦」に謳われている。
- ^ なお、交代に山東省の燕が、故城のすぐ北側、今の北京に移転されてきた。
- ^ この際、取り残された都市国家の住民は「韓」を氏として四散したため、河北省一帯には古来「韓」を氏とする者が多く、秦末の燕王「韓広」、衛氏朝鮮の宰相「韓陰」などがいる。他、楽浪郡や帯方郡にも韓氏は山東系の王氏に次いで多かった。朝鮮の三韓という名も、楽浪郡や真番郡の韓氏から起こったとの説がある。
- ^ 同姓諸侯間の放伐としては最も初期の例に属す。