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ベトナムとは? 意味や使い方 - コトバンク

ベトナム英語えいご表記ひょうき)Vietnam

翻訳ほんやくVietnam

改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん 「ベトナム」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

ベトナム
Vietnam

基本きほん情報じょうほう
正式せいしき名称めいしょうベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくSocialist Republic of Vietnam 
面積めんせき=34まん9340km2 
人口じんこう(2010)=8693まんにん 
首都しゅと=ハノイHanoi(日本にっぽんとの時差じさ=-2あいだ) 
主要しゅよう言語げんご=ベトナム 
通貨つうか=ドンDong

東南とうなんアジア東端ひがしばた南シナ海みなみしなかい沿ったくに東南とうなんアジア唯一ゆいいつ中国ちゅうごく文化ぶんかけんであり,その意味いみではひがしアジア東南とうなんはしともいえる。だい2大戦たいせんまえはフランスの植民しょくみん戦時せんじちゅう日本にっぽんぐん進駐しんちゅうて,戦後せんごたいふつ独立どくりつ戦争せんそうだい1インドシナ戦争せんそう)ののちも,国土こくどベトナム民主みんしゅ共和きょうわこくベトナム共和きょうわこく分断ぶんだんされ,アメリカぐん干渉かんしょうによって15ねんにわたるだい2インドシナ戦争せんそうたたかわされたが,1976ねん統一とういつされ,単一たんいつ社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく形成けいせいした。かつてはえつみなみばれた。
執筆しっぴつしゃ

ベトナムは東南とうなんアジアのインドシナ半島いんどしなはんとう東部とうぶめる。国土こくどは,きた北回帰線きたかいきせんのすぐみなみ北緯ほくい23°22′から,みなみはカマウみさき(バイブンみさき北緯ほくい8°33′)まで南北なんぼくおよそ1700kmにわたり,ゆるやかなSじょうえがいてのびている。ベトナムの背骨せぼねをつくる北部ほくぶ山地さんちはヒマラヤ山系さんけい東方とうほうへの延長えんちょうひとつで,中国ちゅうごく雲南うんなんしょうあいろう山脈さんみゃくから連続れんぞくし,北西ほくせいでとくにけわしく,ファンシパンさん最高さいこう3143mをしめす。これにたいし,北東ほくとう山地さんち石灰岩せっかいがん丘陵きゅうりょうせいで,平均へいきん標高ひょうこうは1000m内外ないがい最高さいこうてんのピアヤーさんで1960mほどである。一般いっぱん北部ほくぶでは山地さんちこうはすじくよくい,ソンコイかわべにかわ),ソンダーがわ黒河くろかわ),ソンチャイがわなどのかわ山間さんかんふか峡谷きょうこくをうがち,南東なんとうながれて下流かりゅうにトンキン・デルタを形成けいせいする。べにかわというは,そのながれによってはこばれる鉄分てつぶんおお泥土でいどいろから名付なづけられた。りゅうみじかわり傾斜けいしゃきゅうで,たえず氾濫はんらんしつつ下流かりゅうにデルタをつくり,ベトナム民族みんぞく発展はってん舞台ぶたいあたえた。トンキンわん北部ほくぶ沈降ちんこうせいで,アロンわんにおけるような石灰岩せっかいがん島々しまじま特異とくい景観けいかん形成けいせいする。

 山地さんち主脈しゅみゃくは,ラオスとの国境こっきょうをつくりつつアンナン山脈さんみゃくとなり南東なんとうにのびる。アンナン山脈さんみゃく海岸かいがんかってきゅう傾斜けいしゃし,ことにダナン付近ふきんからはみなみてんじてやまうみせまり,海岸かいがん平野へいや狭小きょうしょうとなる。山脈さんみゃく南部なんぶでは2000mをえるやまならび,南端なんたんにはコントゥム,ダルラクなどの高原こうげんをつくり,やがてメコンがわ下流かりゅうのデルタにうつる。メコン・デルタはトンキン・デルタの2ばいひろさをもち,その伸張しんちょういちじるしい。メコンがわはソンコイがわことなり,雨季うきはゆるやかに増水ぞうすいして低地ていちいちめんおおい,また乾季かんきには徐々じょじょ減水げんすいする。ベトナムじんによるメコン・デルタ開拓かいたく歴史れきしあたらしいが,その人間にんげんあたえる影響えいきょう重要じゅうようである。

 気候きこう南北なんぼくにより差異さいがあり,北部ほくぶ温帯おんたいモンスーンがた南部なんぶ熱帯ねったいモンスーンがたぞくする。たとえばトンキン・デルタのハノイでは,ねん平均へいきん気温きおん24℃であるが,ねん較差かくさは8℃におよぶ。とし平均へいきん降水こうすいりょうは1800mmで,だい部分ぶぶんは5~9がつるが,とくに1~3がつにはベトナム特有とくゆうの霖雨(りんう)(クラシャンとぶ)があってべいの2さく有利ゆうりである。みなみのメコン・デルタのホー・チ・ミンではとし平均へいきん気温きおん27.6℃,ねん較差かくさも3℃ほどであり,ねん平均へいきん降水こうすいりょうは2000mm,その90%は5~10がつ集中しゅうちゅうし,11~4がつ乾季かんきである。中部ちゅうぶのアンナン海岸かいがん高温こうおん多湿たしつで,フエのとし平均へいきん降水こうすいりょうは3000mmにおよんでいる。

 こうした地形ちけい気候きこうのもとでベトナムでは森林しんりんがよくしげる。デルタや海岸かいがん平野へいや耕地こうちされているが,ほかは熱帯ねったいせい常緑樹じょうりょくじゅおおわれ,チーク,まつたけおおい。一般いっぱん南部なんぶかうほど密林みつりんてき形相ぎょうそうつよくなる。そして山地さんちにはぞうとら野生やせいうし,サルなどがおおくみられ,爬虫類はちゅうるいではワニ,コブラなどがいる。
執筆しっぴつしゃ

ベトナムの民族みんぞく分布ぶんぷをみると,主要しゅよう民族みんぞくとしてのベトナムじん周辺しゅうへん少数しょうすう民族みんぞくからはキン(きょうにんばれる)のほかに,言語げんご系統けいとう居住きょじゅう環境かんきょう文化ぶんかことにする多種たしゅ多様たよう少数しょうすう民族みんぞくがおもに北部ほくぶ山岳さんがく地帯ちたい中部ちゅうぶ高原こうげんなどに割拠かっきょしている。やく60にのぼるこうした少数しょうすう民族みんぞく(450まんにん)は,焼畑やきばた農耕のうこうみん水田すいでん耕作こうさくみんとにかれ,さんろく,丘陵きゅうりょう高原こうげん地帯ちたいなど,地形ちけい高度こうどにしたがったじゅうけをおこなっている。稲作いなさくのほかにトウモロコシなどの雑穀ざっこく栽培さいばい従事じゅうじし,採集さいしゅう活動かつどう野生やせい果実かじつ根菜こんさい食用しょくようるい),わなりょうによる漁労ぎょろうぶた野牛やぎゅうなどの狩猟しゅりょうをもあわおこなう。工芸こうげい彫金ちょうきん機織はたおり染色せんしょく陶芸とうげい専門せんもんてき技量ぎりょうゆうする民族みんぞくすくなくない。しゅとしてくい上家うわやむが,一部いちぶには土間どましきちょくゆか家屋かおくもみられる。また精霊せいれい信仰しんこう祖先そせん崇拝すうはい中心ちゅうしんに,いまもなお伝統でんとうてき儀礼ぎれい慣習かんしゅう保持ほじしている。

 少数しょうすう民族みんぞく分布ぶんぷじょうきょうをみると,北部ほくぶ山地さんちミヤオ(なえぞくやく25まんにん)は,かつて山頂さんちょうちかくにみ,山腹さんぷく利用りようして焼畑やきばた農耕のうこういとなんでいたが,現在げんざいではそのおおくが高地こうちり,定住ていじゅうへとかっている。主要しゅよう作物さくもつはおかぼで,またケシを栽培さいばいしてアヘンをつくり現金げんきん収入しゅうにゅうる。氏族しぞく組織そしき男系だんけいで,家父かふちょう権力けんりょくおおきい。信仰しんこう儀礼ぎれいめんでは,中国ちゅうごく文化ぶんか影響えいきょうけて固有こゆう精霊せいれい崇拝すうはい中国ちゅうごく伝来でんらい道教どうきょう混交こんこうしている。言語げんごはシナ・チベット語族ごぞくぞくすともいわれ,ヤオとともにミヤオ・ヤオ諸語しょご形成けいせいする。ヤオ(ようぞくやく20まんにん)は北部ほくぶ山腹さんぷく丘陵きゅうりょう地帯ちたいみ,おかぼおよび雑穀ざっこく栽培さいばいしたがう。ケシは重要じゅうよう換金かんきん作物さくもつである。従来じゅうらい焼畑やきばたこうから定住ていじゅう耕作こうさくへとすすんでいる。その社会しゃかいつよ父系ふけい族制ぞくせい特徴とくちょうとし,畜犬を民族みんぞく神話しんわてき始祖しそとする〈いぬ祖神そしんばなし〉を伝承でんしょう民衆みんしゅう道教どうきょう日常にちじょう生活せいかつ浸透しんとうしている。また北部ほくぶさんろくやソンコイ川上かわかみ流域りゅういき渓谷けいこく一帯いったいにかけては,タイけいしょぞく集団しゅうだん居住きょじゅうし,河谷こうだに平野へいやなどの低地ていち利用りようして水稲すいとう耕作こうさく従事じゅうじする。タイ諸語しょご系統けいとう確定かくていだが,最近さいきんではシナ・チベット帰属きぞくせつ有力ゆうりょくである。くろタイ,はくタイ,べにタイなどの部族ぶぞくめい婦女子ふじょし民俗みんぞくふくいろ由来ゆらいする。北部ほくぶ山間さんかんのムオンMuongぞくやく40まんにん)はベトナム文化ぶんか吸収きゅうしゅう熱心ねっしんで,はやくから同化どうかすすんでいる。なおムオンはベトナム同系どうけい関係かんけいにあり,そのがたつたえる。また中部ちゅうぶ高原こうげんには,総勢そうぜい100まんえるさまざまな山地さんちみんモンタニャール)が展開てんかいする。通称つうしょうモイMoiぞく(〈野蛮やばんじん〉の)とばれるベトナム原住民げんじゅうみんで,アウストロアジアけいしょぞくおよびアウストロネシア(マライ・ポリネシア)けいしょぞく分類ぶんるいされる。焼畑やきばた移動いどう農耕のうこう(おかぼ,トウモロコシ)のほかに採集さいしゅう狩猟しゅりょうにもしたがう。そのおおくはくい上家うわやみ,精霊せいれい崇拝すうはい祖先そせん祭祀さいしおこなう。また祭祀さいししょけん集会しゅうかいしょとしての共同きょうどう家屋かおく所有しょゆうする。このほか,ベトナム中部ちゅうぶとメコン川上かわかみ流域りゅういきインドネシアけいチャムChamぞくおよそ8まんにん居住きょじゅうし,またメコンがわ下流したる平野ひらのにはクメールぞくやく65まんにん水稲すいとう栽培さいばい漁労ぎょろう中心ちゅうしんとする生活せいかついとなんでいる。

1000ねんにおよぶ〈きたぞく〉(中国ちゅうごくへの従属じゅうぞく)とそれにともな中国ちゅうごく文化ぶんか受容じゅようが,ベトナム社会しゃかい形成けいせい一定いってい性格せいかく方向ほうこうづけをあたえた。中国ちゅうごく文化ぶんか影響えいきょうは,社会しゃかい組織そしき信仰しんこう儀礼ぎれい風俗ふうぞく習慣しゅうかん,さらには,文学ぶんがく美術びじゅつ音楽おんがく演劇えんげきなど芸術げいじゅつしょ分野ぶんやおよんだが,なかでも,中国ちゅうごくはんとした法制ほうせい効率こうりつてきかんじん支配しはい体系たいけい両者りょうしゃは,ベトナム社会しゃかい形成けいせいのためのしょ制度せいど整備せいびうながした。また,儒教じゅきょう思想しそう中核ちゅうかくとする漢字かんじ文化ぶんかへの傾倒けいとうは,〈〉(官吏かんり)を中心ちゅうしんとするバンタンぶんしん読書どくしょじん階層かいそう)の台頭たいとうまねいた。バンタンは社会しゃかい上層じょうそうめて,政治せいじ実際じっさい権力けんりょくにぎるとともに,ベトナム伝統でんとう社会しゃかいにおける知性ちせい象徴しょうちょうともなった。以後いご,このくに政治せいじ経済けいざい社会しゃかい文化ぶんかは,かれらバンタン階層かいそう主体しゅたいとして展開てんかいしてくことになる。

 こうした伝統でんとう社会しゃかいにあって,村落そんらく中央ちゅうおう政府せいふは,上下じょうげ(もしくは主従しゅうじゅう)の関係かんけいではなく,対置たいちする関係かんけいにあり,国家こっか社会しゃかいたい村落そんらく社会しゃかいという枠組わくぐみのなかでとらえられる。むら(ベトナムではランlang(ろう)という)は,国家こっかなかくにとして高度こうど自治じちけん所有しょゆうし,村落そんらく自立じりつ土着どちゃく主義しゅぎじくに,自律じりつてきでかつ排他はいたてき共同きょうどうたいかたちづくってきた。村落そんらく維持いじ運営うんえいは,実質じっしつじょう長老ちょうろう退職たいしょく官吏かんり富裕ふゆう農民のうみんそうなどむらないの〈さとしょく階級かいきゅうにより構成こうせいされる〈さとしょく会議かいぎ〉のにゆだねられた。このため,中央ちゅうおう権力けんりょく介入かいにゅういちじるしく制限せいげんされ,わずかにむら対外たいがい代表だいひょうしゃである〈社長しゃちょう〉をつうじて,間接かんせつてき村政そんせい関与かんよするにとどまった。村民そんみん信仰しんこうおよび日常にちじょう生活せいかつのうちにも,村落そんらく共同きょうどうたいてき性格せいかく集団しゅうだん主義しゅぎへの志向しこう看取かんしゅされる。信仰しんこうめんでは,むら守護神しゅごじんしろ隍神)祭祀さいし慣行かんこう村民そんみんむす精神せいしんてき紐帯ちゅうたいとなった。また公田くでん村落そんらく共有きょうゆう)の所有しょゆうわりかわ耕作こうさく,〈みんこう〉(労働ろうどう交換こうかん)と共同きょうどう労働ろうどう,〈かぶと〉(合力ごうりょく扶助ふじょ組織そしき)など,さまざまの労働ろうどう慣習かんしゅう裏打うらうちされた村落そんらく集団しゅうだん主義しゅぎは,村民そんみん相互そうごあいだ連帯れんたいきょうぞく意識いしきむもとになっている。ベトナム伝統でんとう村落そんらくのこうした根強ねづよ共同きょうどうたい組織そしきは,ふるくは中国ちゅうごくへの服属ふくぞくちかくはフランスによる植民しょくみん支配しはいとインドシナ戦争せんそう,および民族みんぞく解放かいほう闘争とうそうなどの変遷へんせんつうじても,解体かいたいされることなく維持いじされてきた。

 南北なんぼく統一とういつ社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく成立せいりつともない,きゅうみなみベトナム社会しゃかいかく分野ぶんやでは,急激きゅうげき社会しゃかい主義しゅぎてき改造かいぞうすすめられた。農村のうそんでは,自給自足じきゅうじそく自治じち独立どくりつ閉鎖へいさ社会しゃかい価値かちかん意識いしきが,大幅おおはば転換てんかんせまられた。都市としにおいては,きゅうサイゴン(げん,ホー・チ・ミン)を中心ちゅうしんとする従来じゅうらい西欧せいおうがた都市としがた文化ぶんか退廃たいはい卑俗ひぞく文化ぶんかとして退しりぞけられ,きゅう政権せいけん土台どだいになった兵士へいし役人やくにん対象たいしょうに,思想しそう改造かいぞう教育きょういく実施じっしされた。信教しんきょう自由じゆう原則げんそくとして保証ほしょうされた。しかし,仏教ぶっきょう各派かくはをはじめ,ホアハオきょうカオダイきょうだいそうもと宗教しゅうきょうなど,はん革命かくめいてき性格せいかくびたしん宗教しゅうきょうは,その組織そしき活動かつどうおおくの改造かいぞうくわえられ,このため,その宗教しゅうきょう活動かつどう閉塞へいそく状態じょうたいまれている。きゅうきたベトナムはフランスの植民しょくみん支配しはい脱却だっきゃくしてのち,ベトナム戦争せんそう破壊はかい混乱こんらんながらも,短期間たんきかんのうちにアジアでも有数ゆうすう識字しきじこく成長せいちょうした。統一とういつのなったいま,ベトナムの教育きょういくは,きゅうきたベトナムのしょ制度せいどにならって改編かいへん統一とういつされ,2段階だんかい12ねんせい義務ぎむ教育きょういく初等しょとう学校がっこう9ねん中学校ちゅうがっこう3ねん)の普及ふきゅう徹底てってい成人せいじん教育きょういく思想しそう教育きょういく)の重視じゅうしなど,社会しゃかい主義しゅぎこくのためのひとづくりの努力どりょくすすめられている。
執筆しっぴつしゃ

住民じゅうみんの84%をめるベトナムじんがいつの時代じだいからソンコイ・デルタを占拠せんきょしたかは不明ふめいである。ベトナムはアウストロアジア語族ごぞくなかではもっと北方ほっぽう位置いちするから,かつての定説ていせつであった南方みなかた中国ちゅうごくからの移動いどうせつくるしい。むしろぜん農耕のうこう文化ぶんか時代じだい以来いらい,デルタ北西ほくせいかた山地さんち居住きょじゅうしていたとみられよう。この地域ちいきからはホアビン文化ぶんかばれるしん石器せっき時代じだい遺物いぶつ大量たいりょう発見はっけんされ,その一部いちぶまえ8000ねん比定ひていされる。ホアビン文化ぶんか末期まっき接続せつぞくしてフングエンPhung Nguyen文化ぶんか段丘だんきゅうじょうひろがり,青銅器せいどうき随伴ずいはん出土しゅつどする。ベトナム考古こうこ学会がっかいでは,この文化ぶんか伝説でんせつフンブオンゆうおう時代じだい比定ひていしている。青銅器せいどうき文化ぶんか紀元前きげんぜんすう世紀せいきにわたるドンソン文化ぶんかにおいて開花かいかし,特徴とくちょうてきどう段丘だんきゅうざんおかから発見はっけんされ,これがほぼベトナムの歴史れきし時代じだい重複じゅうふくする。

ぜん111ねんかんたけみかど当時とうじ広東かんとんしていた南越なんごし王国おうこくほろぼし9ぐん設置せっちしたが,このうち交趾きゅうしんにちみなみの3ぐんはほぼ現在げんざいのソンコイ・デルタ,タインホア・デルタ,中部ちゅうぶベトナム(ビンチティエンしょう)にあたる。このはもと雒越(らくえつ)とばれ,ラクディエン(雒田)を耕作こうさくし,雒民,雒将,雒侯,雒王という身分みぶんせい秩序ちつじょをもっていたといわれる。紀元きげん2ねん人口じんこう統計とうけいでは,交趾ぐんに74まん6237くちくちひとかぞえる単位たんい)が登録とうろくされ,中国ちゅうごく南半みなみはんではきわだって人口じんこうみつ地域ちいきであった。すぐれて発達はったつした自然しぜん堤防ていぼう利用りようしたデルタ開拓かいたくがかなりすすんでいたことをしめすとともに,当時とうじ中国ちゅうごく上流じょうりゅう階層かいそうほっした真珠しんじゅ,タイマイ(玳瑁たいまい),さいかくなどの生産せいさんであり,かつ南海なんかい諸国しょこくへの玄関げんかんであった地理ちりてき特性とくせいがこの人口じんこう集中しゅうちゅうをもたらしたのであろう。

 42ねん土着どちゃくてき支配しはいしゃチュン(しるし姉妹しまいたいかん反乱はんらんうま援によって弾圧だんあつされると,このんだをめざして大量たいりょう中国人ちゅうごくじん移住いじゅうし,支配しはい階層かいそう形成けいせい北部ほくぶベトナムに大量たいりょうかんのこした。こうかんまつ中国ちゅうごく本土ほんど群雄ぐんゆう割拠かっきょするや,この中国人ちゅうごくじんシーニェプ燮)をてて自立じりつした。この勢力せいりょくはシーニェプの死後しごほろぼされるが,さい南方なんぽう日南にちなんぐん自立じりつした現地げんちじん首長しゅちょう逵(おうき)ははやし邑王こく建設けんせつ成功せいこうし,おりからモンスーンの利用りようはじまり,これによって活発かっぱつした東西とうざい交渉こうしょう中継ちゅうけいこくとして繁栄はんえいしていく。3世紀せいきころから中国ちゅうごく支配しはいはしだいに山地さんちまでおおうようになり,7世紀せいき現在げんざいのハノイ付近ふきんやす南都なんとまもるかれたときには,39けんのほかに60ほどの覊縻(きび)しゅうがあった。この拡大かくだいは,当時とうじ雲南うんなんにあって,南方みなかた交易こうえき陸路りくろようであったみなみみことのり勢力せいりょくとの衝突しょうとつまねき,9世紀せいきにはやす南都なんとまもる陥落かんらくしている。

から周辺しゅうへんしょ民族みんぞく活性かっせいうずなかとうまつ内乱ないらんによって広東かんとんみなみかん政権せいけんまれるや,ベトナムでも土豪どごうクック(きょく節度せつど使しょうして自立じりつした。クック政権せいけんはまもなくみなみかんほろぼされるが,938ねんゴ・クエン(けん)はみなみかん干渉かんしょうぐんやぶって独立どくりつ確保かくほ成功せいこうした。ゴ・クエンの死後しご各地かくち土豪どごうスークアン使つかいくん)とばれた)の割拠かっきょ時代じだいて,966ねん下部かぶデルタ水上すいじょう勢力せいりょくゆうディン・ボ・リンひのとりょう)がしょ勢力せいりょく平定へいていして,ホアル(はな閭)にし,国号こくごうをダイコベト(だい瞿越)としょうした。リンの死後しごレ・ホアンはじむ桓)が帝位ていいうばい,そう干渉かんしょうぐんをバクダンがわ白藤しらふじこう)でやぶり,他方たほう中部ちゅうぶベトナムにさかえていたはやし邑の後継こうけいであるチャンパ遠征えんせいしてみなみかためた。993ねんそうはホアンを交趾ぐんおうふうじ,その独立どくりつ承認しょうにんした。このぜんレ(はじむあさもまた1009ねんリ・コン・ウアンこう蘊)にだつされた。ウアンはをタンロン(昇竜しょうりゅう現在げんざいのハノイ)にうつし,国号こくごうをダイベト(大越おおこし)とし,はじめての長期ちょうき安定あんてい政権せいけんリ(あさきずいた。しかしその実態じったい集権しゅうけん政治せいじにはほどとおかった。直接ちょくせつ支配しはいはソンコイ・デルタの一部いちぶにすぎず,ほかは各地かくち土豪どごうはん独立どくりつてき支配しはいしていた。リあさはこれに対抗たいこうして,仏教ぶっきょう儒教じゅきょう導入どうにゅう律令りつりょう制定せいていこころみ,そとにはそう侵略しんりゃくやぶり,チャンパをってクアンチビン地方ちほううばった。この急速きゅうそく王権おうけん伸張しんちょう土豪どごう割拠かっきょ矛盾むじゅんは,13世紀せいきはじめの内乱ないらんみ,1225ねんあさ下部かぶデルタの水上すいじょう勢力せいりょくにぎるチャン(ひねだつされた。

 この内乱ないらん過程かていで,各地かくち土豪どごう勢力せいりょくはチャン一族いちぞくわられた。しかしそれもおのおのわたしりょう私兵しへいゆうする封建ほうけん領主りょうしゅてきなものであった。したがってチャンあさ実権じっけんしゃ一族いちぞくちょうである上皇じょうこうであった。13世紀せいきまつげんは3にわたってベトナムに侵入しんにゅうしたが,これを迎撃げいげきして大敗たいはいさせたのはチャン・フンダオひねきょうどう)ら一族いちぞく領主りょうしゅたちとその私兵しへいであった。たいもとせん勝利しょうりしたのちは,もんきゃく科挙かきょ出身しゅっしん官僚かんりょうちから伸張しんちょうし,これを糾合きゅうごうしたホー・クイ・リえびす犛)が1400ねん帝位ていいだつした。ホー(えびすあさ次代じだい集権しゅうけんせい準備じゅんびしたが,07ねんあかり干渉かんしょうけて滅亡めつぼうした。

 ベトナムのさい独立どくりつは1428ねんにハノイのあかりぐんやぶったレ・ロイはじむ)によって達成たっせいされた。レ(はじむあさだい4だいレ・タイントンはじむせいむね在位ざいい1460-97)のしたに,ベトナムは律令りつりょうてき集権しゅうけん国家こっか体制たいせい整備せいびした。田土たどだい部分ぶぶん公田くでんとされて農民のうみんわりがえぶんきゅうされ,かわりに耕作こうさく納税のうぜい強制きょうせいされた。律令りつりょう官僚かんりょうせい導入どうにゅうされ,けいりつ制定せいていされた。だい規模きぼ堤防ていぼうととのえられ,村落そんらくサー(社)しゃだんほうじん組織そしきされた。しかし,急速きゅうそく集権しゅうけんはタイントンの没後ぼつご反動はんどうんで宮廷きゅうてい内紛ないふん頻発ひんぱつし,1527ねんぐんけんにぎったマク(莫)帝位ていいだつした。これにたいし,ラオス,タインホアにるグエン・キム(阮淦)はチン(ていとともにレあさ後裔こうえい擁立ようりつして抵抗ていこうし,ベトナムはなが内乱ないらん突入とつにゅうした。92ねんレ=チン勢力せいりょくはハノイをとしたが,マク北方ほっぽう山地さんちにこもって割拠かっきょし,グエン・キムのホアン(潢)はフエにって自立じりつし(クアンナム(こうみなみあさ),3しゃあらそいは19世紀せいき初頭しょとうまでつづく。これらのチュア(あるじ実権じっけんにぎった武人ぶじんをチュアとんだ)政権せいけんあらそいのなかに,村落そんらく自律じりつせいつよめ,かつての公田くでん村落そんらく共有きょうゆうでん転化てんかした。また17世紀せいき東西とうざい交渉こうしょう発展はってんは,フォヒエン(フンイェン),フェイフォトゥーラン(ダナン)などの国際こくさい貿易ぼうえきこうんだ。しかしその一方いっぽうで,村落そんらく内部ないぶからは無産むさん農民のうみん発生はっせいした。戦乱せんらん天災てんさいかれらを流民りゅうみんさせ,18世紀せいき中葉ちゅうよう以降いこうレ・ズイ・マトはじむ維樒)らの反乱はんらんんだ。

 1771ねんクイニョンにこったグエン(阮)3兄弟きょうだいによるタイソンとう革命かくめいは,75ねんクアンナムあさほろぼし,いで86ねんグエン・バン・フエ(阮文めぐみ)はチンたおし,レみかど中国ちゅうごくい,さらに89ねんにはきよし干渉かんしょうぐんをハノイに大破たいはした。タイソン・グエンちょう,ベトナムでは土地とち改革かいかくおこなわれ,チュノム喃)文学ぶんがくさかえたといわれる。

18世紀せいき以降いこう,クアンナムあさナムティエン南進なんしん政策せいさくによって,ハティエンなどの中国人ちゅうごくじん王国おうこく服属ふくぞくし,メコン・デルタはベトナムりょうとなっていた。1787ねんより,クアンナムあさ皇子おうじグエン・フォック・アイン(阮福暎。のちのザロン(嘉隆よしたかみかど)はベーヌなどフランス義勇軍ぎゆうぐんとタイの援助えんじょてこのり,グエン・バン・フエの死後しご急速きゅうそく北上ほくじょうして1802ねん全土ぜんど平定へいていした。このグエン(阮)あさ成立せいりつげんベトナムの骨格こっかくまれたといえる。

 グエンあさでは,すめらぎこしただしれいなどしん制度せいど導入どうにゅう積極せっきょくてきおこなわれ,とくに2だいミンマンあきらいのちみかど時代じだい行政ぎょうせい制度せいど中央ちゅうおう集権しゅうけん進捗しんちょくした。その反面はんめんで,行政ぎょうせい最下さいかのサー(社)しゃだんほうじんでは,納税のうぜい引換ひきかえにその自律じりつすすみ,指導しどうしゃバンタン(ぶんしんそう権威けんいたかまった。しかし流民りゅうみん問題もんだい解決かいけつできず,おおくの反乱はんらんんだが,とくに4だいトゥドゥック(嗣徳)年間ねんかんみず匪のらんくろはたぐんなど太平たいへい天国てんごく残党ざんとう南下なんかは,北部ほくぶ一帯いったいだい混乱こんらんとしんだ。おりから極東きょくとう進出しんしゅつ足場あしばとしてベトナムをねらったフランスは,1862ねんだい1サイゴン条約じょうやくによってメコン・デルタをうばい,フランスりょうコーチシナ成立せいりつさせた。さらに73ねんのガルニエ事件じけんつづだい2サイゴン条約じょうやく,83ねんリビエール事件じけんつづく2にわたるフエ条約じょうやくによって,北部ほくぶトンキン保護ほごりょう中部ちゅうぶアンナン保護ほごこくとして,植民しょくみんすることに成功せいこうした。そして1887ねんにはカンボジア保護ほごこくくわえてフランスりょうインドシナ連邦れんぽう成立せいりつした。

フランスの侵略しんりゃくこうして,1885ねんハムギ(咸宜)みかどトン・タット・トゥエットみことしつせつ)らと山地さんちにこもってバンタンの蜂起ほうきびかけ,北部ほくぶ中部ちゅうぶ一帯いったい農民のうみん蜂起ほうきひろがった。これにたいし,植民しょくみん総督そうとくベールラヌッサンらは村落そんらく自律じりつせいとバンタンの権力けんりょくみとめる協同きょうどう政策せいさく推進すいしんし,このためデ・タムらをのぞいて,ソンコイ・デルタの反乱はんらん終息しゅうそくするが,村落そんらく封建ほうけんてき構造こうぞう固定こていされた。一方いっぽう南部なんぶのコーチシナでは,米田よねだプランテーション急速きゅうそく発達はったつし,ターディエンつくだ小作こさくじんせいしょうじた。こうしてベトナムは北部ほくぶ南部なんぶという典型てんけいてき植民しょくみん地下ちかじゅう経済けいざい構造こうぞうをつくりあげた。20世紀せいき初頭しょとうファン・ボイ・チャウドンズー(東遊あずまあそび運動うんどうファン・チュ・チン維新いしん運動うんどうなど,民族みんぞく運動うんどう近代きんだい志向しこうする運動うんどうこったが,前者ぜんしゃ革命かくめい路線ろせん後者こうしゃ啓蒙けいもうてき改良かいりょう運動うんどうもともにフランスの弾圧だんあつによってついえた。

 だい1大戦たいせん,インドシナへの投資とうし拡大かくだいし,北部ほくぶ鉱業こうぎょうちゅう南部なんぶのゴムのプランテーション,南部なんぶ米作べいさく急激きゅうげき発展はってんは,労働ろうどうしゃ階級かいきゅうやサイゴンの地主じぬし精米せいまい輸出ゆしゅつ業者ぎょうしゃなどのブルジョアジー,さらに知識ちしきじんそうした。この社会しゃかい変容へんよう背景はいけいに,1925ねんホー・チ・ミンによってベトナム青年せいねん革命かくめい同志どうしかいまれ,これを母体ぼたいに30ねんベトナム共産党きょうさんとう成立せいりつし,またグエン・タイ・ホクのベトナム国民党こくみんとうまれた。共産党きょうさんとうは30-31ねんゲティン・ソビエト壊滅かいめつによって一時いちじ打撃だげきけたが,チャン・バン・ザオ南部なんぶ組織そしき再建さいけんし,タ・トゥ・タウらトロツキスト統一とういつ戦線せんせんんでサイゴンかい選挙せんきょなどに進出しんしゅつした。しかし38ねんだい弾圧だんあつけ,地下ちかもぐった。

 40ねん日本にっぽんぐんがインドシナに進駐しんちゅうするや,共産党きょうさんとうバクソン蜂起ほうきによって軍事ぐんじ組織そしきをつくる一方いっぽう翌年よくねんベトミン(ベトナム独立どくりつ同盟どうめいかい)を結成けっせいして,にちふつじゅう支配しはい抵抗ていこうした。45ねんさんきゅうクーデタにより日本にっぽんぐんはフランスりょうインドシナを解体かいたいし,バオダイみかど独立どくりつみとめたが,もはや封建ほうけん王朝おうちょうではベトナムじん支持しじられなかった。おりから日本にっぽんぐん調達ちょうたつ天災てんさい南北なんぼく途絶とぜつにより北部ほくぶに200まんにん餓死がしするというだい飢饉ききんこった。ベトミンは日本にっぽんぐんからのもみ奪還だっかんさけんで,急速きゅうそく勢力せいりょく伸張しんちょうした。8月15にち日本にっぽんぐん降伏ごうぶくとともにバオダイ政府せいふはベトミンによって解体かいたいされ,9月2にちベトナム民主みんしゅ共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげんがホー・チ・ミンによって朗読ろうどくされた。

しかしフランスはこの独立どくりつみとめず,1945ねん南部なんぶに,46ねんまつ北部ほくぶ進攻しんこうした。だい1インドシナ戦争せんそうはじまりである。フランスぐん当初とうしょ平野へいや制圧せいあつ成功せいこうしたが,チュオン・チン人民戦線じんみんせんせん戦術せんじゅつによって,戦線せんせん膠着こうちゃくし,バオダイ・ベトナムこく擁立ようりつやアメリカの大量たいりょう軍事ぐんじ援助えんじょにもかかわらず,54ねんディエンビエンフーに大敗たいはいして,撤退てったいまれた。同年どうねんジュネーブ会議かいぎにより,ベトナムは北緯ほくい17せんさかいきた民主みんしゅ共和きょうわこくみなみをバオダイ・ベトナムこく統治とうちにゆだね,3ねん統一とういつ選挙せんきょ施行しこうされることになった。しかしよく55ねんバオダイをはいしてベトナム共和きょうわこく初代しょだい大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたゴ・ディン・ジェムは,アメリカの軍事ぐんじ経済けいざい援助えんじょ背景はいけいに,南北なんぼく分割ぶんかつ恒久こうきゅうはかって民主みんしゅ共和きょうわこく対立たいりつし,一方いっぽう国内こくないでは土地とち改革かいかく失敗しっぱいして,きゅうターディエン(つくだ小作こさくじんそう反乱はんらんこした。

 60ねんみなみベトナム解放かいほう民族みんぞく戦線せんせん結成けっせいされ,だい2インドシナ戦争せんそう(ベトナム戦争せんそう)が勃発ぼっぱつした。63ねんジェムが軍部ぐんぶクーデタによってたおされるや,アメリカぐん反共はんきょう橋頭堡きょうとうほとしてのみなみベトナムに直接ちょくせつ大量たいりょう介入かいにゅうはかり,さらに64ねんトンキンわん事件じけん口実こうじつきたベトナムへの爆撃ばくげききたばく)を開始かいしした。しかし50まんにんのアメリカへい投入とうにゅうにもかかわらず,アメリカぐんみなみベトナム政府せいふぐん敗戦はいせんかさね,68ねんのテト(きゅう正月しょうがつ攻勢こうせい以降いこう,アメリカ財政ざいせい悪化あっか国際こくさいてき平和へいわ世論せろんまえにアメリカぐん撤兵てっぺいまれ,73ねんパリ平和へいわ協定きょうていむすばれた。アメリカぐん撤退てったい民主みんしゅ共和きょうわこく人民じんみんぐん解放かいほう戦線せんせんぐん優位ゆうい決定的けっていてきとなり,75ねんサイゴンが陥落かんらくして,みなみベトナム臨時りんじ革命かくめい政府せいふみなみベトナムの主権しゅけんにぎった。よく76ねん統一とういつ選挙せんきょによって南北なんぼくりょう国家こっかさい統一とういつされ,ベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくまれた。
執筆しっぴつしゃ

ベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく建国けんこく記念きねんは9月2にちであるが,これは1945ねんにホー・チ・ミンがベトナム民主みんしゅ共和きょうわこくふつ両国りょうこくからの独立どくりつ宣言せんげんしたである。現在げんざいのベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくという国名こくめいは,76ねん7がつにこのベトナム民主みんしゅ共和きょうわこくから改称かいしょうされたものである。

 ベトナム民主みんしゅ共和きょうわこく領土りょうどは,1946ねん憲法けんぽう,1959ねん憲法けんぽうにおいてもきゅうサイゴン政権せいけん(1975ねん崩壊ほうかい)の支配しはいにあった南部なんぶ北緯ほくい17°以南いなん)をふくむものとされていた。しかし,1954ねんジュネーブ協定きょうてい調印ちょういん,55ねんにベトナム共和きょうわこくみなみベトナム)がアメリカの支援しえんけて樹立じゅりつされ,以来いらいやく20年間ねんかん,ベトナムには北部ほくぶ共産きょうさん主義しゅぎ陣営じんえい南部なんぶ自由じゆう主義しゅぎ陣営じんえいぞくするふたつの国家こっか存在そんざいすることになった。そのため,75ねん南部なんぶ解放かいほうはベトナム共産党きょうさんとう指導しどうした国家こっか機構きこうのみならず経済けいざい社会しゃかい全般ぜんぱんにわたって南北なんぼく統一とういつ事業じぎょう推進すいしんされることになった。

 92ねん4がつ公布こうふされた現行げんこう憲法けんぽうによれば,ベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくは,現在げんざい,〈社会しゃかい主義しゅぎへの過渡かと〉(前文ぜんぶん)にある〈人民じんみん人民じんみんによる人民じんみんのための国家こっか〉(だい2じょう)であるが,その実態じったいは〈プロレタリア独裁どくさい国家こっか〉である。そして,この国家こっか国内外こくないがいにおいて代表だいひょうするのは,国家こっか主席しゅせきである(だい101じょう)。国会こっかい一院制いちいんせいで,任期にんき5ねんである。政党せいとうとしてかつて社会党しゃかいとう民主党みんしゅとうなどが存在そんざいしたが,88ねんりょうとう解散かいさんしてからは,多党たとうせい導入どうにゅう公式こうしき否定ひていされており,現在げんざいではベトナム共産党きょうさんとう唯一ゆいいつ合法ごうほう政党せいとうとなっている。憲法けんぽうどうとうが〈国家こっか指導しどうし,社会しゃかい指導しどうする勢力せいりょく〉(だい4じょう)と明記めいきしている。したがって,国会こっかい代表だいひょう閣僚かくりょう大半たいはんがベトナム共産党きょうさんとう政治せいじ局員きょくいん中央ちゅうおう委員いいんレベルの人々ひとびとおよ一般いっぱん党員とういんによってめられ,国政こくせいへのとう指導しどうりょく発揮はっきされている。なお国家こっか機関きかんは〈民主みんしゅ集中しゅうちゅう原則げんそく〉により組織そしきされ,立法りっぽう機関きかんとしての国会こっかい行政ぎょうせい機関きかんとしての政府せいふ司法しほう機関きかんとしての裁判所さいばんしょ存在そんざいするものの,〈三権分立さんけんぶんりつ〉という概念がいねん否定ひていされ,〈三権さんけん役割やくわり分担ぶんたん〉の明確めいかく主張しゅちょうされるにとどまる。

従来じゅうらい,ベトナム戦争せんそう影響えいきょうもあって中国ちゅうごくソ連それんをはじめとする東側ひがしがわ諸国しょこく緊密きんみつ関係かんけいにあったが,1976ねん7がつにベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく成立せいりつして南北なんぼくりょうベトナムが名実めいじつともに国家こっかとして統一とういつされてからは,77ねん9がつ国際こくさい連合れんごう加盟かめいしたのをはじめ,国際こくさい通貨つうか基金ききんアジア開発銀行あじあかいはつぎんこうなどの国際こくさい機関きかんにも加盟かめいし,また同盟どうめい諸国しょこく会議かいぎ正式せいしき加盟かめいこくにもなり,柔軟じゅうなんかつ広範こうはん外交がいこう政策せいさくをとりはじめた。しかし78ねんころから,従来じゅうらいこうふつこうべい闘争とうそうでは協力きょうりょくしてきたカンボジアの革命かくめい勢力せいりょくおよび中国ちゅうごくとの関係かんけい悪化あっかし,とくに79ねん1がつ,ベトナムぐん民主みんしゅカンボジアへの侵攻しんこう,79ねん2がつ中国ちゅうごくとの戦争せんそう勃発ぼっぱつは,両国りょうこくとはもとより,西側にしがわ諸国しょこくとの関係かんけい冷却れいきゃくし,国際こくさいてき孤立こりつ状態じょうたいおちいった。こうしたなかで,1978ねん6がつにコメコンに加入かにゅう同年どうねん11がつにはソえつ友好ゆうこう協力きょうりょく条約じょうやく調印ちょういんし,この条約じょうやくなかでみずからソ連それんけん社会しゃかい主義しゅぎ諸国しょこくす〈社会しゃかい主義しゅぎ共同きょうどうたい〉の一員いちいんであることをはじめてみとめ,事実じじつじょう,それまでのなか対立たいりつにおけるちゅう等距離とうきょり外交がいこう変更へんこうしてソ連それんりの外交がいこうおこなうようになった。また,インドシナ地域ちいきでは,1975ねん以降いこう,とりわけ79ねん初頭しょとうにカンボジアにおいて民主みんしゅカンボジアのポルポト政権せいけん事実じじつじょう崩壊ほうかいし,カンボジア人民じんみん共和きょうわこくヘンサムリン政権せいけん)が成立せいりつしてからは,ラオス,カンボジア両国りょうこくたいして,政治せいじ経済けいざい軍事ぐんじなどおおくの分野ぶんや協力きょうりょく関係かんけい強化きょうかし,この地域ちいきにおける指導しどうてき立場たちばかためた。しかし,88ねんになるとソ連それんりの外交がいこうからぜん方位ほうい外交がいこうへと路線ろせん転換てんかんおこない,91ねんまつには中国ちゅうごくとも関係かんけい正常せいじょうし,95ねんにはASEAN(東南とうなんアジア諸国しょこく連合れんごう)にだい7番目ばんめのメンバーとして加盟かめいした。

 日本にっぽんとの外交がいこう関係かんけいは,1973ねん1がつのベトナム和平わへいかんするパリ協定きょうてい締結ていけつ同年どうねん9がつ当時とうじのベトナム民主みんしゅ共和きょうわこく日本にっぽんとの国交こっこう樹立じゅりつ協定きょうてい調印ちょういん正常せいじょうした。そして75ねん10がつにはハノイに日本にっぽん大使館たいしかん開設かいせつされ,翌年よくねん1がつにはベトナム民主みんしゅ共和きょうわこく大使館たいしかん東京とうきょう開設かいせつされた。アメリカとの国交こっこう正常せいじょうは,1975ねん以降いこう,ベトナムがわつよのぞんできたことであるが,95ねんにようやくこれが実現じつげんした。

ベトナム戦争せんそうちゅう,ベトナムはソ連それん中国ちゅうごくをはじめとする社会しゃかい主義しゅぎ諸国しょこくから多大ただい軍事ぐんじ援助えんじょけてきた。とくにベトナム戦争せんそう激化げきかした1960年代ねんだいなか以降いこうソ連それんから対空たいくうミサイル,戦闘せんとうなど近代きんだい兵器へいき援助えんじょ増大ぞうだいし,ベトナム人民じんみんぐん近代きんだい促進そくしんされた。75ねん南部なんぶ解放かいほうは,東南とうなんアジア随一ずいいち軍事ぐんじりょくゆうするくにとなった。1944ねん12月,わずか34にんによってけんぐんされたベトナム人民じんみんぐん兵力へいりょくは,80年代ねんだい前半ぜんはんやく170まんにまで増大ぞうだいしたが,87ねん以降いこう積極せっきょくてきすすめられた兵力へいりょく削減さくげんにより97ねん現在げんざいやく70まんにまで減少げんしょうしたと推定すいていされている。なお,軍隊ぐんたいはベトナム共産党きょうさんとうつよ指導しどうかれているが,現行げんこう憲法けんぽうでは国家こっか主席しゅせき全国ぜんこく人民じんみん武装ぶそう勢力せいりょく統率とうそつし,国防こくぼう会議かいぎ議長ぎちょう職務しょくむにつく(だい103じょう)ことになっている。
執筆しっぴつしゃ

そう人口じんこうの80%きょう農村のうそん居住きょじゅうし,労働ろうどうりょく人口じんこうの70%が農業のうぎょう従事じゅうじする農業のうぎょうこくである。農業のうぎょう米作べいさく中心ちゅうしんにした食糧しょくりょう生産せいさんおもで,そのほかゴム,コーヒーなど商品しょうひん作物さくもつ栽培さいばい若干じゃっかんみられる。べいはソンコイ・デルタとメコン・デルタがだい生産せいさん地帯ちたいをなす。人口じんこう圧倒的あっとうてき部分ぶぶんもこのふたつのデルタに集中しゅうちゅうしている。しかしメコン・デルタのほう自然しぜん条件じょうけんめぐまれ,面積めんせきひろく,開発かいはつ潜在せんざいてき可能かのうせいおおきい。これにたいふるくからけたソンコイ・デルタは土地とち利用りようがすでに限界げんかいたっし,莫大ばくだい過剰かじょう人口じんこうかかえ,その緩和かんわ課題かだいとなっている。北部ほくぶのデルタを山地さんち丘陵きゅうりょう石炭せきたん鉄鉱てっこうせき,クロム,スズ,マンガン,亜鉛あえん,リンはいせきなど鉱物こうぶつ資源しげんむ。とくに良質りょうしつ無煙炭むえんたんとして有名ゆうめいなホンゲイずみ推定すいてい埋蔵まいぞうりょう30おくt)は外貨がいか獲得かくとく目玉めだま商品しょうひんで,日本にっぽんにもだい2大戦たいせんまえから輸出ゆしゅつされている。工業こうぎょう社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけんした工業こうぎょうすすめた北部ほくぶ中心ちゅうしんがあり,ハノイ,ハイフォン,ビエッチ,タイグエンなどにセンターが形成けいせいされている。

 ベトナムは19世紀せいきまつから1945ねんまでフランスの植民しょくみんであった。このあいだ植民しょくみん政府せいふ本国ほんごく資本しほんによる鉱山こうざん開発かいはつ,プランテーション経営けいえい援助えんじょしたにすぎず,生活せいかつ必需ひつじゅひんはもっぱら本国ほんごくからの完成かんせいひん輸入ゆにゅう依存いぞんした。ベトナムじん技術ぎじゅつおくれた,生産せいさんせいひく農業のうぎょう従事じゅうじし,地主じぬし要求ようきゅうする高率こうりつ小作こさくりょうこう利子りし植民しょくみん政府せいふ重税じゅうぜい過酷かこく労役ろうえきくるしんだ。45ねん9がつ独立どくりつ宣言せんげん労働党ろうどうとう現在げんざい共産党きょうさんとう)と民主みんしゅ共和きょうわこく政府せいふさい侵略しんりゃくはかるフランスとのたたかいを遂行すいこうする過程かてい植民しょくみん権益けんえき漸次ぜんじ接収せっしゅうし,戦争せんそう末期まっきの53ねんまつからは地主じぬしせい撤廃てっぱいざす土地とち改革かいかく着手ちゃくしゅした。54ねん7がつのジュネーブ協定きょうていによる停戦ていせん北緯ほくい17せんさかいふたつにかれた南北なんぼくりょう地域ちいき経済けいざい開発かいはつめんまったことなるみちあゆんだ。北部ほくぶ労働党ろうどうとう強力きょうりょく指導しどうしたに,また社会しゃかい主義しゅぎこく援助えんじょ依拠いきょして経済けいざい復興ふっこう(1954-56),社会しゃかい主義しゅぎ改造かいぞう(1957-60)をおこない,60ねんまつまでに土地とち改革かいかく農業のうぎょう合作がっさくしょう工業こうぎょう合作がっさく合作がっさくしゃ)・公私こうしあい営(合同ごうどう経営けいえい完了かんりょうした。そして61ねんからはソ連それんにならった重工業じゅうこうぎょう優先ゆうせん工業こうぎょう政策せいさくすすめ,それを具体ぐたいしただい1ヵ年かねん計画けいかく(1961-65)ではそう投資とうしの50%をめる工業こうぎょう投資とうしの75%を重工業じゅうこうぎょうとうじ,社会しゃかい主義しゅぎ物質ぶっしつてき技術ぎじゅつてき基礎きそづくりを意図いとした。この計画けいかく過大かだい目標もくひょう設定せってい農工のうこうあいだバランスの軽視けいしなどの問題もんだいふくんでいたが,タイグエン鉄鋼てっこうコンビナートの稼動かどう,ウオンビ火力かりょく発電はつでんしょ,タクバ水力すいりょく発電はつでんしょ建設けんせつなどの成果せいか記憶きおくされてよい。65-68ねん,70-73ねんのアメリカぐんきたばくはこうした新設しんせつ工場こうじょう設備せつびインフラストラクチャー破壊はかい目標もくひょうとしたもので,政府せいふ工場こうじょう地方ちほう分散ぶんさんなどで対抗たいこうしたが,甚大じんだい被害ひがいこうむった。

 一方いっぽうみなみベトナムではジュネーブ協定きょうてい農村のうそん地域ちいき革命かくめい勢力せいりょく温存おんぞんされ,はげしい階級かいきゅう対立たいりつつづいた。アメリカをバックにするゴ・ディン・ジェムは農村のうそん安定あんていのため土地とち改革かいかくこころみたが,地主じぬし有利ゆうり改革かいかくのためかえって農民のうみん革命かくめいがわはしらせ,政府せいふかれらの対立たいりつつよまった。1960ねん解放かいほう戦線せんせん成立せいりつ対立たいりつ一段いちだん拡大かくだいし,ついにアメリカ・政府せいふぐん解放かいほう戦線せんせんきたベトナムぐんとの全面ぜんめん戦争せんそうへと発展はってんした。そして戦闘せんとう激化げきか農村のうそん戦場せんじょうえてしまい,耕地こうち面積めんせき減少げんしょう集荷しゅうか困難こんなん発生はっせいした。かつて南部なんぶはメコン・デルタだけでも100まんt以上いじょうべい輸出ゆしゅつ余力よりょくがあったが,65ねんさかい完全かんぜんべい輸入ゆにゅうこくてんじ,そのりょうはピークねんには70まんtにたっした。べい以外いがい食料しょくりょうひん工業こうぎょう製品せいひん原料げんりょう輸入ゆにゅう増大ぞうだいつづけ,71ねんには輸出ゆしゅつ輸入ゆにゅうたいする比率ひりつはわずか1.4%にとどまった。国家こっか財政ざいせい戦費せんぴ増大ぞうだい支出ししゅつ膨張ぼうちょうし,大幅おおはば赤字あかじ記録きろくした。その不足ふそくおぎなったのがアメリカの援助えんじょで,そのがくは1966-75ねんの10年間ねんかん経済けいざい援助えんじょだけでも合計ごうけい52おくドルにたっした。

 76ねん南北なんぼく統一とういつはベトナムの自立じりつてき発展はってんへのみちひらいた。しかし長年ながねん戦乱せんらんによる生産せいさん基盤きばん破壊はかい物資ぶっし不足ふそくははなはだしく,統一とういつ国家こっか成立せいりつ早々そうそう重大じゅうだい困難こんなん直面ちょくめんした。最大さいだい問題もんだい食糧しょくりょう生産せいさん回復かいふく南部なんぶ都市とし住民じゅうみん中心ちゅうしん労働ろうどうりょく人口じんこうの2わりおよ失業しつぎょう解消かいしょうであった。そこで政府せいふ統一とういつ最初さいしょ計画けいかくであるだい2ヵ年かねん計画けいかく(1976-80)では,食糧しょくりょう生産せいさんさい重要じゅうよう課題かだいとして位置いちづけ,耕地こうち回復かいふく拡大かくだい水利すいり施設しせつ建設けんせつにより最終さいしゅうねんに2100まんt(もみ換算かんさん)の目標もくひょう設定せっていした。そのさいようとなったのがしん経済けいざい地区ちく建設けんせつである。これは中部ちゅうぶ高原こうげんやメコン西部せいぶ未開みかい荒蕪こうぶ南部なんぶ都市とし失業しつぎょうしゃ北部ほくぶデルタの過剰かじょう人口じんこう集団しゅうだん入植にゅうしょくさせ,だい規模きぼ国営こくえい農場のうじょう合作がっさくしゃぐんをつくるというもので,期間きかんちゅうに400まんにん移住いじゅう,180まんhaの開墾かいこん予定よていした。しかし食糧しょくりょう生産せいさんは77-79ねんの3ねん連続れんぞく自然しぜん災害さいがい肥料ひりょう農薬のうやく石油せきゆなどの投入とうにゅうざい極度きょくど不足ふそく計画けいかく大幅おおはば下回したまわり,しん経済けいざい地区ちく創設そうせつ移住いじゅうしゃ不満ふまんうだけで,食糧しょくりょう増産ぞうさんにはまったく寄与きよせず,失敗しっぱいした。

 一方いっぽう南部なんぶ社会しゃかい主義しゅぎについては,当初とうしょ指導しどう慎重しんちょうであったが,経済けいざい危機きき表面ひょうめんはじめた1978ねんころからその強行きょうこうり,私営しえい商業しょうぎょう経営けいえい全面ぜんめん禁止きんし工業こうぎょう公私こうしあい営化・合作がっさく農地のうち調整ちょうせい農業のうぎょう合作がっさく断行だんこうした。しかし商業しょうぎょう性急せいきゅう国有こくゆう市場いちば急激きゅうげき縮小しゅくしょうをもたらし,さらに流通りゅうつう部門ぶもんにぎっていた華僑かきょう大量たいりょう国外こくがい脱出だっしゅつ原因げんいんとなり,国際こくさい問題もんだいした。また農業のうぎょう合作がっさくは,中部ちゅうぶ沿岸えんがん地方ちほうではほぼ予定よていどおりすすんだが,肝心かんじんのメコン・デルタでは農民のうみん抵抗ていこうい,ほとんど実績じっせきをあげなかった。こうした状況じょうきょうついちをかけたのが,カンボジアへの侵攻しんこう中国ちゅうごくとの国境こっきょう紛争ふんそうで,これらを契機けいき日本にっぽんふく西側にしがわ諸国しょこく国際こくさい機関きかん援助えんじょ中断ちゅうだんし,物資ぶっし不足ふそく戦費せんぴ負担ふたん国民こくみん生活せいかつ生存せいぞんラインまで低下ていかした。80年代ねんだいはいると,政府せいふはようやく経済けいざい危機ききからの脱却だっきゃくのため従来じゅうらい硬直こうちょくてき態度たいどあらため,企業きぎょう自主権じしゅけん拡大かくだい農産物のうさんぶつ生産せいさん請負うけおいせい導入どうにゅう出来高できだかばら賃金ちんぎん採用さいようなど,一連いちれん自由じゆう生産せいさん刺激しげき政策せいさく実行じっこうはじめた。ベトナムの経済けいざい今後こんごは,こうしたしょ政策せいさく実施じっし外国がいこく援助えんじょ受入うけい増加ぞうかたか人口じんこう増加ぞうかりつ抑制よくせい,メコンおきやトンキンわん海底かいてい油田ゆでん開発かいはつなどの成否せいひにかかっている。
執筆しっぴつしゃ

ベトナムじんは,かんだいよりだいまでの中国ちゅうごく支配しはいされたきたぞく漢字かんじ文化ぶんか基礎きそつちかった。中国ちゅうごくからの独立どくりつ独自どくじ漢字かんじおん成立せいりつするとともに,歴代れきだい王朝おうちょう漢字かんじ行政ぎょうせい学術がくじゅつじょう文字もじとしてもちいたため,文化ぶんか全般ぜんぱん中国ちゅうごく文化ぶんか影響えいきょう色濃いろこい。文学ぶんがく中国ちゅうごく文学ぶんがく影響えいきょうけながら,民族みんぞくせい反映はんえいした特異とくい内容ないよう形式けいしきをもって発展はってんした。民族みんぞくによってふるくからおこなわれたいんんだ短詩たんしは,固有こゆう文字もじをもたなかったためにつたわらず,今日きょう伝承でんしょうされている〈俗語ぞくご〉や〈歌謡かよう〉などの口承こうしょうを,古代こだい韻文いんぶんにさかのぼるとする意見いけんはあるが,その起源きげんはつまびらかではない。古代こだい伝承でんしょう説話せつわもチャン(ひねあさ漢文かんぶんかれた《みねみなみ摭怪(れいなんせきかい)》によって概要がいようれるものの,それらを民族みんぞくつたえる資料しりょう存在そんざいしない。民族みんぞく文字もじチュノム喃)の発祥はっしょうきたぞくとみられているが,13世紀せいきにこの文字もじによる民族みんぞく表記ひょうきさかんになり,やがてチュノムによってかれた文学ぶんがくが,18世紀せいきなかばまで主流しゅりゅうであったかん詩文しぶん並行へいこうして発展はってんした。

 中国ちゅうごくから独立どくりつした10世紀せいきに,道教どうきょうてき色彩しきさいともなった精霊せいれい崇拝すうはい仏教ぶっきょう融合ゆうごうした文化ぶんか基盤きばん形成けいせいされ,リ(あさにはこうした文化ぶんか背景はいけいにした今体きんたい漢詩かんしおこった。チャンあさ以前いぜんぶんせきは15世紀せいき初頭しょとうあかり侵略しんりゃくぐん略奪りゃくだつによってほとんどうしなわれたが,リあさ以前いぜんについては,チャンあさの《ぜんえんしゅうえい》がカイン・ヒー(慶喜よしのぶ),バオ・ザック(たからさとし)をはじめとする禅師ぜんじ詩集ししゅうやその作品さくひんつたえている。リあさ中期ちゅうきからチャンあさにいたって儒教じゅきょう文化ぶんか興隆こうりゅうするにともない,朝廷ちょうてい中心ちゅうしんとする詩壇しだん形成けいせいされてかん詩文しぶん隆盛りゅうせいをみたが,チャンあさ文学ぶんがくについてはグエン(阮)あさの《歴朝れきちょう憲章けんしょうるい志文しぶみせきこころざし》にチュー・バン・チン(しゅぶんさだ),チュオン・ハン・シエウ(ちょうかんちょう),チャン・クアン・カーイ(ちんひかりけい)などの廷臣ていしんしょみかど詩文しぶんしゅうおおつたえられ,作品さくひんもレ(はじむあさった《すめらぎえつせん》など後世こうせいアンソロジーられている。13世紀せいきにレ・バン・フー(はじむぶんきゅう)によって編修へんしゅうされた正史せいし大越おおごえ史記しき》は神話しんわ古代こだい伝説でんせつによって民族みんぞく黎明れいめい叙述じょじゅつしたとされ,いでリ・テー・スエン(わたるがわ)の説話せつわしゅうみねみなみ摭怪》がった。またチュノムによる民族みんぞく絶句ぜっく律詩りっしである国語こくごが《披沙しゅう》の作者さくしゃグエン・トゥエン(阮詮)によって創始そうしされるなど,チャンあさにおける文学ぶんがくには民族みんぞく意識いしき勃興ぼっこう反映はんえいする要素ようそい。

 15世紀せいき成立せいりつしたレあさでは,科挙かきょせい整備せいび儒教じゅきょう国教こっきょうによって文学ぶんがく評価ひょうかたかまり,かん詩文しぶん知識ちしきじんそう必須ひっす教養きょうようとされる一方いっぽう民族みんぞくにもあらたな発展はってんがみられた。初期しょき最大さいだい詩人しじんグエン・チャイ(阮薦)で,かれは《ウク・チャイ(そもそもときしゅう》6かんにすぐれた詩文しぶん学術がくじゅつてき著作ちょさくのこしただけでなく,18世紀せいき勃興ぼっこうするそうなな体長たいちょうへん最古さいこ作品さくひん家訓かくん》の作者さくしゃともされている。

 レあさはレ・タイントン(はじむひじりはじめ)の時代じだい文学ぶんがく尊重そんちょう気運きうんもっとたかまり,タイントン自身じしんに《明良あきよしにしき綉詩しゅう》などの御製ぎょせい詩集ししゅうや《瓊苑きゅううた》《しんひゃくえい》そのみことのり選集せんしゅうがあるだけでなく,その《ひろしとくこくおん詩集ししゅう》にはチャンあさ国語こくご詩体したいことにする七言しちごんろくこと混交こんこうたいくにおんあつめ,より特徴とくちょうのある民族みんぞくさかんにこころみられたことをしめしている。16世紀せいきから王朝おうちょう文化ぶんか退廃たいはいはいり,儒教じゅきょう倫理りんり制約せいやくされて文学ぶんがく活気かっきうしなったが,隠棲いんせいして道教どうきょう仏教ぶっきょうしん思想しそう追究ついきゅうし,体制たいせいたいする批判ひはんふでたくすグエン・ビン・キエム(阮秉けん)などの文人ぶんじんあらわれた。社会しゃかい批評ひひょう文学ぶんがくとしてはグエン・ズー(阮璵)があかりの《剪灯しんはなし》の影響えいきょうしたいた《伝奇でんき漫録》があった。レあさ末期まっき儒教じゅきょう国教こっきょうてき権威けんい官僚かんりょうせい後退こうたいとともにおとろえ,俗化ぞっかした仏教ぶっきょうに儒・みち2きょう混交こんこうした国民こくみんてき宗教しゅうきょう成立せいりつした。同時どうじ民衆みんしゅうてき伝統でんとう文化ぶんか文人ぶんじん台頭たいとうする時流じりゅうなか尊重そんちょうされ,口承こうしょう詩体したい採用さいようしチュノムでかれたろくはち体長たいちょうへん急速きゅうそく発展はってんした。グエン・フイ・トゥ(阮輝)の《はな箋伝》を初期しょき代表だいひょうさくとするこの長編ちょうへんは,グエンあさ初期しょきにかけてすうひゃくぎょうから800以上いじょうのスタンザをふくさんせんすうひゃくぎょうおよ作品さくひん数多かずおお出現しゅつげんし,読書どくしょじんにもてはやされた。主要しゅよう作品さくひん中国ちゅうごく通俗つうぞく小説しょうせつ韻文いんぶんやくで,チュノムの読解どっかい該博がいはく漢字かんじ知識ちしき必要ひつようとしたため,当初とうしょから国民こくみん文学ぶんがくとしてひろ民衆みんしゅう普及ふきゅうしたわけではなかった。しかしろくはちたい民族みんぞくによる豊富ほうふ繊細せんさい表現ひょうげん伝統でんとうてき韻律いんりつうたわれる庶民しょみんてき主題しゅだいはしだいに国民こくみんてき人気にんき獲得かくとくし,今日きょうではグエン・ズー(阮攸)の《キム・バン・キエウ》を頂上ちょうじょうてき作品さくひんとする,韻文いんぶん小説しょうせつともいうべきその一連いちれん作品さくひんは,民族みんぞく文学ぶんがく古典こてんとしての評価ひょうかている。封建ほうけん社会しゃかいたいする風刺ふうしがホー・スアン・フオン(えびす春香はるか)などのねやしゅう詩人しじんによってさかんにおこなわれたのもレあさ末期まっき,グエンあさ初期しょき特徴とくちょうで,女権じょけんつよ国民こくみんせい反映はんえいしていた。しかしこうした活発かっぱつ文学ぶんがく活動かつどうはグエンあさ中期ちゅうきはいって沈滞ちんたいし,19世紀せいき後半こうはんではグエンあさたいする反逆はんぎゃく漢詩かんしじんカオ・バー・クアット(こうはく适)やこうふつ抵抗ていこう詩人しじんグエン・ディン・チエウ(阮廷炤)の文学ぶんがくのほかに現代げんだいてき評価ひょうかているものはすくない。

 フランスりょうはいってチュノムと漢字かんじわりマ字まじによる民族みんぞく表記ひょうきほう〈クオック・グー(国語こくご)〉が普及ふきゅうし,その前半ぜんはん文学ぶんがく停滞ていたいしたが,20世紀せいきはいるとやがて西欧せいおう文学ぶんがく影響えいきょうけたロマン主義しゅぎ小説しょうせつがこの文字もじかれはじめた。1920年代ねんだいには〈自力じりきぶんだん〉による文壇ぶんだん形成けいせいがみられ,小説しょうせつともに近代きんだい文学ぶんがく時代じだいむかえた。30年代ねんだいまつには民族みんぞく運動うんどうによる,植民しょくみん主義しゅぎ封建ほうけんてき慣習かんしゅうたいする批判ひはん主題しゅだいにしたリアリズムの文学ぶんがく主流しゅりゅうとなり,45ねんの8がつ革命かくめい以後いご社会しゃかい主義しゅぎ文学ぶんがく先駆せんくとなった。

しん石器せっき時代じだいぞくするホアビン遺跡いせきなどの洞窟どうくつ最古さいこ彫刻ちょうこく発見はっけんされているが,史的してき年代ねんだい推定すいていできる古代こだい美術びじゅつ文郎ふみおおうむじな時代じだいドンソン遺跡いせきなどの青銅器せいどうきにみられる彫刻ちょうこくで,その文様もんよう特徴とくちょうきたぞくの7世紀せいきまでの中国ちゅうごくしき墳墓ふんぼ発見はっけんされる青銅せいどうせい装飾そうしょくがれている。中国ちゅうごくから独立どくりつむくいてんてらほうてんとう,タンロン(昇竜しょうりゅう)のいちはしらてらなどの独特どくとく石造せきぞう建築けんちくや,バクニン(きたやすし)の瓊林てらせん仏像ぶつぞう代表だいひょうされる仏教ぶっきょう美術びじゅつ開花かいかし,陶芸とうげいにも民族みんぞく美術びじゅつ創造そうぞうがみられた。リ(ちょう遺物いぶつはわずかしかつたわらないが,仏教ぶっきょう装飾そうしょく台座だいざ釉磁りゅうや蓮弁の文様もんよう特徴とくちょうがある。チャン(ひねあさからレ(はじむちょうちゅうにかけて美術びじゅつはたくましさと簡素かんそさを均衡きんこうなか追究ついきゅうし,石造せきぞう建築けんちくではそれがタインホア(きよし)のホー(えびす堡塁ほうるいしめされている。釉やみどり釉にくわえて白磁はくじ青磁せいじ発達はったつした陶磁器とうじきは,一時いちじ中国ちゅうごく陶磁とうじ模倣もほうしたが,チャンちょう後期こうきてつおこり,レあさあおはな(せいか)(しみづけ),五彩ごさい磁などの絵付えつけ陶磁とうじみちびいた。レあさのこした仏教ぶっきょう美術びじゅつ作品さくひんは,ふで塔寺とうでら千手観音せんじゅかんのん西方寺さいほうじ阿羅漢あらかんぞう著名ちょめいであるが,村落そんらくちん集会しゅうかいしょ)のばん彫刻ちょうこく象徴しょうちょうされる,軽妙けいみょう質朴しつぼく新興しんこう民間みんかん美術びじゅつが,寺院じいん建築けんちくにも影響えいきょうあたえた。19世紀せいき以降いこうはグエンあさ保守ほしゅてき文化ぶんか政策せいさくとフランスの植民しょくみん統治とうちのもとで,伝統でんとう美術びじゅつ発展はってんおおきく阻害そがいされた。しかし植民しょくみん後半こうはんには西洋せいよう美術びじゅつ移入いにゅうによって絹地きぬじ淡彩たんさいうるししん境地きょうちひらき,きゅう正月しょうがつ縁起物えんぎものとしてつたえられたどろいちれいとして,そのあいだ農村のうそん地域ちいき継承けいしょうされた民間みんかん伝統でんとう芸術げいじゅつは,独立どくりつにとりわけ尊重そんちょうされて今日きょうおよんでいる。
執筆しっぴつしゃ

ベトナムはカンボジア,ラオスとともにインドシナとしてくくられるが,音楽おんがくてきには,ほかの2こくことなり,インド文化ぶんか影響えいきょうよわく,中国ちゅうごく文化ぶんかのそれがつよい。そのため,中国ちゅうごくだけでなく,モンゴル,朝鮮半島ちょうせんはんとう日本にっぽん音楽おんがくてき共通きょうつうするものがおおい。つぎのような音楽おんがく用語ようご発音はつおんだけでは推察すいさつしにくいが,漢字かんじもどしてみると意味いみあきらかになろう。たとえばカムcam(きん),ダイ・コdai co(だい),グ・アンngu am(五音ごいん),パクphach(はく),ニャ・ニャクnha nhac(雅楽ががく)など。

 ベトナムの音楽おんがく歴史れきしは,よっつの時期じきけてかんがえられることがおおい。だい1(10~14世紀せいき)は,インドと中国ちゅうごく双方そうほうから影響えいきょうけた時期じきだい2(15~18世紀せいき)は,中国ちゅうごく音楽おんがく積極せっきょくてきれられた時期じきだい3(19世紀せいき~1945)は,この時期じき後半こうはんには西洋せいよう音楽おんがく移入いにゅうはじまるが,一般いっぱんてきには,音楽おんがくのベトナムすすんだ時期じきだい4(1945~ )は,伝統でんとう音楽おんがくとともに西洋せいよう音楽おんがくさかんになり,そのため,五線譜ごせんふ使用しようひろがり,折衷せっちゅうてき音楽おんがく様式ようしきされた。

 ベトナムの伝統でんとう音楽おんがくとして現在げんざいよくかんがえられているのは,だい2成立せいりつしたのち,だい3国風くにぶりしたものである。宮廷きゅうていもちいられた雅楽ががく系統けいとう伝承でんしょううしなわれつつあるが,〈娯楽ごらくのための音楽おんがく〉と総称そうしょうされる古典こてんてき歌曲かきょく器楽きがくは,今日きょうでもくに内外ないがい伝承でんしょうされたのしまれている。こうした音楽おんがく使つかわれる楽器がっきは,ダン・チャン(16げんそう),ダン・ニー(2げん胡弓こきゅう),ダン・グイェットdan nguyet(月琴げっきん),ティ・バty ba(琵琶びわ)など,中国ちゅうごく起源きげんのものがおおい。しかし,ベトナムに固有こゆうのものもあり,音楽おんがく生活せいかつなかたしてきた役割やくわりからみて,つぎの3しゅはとくに重要じゅうようである。(1)ダン・ダイdan day(たまそこ) 台形だいけい木製もくせいどうをもつ三味線しゃみせんがた楽器がっきで,うた伴奏ばんそう使つかわれる。(2)ダン・バウdan bau(たまふくべ)またはダン・ドク・フイェンdan doc huyen(たまどく絃) 一弦琴いちげんきんで,倍音ばいおんつる張力ちょうりょく変化へんかによっておとだかえるもの。(3)クアン・ティエン・パクquan tien phach(くしぜにはく) ぼう古銭こせんかさねてつけた木製もくせい楽器がっきで,よこにぎざぎざもつけてあるため,金属きんぞくらすだけでなく,拍子木ひょうしぎやささらのやくなどみっつの機能きのうたす。今日きょうではスプーン2ほん代用だいようされることもある。

 ベトナム音楽おんがくは,近隣きんりん諸国しょこくくらべて,基本きほんてき性格せいかくとしては旋律せんりつ中心ちゅうしんてきである。その旋律せんりつせい基礎きそになっているのが,音階おんかいごとに相対そうたいてきおとだか微妙びみょうげたりげたりすることができるおと組織そしきである。これは,カンボジア,ラオス,タイほかで使用しようされている等分とうぶん平均へいきんりつとは本質ほんしつてきことなる発想はっそうである。こうしたおと組織そしきもちいて構成こうせいされる音階おんかいもっとひろ使用しようされているのが,きたのバクbacとみなみのナムnamである。南北なんぼくながいベトナムでは,きた(ハノイ),中央ちゅうおう(フエ),みなみ(ホー・チ・ミン)のみっつの伝統でんとうで,細部さいぶことなる。この2しゅ音階おんかいはそれぞれ5おと音階おんかい原則げんそくで,バクはド,レ,ファ,ソ,ラの音階おんかいで,ナムはド,レ,ファ,ソ,シ♭であるが,演奏えんそうさいしては,おなじファがナムの場合ばあいすこたかめられ,また,それぞれに微妙びみょうおとだか変化へんかによる装飾そうしょくがついて,ことなった印象いんしょうあたえる。また,バクははやめのテンポであかるさを表現ひょうげんし,ナムはおそめのテンポでくらさを表現ひょうげんする。独奏どくそうだけでなくすうしゅ楽器がっきによる演奏えんそうでも,こまかいニュアンスづけがかされて,きわめて繊細せんさい音楽おんがくづくりになっている。

 なお,ベトナムの古典こてん演劇えんげき(ハット・ボイhat boi)でも改良かいりょうげき(ハット・カイ・ルオンhat cai luong)でも,音楽おんがく不可欠ふかけつ要因よういんである。

 さらに60におよ少数しょうすう民族みんぞく固有こゆう音楽おんがく楽器がっきをもっている。たとえば,中部ちゅうぶ高原こうげんジャライぞくは,ド,ミ,ファ,ソ,シの音階おんかい使つかうといわれるが,これはベトナムの古典こてん音楽おんがくにはみられず,むしろ,沖縄おきなわ,インドネシア,ブータンで使つかわれるものにちかい。
執筆しっぴつしゃ

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百科ひゃっか事典じてんマイペディア 「ベトナム」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

ベトナム

正式せいしき名称めいしょう−ベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくnuoc Cong Hoa Xa Hoi Chu Nghia Viet Nam/Socialist Republic of Vietnam。◎面積めんせき−33まん951km2。◎人口じんこう−8877まんにん(2012)。◎首都しゅとハノイHanoi(232まんにん,2009)。◎住民じゅうみん−ベトナムじん84%,ミヤオじん,モイじん,ムオンじんなどの少数しょうすう民族みんぞく8%,クメールじんなど。◎宗教しゅうきょう仏教ぶっきょう80%,キリストきょう(カトリック),ホアハオきょうなど。◎言語げんご−ベトナム公用こうよう)がだい部分ぶぶん,ほかに少数しょうすう民族みんぞく言語げんごなど。◎通貨つうか−ドンDong。◎元首げんしゅ国家こっか主席しゅせきチュオン・タン・サンTruong Tan Sang(1949ねんうまれ,2011ねんがつ就任しゅうにん任期にんきねん)。◎首相しゅしょう−グエン・タン・ズン Nguyen Tan Dung(1949ねんうまれ,2006ねんがつ就任しゅうにん)。◎ベトナム共産党きょうさんとう書記しょきちょう−グエン・フー・チョンNguyen Phu Trong(2011ねんがつ就任しゅうにん)。◎憲法けんぽう−1992ねんがつ制定せいてい,2001ねん12月改正かいせい。◎国会こっかい一院制いちいんせい定員ていいん500,任期にんきねん)(2011)。◎GDP−907おくドル(2008)。◎1人ひとりあたりGDP−809ドル(2007)。◎農林のうりん漁業ぎょぎょう就業しゅうぎょうしゃ比率ひりつ−66.1%(2003)。◎平均へいきん寿命じゅみょうおとこ71.3さいおんな80.5さい(2013)。◎乳児にゅうじ死亡しぼうりつ−19‰(2010)。◎識字しきじりつ−92.8%(2009)。    *    *かんめいえつみなみインドシナ半島いんどしなはんとうひがしはん,トンキンわん南シナ海みなみしなかい沿うS字形じけい南北なんぼく細長ほそながくに。〔自然しぜん住民じゅうみん〕 中国ちゅうごく,ラオス,カンボジアのさんこくせっし,北部ほくぶソンコイかわ形成けいせいするトンキン・デルタとそれをかこ山岳さんがく地帯ちたい中部ちゅうぶはアンナン山脈さんみゃくきゅうがけをなしてみなみシナ海岸かいがんせませま地域ちいきで,さいせまでは東西とうざいはばやく50km。南部なんぶしゅとしてメコンかわだいデルタからなる。一般いっぱん熱帯ねったいモンスーン気候きこうで,雨季うきは5〜9月くがつ住民じゅうみんだい部分ぶぶんベトナムひとで,ベトナムはなすが(中国ちゅうごく南部なんぶにもキンぞくばれるベトナムけい民族みんぞく居住きょじゅう),トンキン,コーチシナ地方ちほうには中国人ちゅうごくじんおおい。ミヤオ(なえぞくチャムひとモイひとはじめ多種たしゅ少数しょうすう民族みんぞくがいる。仏教徒ぶっきょうとおおいが,カオダイきょう,ホアハオきょうや,フランス植民しょくみん時代じだい以来いらいのカトリックの勢力せいりょくつよい。〔歴史れきし〕 中国ちゅうごく南東なんとうがんふるくからしょぞくひゃくえつのうち駱越が南下なんかしてベトナムにはいった。かんとうのころ中国ちゅうごく支配しはいけたが,10世紀せいき独立どくりつ,ディン(ひのとあさリ(あさ,チャン(ひねあさレ(はじむあさなどの王朝おうちょうがたち,18世紀せいきまつタイソンとう革命かくめいグエン(阮)あさいたった。しんふつ戦争せんそうこう1887ねん全土ぜんどフランスりょうインドシナ編入へんにゅうされた。だい大戦たいせんインドシナ戦争せんそうジュネーブ協定きょうてい(1954ねん)で南北なんぼく分断ぶんだんされ,きたのベトナム民主みんしゅ共和きょうわこくみなみのベトナム共和きょうわこく対立たいりつするようになった。みなみ統一とういつそう選挙せんきょ拒否きょひみなみ支持しじする米国べいこく武力ぶりょく介入かいにゅうベトナム戦争せんそう発展はってんした。1975ねんのベトナム戦争せんそう終結しゅうけつて,1976ねん南北なんぼく統一とういつ達成たっせい国名こくめいをベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくあらためた。その,カンボジアのヘン・サムリン政権せいけんへの支援しえんや,それにからむたい中国ちゅうごく関係かんけい悪化あっか中越なかごえ戦争せんそう),かんばつや洪水こうずいなどの自然しぜん災害さいがいによる食糧しょくりょう不足ふそくなどがかさなり,大量たいりょう難民なんみんした。1991ねん中国ちゅうごくと14ねんぶりに国交こっこう正常せいじょうし,1995ねんには米国べいこくとも国交こっこう樹立じゅりつ東南とうなんアジア諸国しょこく連合れんごう(ASEAN)に加盟かめいした。〔経済けいざい産業さんぎょう〕 農業のうぎょうおもで,トンキン,メコンりょうデルタの米作べいさくもっと重要じゅうよう小麦こむぎ,トウモロコシ,サトウキビ,綿花めんかさんおおい。ほかにホンゲイ無煙炭むえんたんをはじめ,スズ,クロム,亜鉛あえんてつなどの鉱産こうさんがある。1976ねん南北なんぼく統一とういつ外国がいこく資本しほん進出しんしゅつするようになり,工業こうぎょう発展はってんもはかられている。とくに1980年代ねんだい後半こうはんからは〈ドイモイ刷新さっしん)〉政策せいさくにより市場いちば経済けいざい推進すいしんされ,ODAと外国がいこくからの投資とうし後押あとおしもあって,1990年代ねんだい後半こうはんから2000年代ねんだいにも安定あんていした経済けいざい成長せいちょう年率ねんりつ7%前後ぜんこう)をつづけた。1996ねんASEAN自由じゆう貿易ぼうえき地域ちいき(AFTA),1998ねんアジア太平洋たいへいよう経済けいざい協力きょうりょく会議かいぎ(APEC)に加盟かめい,2007ねん世界せかい貿易ぼうえき機関きかん(WTO)にも正式せいしき加盟かめいみとめられた。慢性まんせいてき貿易ぼうえき赤字あかじ投資とうし環境かんきょう整備せいびなど懸案けんあんもあるが,石油せきゆ天然てんねんガスなど資源しげんめぐまれており,勤勉きんべん国民こくみんせい良質りょうしつ労働ろうどうりょくから域内いきないからも経済けいざい発展はってん牽引けんいんやく期待きたいされている。成長せいちょうりつは2011ねんは5.9%,2012ねんは5.2%とかつての高度こうど成長せいちょう比較ひかくすると鈍化どんかしているが安定あんていてき成長せいちょうつづけている。〔政治せいじ〕 政治せいじ体制たいせいはベトナム共産党きょうさんとう党員とういんやく250まんにん)によるいちとう支配しはい。2011ねんだい11かい共産党きょうさんとう大会たいかいでは,2020ねんまでに近代きんだい工業こうぎょう国家こっか成長せいちょうすることを目標もくひょうとしつづたか経済けいざい成長せいちょうをめざす方針ほうしんかかげられた。同年どうねんがつ国会こっかい議員ぎいん選挙せんきょけて国会こっかい招集しょうしゅうされ,グエン・シン・フンが国会こっかい議長ぎちょう,チュオ・タン・サンが国家こっか主席しゅせき選出せんしゅつされ,グエン・タン・ズンが首相しゅしょう再選さいせんされた。経済けいざい運営うんえいかんしては,経済けいざい安定あんていとインフレ対策たいさくさい重要じゅうよう課題かだいとした。ベトナム国内こくない経済けいざい停滞ていたいし,ドイモイ進展しんてんうらで,貧富ひんぷ拡大かくだい汚職おしょく蔓延まんえん官僚かんりょう主義しゅぎ弊害へいがいとうのマイナスめん顕在けんざいしたことから,とう政府せいふは,汚職おしょく防止ぼうし強化きょうか行政ぎょうせい公務員こうむいん改革かいかくとう実施じっしし,不良ふりょう債権さいけん処理しょり国有こくゆう企業きぎょう再編さいへんにより,経済けいざい効率こうりつせい改善かいぜんすすめることを優先ゆうせん課題かだいとしている。2013ねんには,国会こっかい人事じんじ承認しょうにんした閣僚かくりょうきゅう以上いじょう指導しどうしゃたいする国会こっかい議員ぎいんによる信任しんにん投票とうひょう実施じっし憲法けんぽう改正かいせいとういちとう体制たいせいにありながら,民主みんしゅてき要素ようそれるといったうごきもしめしている。日本にっぽんとの関係かんけいでは,だい安倍あべ政権せいけん緊張きんちょう関係かんけいつづ中国ちゅうごく念頭ねんとうに,民主党みんしゅとう政権せいけんでのベトナムとの友好ゆうこう協力きょうりょく関係かんけいをさらに発展はってんさせる方針ほうしんで,2013ねんがつには安倍あべ総理そうり就任しゅうにん最初さいしょ外遊がいゆうさきとしてベトナム訪問ほうもん選択せんたく。また,2013ねん12月には,にち・ASEAN特別とくべつ首脳しゅのう会議かいぎへの出席しゅっせきのためズン首相しゅしょう訪日ほうにちした。安倍あべ総理そうりとズン首相しゅしょうとのあいだで,地域ちいきてき課題かだい共有きょうゆう経済けいざいてき相互そうご補完ほかん関係かんけいにある重要じゅうようなパートナーとして,にちえつあいだの〈戦略せんりゃくてきパートナーシップ〉をさら発展はってんさせていくことが確認かくにんされた。
関連かんれん項目こうもくインドシナ経済けいざい連携れんけい協定きょうてい東南とうなんアジアベトナム共和きょうわこくベトナム民主みんしゅ共和きょうわこく

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山川やまかわ 世界せかいしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん 「ベトナム」の解説かいせつ

ベトナム
Viet Nam

東南とうなんアジア大陸たいりく(インドシナ半島いんどしなはんとう)東岸とうがん国家こっか首都しゅとハノイべにかわ(こうが)デルタを中心ちゅうしんとする北部ほくぶ,チュオンソン山脈さんみゃく中部ちゅうぶ高原こうげん南シナ海みなみしなかいはさまれた狭長きょうちょう中部ちゅうぶ,メコンデルタを中心ちゅうしんとする南部なんぶかれる。ベトナムじん(キンぞく)の祖先そせん居住きょじゅうした北部ほくぶかんだいから中国ちゅうごく支配しはいされ,10世紀せいきにようやく自立じりつ,1054ねんから大越おおこし(だいえつ)国号こくごうもちいた(中国ちゅうごくやす南国なんごくとしてさつふう)。東南とうなんアジアらしい流動的りゅうどうてき国家こっか社会しゃかいに,14~15世紀せいきにはしょう中華ちゅうかがた国家こっか体制たいせい国家こっか民族みんぞく意識いしきかたまり,中部ちゅうぶチャンパー圧倒あっとうしてだい規模きぼ南進なんしん実現じつげん,17~19世紀せいきには南部なんぶをカンボジアからうばった。16~18世紀せいき南北なんぼく分裂ぶんれつ時代じだいだったが,1802ねん南北なんぼく統一とういつした阮(グエン)あさこしみなみ(ベトナム),のち大南おおみなみ国号こくごう採用さいようした。1859~84ねん全土ぜんどがフランスの植民しょくみんとされ,南部なんぶ(コーチシナ),中部ちゅうぶ(アンナン),北部ほくぶ(トンキン)の3くにけて統治とうちされた。1945ねんベトナム民主みんしゅ共和きょうわこく独立どくりつ宣言せんげんしたがフランスとインドシナ戦争せんそうとなり,フランスの敗北はいぼくジュネーヴ協定きょうていにより南北なんぼく分割ぶんかつされた。しかし,きた民主みんしゅ共和きょうわこくはアメリカが直接ちょくせつ派兵はへい(ベトナム戦争せんそう)までして支援しえんしたみなみベトナム共和きょうわこくを75ねんたおし,翌年よくねん南北なんぼく正式せいしき統一とういつして,ベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくとなった。

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん 「ベトナム」の解説かいせつ

ベトナム

インドシナ半島いんどしなはんとう東岸とうがんくに漢字かんじ表記ひょうきえつみなみ紀元前きげんぜん2世紀せいきごろ北部ほくぶ初期しょき国家こっか形成けいせいするが中国ちゅうごく(かんとう)に征服せいふくされ,やすみなみとよばれた。10世紀せいき独立どくりつ中国ちゅうごく制度せいど文物ぶんぶつ摂取せっしゅし,集権しゅうけん国家こっか形成けいせいして独立どくりつ維持いじ南進なんしん成功せいこう,19世紀せいきに阮(げん)あさがほぼ現在げんざい領域りょういき統合とうごうした。1804ねんからこしみなみ国号こくごうとする。19世紀せいき後半こうはんからフランスの植民しょくみんとなり,だい2大戦たいせん日本にっぽんふつしるし進駐しんちゅうをへて,戦後せんごのインドシナ戦争せんそう結果けっか南北なんぼく分離ぶんり,アメリカの介入かいにゅうでベトナム戦争せんそう勃発ぼっぱつした。1976ねん南北なんぼく統一とういつもカンボジア問題もんだい孤立こりつ混乱こんらんしたが,86ねんからドイモイ(刷新さっしん)政策せいさく進展しんてんしている。日本にっぽんとは,鎖国さこくまえ朱印船しゅいんせん貿易ぼうえき日本にっぽんまち建設けんせつにち戦争せんそう日本にっぽん留学りゅうがく運動うんどう(東遊あずまあそび(ドンズー)運動うんどう),ベトナム戦争せんそう特需とくじゅとベトナム反戦はんせん運動うんどうなど関係かんけいふかい。また,日本にっぽんはベトナムにとって最大さいだい援助えんじょこくとなっている。95ねんにASEAN加盟かめい正式せいしき国名こくめいはベトナム社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく首都しゅとハノイ。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうちベトナム言及げんきゅう

【グエンあさ】より

…1802‐1945ねん,フエにしたベトナム最後さいご王朝おうちょう)。阮朝ともく。…

【ザロン】より

…ベトナムのグエン(阮)あさ初代しょだい皇帝こうてい姓名せいめいグエン・フォック・アインNguyen Phuoc Anh(阮福暎),グエン・フック・アインNguyen Phuc Anh(阮福うつ)とも表記ひょうきされる。…

【ダイベト】より

…1054ねんから1778ねんまでもちいられたベトナムの国号こくごう。リ()あさのリ・タイ・トン(ふとしむね)によってさだめられ,以後いご,チャン(ひね),レ(はじむ),クアンナム(こうみなみ)かくあさつうじてもちいられたが,国外こくがいではアンナン(やすみなみ)としょうすることもおおい。…

※「ベトナム」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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