目次 自然と生活 自然 生活 民族と言語 生活様式の分布 語族,民族の形成と移動 社会 部族社会 村落社会 植民的集落 都市 国家 宗教 上座部仏教 イスラム その他の宗教 生活のなかの宗教 宗教と政治 政治,経済 ヨーロッパの植民地支配と孤立 独立--多様性のなかの統一 統合の政治--〈上からの革命〉 開発政治の登場--権威主義支配 新しい潮流--自立化と民主化 日本と東南アジア アジアの南東 なんとう 部 ぶ を指 さ す。西 にし からミャンマー,タイ,ラオス,カンボジア,ベトナムの5ヵ国 かこく が東南 とうなん アジアの大陸 たいりく 部 ぶ を形成 けいせい し,マレーシア,シンガポール,インドネシア,ブルネイ,フィリピンの5ヵ国 かこく が東南 とうなん アジアの島嶼 とうしょ 部 ぶ を形 かたち づくっている。かつて〈南洋 なんよう 〉ないし〈南方 なんぽう 〉と称 しょう していた地域 ちいき を,〈東南 とうなん アジア〉と呼 よ ぶようになったのは比較的 ひかくてき 新 あたら しく,太平洋戦争 たいへいようせんそう 後 ご のことである。〈東南 とうなん アジア〉(あるいは〈東南 とうなん アジヤ〉)という語 かたり 自体 じたい は,1930年代 ねんだい の末 すえ ころから,一部 いちぶ の研究 けんきゅう 者 しゃ の間 あいだ で用 もち いられたことがあるが,一般 いっぱん には普及 ふきゅう しなかった。戦後 せんご 用 もち いられるようになった〈東南 とうなん アジア〉は,英語 えいご のSouth-East Asia(米語 べいご 綴 つづり Southeast Asia)の訳語 やくご で,それ以前 いぜん の〈東南 とうなん アジア〉とは由来 ゆらい を異 こと にしている。
ここでいう〈東南 とうなん アジア〉の語源 ごげん であるSouth-East Asiaという語 かたり の歴史 れきし はきわめて新 あたら しく,太平洋戦争 たいへいようせんそう 中 ちゅう の造語 ぞうご にすぎない。1943年 ねん ,南方 みなかた 諸 しょ 地域 ちいき に展開 てんかい した日本 にっぽん 軍 ぐん に対 たい する反攻 はんこう 作戦 さくせん の指揮 しき を統轄 とうかつ するため,連合 れんごう 軍 ぐん はセイロン(現 げん ,スリランカ)にSouth-East Asia Command(東南 とうなん アジア総 そう 司令 しれい 部 ぶ )を設置 せっち したが,その名称 めいしょう の一部 いちぶ として用 もち いられたのが最初 さいしょ とされている。フランスの地理 ちり 学者 がくしゃ J.デルベールが,この語 かたり を〈アングロ・サクソンの用 もち いた軍事 ぐんじ 的 てき 表現 ひょうげん 〉と説明 せつめい しているのはこうした歴史 れきし 的 てき 事情 じじょう による。日本 にっぽん 軍 ぐん の作戦 さくせん 区域 くいき は,当時 とうじ ,イギリス領 りょう ビルマ およびマラヤ,フランス領 りょう インドシナ,オランダ領 りょう 東 ひがし インド,アメリカ領 りょう フィリピンという4植民 しょくみん 地 ち と,タイ王国 おうこく に分 わ かれており,それらを包括 ほうかつ するような地域 ちいき 呼称 こしょう はなかった。そこで日本 にっぽん 軍 ぐん は総称 そうしょう として〈南方 なんぽう 〉という呼称 こしょう を採用 さいよう したが,連合 れんごう 軍 ぐん はこの地域 ちいき に〈東南 とうなん アジア〉という呼称 こしょう を与 あた えたのである。
もっともSouth-East Asiaという言葉 ことば が,それまでの英語 えいご になかったわけではない。やや形 かたち は異 こと なるが,South-Eastern Asia という表現 ひょうげん は,すでに1839年 ねん にある旅行 りょこう 記 き の表題 ひょうだい に用 もち いられていた事実 じじつ が報告 ほうこく されている。ただその意味 いみ は現在 げんざい 用 もち いられるSouth-East Asiaの一部 いちぶ ,すなわち東南 とうなん アジア大陸 たいりく 部 ぶ のみを指 さ し,島嶼 とうしょ 部 ぶ は含 ふく まない点 てん に相違 そうい がみられる。したがって今日 きょう の東南 とうなん アジア全域 ぜんいき を示 しめ すにはSouth-East Asia and the Islandsといわなければならなかった。この用法 ようほう は,最近 さいきん までイギリスの地理 ちり 書 しょ の中 なか で踏襲 とうしゅう されていた。
新 あたら しく生 う まれた〈東南 とうなん アジア〉の概念 がいねん にフィリピンを含 ふく めるべきかどうかについては,初 はじ め学者 がくしゃ の間 あいだ で議論 ぎろん が分 わ かれていた。東南 とうなん アジアには,古 ふる くから各地 かくち にインド的 てき 原理 げんり ないし中国 ちゅうごく 的 てき 原理 げんり に基 もと づく伝統 でんとう 的 てき 国家 こっか が成立 せいりつ し,それぞれ独自 どくじ の歴史 れきし 的 てき 発展 はってん を遂 と げていたが,ひとりフィリピンのみは,こうした外来 がいらい 文化 ぶんか の影響 えいきょう をほとんど受 う けず,部族 ぶぞく 国家 こっか の段階 だんかい にとどまったまま,16世紀 せいき にいたってスペインの植民 しょくみん 地 ち となった。またその後 ご も,スペインは政策 せいさく 上 じょう ,フィリピンを東南 とうなん アジアの他 ほか の国々 くにぐに とより,むしろメキシコと結 むす びつけようとした,などの歴史 れきし 的 てき 事情 じじょう が,東南 とうなん アジアにおけるフィリピンの取扱 とりあつか いをめぐって異論 いろん が生 う まれた理由 りゆう と考 かんが えられる。しかし1960年代 ねんだい 以降 いこう ,フィリピンを東南 とうなん アジアに含 ふく めることで研究 けんきゅう 者 しゃ の意見 いけん が一致 いっち し,現在 げんざい にいたっている。
1975年 ねん のベトナム戦争 せんそう 終結 しゅうけつ を契機 けいき として,東南 とうなん アジアには三 みっ つの政治 せいじ ブロックが成立 せいりつ した。タイ,マレーシア,シンガポール,インドネシア,フィリピン,ブルネイの6ヵ国 かこく の結成 けっせい する東南 とうなん アジア諸国 しょこく 連合 れんごう (ASEAN(アセアン))と,ベトナムを中心 ちゅうしん とし,ラオス,カンボジアを含 ふく むインドシナ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 圏 けん という二 ふた つの地域 ちいき 連合 れんごう と,そのいずれにもくみしないビルマ(現 げん ,ミャンマー)がそれである(なお95年 ねん にベトナム,97年 ねん にラオスとミャンマー,99年 ねん にカンボジアが東南 とうなん アジア諸国 しょこく 連合 れんごう に加盟 かめい している)。
東南 とうなん アジアはかつてヨーロッパ人 じん によって〈後 こう インドFurther India(英語 えいご ),Hinterindien (ドイツ語 ご ),l'Inde extérieure (フランス語 ふらんすご )〉と呼 よ ばれていた。ヨーロッパからみて,インドのかなたにある地方 ちほう の意 い である。また古代 こだい インド人 じん は,この地 ち を〈黄金 おうごん の地 ち Suvarṇabhūmi〉〈黄金 おうごん 州 しゅう Suvarṇadvīpa〉と呼 よ んだ。一方 いっぽう ,中国人 ちゅうごくじん はこれを〈南海 なんかい 〉と総称 そうしょう していた。南方 なんぽう の海 うみ を経由 けいゆ して中国 ちゅうごく に朝貢 ちょうこう した国々 くにぐに ,あるいは中国人 ちゅうごくじん が南方 なんぽう の海 うみ を経 へ て到達 とうたつ することのできた国々 くにぐに の意 い である。もっとも〈南海 なんかい 〉の範囲 はんい は,時代 じだい が下 くだ るとともにしだいにその外延 がいえん を西方 せいほう に拡大 かくだい し,やがてインド洋 いんどよう ,ペルシア湾 わん から,アフリカの一部 いちぶ の沿岸 えんがん 地方 ちほう をも含 ふく めるようになった。
東南 とうなん アジアは,中国 ちゅうごく とインドおよび西方 せいほう 諸国 しょこく の中間 ちゅうかん に位置 いち しているため,古 ふる くから交易 こうえき ルートの中継 ちゅうけい 点 てん として重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たしてきた。とくに交易 こうえき を媒介 ばいかい とするインド文化 ぶんか の伝播 でんぱ は,東南 とうなん アジアの各地 かくち にインド的 てき 原理 げんり に基 もと づく国家 こっか を成立 せいりつ させることに貢献 こうけん した。これに対 たい し,ベトナムは,前 ぜん 2世紀 せいき 以来 いらい 中国 ちゅうごく の郡 ぐん 県 けん 支配 しはい 下 か に置 お かれていたが,10世紀 せいき にいたって独立 どくりつ を達成 たっせい した国 くに であり,文化 ぶんか 的 てき には中国 ちゅうごく の影響 えいきょう が強 つよ い。こうした事情 じじょう から,東南 とうなん アジアにはインド文化 ぶんか 圏 けん と中国 ちゅうごく 文化 ぶんか 圏 けん とフィリピンという三 みっ つの文化 ぶんか 圏 けん が鼎立 ていりつ している。執筆 しっぴつ 者 しゃ :石井 いしい 米雄 よねお
自然 しぜん と生活 せいかつ 自然 しぜん 東南 とうなん アジアは島嶼 とうしょ 部 ぶ と大陸 たいりく 部 ぶ に分 わ けられる。気候 きこう 的 てき にみると,島嶼 とうしょ 部 ぶ は湿潤 しつじゅん 熱帯 ねったい 気候 きこう をもち,大陸 たいりく 部 ぶ はモンスーン気候 きこう をもつ。湿潤 しつじゅん 熱帯 ねったい では一 いち 年 ねん を通 つう じて多量 たりょう の雨 あめ がまんべんなく降 ふ る。朝 あさ のうちはいくぶん涼 すず しいが,日 にち 中 ちゅう になるときわめて暑 あつ くなり,やがて午後 ごご おそくなるとスコールがきて,夕方 ゆうがた になるとまたいくぶん涼 すず しくなる,というのが典型 てんけい 的 てき なものである。大陸 たいりく 部 ぶ はそれをさらに二分 にぶん して,南 みなみ 半分 はんぶん の熱帯 ねったい モンスーン帯 たい と北 きた 半分 はんぶん の亜熱帯 あねったい モンスーン帯 たい に分 わ けるのがより実際 じっさい 的 てき である。熱帯 ねったい モンスーン帯 たい では雨 あめ はふつう6月 がつ から11月ころまでしか降 ふ らない。これが雨季 うき である。12月になると雨 あめ はまったく降 ふ らなくなり,やがて3月 がつ になると極度 きょくど の乾燥 かんそう に加 くわ えて酷暑 こくしょ が襲 おそ ってくる。12月から5月 がつ までが乾季 かんき である。亜熱帯 あねったい モンスーン帯 たい も,その基本 きほん 的 てき なもようは熱帯 ねったい モンスーンのそれと同 おな じである。しかし,12月から2月 がつ にかけてはかなり冷涼 れいりょう な日 ひ が現 あらわ れる。熱帯 ねったい モンスーンにあったようなひどい乾燥 かんそう と酷暑 こくしょ はなく,全体 ぜんたい はいくぶん温和 おんわ な気候 きこう といえる。
以上 いじょう の気候 きこう 帯 たい に対応 たいおう して,東南 とうなん アジアには三 みっ つの植生 しょくせい 帯 たい がある。熱帯 ねったい 降雨 こうう 林 りん 帯 たい ,雨 あめ 緑林 りょくりん 帯 たい ,照葉樹 しょうようじゅ 林 りん 帯 たい である。熱帯 ねったい 降雨 こうう 林 りん の特徴 とくちょう は,第 だい 1に極端 きょくたん に多様 たよう な樹 き 種 しゅ からなることであり,第 だい 2にそれらは年中 ねんじゅう きわめて旺盛 おうせい に生長 せいちょう する常緑樹 じょうりょくじゅ からなることである。雨 あめ 緑林 りょくりん はこれに対 たい して多 おお くの落葉樹 らくようじゅ の混入 こんにゅう で特徴 とくちょう づけられる。乾季 かんき の乾燥 かんそう ,とくに酷暑 こくしょ 期 き の条件 じょうけん がきわめて厳 きび しく,多 おお くの樹木 じゅもく はこの間 あいだ 葉 は を落 お として生長 せいちょう を休止 きゅうし するからである。樹 き の種類 しゅるい は少 すく なく,その生育 せいいく 密度 みつど も低 ひく い。亜熱帯 あねったい モンスーン帯 たい では乾季 かんき の厳 きび しさはかなり和 やわ らぎ,再 ふたた び常緑 じょうりょく の世界 せかい になる。しかし,ここでは熱帯 ねったい 降雨 こうう 林 りん のような極端 きょくたん に多 おお い樹 き 種 しゅ と旺盛 おうせい な生長 せいちょう はない。森林 しんりん には限 かぎ られた優勢 ゆうせい 種 しゅ が現 あらわ れて,どちらかというと,こぢんまりとしてくる。これは広 ひろ い意味 いみ でいえば,日本 にっぽん にも続 つづ いてくるいわゆる照葉樹 しょうようじゅ 林 りん 帯 たい である。
一方 いっぽう ,東南 とうなん アジアは地形 ちけい 的 てき にみると五 いつ つの部分 ぶぶん (大陸 たいりく 部 ぶ が3部分 ぶぶん ,島嶼 とうしょ 部 ぶ が2部分 ぶぶん )に分 わ けられる。それらは北 きた より,山地 さんち 部 ぶ ,丘陵 きゅうりょう ・平原 へいげん 部 ぶ ,デルタ部 ぶ ,それに島嶼 とうしょ 部 ぶ における低地 ていち 帯 たい と高 こう 地区 ちく である。山地 さんち 部 ぶ とはヒマラヤから雲南 うんなん ,広西 ひろせ にかけて続 つづ く山地 さんち の南 みなみ 縁 えん と考 かんが えてよい。ミャンマーのカチン州 しゅう とシャン州 しゅう ,タイ北部 ほくぶ ,ラオス北部 ほくぶ ,ベトナム北部 ほくぶ の一部 いちぶ がこの地域 ちいき に入 はい る。標高 ひょうこう 1000~2000mの山 やま なみが続 つづ き,その間 あいだ に多 おお くの支 ささえ 谷 たに が走 はし り,盆地 ぼんち が点在 てんざい する。ここはちょうど先 さき の照葉樹 しょうようじゅ 林 りん 帯 たい にあたっている。その結果 けっか ,ここは深 ふか い常緑 じょうりょく の茂 しげ みで覆 おお われた山腹 さんぷく と,その間 あいだ を縫 ぬ って渓流 けいりゅう が流 なが れるという景観 けいかん が特徴 とくちょう 的 てき となる。これはたとえてみれば,西日本 にしにほん の山地 さんち 部 ぶ の景観 けいかん に似 に ている。
山地 さんち は南 みなみ に行 い くと高度 こうど を下 さ げ,やがて丘陵 きゅうりょう と平原 へいげん が広 ひろ がり,もっと海岸 かいがん に近 ちか づくとデルタが現 あらわ れてくる。この丘陵 きゅうりょう ・平原 へいげん 部 ぶ とデルタ部 ぶ はちょうど雨 あめ 緑林 りょくりん 帯 たい に一致 いっち する。丘陵 きゅうりょう ・平原 へいげん の景観 けいかん は,しかし今日 きょう では実際 じっさい には雨 あめ 緑林 りょくりん というよりもむしろサバンナに似 に ている。これはすでにこの地域 ちいき の森林 しんりん が大幅 おおはば に破壊 はかい され,いわば一種 いっしゅ の二 に 次 じ 植生 しょくせい を形成 けいせい しているからである。山地 さんち 部 ぶ にみられたような深 ふか い山 やま で涵養 かんよう された渓流 けいりゅう がないから,全体 ぜんたい は水気 みずけ のない殺伐 さつばつ とした感 かん じを与 あた える。そのくせ一 いち 度 ど 雨 う がくると保水 ほすい 性 せい がないので一気 いっき に洪水 こうずい を引 ひ き起 お こす。ここはいわばインド亜 あ 大陸 たいりく に似 に た環境 かんきょう である。デルタは大河 たいが が堆積 たいせき を完了 かんりょう したばかりの所 ところ であり,標高 ひょうこう 2mぐらいの低 てい 平面 へいめん が延々 えんえん と続 つづ く。この低 てい 平地 ひらち は雨季 うき には全域 ぜんいき が数 すう 十 じゅう cmから1m近 ちか く水没 すいぼつ し,逆 ぎゃく に乾季 かんき には全体 ぜんたい が完全 かんぜん に干上 ひあ がってしまう。ここは気候 きこう 的 てき には雨 あめ 緑林 りょくりん 帯 たい に入 はい るが,実際 じっさい にはこうした水 みず 文 ぶん 環境 かんきょう のために木 き は生 は えない。大 だい 部分 ぶぶん の所 ところ が背 せ の高 たか い禾本(かほん)科 か (イネ科 か )かカヤツリグサ科 か の草 くさ で覆 おお われることになる。イラワジ川 がわ ,メナム川 めなむがわ ,メコン川 がわ の河口 かこう には,もともとはこういう所 ところ が広 ひろ く広 ひろ がっていた。
島嶼 とうしょ 部 ぶ は原則 げんそく としてはそのすべてが熱帯 ねったい 降雨 こうう 林 りん 帯 たい である。しかし,ここでは特殊 とくしゅ な環境 かんきょう として島嶼 とうしょ 部 ぶ 高 だか 地区 ちく を区別 くべつ したほうがより実際 じっさい 的 てき である。高 こう 地区 ちく は例 たと えば,そびえ立 た つ火山 かざん 周辺 しゅうへん や特別 とくべつ 高 たか い山塊 さんかい の地域 ちいき である。これらの高地 こうち はその高度 こうど のゆえに熱帯 ねったい 降雨 こうう 林 りん の外 そと につき出 で ており,いわば常春 とこはる の気候 きこう 条件 じょうけん をもっている。高度 こうど 的 てき にみて,こうした環境 かんきょう を最 もっと もつくりやすいのは,標高 ひょうこう 700~1200mぐらいである。ここでは旺盛 おうせい すぎる森林 しんりん の生育 せいいく は弱 よわ まり,人間 にんげん にとって住 す みよい環境 かんきょう が用意 ようい されている。
生活 せいかつ 上 うえ にみた五 いつ つの生態 せいたい 区 く には,それぞれに特有 とくゆう な人間 にんげん の活動 かつどう がみられる。
(1)山地 さんち 部 ぶ 山地 さんち 部 ぶ は一 ひと つの生態 せいたい 区 く である。しかし,この複雑 ふくざつ な生態 せいたい 区 く は二 ふた つの異 こと なった環境 かんきょう が複雑 ふくざつ に入 い り組 く んだ所 ところ と考 かんが えたほうがよい。照葉樹 しょうようじゅ 林 りん で覆 おお われた山腹 さんぷく と,水田 すいでん のみられる谷 たに 筋 すじ や盆地 ぼんち である。前者 ぜんしゃ は焼畑 やきばた 民 みん の空間 くうかん であり,後者 こうしゃ は水稲 すいとう 耕作 こうさく 民 みん の空間 くうかん である。焼畑 やきばた 民 みん は乾季 かんき の間 あいだ に森 もり を切 き り倒 たお し,雨季 うき 直前 ちょくぜん にそれを焼 や き,その直後 ちょくご そこに播種 はしゅ する。最 もっと も多 おお く作 つく られるものはトウモロコシ と陸稲 おかぼ であるが,粟 あわ やシコクビエなどの雑穀 ざっこく ,豆類 まめるい ,瓜 ふり 類 るい ,それに多 おお くの野菜 やさい 類 るい が作 つく られる。これらの作物 さくもつ はしばしば同一 どういつ の畑 はたけ に混 こん 然 しか と作 つく られ,それがいったい何 なに の畑 はたけ であるのかわからないようなさまを呈 てい することがある。同 どう 一 いち 個 こ 所 しょ を2~3年 ねん 連続 れんぞく して使用 しよう すると,もうそこでの耕作 こうさく をやめ,新 あら たに別 べつ の森 もり を切 き って新 あたら しい畑 はたけ を開 ひら く。こうして再 ふたた び元 もと の場所 ばしょ に帰 かえ るのは,少 すく なくとも5~6年 ねん ,ふつうは10年 ねん ぐらい経 た って再 ふたた びそこが二 に 次 じ 林 りん で覆 おお われるようになってからである。これは連作 れんさく していると,土壌 どじょう の肥沃 ひよく 度 ど が低下 ていか し,雑草 ざっそう がはびこり,収量 しゅうりょう が落 お ちるからだといわれている。
その農法 のうほう が粗放 そほう であり,移動 いどう 性 せい があるから,焼畑 やきばた は原始 げんし 的 てき な土地 とち 利用 りよう だとの印象 いんしょう を与 あた える。しかし,他面 ためん では森 もり の精霊 せいれい や祖 そ 霊 れい 信仰 しんこう ときわめて密 みつ に結 むす びついていて,農耕 のうこう 儀礼 ぎれい という点 てん では最 もっと も複雑 ふくざつ な体系 たいけい をもっている。また確立 かくりつ した輪作 りんさく や混作 こんさく 体系 たいけい をもつこともあり,原始 げんし 農耕 のうこう と簡単 かんたん に決 き めつけることもできない。焼畑 やきばた はいわば森 もり という環境 かんきょう の中 なか に生 う み出 だ された一 ひと つの能率 のうりつ のよい農耕 のうこう 形態 けいたい である。ただ最近 さいきん では人口 じんこう 圧 あつ の増大 ぞうだい で焼畑 やきばた サイクルの短縮 たんしゅく を余儀 よぎ なくされ,森林 しんりん の消滅 しょうめつ と草地 くさち の拡大 かくだい が起 お こっている。このことはとりもなおさず焼畑 やきばた 基盤 きばん の喪失 そうしつ であり,焼畑 やきばた はこの意味 いみ では消滅 しょうめつ の道 みち をたどっているといわねばならない。
谷 たに 筋 すじ や盆地 ぼんち で行 おこな われる稲作 いなさく は灌漑 かんがい 移植 いしょく 法 ほう である。渓流 けいりゅう に巧 たく みに井堰 いせき をかけ,そこから水路 すいろ で田 た に水 みず を引 ひ いて,十分 じゅうぶん に代 だい 搔き(しろかき)をした田 た に若 わか 苗 なえ をていねいに植 う えてゆく。その稲作 いなさく の方法 ほうほう は日本 にっぽん のそれとほとんど変 か わらない。歴史 れきし 的 てき にみると,こうした谷 たに 筋 すじ や盆地 ぼんち には,12~13世紀 せいき ころからこの灌漑 かんがい 移植 いしょく 法 ほう による稲作 いなさく に立脚 りっきゃく した王国 おうこく が栄 さか え出 だ すようである。例 たと えば14世紀 せいき ころのチエンマイ盆地 ぼんち (タイ北西 ほくせい 部 ぶ )の景観 けいかん は次 つぎ のようなものであったと想像 そうぞう される。盆地 ぼんち の中央 ちゅうおう には城壁 じょうへき に囲 かこ まれた王城 おうじょう があり,それをとりまいて仏教 ぶっきょう 寺院 じいん と市場 いちば がある。市場 いちば には金銀 きんぎん 工 こう ,漆 うるし 工 こう ,陶工 とうこう などのかたまる一角 いっかく があり,他 た の一角 いっかく にはインドや中国 ちゅうごく の舶載 はくさい 品 ひん を並 なら べる店 みせ がある。土地 とち の物産 ぶっさん を並 なら べる露店 ろてん もある。ここは当時 とうじ の東南 とうなん アジアの中 なか では最 もっと もにぎやかな市場 いちば であり,文化 ぶんか の粋 いき が集 あつ まる所 ところ である。王城 おうじょう のまわりにはよく整備 せいび された水田 すいでん が山麓 さんろく まで広 ひろ がっている。こうした盆地 ぼんち が,山地 さんち 部 ぶ には,チエンマイのほかにもいくつもあったようである。現在 げんざい ではこれらの王城 おうじょう はもう廃 はい 城 じょう になっているが,今 いま でもなおここがこのあたりの文化 ぶんか 的 てき 中心 ちゅうしん であることには変 かわ りがない。
盆地 ぼんち 農村 のうそん はきらびやかさこそないが,これまたよく組織 そしき された社会 しゃかい をもっていた。彼 かれ らが耕作 こうさく した田 た は,彼 かれ らの先祖 せんぞ が汗 あせ を流 なが して営々 えいえい とき上 ずきあ げた灌漑 かんがい 水路 すいろ で整備 せいび された美田 びでん である。だから彼 かれ らは最大限 さいだいげん の注意 ちゅうい を払 はら ってそれを維持 いじ し,改良 かいりょう して次代 じだい に譲 ゆず り渡 わた さねばならない。盆地 ぼんち の水稲 すいとう 耕作 こうさく 民 みん はかくして,土地 とち に対 たい して執着心 しゅうちゃくしん があり,責任 せきにん 感 かん がある。また灌漑 かんがい 施設 しせつ の建設 けんせつ や維持 いじ のためには,同 おな じ部落 ぶらく の人 ひと たちとの共同 きょうどう 作業 さぎょう が必要 ひつよう になってくる。また得 え られた水 みず の配分 はいぶん のための協議 きょうぎ も必要 ひつよう になる。こうして,彼 かれ らには地域 ちいき 社会 しゃかい に対 たい する帰属 きぞく 意識 いしき も強 つよ く要求 ようきゅう されることになる。ちょうどそれは,戦前 せんぜん の日本 にっぽん の農村 のうそん に似 に たものである。もっとも,この東南 とうなん アジアの盆地 ぼんち 農村 のうそん は,景観 けいかん 的 てき には日本 にっぽん のそれとはもちろん異 こと なる。差異 さい 点 てん の最大 さいだい のものは,ここの農家 のうか がいずれも涼 すず しそうな高床 たかゆか づくりになっていることである。1階 かい の床 ゆか は1.5~2mぐらいの高 たか さの所 ところ につくられている。家 いえ のまわりの菜園 さいえん にバナナが目 め だつのも違 ちが いのうちの大 おお きなものである。
(2)丘陵 きゅうりょう ・平原 へいげん 部 ぶ これはマンダレー以南 いなん のミャンマー,中部 ちゅうぶ タイ,東北 とうほく タイ,カンボジアなどを含 ふく んでいる。この地域 ちいき の土地 とち 利用 りよう は歴史 れきし を通 つう じて,およそ3段階 だんかい の変容 へんよう を遂 と げてきた。これは原初 げんしょ の雨 あめ 緑林 りょくりん が破壊 はかい されて今日 きょう の景観 けいかん にいたる過程 かてい と考 かんが えてよい。第 だい 1の段階 だんかい は,人々 ひとびと がこの雨 あめ 緑林 りょくりん から樹脂 じゅし や蜜 みつ 蠟を多量 たりょう に採集 さいしゅう し,わずかばかりの焼畑 やきばた を行 おこな っていた段階 だんかい である。このとき,雨 あめ 緑林 りょくりん はまだ健在 けんざい であった。これはほぼ12~13世紀 せいき ぐらいまで続 つづ いたのではないかと考 かんが えられる。第 だい 2の段階 だんかい は,焼畑 やきばた による雨 あめ 緑林 りょくりん の破壊 はかい が進 すす み,森林 しんりん 物産 ぶっさん の採集 さいしゅう があまり期待 きたい できなくなった段階 だんかい である。この第 だい 2の段階 だんかい で行 おこな われた土地 とち 利用 りよう は焼畑 やきばた と天 てん 水田 すいでん と放牧 ほうぼく の組合 くみあわ せである。例 たと えばタイの場合 ばあい ,アユタヤ朝 あさ ,ラタナコーシン(バンコク)朝 あさ を通 つう じ,多量 たりょう の牛 うし や水牛 すいぎゅう の皮 かわ が武具 ぶぐ 用 よう 皮革 ひかく として日本 にっぽん に送 おく り出 だ された。19世紀 せいき 後半 こうはん になっても放牧 ほうぼく の重要 じゅうよう 性 せい はまだ続 つづ いている。デルタ地域 ちいき が農耕 のうこう 用 よう に多数 たすう の水牛 すいぎゅう を必要 ひつよう としたからである。第 だい 3の段階 だんかい は第 だい 2次 じ 大戦 たいせん 後 ご に起 お こっている。戦後 せんご の大 おお きな変化 へんか は,一 ひと つは天 てん 水田 すいでん の拡張 かくちょう であり,もう一 ひと つは放牧 ほうぼく が消 き え,ここに畑作 はたさく が広 ひろ がり出 だ したことである。放牧 ほうぼく が消 き えた直接 ちょくせつ の原因 げんいん は,デルタの稲作 いなさく が牛 うし 耕 こう からトラクター耕 こう に切 き り替 か えられたことにある。かつての放牧 ほうぼく 用 よう のやぶの一部 いちぶ はトウモロコシ・モロコシ二毛作 にもうさく 畑 はたけ やキャッサバ畑 はたけ に変 か わった。トウモロコシやモロコシは家畜 かちく の飼料 しりょう として,キャッサバは工業 こうぎょう 用 よう や食糧 しょくりょう 用 よう のデンプンとして多量 たりょう に日本 にっぽん などに輸出 ゆしゅつ されるようになったからである。
戦後 せんご の変化 へんか は統計 とうけい の上 うえ でみると目 め ざましいものである。しかし,現実 げんじつ には決 けっ して問題 もんだい がないわけではない。先 さき にも述 の べたように,ここは本来 ほんらい 非常 ひじょう な水不足 みずぶそく 地帯 ちたい であり,それがここの土地 とち 利用 りよう をきわめて困難 こんなん なものにしている。例 たと えば,現存 げんそん する水田 すいでん は例年 れいねん その半分 はんぶん ぐらいしか利用 りよう されていない。水不足 みずぶそく で播種 はしゅ や植付 うえつ けができないからである。干 かん ばつ年 ねん には全 ぜん 水田 すいでん 面積 めんせき の4分 ぶん の3ぐらいが収穫 しゅうかく ゼロという状態 じょうたい になる。山地 さんち 部 ぶ のような安定 あんてい した水源 すいげん がないから,生活 せいかつ 水 すい は人為 じんい 的 てき に掘 ほ った溜池 ためいけ や井戸 いど に頼 たよ らねばならない。乾季 かんき になると,飲 の み水 みず を求 もと めて何 なに kmも歩 ある く風景 ふうけい は今 いま でも決 けっ して珍 めずら しくない。人々 ひとびと がいかに強 つよ く掘 ほ 池 いけ に依存 いぞん しなければならなかったかは,例 たと えば東北 とうほく タイに残 のこ る数 すう 百 ひゃく の環 かん 濠 ほり 集落 しゅうらく 遺跡 いせき をみても想像 そうぞう がつく。ここではかつて人々 ひとびと は部落 ぶらく 全体 ぜんたい を濠 ほり で囲 かこ って生活 せいかつ していたのである。それは防御 ぼうぎょ 用 よう であると同時 どうじ に,乾季 かんき の飲 の み水 みず を得 え るためのものであったと考 かんが えられる。
平原 へいげん では山地 さんち 部 ぶ の移植 いしょく 法 ほう とちがって,大 だい 部分 ぶぶん の所 ところ で散 ち 播法が採用 さいよう されている。脱穀 だっこく 法 ほう も山地 さんち 部 ぶ で行 おこな う打 う ちつけ式 しき と違 ちが って,稲 いね 束 たば を水牛 すいぎゅう に踏 ふ ませるインド系 けい のものが採用 さいよう されている。人々 ひとびと は山地 さんち 部 ぶ で常食 じょうしょく にされているもち米 まい を嫌 きら って,ぱさぱさのインド稲 いね を好 この む。平原 へいげん はその自然 しぜん 環境 かんきょう がインドに類似 るいじ している。そして,このインド的 てき 環境 かんきょう の上 うえ にインド起源 きげん の文化 ぶんか が色濃 いろこ く覆 おお いかぶさっている。
(3)デルタ部 ぶ 一 いち 年 ねん のうち半年 はんとし が水没 すいぼつ し,他 た の半年 はんとし が飲 の み水 みず もなくなるくらい乾燥 かんそう するデルタは人間 にんげん の住 す む所 ところ ではなかった。これが人間 にんげん に利用 りよう されるようになるのは19世紀 せいき 後半 こうはん になってからである。当時 とうじ の植民 しょくみん 地 ち 経済 けいざい は米 べい に対 たい する需要 じゅよう を急増 きゅうぞう させた。こうした国際 こくさい 経済 けいざい の動 うご きに反応 はんのう して,巨大 きょだい な米 こめ プランテーション の場 ば として登場 とうじょう してくるのがデルタである。デルタ開発 かいはつ は,湛 たたえ 水 すい と乾燥 かんそう の交互 こうご する大 だい 草原 そうげん に運河 うんが 網 もう を張 は りめぐらすという方法 ほうほう によって行 おこな われた。こうすることによって,まず舟運 しゅううん を確保 かくほ することができた。盛 も り上 あ げた堤防 ていぼう は雨季 うき にも水没 すいぼつ しない高 たか みとなった。また運河 うんが そのものは乾季 かんき の飲 の み水 みず を供給 きょうきゅう した。こうして運河 うんが 沿 ぞ いは生活 せいかつ 可能 かのう な場所 ばしょ になったわけである。ひとたび居住 きょじゅう さえ可能 かのう になれば,草原 そうげん そのものの稲田 いなだ への転換 てんかん はそれほど困難 こんなん なことではない。なぜならば,雨季 うき の湛 たたえ 水 すい はせいぜいが1mぐらいであり,これは背 せ の高 たか い熱帯 ねったい の稲 いね にとっては決 けっ して耐 た えられない深 ふか さではないからである。人々 ひとびと は洪水 こうずい のやってくる前 まえ ,5月ころにそこを水牛 すいぎゅう で耕 こう 起 おこ し,籾 もみ を散 ち 播した。こうしておくと,稲 いね は雨季 うき の湛 たたえ 水 すい のもとに生長 せいちょう し,年末 ねんまつ になって水 みず の消 き える頃 ころ には立派 りっぱ に実 みの った。いわゆるデルタの散 ち 播栽培 さいばい である。所 しょ によっては水深 すいしん が2~3mになることもある。しかし,そうした所 ところ でも同 おな じ手法 しゅほう で作 つく られる。ただ品種 ひんしゅ だけは深水 ふかみ に耐 た えうるような特別 とくべつ なものが用 もち いられる。いわゆる浮稲 である。
雨季 うき の大 だい 湛 たたえ 水 すい はデルタを魚 さかな で満 み たす。12月,1月 がつ は稲 いね の収穫 しゅうかく 期 き であると同時 どうじ に,魚 さかな の収穫 しゅうかく 期 き でもある。このようにデルタは稲 いね と淡水魚 たんすいぎょ の宝庫 ほうこ である。しかし逆 ぎゃく にいえば,デルタは稲 いね と魚 さかな しかない所 ところ ということでもある。デルタはこの意味 いみ では単調 たんちょう そのものである。デルタの単調 たんちょう 性 せい や画一 かくいつ 性 せい はその他 た の面 めん でも認 みと められる。例 たと えば,ここは見渡 みわた す限 かぎ りの稲田 いなだ が続 つづ いているだけで,小山 こやま もなければ,木 き の茂 しげ みさえない。ただその中 なか に直線 ちょくせん 状 じょう の運河 うんが が幾 いく 筋 すじ も等間隔 とうかんかく に走 はし っており,運河 うんが 沿 ぞ いにこれも等間隔 とうかんかく で,どれもこれも似 に たような高床 たかゆか の家 いえ が建 た ち並 なら ぶだけである。家 いえ の配置 はいち がこんなぐあいであるから,村人 むらびと はふつう自分 じぶん の村 むら の境界 きょうかい を知 し らない。塊 かたまり 村 むら で,締 しま りのある村 むら になれ親 した しんだ日本人 にっぽんじん の感覚 かんかく からすると,ここにはまるで村 むら がない。こうした状況 じょうきょう が100km四方 しほう 以上 いじょう にわたってただ延々 のびのび と広 ひろ がる。デルタはその景観 けいかん も生活 せいかつ もそして社会 しゃかい までが,ちょうどその地形 ちけい と同 おな じようにきわめて単調 たんちょう ,画一 かくいつ 的 てき で核 かく を欠 か いている。
デルタはしかし,たった一 ひと つだけきわめて巨大 きょだい な核 かく をもっている。それは主 しゅ 都 と である。ラングーン(ヤンゴン),バンコク,サイゴン(ホー・チ・ミン市 し )の巨大 きょだい な都市 とし が忽然 こつぜん とこの単調 たんちょう な空間 くうかん にそびえ立 た っている。デルタとは総 そう じて人工 じんこう 的 てき な空間 くうかん である。
(4)島嶼 とうしょ 部 ぶ 低地 ていち 帯 たい これは先 さき に述 の べたように森 もり の世界 せかい である。古 ふる くからジンコウ,リュウノウなどの香木 こうぼく ,コショウ,チョウジなどの香料 こうりょう が採集 さいしゅう されてインドや中国 ちゅうごく に運 はこ び出 だ された。東 ひがし ボルネオのクテイ地方 ちほう にはすでに5世紀 せいき にはこうした物産 ぶっさん の取扱 とりあつか いを基盤 きばん とする王国 おうこく があったといわれている。古 ふる くは採集 さいしゅう のみに頼 たよ っていた森 もり の物産 ぶっさん は,ヨーロッパの植民 しょくみん 地 ち 勢力 せいりょく が入 はい ってくると,栽培 さいばい による増産 ぞうさん へと切 き り替 か えられてゆく。初 はじ めはコショウとチョウジの栽培 さいばい であったが,やがてその比重 ひじゅう はコーヒーとゴムに移 うつ されていった。第 だい 2次 じ 大戦 たいせん 後 ご はアブラヤシが新 あたら しい作物 さくもつ として現 あらわ れ,チョウジとコーヒーが再 ふたた び勢 いきお いを盛 も り返 かえ している。
戦前 せんぜん はこうした作物 さくもつ 栽培 さいばい はヨーロッパ人 じん の経営 けいえい するエステートで行 おこな われることが多 おお かった。広大 こうだい な地域 ちいき の森 もり が切 き り開 ひら かれ,その全面 ぜんめん に単一 たんいつ 種類 しゅるい の作物 さくもつ が植 う えられ,それはエステート内 ない に住 す みこんだ農園 のうえん 労務者 ろうむしゃ によって維持 いじ ,管理 かんり された。この大 だい 規模 きぼ で組織 そしき 的 てき な経営 けいえい は,今 いま でもマレ まれ ー半島 はんとう のゴム園 えん やアブラヤシ園 えん には認 みと められる。戦後 せんご はしかし,こうしたエステートに代 か わって,普通 ふつう の農民 のうみん による小規模 しょうきぼ な商品 しょうひん 作物 さくもつ 栽培 さいばい が伸 の びてきている。農民 のうみん は最初 さいしょ ,森 もり ややぶを焼 や くとそこに陸稲 おかぼ やトウモロコシを点 てん 播する。いわゆる焼畑 やきばた 耕作 こうさく を行 おこな うわけである。しかしこのとき,同時 どうじ に陸稲 おかぼ やトウモロコシの間 あいだ にコーヒーやチョウジの若 わか 苗 なえ を植 う える。2年 ねん 目 め は少 すこ し大 おお きくなったコーヒーなどの間 あいだ にもう一度 いちど 陸稲 おかぼ とトウモロコシを点 てん 播する。3年 ねん 目 め になるとコーヒーなどが大 おお きくなっているので,もう穀物 こくもつ は植 う えられない。そうすると,また新 あたら しい森 もり を焼 や いてそこに穀物 こくもつ を点 てん 播しコーヒーなどの苗木 なえぎ を植 う える。彼 かれ らはこうして毎年 まいとし 焼畑 やきばた を行 おこな いながら,少 すこ しずつそれをコーヒーやチョウジ畑 はたけ に変 か えることによって,6~7年 ねん 後 ご にはりっぱなコーヒーやチョウジの園 えん 主 ぬし になる。こうなると,彼 かれ はもう焼畑 やきばた による開墾 かいこん はやめて,もっぱら園地 えんち の世話 せわ に専心 せんしん し,食糧 しょくりょう は外部 がいぶ から購入 こうにゅう するようになる。似 に たような焼畑 やきばた を行 おこな うとはいえ,こうして島嶼 とうしょ 部 ぶ 低地 ていち 帯 たい の農民 のうみん は,大陸 たいりく 部 ぶ の焼畑 やきばた 民 みん に比 くら べるとはるかに強 つよ く商品 しょうひん 作物 さくもつ 栽培 さいばい を指向 しこう している。
1960年代 ねんだい に入 はい ってからの島嶼 とうしょ 部 ぶ 低地 ていち は,上 うえ に述 の べたあまりに商品 しょうひん 作物 さくもつ に偏重 へんちょう した農業 のうぎょう からの脱皮 だっぴ の努力 どりょく をしている。それは具体 ぐたい 的 てき には,それまでほとんど顧 かえり みられなかった海岸 かいがん 低湿 ていしつ 地 ち の水田 すいでん 化 か というかたちで進 すす められている。しかし,これは必 かなら ずしも容易 ようい には進展 しんてん していない。理由 りゆう は,その地盤 じばん がしばしば厚 あつ い腐植 ふしょく 土 ど のみで覆 おお われ,またからみ合 あ った木 き の根 ね の集積 しゅうせき のみからなっているからである。農民 のうみん の間 あいだ に水稲 すいとう 耕作 こうさく の伝統 でんとう がないということも理由 りゆう の一 ひと つである。彼 かれ らは今 いま ,湿地 しっち を覆 おお う灌木や草 くさ を山刀 やまがたな でたたき切 き り,地面 じめん そのものには何 なん の耕 こう 起 おこり も行 おこな わないで稲 いね を移植 いしょく するという方法 ほうほう で稲 いね を作 つく っている。ほんとうの意味 いみ での水稲 すいとう 耕作 こうさく が確立 かくりつ するまでには今 いま しばらく時間 じかん がかかりそうである。
(5)島嶼 とうしょ 部 ぶ 高 だか 地区 ちく 島嶼 とうしょ 部 ぶ 高地 こうち の典型 てんけい 例 れい はスマトラのバタク族 ぞく やスラウェシ(セレベス)のトラジャ族 ぞく の居住 きょじゅう 地 ち である。これらの居住 きょじゅう 地 ち の平均 へいきん 標高 ひょうこう は約 やく 1000mである。これらの人々 ひとびと の多 おお くは数 すう 千 せん 年 ねん の昔 むかし に大陸 たいりく 山地 さんち から南下 なんか してきた焼畑 やきばた 民 みん と考 かんが えられている。彼 かれ らはこの高地 こうち に到着 とうちゃく 後 ご ,外界 がいかい と隔絶 かくぜつ された状況 じょうきょう で生 い き続 つづ けてきただけに,きわめて特異 とくい な文化 ぶんか をもっている。外来 がいらい 者 しゃ がこの地 ち を訪 おとず れてまず最初 さいしょ に驚 おどろ くことはそのりっぱな家屋 かおく である。太 ふと い柱 はしら がふんだんに使 つか われ,頑丈 がんじょう な構造 こうぞう をもち,柱 はしら や梁 はり や壁 かべ のあらゆる部分 ぶぶん が彫刻 ちょうこく で覆 おお われている。全体 ぜんたい がまた特有 とくゆう の洗練 せんれん された形 かたち をもっている。こうした家 いえ が5~6戸 こ から十 じゅう 数 すう 戸 こ で塊 かたまり をつくり,屋敷 やしき 林 りん に囲 かこ まれて,尾根 おね 筋 すじ の見晴 みはら しのよい所 ところ に建 た っている。そのたたずまいだけからでも,ここがすでに熟成 じゅくせい した文化 ぶんか をもっていることが感 かん じられる。
農業 のうぎょう からも同 おな じようなことがいえる。彼 かれ らの農業 のうぎょう は本来 ほんらい 焼畑 やきばた の系列 けいれつ に入 い れられるべきものである。したがって,焼畑 やきばた のもつ古層 こそう の要素 ようそ が随所 ずいしょ に認 みと められる。例 たと えば,彼 かれ らはふつう4~5cmの芒 すすき (のぎ)があり,しばしば赤 あか や黒 くろ の色 いろ のついた大粒 おおつぶ の稲 いね を作 つく る。これはブル稲 いね と呼 よ ばれていて,その昔 むかし ,大陸 たいりく 部 ぶ の山地 さんち から運 はこ んでこられた特別 とくべつ な品種 ひんしゅ である。このブル稲 いね は平原 へいげん やデルタや島嶼 とうしょ 部 ぶ の低地 ていち 帯 たい で作 つく られる無 む 芒 すすき のインド稲 いね とはまったく違 ちが う。これは古層 こそう を表 あらわ す一 いち 要素 ようそ である。しかし一方 いっぽう ,同時 どうじ に彼 かれ らはすでに単 たん なる焼畑 やきばた を脱 だっ して独自 どくじ の発展 はってん をもしている。このことは例 たと えば蹄耕稲作 いなさく に表 あらわ れている。蹄耕とは田 た ごしらえを水牛 すいぎゅう の蹄(ひづめ)で行 おこな うものである。5~6頭 とう から,ときには20頭 とう ぐらいの水牛 すいぎゅう を1枚 まい の田 た に追 お いこみ,その水牛 すいぎゅう を歩 ある きまわらせ,これでもって草 くさ を殺 ころ し泥 どろ を軟 やわ らかくして,植 うえ 付 づけ 準備 じゅんび とするのである。山刀 やまがたな と掘 ほ 棒 ぼう だけしかもたなかった焼畑 やきばた 民 みん が,その焼畑 やきばた 体系 たいけい の中 なか から水稲 すいとう 耕作 こうさく を生 う み出 だ そうとするとき創出 そうしゅつ した方法 ほうほう である。島嶼 とうしょ 部 ぶ 高 だか 地区 ちく ではこのように古層 こそう 要素 ようそ の上 うえ に,独自 どくじ の文化 ぶんか が熟成 じゅくせい している。
仮 かり に,ブル稲 いね と蹄耕の組合 くみあわ せを島嶼 とうしょ 部 ぶ 高 だか 地区 ちく の標 しるべ 式 しき 的 てき 文化 ぶんか 要素 ようそ とすると,この組合 くみあわ せは,先 さき に述 の べたスマトラ,スラウェシのほかに,ボルネオ,フィリピン,海南 かいなん 島 とう ,そして沖縄 おきなわ 諸島 しょとう にみられる。島嶼 とうしょ 部 ぶ 高 だか 地区 ちく の一 ひと つの特徴 とくちょう はすでに触 ふ れたように孤立 こりつ 性 せい である。それにもかかわらず,この分布 ぶんぷ はこの文化 ぶんか がいつの時点 じてん にか海 うみ を渡 わた ってすさまじい勢 いきお いで拡散 かくさん したことを示 しめ している。そしてこの文化 ぶんか は,最後 さいご には黒潮 くろしお に乗 の って日本 にっぽん の南端 なんたん にまで至 いた ったかのようである。執筆 しっぴつ 者 しゃ :高谷 たかや 好一 よしかず
民族 みんぞく と言語 げんご 民族 みんぞく 学 がく 的 てき な意味 いみ における東南 とうなん アジアの民族 みんぞく とは,大陸 たいりく 部 ぶ では西 にし はアッサム(インド北東 ほくとう 部 ぶ )の山地 さんち 民 みん から東 ひがし はベトナム人 じん までを含 ふく むが,北 きた の境界 きょうかい はあまり明瞭 めいりょう でなく,中国 ちゅうごく 西南 せいなん 部 ぶ の少数 しょうすう 民族 みんぞく も事実 じじつ 上 じょう インドシナ北部 ほくぶ の諸 しょ 民族 みんぞく の延長 えんちょう 連続 れんぞく である。島嶼 とうしょ 部 ぶ に関 かん しては,その西端 せいたん はベンガル湾 わん のアンダマン諸島 しょとう ,ニコバル諸島 しょとう の原住民 げんじゅうみん やスマトラの西 にし の離島 りとう の原住民 げんじゅうみん であるが,アフリカ大陸 たいりく の東 ひがし にあるマダガスカル島 とう の住民 じゅうみん も,その言語 げんご ,文化 ぶんか の系統 けいとう からいえば,東南 とうなん アジアに含 ふく めてよい。北東 ほくとう 端 はし は台湾 たいわん の原住民 げんじゅうみん (高山 たかやま 族 ぞく )であり,南東 なんとう はカイ諸島 しょとう ,アルー諸島 しょとう の原住民 げんじゅうみん までであって,ニューギニア島民 とうみん は東南 とうなん アジアに入 い れない。またミクロネシアでもマリアナ諸島 しょとう のチャモロ族 ぞく やパラオ諸 しょ 島民 とうみん の言語 げんご は系統 けいとう 上 じょう は東南 とうなん アジアに入 い れることができるが,ふつう民族 みんぞく 学的 がくてき には彼 かれ らはオセアニアとして取 と り扱 あつか っている。
生活 せいかつ 様式 ようしき の分布 ぶんぷ 東南 とうなん アジアには採集 さいしゅう 狩猟 しゅりょう 民 みん 文化 ぶんか から高 こう 文化 ぶんか にいたるさまざまな生活 せいかつ 様式 ようしき が存在 そんざい している。採集 さいしゅう 狩猟 しゅりょう 民 みん としてはアンダマン諸 しょ 島民 とうみん ,マレ まれ ー半島 はんとう のセマン族 ぞく ,ルソン島 とう のアエタ族 ぞく などネグリト と総称 そうしょう される諸 しょ 民族 みんぞく のほか,北 きた タイからラオスにかけてのピー・トン・ルアン族 ぞく ,ボルネオのプナン族 ぞく ,アルー諸島 しょとう の奥地 おくち 住民 じゅうみん がある。またメルギー(ベイ)諸島 しょとう ,マレ まれ ー半島 はんとう 南端 なんたん からインドネシア,フィリピン南部 なんぶ に広 ひろ く分布 ぶんぷ する漂海民 みん (モーケン,オラン・ラウト ,バジャウなど)がいる。ボルネオやモルッカ諸島 しょとう には,野生 やせい のサゴヤシの採集 さいしゅう が重要 じゅうよう な生業 せいぎょう 活動 かつどう で,主 しゅ としてそれによって生活 せいかつ する集団 しゅうだん もあるが,その文化 ぶんか は,ニューギニアの場合 ばあい と同様 どうよう に,周囲 しゅうい の農耕 のうこう 民 みん の文化 ぶんか と大差 たいさ なく,農耕 のうこう 民 みん 文化 ぶんか からの派生 はせい 物 ぶつ の疑 うたが いが濃 こ い。
農耕 のうこう 民 みん は大 おお きくみて次 つぎ の3種 しゅ に分 わ かれる。(1)穀物 こくもつ 栽培 さいばい を行 おこな わず,イモ類 るい と果樹 かじゅ を栽培 さいばい する人々 ひとびと で,東南 とうなん アジア島嶼 とうしょ 部 ぶ の東西 とうざい の周辺 しゅうへん 部 ぶ ,すなわちベンガル湾 わん ,スマトラの西 にし の諸島 しょとう ,モルッカ諸島 しょとう の一部 いちぶ に分布 ぶんぷ し,オセアニアの農耕 のうこう 文化 ぶんか と共通 きょうつう 性 せい を示 しめ す。(2)穀物 こくもつ 焼畑 やきばた 耕作 こうさく 民 みん で,東南 とうなん アジアの山地 さんち 民 みん の圧倒的 あっとうてき 多数 たすう はこの部類 ぶるい に入 はい る。全域 ぜんいき を通 つう じて陸稲 おかぼ が作物 さくもつ として主導 しゅどう 的 てき であるが,ただ台湾 たいわん はアワなどの雑穀 ざっこく 栽培 さいばい 地域 ちいき である。(3)平地 ひらち の水稲 すいとう 犂 すき 耕 こう 民 みん で,大陸 たいりく 部 ぶ においても島嶼 とうしょ 部 ぶ においても,ミャンマー,タイ,ラオス,カンボジア,ベトナム,ジャワ,バリなどで国家 こっか をつくりあげた民族 みんぞく はこの部類 ぶるい に入 はい る。以上 いじょう 3種 しゅ のほかに,アッサム,ルソン,スラウェシなどに,水稲 すいとう 耕作 こうさく 民 みん の一種 いっしゅ として,山地 さんち に居住 きょじゅう し,犂 すき を用 もち いないで棚田 たなだ 耕作 こうさく を行 おこな う民族 みんぞく がいる。
マレーシア,インドネシア,フィリピンには,海岸 かいがん に居住 きょじゅう し,多 おお くの場合 ばあい ,農耕 のうこう や漁労 ぎょろう も併 あわ せ行 おこな うものの,貿易 ぼうえき が大 おお きな比重 ひじゅう を占 し める生活 せいかつ 様式 ようしき がある。南 みなみ スラウェシのブギス族 ぞく ,マカッサル族 ぞく などがその代表 だいひょう 者 しゃ であるが,歴史 れきし 的 てき にはスマトラのスリウィジャヤ王国 おうこく ,ベトナムのチャンパ王国 おうこく もこのような生活 せいかつ 形態 けいたい を背景 はいけい としていた。
東南 とうなん アジアにおいては,新 あたら しい生活 せいかつ 様式 ようしき が登場 とうじょう しても,古 ふる い生活 せいかつ 様式 ようしき が完全 かんぜん に消滅 しょうめつ することなく共存 きょうぞん する傾向 けいこう が強 つよ い。しかし例 たと えば,今日 きょう の採集 さいしゅう 狩猟 しゅりょう 民 みん は,旧石器時代 きゅうせっきじだい の生活 せいかつ 様式 ようしき をそのまま保存 ほぞん してきたのではなく,農耕 のうこう 民 みん が存在 そんざい することを前提 ぜんてい として特殊 とくしゅ な発展 はってん を遂 と げた採集 さいしゅう 狩猟 しゅりょう 民 みん であるように,共存 きょうぞん によって民族 みんぞく 間 あいだ 関係 かんけい の体系 たいけい が生 う まれ,また変化 へんか していくのである。
語族 ごぞく ,民族 みんぞく の形成 けいせい と移動 いどう 東南 とうなん アジア大陸 たいりく 部 ぶ におけるおもな語族 ごぞく としては,アウストロアジア(南 みなみ アジア)語族 ごぞく のモン・クメール語 ご 派 は ,シナ・チベット語族 ごぞく のチベット・ビルマ語 ご 派 は ,カム・タイ語 ご 派 は (タイ諸語 しょご ),アウストロネシア(南島 みなみじま )語族 ごぞく のインドネシア(ヘスペロネシア)語 ご 派 は がある。
モン・クメール語 ご 派 は はインドのムンダ諸語 しょご とともにアウストロアジア語族 ごぞく を形成 けいせい しており,この語 かたり 派 は の言語 げんご を話 はな す人々 ひとびと は採集 さいしゅう 狩猟 しゅりょう 民 みん (ピー・トン・ルアン,セマン),穀物 こくもつ 焼畑 やきばた 耕作 こうさく 民 みん (ラメート族 ぞく ,ワ族 ぞく など),平地 ひらち 水稲 すいとう 犂 すき 耕 こう 民 みん (モン族 ぞく ,クメール族 ぞく ,ベトナム人 じん )というように,さまざまな生活 せいかつ 様式 ようしき にわたっている。おそらく後期 こうき 新 しん 石器 せっき 時代 じだい ころに穀物 こくもつ 焼畑 やきばた 文化 ぶんか をもって拡大 かくだい し,ほぼ今日 きょう の分布 ぶんぷ 領域 りょういき を占 し めるようになったと思 おも われる。採集 さいしゅう 狩猟 しゅりょう 民 みん でモン・クメール語 ご を話 はな す民族 みんぞく は,過去 かこ においてモン・クメール系 けい の農耕 のうこう 民 みん から言語 げんご を受容 じゅよう したものであろう。クメール族 ぞく を含 ふく めて東南 とうなん アジアの高 こう 文化 ぶんか 諸 しょ 民族 みんぞく はインド文明 ぶんめい の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けてきたが,ベトナム人 じん は土着 どちゃく の初期 しょき 金属 きんぞく 器 き 文化 ぶんか の基礎 きそ の上 うえ に中国 ちゅうごく 文化 ぶんか の影響 えいきょう を受 う けて,その文化 ぶんか を発達 はったつ させた。
チベット・ビルマ語 ご 派 は の原郷 はらごう はおそらく中国 ちゅうごく 西南 せいなん 部 ぶ からチベットにかけての地域 ちいき と思 おも われる。その初期 しょき の移動 いどう 史 し は明 あき らかでないが,3世紀 せいき ころからのピュー族 ぞく の,次 つ いで9世紀 せいき ころからのビルマ族 ぞく のビルマ(現 げん ,ミャンマー)における台頭 たいとう は,雲南 うんなん からビルマに入 はい るチベット・ビルマ語 ご 派 は の数 すう 次 じ にわたる移動 いどう の波 なみ の例 れい である。
カム・タイ語 ご 派 は は中国 ちゅうごく 南部 なんぶ を原郷 はらごう としていたが,この言語 げんご を話 はな す民族 みんぞく は,おそらく紀元 きげん 後 ご になって,水稲 すいとう 犂 すき 耕 こう と鉄器 てっき という技術 ぎじゅつ ,および封建 ほうけん 的 てき な政治 せいじ 組織 そしき をもって河谷 こうだに づたいに移動 いどう を開始 かいし し,徐々 じょじょ にインドシナ半島 いんどしなはんとう に進出 しんしゅつ していった。その歴史 れきし における一 ひと つの画 が 期 き は13世紀 せいき で,西 にし はアッサムから北 きた ビルマ,タイを経 へ て,東 ひがし はラオスにかけてのインドシナ,ことにその北部 ほくぶ の各地 かくち において一斉 いっせい に王国 おうこく が形成 けいせい され,東南 とうなん アジア大陸 たいりく 部 ぶ においてカム・タイ語 ご 派 は の民族 みんぞく の地位 ちい は確定 かくてい した。
現在 げんざい の言語 げんご ・民族 みんぞく 分布 ぶんぷ 図 ず をみると,チベット・ビルマ語 ご 派 は とカム・タイ語 ご 派 は は,かなり連続 れんぞく したまとまった分布 ぶんぷ を示 しめ しているのに反 はん し,アウストロアジア語族 ごぞく は広 ひろ く分散 ぶんさん し,その分布 ぶんぷ はカム・タイ語 ご 派 は やチベット・ビルマ語 ご 派 は によって分断 ぶんだん されている。この分布 ぶんぷ 状態 じょうたい は,すでに先史 せんし 時代 じだい においてアウストロアジア語族 ごぞく が東南 とうなん アジア大陸 たいりく 部 ぶ の大 だい 部分 ぶぶん を占 し めていた所 ところ に,北 きた からチベット・ビルマ語 ご 派 は とカム・タイ語 ご 派 は が南下 なんか し,ことに歴史 れきし 時代 じだい に大 おお きく発展 はってん して各地 かくち でアウストロアジア語族 ごぞく の分布 ぶんぷ を分断 ぶんだん した結果 けっか であろう。
大陸 たいりく 部 ぶ においてはそのほか,インドシナ北部 ほくぶ から中国 ちゅうごく 南部 なんぶ にかけてカダイ語 ご 群 ぐん という語族 ごぞく が島 しま 状 じょう に分布 ぶんぷ している。これはカム・タイ語 ご 派 は に親 しん 縁 えん の古 ふる い語族 ごぞく と推定 すいてい される。大陸 たいりく 部 ぶ におけるもう一 ひと つの重要 じゅうよう な語族 ごぞく はアウストロネシア語族 ごぞく 中 なか の西部 せいぶ 語 ご 派 は であるインドネシア語 ご 派 は であるが,この語 かたり 派 は のおもな分布 ぶんぷ は島嶼 とうしょ 部 ぶ にあって,マレ まれ ー半島 はんとう やインドシナ半島 いんどしなはんとう 南東 なんとう 部 ぶ における分布 ぶんぷ は,インドネシア西部 せいぶ から鉄器 てっき 時代 じだい あるいは歴史 れきし 時代 じだい になってから広 ひろ がったものと思 おも われる。
東南 とうなん アジア島嶼 とうしょ 部 ぶ の圧倒的 あっとうてき 大 だい 部分 ぶぶん はアウストロネシア語 ご 族 ぞく によって占 し められ,ベンガル湾 わん (アンダマン諸島 しょとう ),インドネシア東部 とうぶ (ティモール島 とう 東部 とうぶ ,ハルマヘラ島 とう とその離島 りとう など)にアウストロネシア語 ご 以前 いぜん の古 ふる い言語 げんご (アンダマン語 ご ,パプア諸語 しょご )が残 のこ っているにすぎない。アウストロネシア語 ご はアウストロアジア語 ご やカム・タイ語 ご 派 は と遠 とお い親 おや 縁 えん 関係 かんけい が想定 そうてい されている。おそらく中国 ちゅうごく 南部 なんぶ に原郷 はらごう をもち,すでに農耕 のうこう 段階 だんかい に入 はい ってから新 しん 石器 せっき 時代 じだい のうちに台湾 たいわん に進出 しんしゅつ して台湾 たいわん 語 ご 派 は (高山 たかやま 族 ぞく 諸語 しょご )を同島 どうとう に残 のこ し,さらに南下 なんか してフィリピンを経 へ てインドネシア,マレーシアに展開 てんかい する過程 かてい でインドネシア語 ご 派 は が形成 けいせい され,拡大 かくだい したと考 かんが えられる。なおアフリカのマダガスカル島 とう でも,アウストロネシア系 けい の言語 げんご (マラガシ語 ご )が話 はな されているが,これは紀元前 きげんぜん 後 ご ころにインドネシア西部 せいぶ からアウストロネシア系 けい の住民 じゅうみん が移動 いどう したものと考 かんが えられる。アウストロネシア語族 ごぞく の東部 とうぶ 語 ご 派 は ,すなわちオセアニア語 ご 派 は も,おそらく島嶼 とうしょ 部 ぶ 東南 とうなん アジアからいも作 さく 農耕 のうこう をもって東進 とうしん したものと思 おも われる。執筆 しっぴつ 者 しゃ :大林 おおばやし 太良 たら
社会 しゃかい 東南 とうなん アジアでは,たび重 かさ なる民族 みんぞく 移動 いどう ,複雑 ふくざつ な地形 ちけい 条件 じょうけん から,言語 げんご ,種族 しゅぞく ともにモザイク状 じょう に分布 ぶんぷ している。インドと中国 ちゅうごく という大 だい 文明 ぶんめい の中 なか 間 あいだ 地帯 ちたい にあって,さまざまな土着 どちゃく の信仰 しんこう 体系 たいけい の上 うえ に重層 じゅうそう した仏教 ぶっきょう ,イスラム,キリスト教 きょう が国教 こっきょう ないしはそれに準 じゅん じた扱 あつか いを受 う け,ポルトガル,スペイン,イギリス,オランダ,フランスとそれぞれ宗主 そうしゅ 国 こく の異 こと なる旧 きゅう 植民 しょくみん 地 ち 国 こく の遺産 いさん も受 う け継 つ いでいる。西欧 せいおう 資本 しほん 主義 しゅぎ との遭遇 そうぐう によって生 しょう じた社会 しゃかい 経済 けいざい 的 てき な亀裂 きれつ は,二 に 重 じゅう 経済 けいざい ,複 ふく 合 あい 社会 しゃかい ,コミュナリズム と名 な づけられて,現在 げんざい に至 いた るまでその社会 しゃかい を特色 とくしょく づけている。すなわち,近代 きんだい 的 てき 独立 どくりつ 国家 こっか の枠組 わくぐ みの中 なか に国家 こっか エリート,都市 とし ,村落 そんらく ,プランテーション,部族 ぶぞく 社会 しゃかい が類型 るいけい 的 てき に同時 どうじ 存在 そんざい している世界 せかい である。
部族 ぶぞく 社会 しゃかい いわゆる少数 しょうすう 民族 みんぞく と称 しょう されるものの中 なか には,中国人 ちゅうごくじん ,インド人 じん などの移民 いみん 民族 みんぞく ,ミナンカバウ ,モン,シャンなどのように比較的 ひかくてき 人口 じんこう も多 おお く,村落 そんらく 社会 しゃかい を中心 ちゅうしん とする種族 しゅぞく も含 ふく まれうるが,一般 いっぱん 的 てき には主 しゅ として山地 さんち に住 す む部族 ぶぞく 社会 しゃかい が多数 たすう を占 し める。生業 せいぎょう 形態 けいたい によって三 みっ つのタイプを指摘 してき できる。第 だい 1のタイプは,数 すう 組 くみ の夫婦 ふうふ 家族 かぞく がバンドを組 く んで森林 しんりん を移動 いどう しながら,食物 しょくもつ の採集 さいしゅう ,狩猟 しゅりょう に依存 いぞん する社会 しゃかい で,ネグリトの社会 しゃかい が代表 だいひょう 的 てき である。鉄器 てっき などの特殊 とくしゅ なもの以外 いがい は自給自足 じきゅうじそく である。第 だい 2に,焼畑 やきばた による移動 いどう 農耕 のうこう を行 おこな う社会 しゃかい がある。出自 しゅつじ 集団 しゅうだん に基 もと づく集落 しゅうらく を形成 けいせい し,半 はん 定着 ていちゃく の生活 せいかつ を送 おく る。循環 じゅんかん 的 てき 女性 じょせい 交換 こうかん システム,二元 にげん 的 てき 宇宙 うちゅう 観 かん のある場合 ばあい が多 おお く,聖 きよし と俗 ぞく とが一元 いちげん 的 てき である。第 だい 3に,同 おな じように農耕 のうこう も行 おこな うが,むしろ採取 さいしゅ 交易 こうえき 社会 しゃかい と呼 よ ぶのが適切 てきせつ なタイプがある。これは,樹脂 じゅし ,リュウノウ,籐 とう (とう),香料 こうりょう ,特殊 とくしゅ な森林 しんりん 産物 さんぶつ ,スズや金 かね などの鉱物 こうぶつ ,ナマコなどの海産物 かいさんぶつ を外界 がいかい の需要 じゅよう に応 おう じて採取 さいしゅ し,それとの交換 こうかん によって生活 せいかつ 必需 ひつじゅ 品 ひん を得 え る。集落 しゅうらく は半 はん 定着 ていちゃく 的 てき であることもあるが,近親 きんしん 婚 こん ,内 ない 婚 こん がみられ,耕作 こうさく ,村落 そんらく 組織 そしき は女性 じょせい 中心 ちゅうしん で,採取 さいしゅ ,交易 こうえき などの村落 そんらく 外 がい 活動 かつどう は男性 だんせい 中心 ちゅうしん である。
村落 そんらく 社会 しゃかい 部族 ぶぞく 社会 しゃかい は親族 しんぞく 組織 そしき や信仰 しんこう 体系 たいけい など地域 ちいき 的 てき に特殊 とくしゅ 化 か してしまっているが,これに対 たい し,村落 そんらく 社会 しゃかい はほとんどが双 そう 系 けい 制 せい 親族 しんぞく 組織 そしき で,水稲 すいとう を主 おも 生業 せいぎょう とし,部族 ぶぞく 社会 しゃかい よりはより等質 とうしつ 的 てき な特徴 とくちょう を示 しめ す。ビルマ族 ぞく ,タイ族 ぞく ,マレー人 じん ,ジャワ族 ぞく ,ベトナム人 じん など国家 こっか の主要 しゅよう 構成 こうせい 種族 しゅぞく およびそれに準 じゅん ずる種族 しゅぞく の住 す む農村 のうそん 社会 しゃかい に典型 てんけい 的 てき にみられ,平地 ひらち 村 むら である。漁村 ぎょそん ,山村 さんそん も含 ふく むが,往々 おうおう にしてこれらは採取 さいしゅ 交易 こうえき 型 がた となりやすい。村落 そんらく は,非 ひ 親族 しんぞく も擬制 ぎせい 的 てき に親族 しんぞく としてとりこみながら,地縁 ちえん を契機 けいき に成立 せいりつ し,地域 ちいき 特殊 とくしゅ 的 てき な慣習 かんしゅう 法 ほう によって生活 せいかつ を律 りっ し,寺院 じいん ,モスク,教会 きょうかい などを統合 とうごう のシンボルとしている。宗教 しゅうきょう 的 てき 職能 しょくのう 者 しゃ とともに,貴族 きぞく 出身 しゅっしん 者 しゃ ,村長 そんちょう とその取巻 とりま き連 れん が他 た の農民 のうみん と一線 いっせん を画 かく し,社会 しゃかい 的 てき 階層 かいそう がより明確 めいかく になる。集団 しゅうだん 組織 そしき のありかたが〈しまりがない〉とか,間柄 あいだがら の論理 ろんり ,二 に 者 しゃ 関係 かんけい に人間 にんげん 関係 かんけい が支配 しはい され,親族 しんぞく 関係 かんけい を重 おも んじながら状況 じょうきょう 主義 しゅぎ 的 てき であるとかいう指摘 してき は,この村落 そんらく 社会 しゃかい のもつ弾力 だんりょく 性 せい ,したたかさの一 いち 面 めん をいい表 あらわ している。また,恥 はじ ,自尊心 じそんしん ,恩 おん の観念 かんねん も社会 しゃかい 生活 せいかつ に大 おお きな役割 やくわり を占 し める。
植民 しょくみん 的 てき 集落 しゅうらく 採取 さいしゅ と農耕 のうこう との近代 きんだい 的 てき な適応 てきおう 形態 けいたい は,石油 せきゆ ・鉱物 こうぶつ 資源 しげん 採掘 さいくつ と商品 しょうひん 作物 さくもつ の大 だい 規模 きぼ な栽培 さいばい である。ともに伝統 でんとう 的 てき 社会 しゃかい の枠外 わくがい に,経済 けいざい 利潤 りじゅん 追求 ついきゅう の原則 げんそく ,そのための近代 きんだい 的 てき 管理 かんり ・技術 ぎじゅつ ,とくに契約 けいやく によって律 りっ される労使 ろうし 関係 かんけい ,分業 ぶんぎょう 体制 たいせい に基 もと づく植民 しょくみん 的 てき 集落 しゅうらく を実現 じつげん させた。この代表 だいひょう 的 てき なものが,可耕地 かこうち を大 だい 規模 きぼ に単一 たんいつ 商品 しょうひん 作物 さくもつ (ゴム,サトウキビ,コーヒー,茶 ちゃ ,アブラヤシ,ココヤシ,パイナップル ,タバコ,綿花 めんか など)の農場 のうじょう ,エステートに転換 てんかん させたプランテーションである。既存 きそん の村落 そんらく 社会 しゃかい を基礎 きそ に輸出 ゆしゅつ 用 よう 作物 さくもつ の生産 せいさん を計 はか ったジャワの強制 きょうせい 栽培 さいばい 制度 せいど のような例 れい もあるが,多 おお くは人口 じんこう の希薄 きはく な熱帯 ねったい 降雨 こうう 林 りん ,低湿 ていしつ 地 ち ,サバンナを大 だい 規模 きぼ に開拓 かいたく し,そこに労働 ろうどう 力 りょく を投入 とうにゅう して,土着 どちゃく の社会 しゃかい 組織 そしき とは異 こと なった社会 しゃかい 秩序 ちつじょ (監督 かんとく -事務職 じむしょく -雇用 こよう 労働 ろうどう 者 しゃ )をつくり上 あ げた。管理人 かんりにん 住宅 じゅうたく ,工場 こうじょう ,インド人 じん 労務者 ろうむしゃ 住宅 じゅうたく からなるマラヤにおけるゴム園 えん は,そのように移植 いしょく された社会 しゃかい の典型 てんけい である。
都市 とし 東南 とうなん アジアの古代 こだい ,中世 ちゅうせい において,王侯 おうこう 貴族 きぞく の住 す む宮殿 きゅうでん のある所 ところ で,〈クニ〉の象徴 しょうちょう 的 てき 中心 ちゅうしん であった数 すう 多 おお くの都 と は,近代 きんだい の首都 しゅと ,大都市 だいとし には直接 ちょくせつ 受 う け継 つ がれていかなかった。現在 げんざい の都市 とし の多 おお くは,中世 ちゅうせい から近世 きんせい にかけて出現 しゅつげん した,商人 しょうにん のつくった町 まち ,交易 こうえき 港 みなと 市 し ,駅 えき 市 し ,華僑 かきょう の町 まち ,植民 しょくみん 地 ち 行政府 ぎょうせいふ の発達 はったつ したものである。例 たと えばマレーシアの首都 しゅと クアラ・ルンプルは100年 ねん 前 まえ に華僑 かきょう のスズ鉱 こう 労働 ろうどう 者 しゃ がつくった町 まち であり,スルタンの王宮 おうきゅう のあるクランは現在 げんざい では小 ちい さな町 まち にすぎない。都市 とし にあっても,村落 そんらく をそのまま移 うつ したセクターと,近代 きんだい 的 てき な行政 ぎょうせい ・金融 きんゆう ・産業 さんぎょう のセクターとが両極 りょうきょく 化 か しながら共存 きょうぞん しており,そのうえ,民族 みんぞく 別 べつ ,経済 けいざい 階層 かいそう 別 べつ の居住 きょじゅう 区域 くいき の区分 くぶん がみられる。不法 ふほう 占拠 せんきょ などの形 かたち で拡大 かくだい する伝統 でんとう 的 てき セクターの急速 きゅうそく なスラム化 か ,サービス業 ぎょう 従事 じゅうじ 者 しゃ 比率 ひりつ の異常 いじょう な高 たか さ,不完全 ふかんぜん 就業 しゅうぎょう 者 しゃ ・失業 しつぎょう 者 しゃ の増加 ぞうか ,それにもかかわらず流入 りゅうにゅう してくる人口 じんこう などの社会 しゃかい 問題 もんだい を抱 かか えている。また都鄙 とひ (とひ)の経済 けいざい 的 てき 格差 かくさ も顕著 けんちょ である。
国家 こっか 植民 しょくみん 地 ち 化 か 以前 いぜん の東南 とうなん アジアでは〈小型 こがた 家 か 産制 さんせい 〉ともいえる小規模 しょうきぼ な国家 こっか 群 ぐん が並立 へいりつ し,ときには緩 ゆる やかな連合 れんごう が成立 せいりつ して中心 ちゅうしん 的 てき な国家 こっか が周辺 しゅうへん の国家 こっか 群 ぐん を支配 しはい することもあったが,大 おお きな帝国 ていこく 版図 はんと は成立 せいりつ しなかった。その国家 こっか 概念 がいねん はヒンドゥー王権 おうけん 思想 しそう に基 もと づき,領域 りょういき の不 ふ 明確 めいかく な,無限 むげん に広 ひろ がりうるコスモスとしてとらえられた。一般 いっぱん 民衆 みんしゅう にとって国家 こっか とは,このコスモスの体現 たいげん 者 しゃ としての王 おう であり,その取巻 とりま き連 れん であり,具体 ぐたい 的 てき な世界 せかい の中心 ちゅうしん である宮殿 きゅうでん にほかならなかった。植民 しょくみん 地 ち 政府 せいふ ないしは西欧 せいおう からの近代 きんだい 法典 ほうてん ,行政 ぎょうせい 組織 そしき の輸入 ゆにゅう によって近代 きんだい 的 てき 独立 どくりつ 国家 こっか としての態勢 たいせい は整 ととの ったとはいえ,総 そう 人口 じんこう の1割 わり 前後 ぜんこう の人 ひと が集中 しゅうちゅう する都市 とし を国家 こっか のシンボルとしてみ,王族 おうぞく と交替 こうたい した行政 ぎょうせい 官僚 かんりょう を支配 しはい 階級 かいきゅう ・国家 こっか エリートとして特別 とくべつ 視 し する世界 せかい 観 かん は強 つよ く民衆 みんしゅう の中 なか に残 のこ っている。新 あたら しいエリートとして西欧 せいおう 的 てき 教育 きょういく を受 う けた官僚 かんりょう ,軍人 ぐんじん ,知識 ちしき 人 じん ,学生 がくせい は,地域 ちいき に根 ね づく伝統 でんとう 的 てき ・宗教 しゅうきょう 的 てき 指導 しどう 者 しゃ の地位 ちい を脅 おど かしつつ,国民 こくみん 文化 ぶんか 形成 けいせい の中心 ちゅうしん 的 てき 推進 すいしん 者 しゃ として,国民 こくみん 国家 こっか 概念 がいねん を担 にな う一 ひと つの核心 かくしん 的 てき な社会 しゃかい 的 てき カテゴリーとなっている。
これらの類型 るいけい 全体 ぜんたい を截断 せつだん する宗教 しゅうきょう 的 てき ・種族 しゅぞく 的 てき なアイデンティティ に基 もと づく行動 こうどう ・価値 かち 観 かん は,日常 にちじょう 生活 せいかつ における葛藤 かっとう だけでなく,政治 せいじ 的 てき なコミュナリズムを生 う み,ともすれば国民 こくみん 観念 かんねん の形成 けいせい を阻 はば んでいる。国民 こくみん 観念 かんねん が十分 じゅうぶん 定着 ていちゃく しないうえに,その社会 しゃかい にエリート,都市 とし ,村落 そんらく ,プランテーション,部族 ぶぞく が同時 どうじ 併存 へいそん しているという構図 こうず は,一見 いっけん して典型 てんけい 的 てき な複 ふく 合 あい 社会 しゃかい を形成 けいせい しているかにみえるが,現実 げんじつ には,頻繁 ひんぱん な出稼 でかせ ぎ,地域 ちいき 的 てき ・社会 しゃかい 的 てき 移動 いどう とも相 あい まって,各 かく 類型 るいけい の境界 きょうかい は連続 れんぞく 的 てき であって,しかも類型 るいけい 自体 じたい マージナルな型 かた を生 う み出 だ しながら急速 きゅうそく に変化 へんか している。それらは,すべてが一 ひと つのパターンに収束 しゅうそく しないまでも,国民 こくみん 国家 こっか の維持 いじ というコンセンサス がある限 かぎ り,統合 とうごう の方向 ほうこう に進 すす んでいくであろう。執筆 しっぴつ 者 しゃ :前田 まえだ 成文 せいぶん
宗教 しゅうきょう 宗教 しゅうきょう 的 てき にみると,東南 とうなん アジアはきわめて複雑 ふくざつ である。その複雑 ふくざつ さは,過去 かこ 2000年 ねん にわたり,さまざまな外来 がいらい 文化 ぶんか の影響 えいきょう を相次 あいつ いで被 こうむ った,この地域 ちいき の歴史 れきし 的 てき 状況 じょうきょう と深 ふか くかかわっている。
紀元 きげん 前後 ぜんこう から,インドとの交易 こうえき を介 かい して,東南 とうなん アジアにもたらされた宗教 しゅうきょう は,ヒンドゥー教 きょう と仏教 ぶっきょう ,とりわけ大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう であった。これらのインド宗教 しゅうきょう は,各地 かくち に成立 せいりつ したインド的 てき 諸王 しょおう 国 こく の支配 しはい 者 しゃ たちに,正統 せいとう 性 せい を賦与 ふよ する役割 やくわり を果 は たしたが,民衆 みんしゅう とは縁遠 えんどお い存在 そんざい であったと考 かんが えられる。カンボジアのアンコール・ワットや,インドネシアのボロブドゥール など,今日 きょう に残 のこ る大 だい 建築 けんちく 物 ぶつ の遺構 いこう や,これまでに解読 かいどく された数々 かずかず の刻 こく 文 ぶん 史料 しりょう は,当時 とうじ の信仰 しんこう 形態 けいたい の一端 いったん を今日 きょう に伝 つた えている。ヒンドゥー教 きょう や大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう は,13世紀 せいき 前後 ぜんこう から衰退 すいたい 期 き に入 はい り,大陸 たいりく 部 ぶ にはスリランカから上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう が,また島嶼 とうしょ 部 ぶ にはイスラムが伝 つた えられた。これらの新 しん 宗教 しゅうきょう は,それまでの宗教 しゅうきょう のように,一部 いちぶ の権力 けんりょく 者 しゃ に信奉 しんぽう されたばかりでなく,広 ひろ く社会 しゃかい の各層 かくそう に受 う け入 い れられ,今日 きょう にいたるまで,それぞれの民族 みんぞく の社会 しゃかい ,文化 ぶんか に深 ふか い影響 えいきょう を与 あた え続 つづ けている。
これに対 たい し,古 ふる くから中国 ちゅうごく の政治 せいじ 的 てき 支配 しはい 下 か に置 お かれ,中国 ちゅうごく 文化 ぶんか の強 つよ い影響 えいきょう を受 う けたベトナムは,宗教 しゅうきょう 的 てき にも中国 ちゅうごく 系 けい の宗教 しゅうきょう を受容 じゅよう し,〈三 さん 教 きょう 〉の名 な で知 し られる儒教 じゅきょう ,仏教 ぶっきょう ,道教 どうきょう の3宗教 しゅうきょう をあわせ信奉 しんぽう して今日 きょう に及 およ んでいる。この間 あいだ にあって,ひとりフィリピンだけは,インド文化 ぶんか ,中国 ちゅうごく 文化 ぶんか のいずれの影響 えいきょう をも受 う けることなく,16世紀 せいき にいたってスペインの植民 しょくみん 地 ち となった。フィリピンは,19世紀 せいき の末 すえ 以来 いらい アメリカの支配 しはい 下 か に入 はい ったが,大 だい 多数 たすう の住民 じゅうみん は今日 きょう もなお,旧 きゅう 宗主 そうしゅ 国 こく スペインの宗教 しゅうきょう であるカトリックを信仰 しんこう している。
上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう 上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう は,現在 げんざい ,ミャンマー,タイ,カンボジア,ラオス,およびベトナム南部 なんぶ ,インドネシアの一部 いちぶ などで信奉 しんぽう され,信徒 しんと 数 すう は合計 ごうけい で8000万 まん 人 にん を超 こ える。いずれもスリランカで成立 せいりつ ,発展 はってん した大寺 おおてら 派 は (マハービハーラ派 は )の流 なが れを引 ひ き,パーリ語 ご で書 か かれた三蔵 さんぞう 経 けい を護持 ごじ している。上座 かみざ 部 ぶ 仏教 ぶっきょう の中核 ちゅうかく はサンガ である。サンガとは,いっさいの世俗 せぞく 的 てき 労働 ろうどう から解放 かいほう され,パーリ聖典 せいてん に書 か かれた戒律 かいりつ を厳守 げんしゅ して,修行 しゅぎょう に専心 せんしん する僧侶 そうりょ によって形成 けいせい される出家 しゅっけ 者 しゃ 教団 きょうだん である。在家 ありいえ 者 しゃ ,すなわち一般 いっぱん 仏教徒 ぶっきょうと の宗教 しゅうきょう 行動 こうどう のすべては,サンガの維持 いじ ・発展 はってん に寄与 きよ することが,最高 さいこう の功徳 くどく 行 ぎょう であるという信仰 しんこう を中心 ちゅうしん にして展開 てんかい する。たとえば寺院 じいん の建立 こんりゅう ・修復 しゅうふく に対 たい する貢献 こうけん ,日 にち 々乞食 こじき して歩 ある く托鉢 たくはつ 僧 そう への供養 くよう などは,いずれも大 おお きな功徳 くどく を生 う み幸福 こうふく をもたらす善 ぜん 業 ぎょう として勧 すす められる。
上座 かみざ 部 ぶ 仏教徒 ぶっきょうと の間 あいだ には,出家 しゅっけ という行為 こうい を,とりわけ優 すぐ れた功 こう 徳行 とっこう として高 たか く評価 ひょうか する価値 かち 観 かん が古 ふる くから存在 そんざい し,今日 きょう でも,父母 ちちはは への孝養 こうよう のため,あるいは自 みずか ら功徳 くどく を得 え る手段 しゅだん として,一時 いちじ 的 てき 出家 しゅっけ を志望 しぼう する者 もの が絶 た えないという事実 じじつ は,サンガに対 たい し不断 ふだん にその成員 せいいん を供給 きょうきゅう する結果 けっか を生 う んでおり,サンガの存続 そんぞく に大 おお きく貢献 こうけん しているといえよう。
イスラム イスラムは,インドネシア総 そう 人口 じんこう の87%,マレーシアでは50%の人々 ひとびと によって信奉 しんぽう されている。イスラム教徒 きょうと は,このほか,ミャンマー,タイ南部 なんぶ ,フィリピンのミンダナオ島 みんだなおとう などにもいて,少数 しょうすう 民族 みんぞく 集団 しゅうだん を形成 けいせい している。マレーシアのイスラム教徒 きょうと は,スンナ派 は のシャーフィイー派 は に属 ぞく し,一般 いっぱん にイスラムの中心 ちゅうしん 的 てき 教義 きょうぎ である六 ろく 信 しん ・五 ご 柱 はしら を忠実 ちゅうじつ に守 まも る。イスラムは憲法 けんぽう 上 じょう ,マレーシアの国教 こっきょう と規定 きてい されており,各州 かくしゅう のスルタンが,それぞれの州 しゅう のイスラムの首長 しゅちょう となる。
1億 おく を超 こ えるイスラム教徒 きょうと をもつ,東南 とうなん アジア最大 さいだい のイスラム教 いすらむきょう 国 こく インドネシアでは,サントリ と呼 よ ばれ,純粋 じゅんすい にイスラム的 てき 傾向 けいこう をもつ集団 しゅうだん が都市 とし と農村 のうそん の商人 しょうにん 階層 かいそう を中心 ちゅうしん に存在 そんざい している。しかし,ジャワ島 じゃわとう の住民 じゅうみん を中心 ちゅうしん とする,アバンガン と呼 よ ばれる大 だい 多数 たすう の農民 のうみん は,名目 めいもく 上 じょう イスラム教徒 きょうと ではあるものの,その宗教 しゅうきょう の実践 じっせん 形態 けいたい においては,ヒンドゥー・ジャワ的 てき なアニミズムの強 つよ い影響 えいきょう を受 う け,正統 せいとう 的 てき なイスラムの教理 きょうり からは逸脱 いつだつ する行為 こうい もしばしば観察 かんさつ される。
その他 た の宗教 しゅうきょう 儒教 じゅきょう ,仏教 ぶっきょう ,道教 どうきょう の〈三 さん 教 きょう 〉によって代表 だいひょう される中国 ちゅうごく 系 けい 宗教 しゅうきょう は,ベトナムのベトナム人 じん のほか,シンガポールおよび東南 とうなん アジアの都市 とし 部 ぶ に移住 いじゅう 定着 ていちゃく した華人 かじん の間 あいだ でも信奉 しんぽう されている。これらの3宗教 しゅうきょう は,それぞれの独自 どくじ 性 せい を保 たも ちながら,互 たが いに対立 たいりつ を起 お こすことなく併存 へいそん を続 つづ けている。民衆 みんしゅう 信仰 しんこう の場 ば においては,三 さん 教 きょう それぞれの聖 ひじり 像 ぞう が等 ひと しく礼拝 れいはい の対象 たいしょう とされている。ベトナムの農村 のうそん 部 ぶ では,三 さん 教 きょう に加 くわ えて村 むら の守護神 しゅごじん をまつるディン(亭 ちん )があり,これが村落 そんらく 結合 けつごう の中核 ちゅうかく をなしている。
全 ぜん 人口 じんこう の85%がカトリック教徒 きょうと であるフィリピンは,東南 とうなん アジア唯一 ゆいいつ のキリスト教 きりすときょう 国 こく である。アメリカ支配 しはい 時代 じだい にはプロテスタントの布教 ふきょう も行 おこな われたが,信徒 しんと 数 すう は総 そう 人口 じんこう の3%を占 し めるにすぎない。数 かず 的 てき には,むしろ20世紀 せいき 初 はじ め,バチカンに反抗 はんこう して創設 そうせつ されたフィリピン独立 どくりつ 教会 きょうかい (アグリパヤン)の方 ほう が4%と優勢 ゆうせい である。また土着 どちゃく 的 てき 色合 いろあ いの濃厚 のうこう なイグレシア・ニ・クリスト が勢力 せいりょく を伸 の ばしていることも注目 ちゅうもく される。カトリックは,このほか,ベトナム人 じん の中 なか に多 おお くの信徒 しんと をもつ。キリスト教徒 きりすときょうと はまた,ミャンマーのカレン族 ぞく ,インドネシアのバタク族 ぞく ,タイの山地 さんち 少数 しょうすう 民族 みんぞく ,華僑 かきょう などのなかにも多 おお く見 み いだされる。
イスラムの進出 しんしゅつ によって圧迫 あっぱく され衰退 すいたい した古代 こだい のヒンドゥー教 きょう は,現在 げんざい ,インドネシアのバリ島 ばりとう 周辺 しゅうへん に約 やく 300万 まん の信徒 しんと を残 のこ すにとどまるが,これとは別 べつ に,近代 きんだい においてインドから移民 いみん したヒンドゥー教徒 きょうと が,都市 とし 部 ぶ を中心 ちゅうしん とする東南 とうなん アジア各地 かくち に散在 さんざい している。
東南 とうなん アジアにはこれらの外来 がいらい 宗教 しゅうきょう のほかに,ミャンマーのナット やタイ,ラオスのピー ,カンボジアのネアク・ターなどによって代表 だいひょう される固有 こゆう の土着 どちゃく 的 てき 信仰 しんこう が重層 じゅうそう 的 てき に存在 そんざい し,民衆 みんしゅう 宗教 しゅうきょう の存在 そんざい 形態 けいたい をさらに複雑 ふくざつ なものにしている。仏教徒 ぶっきょうと たちは,仏像 ぶつぞう の前 まえ にぬかずき,経典 きょうてん を唱 とな える一方 いっぽう ,ナットを信仰 しんこう し,ピーをまつり,土地 とち 神 しん の祠 ほこら に供 そな えものをする。
生活 せいかつ のなかの宗教 しゅうきょう 東南 とうなん アジアの現代 げんだい 宗教 しゅうきょう は,いずれも民衆 みんしゅう 生活 せいかつ と密接 みっせつ に関係 かんけい して存在 そんざい し,実践 じっせん されている点 てん に特徴 とくちょう がみられる。とくに,人口 じんこう の9割 わり を占 し める農民 のうみん の日常 にちじょう 生活 せいかつ は,宗教 しゅうきょう によって規定 きてい されるところが大 おお きい。タイやフィリピンの農村 のうそん における寺院 じいん や教会 きょうかい は,村落 そんらく 生活 せいかつ のかなめである。早朝 そうちょう ,村 むら 内 ない をまわる托鉢 たくはつ 僧 そう への食事 しょくじ の供養 くよう ,日曜日 にちようび のミサなどは農民 のうみん の生活 せいかつ の一部 いちぶ となっている。寒暖 かんだん の変化 へんか に乏 とぼ しい熱帯 ねったい では,季 き 節 ぶし のめりはりもまた宗教 しゅうきょう によってつけられる。タイの人々 ひとびと は雨 あめ 安居 あんきょ (うあんご)入 い りの儀式 ぎしき によって雨季 うき の到来 とうらい を感 かん じ,カチナの祭 まつ りによって雨季 うき 明 あ けを知 し る。フィリピンの5月のフィエスタには,全国 ぜんこく 各地 かくち で守護 しゅご 聖人 せいじん 像 ぞう を先頭 せんとう に行列 ぎょうれつ がくりひろげられ,国 くに 中 ちゅう が沸 わ きかえり,遠来 えんらい の親族 しんぞく や友人 ゆうじん を囲 かこ んで,あちこちで旧交 きゅうこう を温 あたた める光景 こうけい がみられる。
それゆえ,農民 のうみん たちは,宗教 しゅうきょう から切 き り離 はな して自己 じこ の文化 ぶんか を考 かんが えることができない。タイ人 じん ,カンボジア人 じん ,ラオス人 じん にとって宗教 しゅうきょう とは仏教 ぶっきょう であり,同 おな じ社会 しゃかい に住 す む仲間 なかま たちが仏教徒 ぶっきょうと であることは,自明 じめい のことと考 かんが えられている。同様 どうよう にしてマレー人 じん にとって,〈イスラム教徒 きょうと になる(masok Islam)〉ことは,〈マレー人 じん になる(masok Melayu)〉ことにほかならない。このように,東南 とうなん アジア農民 のうみん の価値 かち 観 かん は,それぞれの民族 みんぞく が伝統 でんとう 的 てき に受 う け継 つ いできた宗教 しゅうきょう の価値 かち 観 かん と深 ふか くかかわっているといってよい。たしかに近年 きんねん における開発 かいはつ 政策 せいさく は,各国 かっこく の都市 とし 化 か を進行 しんこう させ,都市 とし の世俗 せぞく 的 てき 価値 かち 観 かん が,マス・メディアをとおして農村 のうそん 部 ぶ に浸透 しんとう し,農民 のうみん の伝統 でんとう 的 てき 価値 かち 観 かん にも変化 へんか の兆 きざ しが現 あらわ れ始 はじ めている。しかしそれとてもまだ,伝統 でんとう 的 てき 価値 かち 観 かん を根底 こんてい から揺 ゆ るがすまでにはいたっていない。
宗教 しゅうきょう と政治 せいじ 宗教 しゅうきょう が民衆 みんしゅう の価値 かち 観 かん と不可分 ふかぶん の関係 かんけい をもち,社会 しゃかい 統合 とうごう ,ひろくは国民 こくみん 統合 とうごう のシンボルとしての機能 きのう を果 は たしていることから,そのシンボルの操作 そうさ は,しばしば政治 せいじ 的 てき にも重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たしてきた。たとえばインドネシアでは,国家 こっか の基本 きほん 原則 げんそく であるパンチャ・シラ の冒頭 ぼうとう に,唯一 ゆいいつ 神 かみ の信仰 しんこう が掲 かか げられているし,タイでは,〈ラック・タイ〉,すなわちタイの基本 きほん 的 てき 統治 とうち 原理 げんり の一 ひと つの柱 はしら として,仏教 ぶっきょう が立 た てられていて,いずれも不可侵 ふかしん の価値 かち を与 あた えられている。
国 くに の内部 ないぶ に,これらの優勢 ゆうせい な単一 たんいつ 宗教 しゅうきょう と異 こと なった宗教 しゅうきょう を信奉 しんぽう する少数 しょうすう 民族 みんぞく がいる場合 ばあい ,その取扱 とりあつか いをめぐって政治 せいじ 問題 もんだい の発生 はっせい することがある。タイ南部 なんぶ や,フィリピンのミンダナオ島 みんだなおとう に集中 しゅうちゅう して居住 きょじゅう するイスラム教徒 きょうと の分離 ぶんり 運動 うんどう や反 はん 政府 せいふ 的 てき 活動 かつどう の事例 じれい がよく知 し られている。ミャンマー(旧 きゅう ビルマ)ではかつて,15%の非 ひ 仏教徒 ぶっきょうと の反対 はんたい を押 お し切 き って,仏教 ぶっきょう の国教 こっきょう 化 か を強行 きょうこう したことによって,政治 せいじ 的 てき 混乱 こんらん が発生 はっせい した。多 た 民族 みんぞく 国家 こっか であるビルマは,建国 けんこく 以来 いらい 世俗 せぞく 国家 こっか を目 め ざし,宗教 しゅうきょう 間 あいだ のあつれきを避 さ ける政策 せいさく を採 と ってきたが,ウー・ヌ首相 しゅしょう は,多数 たすう 派 は である仏教徒 ぶっきょうと の圧力 あつりょく を政治 せいじ 的 てき に利用 りよう して憲法 けんぽう 改正 かいせい を行 おこな い,ビルマを仏教 ぶっきょう 国家 こっか としようとしたため,非 ひ 仏教徒 ぶっきょうと の反発 はんぱつ を招 まね き,1962年 ねん に失脚 しっきゃく してしまった。ビルマの新 しん 憲法 けんぽう (1974)では,宗教 しゅうきょう の政治 せいじ 的 てき 利用 りよう が禁止 きんし され,政教 せいきょう 分離 ぶんり の原則 げんそく が明確 めいかく に打 う ち出 だ されている。
このように東南 とうなん アジアの諸国 しょこく においては,総 そう じて宗教 しゅうきょう が文化 ぶんか ,社会 しゃかい ,政治 せいじ などの広 ひろ い範囲 はんい にわたって大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく をもっているが,こうした状況 じょうきょう と比 くら べると,現代 げんだい のベトナムでは,宗教 しゅうきょう の役割 やくわり が比較的 ひかくてき 小 ちい さいことが注目 ちゅうもく される。これは,ベトナムの宗教 しゅうきょう が複 ふく 合 あい 的 てき であって,一 ひと つの宗教 しゅうきょう だけが卓越 たくえつ している状況 じょうきょう を欠 か いていること,したがって,ベトナム人 じん の価値 かち 観 かん を排他 はいた 的 てき に規定 きてい するような,特定 とくてい の宗教 しゅうきょう が存在 そんざい しないことと無関係 むかんけい ではなかろう。執筆 しっぴつ 者 しゃ :石井 いしい 米雄 よねお
政治 せいじ ,経済 けいざい 東南 とうなん アジアを政治 せいじ 的 てき に一 ひと つの地域 ちいき としてきたのは,過去 かこ の歴史 れきし ,とりわけこの地域 ちいき 以外 いがい との〈文化 ぶんか 的 てき 接触 せっしょく 〉(B.ハリソンによる)であった。それは,2000年 ねん にも及 およ ぶインド,中国 ちゅうごく ,イスラム世界 せかい ,ヨーロッパといった,つねに自身 じしん よりも大 おお きい何 なに かの一部 いちぶ であったこと,歴史 れきし における〈受身 うけみ 〉(C.フィッシャー)の役割 やくわり を演 えん じてきたことに示 しめ されている。なかでも重要 じゅうよう なのは3世紀 せいき 近 ちか くに及 およ んだヨーロッパの植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい であった。
ヨーロッパの植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい と孤立 こりつ ヨーロッパの植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい といっても,各国 かっこく ,各 かく 地域 ちいき ,各 かく 時代 じだい によって実 じつ にさまざまなパターンがみられた。複数 ふくすう の植民 しょくみん 地 ち 権力 けんりょく が並存 へいそん し,いわば,ばらばらに支配 しはい が行 おこな われていたことが特徴 とくちょう とさえいえよう。だが,今日 きょう にいたるまで影響 えいきょう を及 およ ぼしている,地域 ちいき 全体 ぜんたい に共通 きょうつう した支配 しはい の特徴 とくちょう は次 つぎ の三 みっ つといえる。
第 だい 1は,〈二 に 重 じゅう 経済 けいざい 〉(ブーケ )である。つまり,もっぱらヨーロッパ経済 けいざい の必要 ひつよう に応 おう じて導入 どうにゅう され,発展 はってん させられた近代 きんだい 資本 しほん 主義 しゅぎ 経済 けいざい と,他方 たほう その自立 じりつ 的 てき 発展 はってん が制限 せいげん され,〈停滞 ていたい 〉を余儀 よぎ なくされた伝統 でんとう 的 てき 農業 のうぎょう 経済 けいざい が並立 へいりつ し,しかも後者 こうしゃ は前者 ぜんしゃ に一方 いっぽう 的 てき に〈搾取 さくしゅ 〉されるという経済 けいざい 構造 こうぞう である。
第 だい 2は,こうした跛行 はこう 的 てき 経済 けいざい 構造 こうぞう が生 う まれるに伴 ともな い,都市 とし が栄 さか え,農村 のうそん が貧窮 ひんきゅう 化 か するというギャップが生 しょう じただけではなく,植民 しょくみん 地 ち 権力 けんりょく の都合 つごう で多数 たすう の外国 がいこく 人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ が搬入 はんにゅう され,複雑 ふくざつ な社会 しゃかい 構成 こうせい がいっそう〈複 ふく 合 あい 〉化 か した。〈複 ふく 合 あい 社会 しゃかい 〉(J.ファーニバル)が形成 けいせい されたのである。
そして第 だい 3に,こうした複雑 ふくざつ な社会 しゃかい 構成 こうせい をもつ植民 しょくみん 地 ち 社会 しゃかい の統治 とうち には,各 かく 地域 ちいき を分断 ぶんだん した分割 ぶんかつ 支配 しはい と,他方 たほう ,各 かく 地域 ちいき 内 ない の伝統 でんとう 的 てき 支配 しはい 層 そう を温存 おんぞん し,それを利用 りよう した間接 かんせつ 支配 しはい をもって対処 たいしょ したのである。
このような〈二 に 重 じゅう 経済 けいざい 〉〈複 ふく 合 あい 社会 しゃかい 〉そして分割 ぶんかつ ・間接 かんせつ 支配 しはい こそ,一方 いっぽう では東南 とうなん アジアを国際 こくさい 的 てき に〈孤立 こりつ 〉(B.ゴードン)させ,他方 たほう では各 かく 社会 しゃかい での多様 たよう 性 せい をいっそう進行 しんこう させたといえる。
独立 どくりつ --多様 たよう 性 せい のなかの統一 とういつ このような,経済 けいざい 的 てき 〈停滞 ていたい 〉,多様 たよう 性 せい ,国際 こくさい 的 てき ・相互 そうご 的 てき 〈孤立 こりつ 〉を克服 こくふく すべく登場 とうじょう するのが各 かく 地域 ちいき のナショナリズムであり,そうした運動 うんどう を結合 けつごう したものが反 はん 植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ であった。しかし,ヨーロッパにおけるナショナリズムと異 こと なり,有力 ゆうりょく な社会 しゃかい 層 そう (例 たと えば民族 みんぞく ブルジョアジー)を欠 か いていたため,運動 うんどう の主力 しゅりょく は植民 しょくみん 地 ち 官僚 かんりょう や西欧 せいおう 教育 きょういく を受 う けた伝統 でんとう 的 てき 支配 しはい 層 そう の子弟 してい である場合 ばあい が多 おお かった。それだけに,植民 しょくみん 地 ち 権力 けんりょく の対応 たいおう が運動 うんどう を左右 さゆう しやすく,したがって独立 どくりつ の態様 たいよう もさまざまで,ある場合 ばあい は権力 けんりょく の〈禅譲 ぜんじょう 〉(フィリピンやマレーシア),またある場合 ばあい は〈革命 かくめい 〉(ベトナム),あるいはその中間 ちゅうかん (インドネシア)といったパターンが生 しょう じた。
しかし,政治 せいじ 的 てき な独立 どくりつ を獲得 かくとく したとはいえ,経済 けいざい 的 てき ・社会 しゃかい 的 てき 問題 もんだい が一気 いっき に解消 かいしょう したわけではない。むしろ,多様 たよう 性 せい を維持 いじ しながら相互 そうご の利害 りがい の調整 ちょうせい と植民 しょくみん 地 ち 型 がた 経済 けいざい ・社会 しゃかい の変革 へんかく を同時 どうじ に遂行 すいこう することを求 もと められたのである。当然 とうぜん のことながら,変革 へんかく よりは統一 とういつ が,民権 みんけん よりは国権 こっけん の確保 かくほ が選 えら ばれることになった。その結果 けっか ,独立 どくりつ 後 ご まもなく,新 あたら しい国家 こっか は反 はん 植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ 運動 うんどう に大同団結 だいどうだんけつ してきた変革 へんかく を求 もと める革命 かくめい グループ(多 おお くは共産党 きょうさんとう ),他方 たほう で平等 びょうどう を求 もと める少数 しょうすう 民族 みんぞく から激 はげ しい批判 ひはん にさらされ,著 いちじる しい政情 せいじょう 不安 ふあん に見舞 みま われたのである。
統合 とうごう の政治 せいじ --〈上 じょう からの革命 かくめい 〉独立 どくりつ 後 ご まもなく襲 おそ ってきた政情 せいじょう 不安 ふあん は,1950年代 ねんだい 初 はじ めより深刻 しんこく 化 か したアジア全体 ぜんたい での東西 とうざい 冷戦 れいせん と二 に 重 じゅう 写 うつ しとなって,各国 かっこく 政権 せいけん に危機 きき 感 かん を抱 いだ かせた。こうした危機 きき に対 たい して,多 おお くの政府 せいふ は,一方 いっぽう で植民 しょくみん 地 ち 型 がた 経済 けいざい の変革 へんかく を目 め ざした工業 こうぎょう 化 か 政策 せいさく ,他方 たほう で主 しゅ として保守 ほしゅ 層 そう (伝統 でんとう 的 てき 支配 しはい 層 そう )を丸抱 まるがか えした一種 いっしゅ の名望 めいぼう 家 か 支配 しはい の形態 けいたい を採 と った。それは,こうした国内 こくない 秩序 ちつじょ をもっぱら政府 せいふ の主導 しゅどう による〈上 うえ からの革命 かくめい 〉によって再 さい 編成 へんせい し,経済 けいざい 発展 はってん と政治 せいじ の安定 あんてい を遂 と げようとしたものといえよう。
しかし,この工業 こうぎょう 化 か 政策 せいさく (とくに輸入 ゆにゅう 代替 だいたい 工業 こうぎょう の育成 いくせい が主眼 しゅがん )は成功 せいこう しなかった。何 なに よりも,有力 ゆうりょく な企業 きぎょう 家 か 層 そう や国内 こくない 資本 しほん を欠 か いていたばかりか,政策 せいさく の遂行 すいこう をつかさどる官僚 かんりょう の役割 やくわり が依然 いぜん として小 ちい さく,有力 ゆうりょく な政治 せいじ 家 か による利権 りけん の草刈 くさかり 場 じょう と化 か してしまったからである。加 くわ えて,資本 しほん 財 ざい の輸入 ゆにゅう が増 ふ え,貿易 ぼうえき 赤字 あかじ に苦 くる しみ,結果 けっか 的 てき に激 はげ しいインフレに襲 おそ われることになった。また,工業 こうぎょう 化 か 政策 せいさく の失敗 しっぱい によって,例 たと えばスカルノのインドネシアのように急激 きゅうげき な外国 がいこく 資本 しほん の〈国有 こくゆう 化 か 〉へと進 すす む場合 ばあい も含 ふく めて,限 かぎ られた利益 りえき の分配 ぶんぱい を求 もと めてエリート層 そう の対立 たいりつ を激化 げきか させたばかりでなく,貧窮 ひんきゅう 化 か を歩 あゆ む大衆 たいしゅう の不満 ふまん や不平 ふへい を増大 ぞうだい させたのである。あらためて変革 へんかく か統一 とういつ かが問 と い直 なお される状況 じょうきょう にいたったのである。
開発 かいはつ 政治 せいじ の登場 とうじょう --権威 けんい 主義 しゅぎ 支配 しはい 1960年代 ねんだい 半 なか ばになると,一方 いっぽう では米 べい ソのデタント(緊張 きんちょう 緩和 かんわ )が進 すす みながら,ベトナムへのアメリカ軍 ぐん の介入 かいにゅう が本格 ほんかく 化 か した。他方 たほう で,各国 かっこく 内 ない での保革 ほかく の対立 たいりつ はそれまでの〈一 いち 国 こく 型 がた 〉の壁 かべ を破 やぶ って地域 ちいき 全体 ぜんたい にまで拡大 かくだい した。その意味 いみ で,東南 とうなん アジアは地域 ちいき 紛争 ふんそう が激発 げきはつ する最 もっと も政情 せいじょう 不安 ふあん な地域 ちいき へと変貌 へんぼう していった。1955年 ねん のバンドンにおける第 だい 1回 かい アジア・アフリカ会議 かいぎ と非 ひ 同盟 どうめい 主義 しゅぎ の誕生 たんじょう といった時期 じき とは対照 たいしょう 的 てき である。
こうした内外 ないがい の危機 きき の深化 しんか に直面 ちょくめん して各国 かっこく が選 えら んだのは,より強力 きょうりょく な政府 せいふ による強権 きょうけん 的 てき な政治 せいじ の安定 あんてい ,別 べつ の言葉 ことば でいえば,国内 こくない 治安 ちあん 体制 たいせい の強化 きょうか と,他方 たほう そうした強 つよ い政府 せいふ が本格 ほんかく 的 てき に介入 かいにゅう した国家 こっか 主導 しゅどう 型 がた の経済 けいざい 開発 かいはつ 政策 せいさく の遂行 すいこう であった。このような新 あたら しい政治 せいじ の登場 とうじょう は,東南 とうなん アジアがナショナリズムの時代 じだい から近代 きんだい 化 か の時代 じだい に移行 いこう したこと,国権 こっけん か民権 みんけん かということが争 あらそ いの軸 じく となるデモクラシーの時代 じだい から国家 こっか 権力 けんりょく の強大 きょうだい 化 か に伴 ともな った権威 けんい 主義 しゅぎ 支配 しはい の時代 じだい に移 うつ ったこと,〈西側 にしがわ 寄 よ り〉とはいわれながら東西 とうざい 対立 たいりつ よりも南北 なんぼく 問題 もんだい へと対外 たいがい 政策 せいさく の基軸 きじく を移動 いどう させたこと,を物語 ものがた っていよう。
この〈開発 かいはつ 政治 せいじ 〉と呼 よ ばれるパターンは,まず経済 けいざい 政策 せいさく において著 いちじる しい特徴 とくちょう をもっている。それは,外資 がいし の導入 どうにゅう ,国家 こっか 主導 しゅどう ,国内 こくない 市場 いちば より外国 がいこく 市場 いちば への輸出 ゆしゅつ を目標 もくひょう とした輸出 ゆしゅつ 代替 だいたい 工業 こうぎょう の育成 いくせい ,といった点 てん にみられる。そして,何 なに よりも〈パイを大 おお きくすること(GNPの拡大 かくだい )〉に主眼 しゅがん が置 お かれ,それまで経済 けいざい 政策 せいさく の中心 ちゅうしん をなしてきた民族 みんぞく 間 あいだ ,階層 かいそう 間 あいだ の利害 りがい 調整 ちょうせい といった役割 やくわり が大 おお きく後退 こうたい している点 てん である。
また政治 せいじ においてはすでに触 ふ れたように,それまで政治 せいじ のおもな担 にな い手 て であった政党 せいとう ,そして議会 ぎかい を無力 むりょく 化 か し,国家 こっか を揺 ゆ るぎない無 む 謬(むびゆう)の存在 そんざい とし,それへの不平 ふへい ・不満 ふまん を反 はん 国家 こっか 的 てき として処罰 しょばつ するといった強権 きょうけん 政治 せいじ ,つまり権威 けんい 主義 しゅぎ 支配 しはい を樹立 じゅりつ しようとした点 てん が著 いちじる しい特徴 とくちょう となっている。軍 ぐん や警察 けいさつ が政治 せいじ における発言 はつげん 力 りょく を増 ま していったのもふしぎではない。
このような経済 けいざい 開発 かいはつ 政策 せいさく と政治 せいじ の安定 あんてい 政策 せいさく が互 たが いに他 た を正当 せいとう 化 か するといった権力 けんりょく の自己 じこ 完結 かんけつ 性 せい が強 つよ まったことのほかに,もう一 ひと つ新 あたら しい特徴 とくちょう が加 くわ えられた。それは,似 に たような性格 せいかく の政権 せいけん が,かつての〈西 さい か東 ひがし か〉という選択 せんたく ではなく,緩 ゆる やかな地域 ちいき 協力 きょうりょく 機構 きこう をつくり上 あ げ(東南 とうなん アジア諸国 しょこく 連合 れんごう ),一方 いっぽう では伝統 でんとう 的 てき な地域 ちいき 紛争 ふんそう に対 たい する自立 じりつ 的 てき な〈平和 へいわ 的 てき 解決 かいけつ 〉の枠組 わくぐ みを設 もう け,他方 たほう ,共通 きょうつう する〈政敵 せいてき 〉,例 たと えば共産党 きょうさんとう のゲリラ活動 かつどう には共同 きょうどう 軍事 ぐんじ 行動 こうどう によっておのおのの政権 せいけん の〈強靱 きょうじん 性 せい (レジリエンス)〉を高 たか めようとしたことである。
新 あたら しい潮流 ちょうりゅう --自立 じりつ 化 か と民主 みんしゅ 化 か 開発 かいはつ 政治 せいじ の登場 とうじょう はそれまでの東南 とうなん アジアを一変 いっぺん させた。それは第 だい 1に,発展 はってん 途上 とじょう 国 こく のモデルといわれるまでに,高度 こうど の経済 けいざい 成長 せいちょう を達成 たっせい し,南北 なんぼく 問題 もんだい への一 ひと つの答 こた えをなしているとされるからである。第 だい 2に,これまで頻発 ひんぱつ した地域 ちいき 紛争 ふんそう を極小 きょくしょう 化 か させた。もちろんベトナムをはじめとしたインドシナ諸国 しょこく との対立 たいりつ を抱 かか えているにしろ,大国 たいこく の介入 かいにゅう なしに,いやむしろ不 ふ 介入 かいにゅう による地域 ちいき 平和 へいわ の実現 じつげん への展望 てんぼう を切 き り開 ひら いた。そして第 だい 3に,東南 とうなん アジアはもはや何 なに かの一部 いちぶ ではなく,それ自体 じたい の役割 やくわり をもつにいたった。
しかし,開発 かいはつ 政治 せいじ は同時 どうじ に,貧富 ひんぷ の格差 かくさ を大 おお きくし,社会 しゃかい の根底 こんてい を揺 ゆ るがし始 はじ めた。こうした新 あたら しい社会 しゃかい 変動 へんどう に対 たい し,近代 きんだい 化 か の果実 かじつ をどう再 さい 配分 はいぶん すべきかという新 あたら しい問題 もんだい に直面 ちょくめん している。また,あまりにも巨大 きょだい になった治安 ちあん 機構 きこう や軍 ぐん の政治 せいじ 介入 かいにゅう に対 たい し,それを制限 せいげん し,より自由 じゆう な政治 せいじ を実現 じつげん することを迫 せま られている。加 くわ えて,一気 いっき に増大 ぞうだい した先進 せんしん 国 こく への依存 いぞん の体質 たいしつ をどう克服 こくふく するかが問 と われ始 はじ めた。
このような新 あたら しい課題 かだい はどれ一 ひと つとっても一 いち 国 こく だけで対応 たいおう しきれるものではないばかりか,大幅 おおはば な国内 こくない 政治 せいじ ・経済 けいざい の変革 へんかく なしには遂行 すいこう しうるものでもない。その意味 いみ で,国際 こくさい 環境 かんきょう やそれとの関係 かんけい が重要 じゅうよう 性 せい を増 ま しているといえる。
日本 にっぽん と東南 とうなん アジア今日 きょう の東南 とうなん アジアの対外 たいがい 関係 かんけい の中 なか で抜 ぬ きんでて重要 じゅうよう なのはアメリカ,中国 ちゅうごく ,日本 にっぽん との関係 かんけい である。なかでも日本 にっぽん は第 だい 2次 じ 大戦 たいせん の時代 じだい の軍事 ぐんじ 占領 せんりょう 以来 いらい ,特殊 とくしゅ な関係 かんけい をもっている。
戦後 せんご ,対 たい 日 にち 感情 かんじょう の改善 かいぜん と復興 ふっこう を目的 もくてき とした戦争 せんそう 賠償 ばいしょう 以来 いらい ,日本 にっぽん は一貫 いっかん して東南 とうなん アジアとは経済 けいざい 関係 かんけい を中心 ちゅうしん に相互 そうご 関係 かんけい を築 きず いてきた。しかし,市場 いちば ,資源 しげん の確保 かくほ とか投資 とうし 先 さき といったやや一方 いっぽう 的 てき な関係 かんけい になりがちであったことが,戦争 せんそう 時代 じだい 以来 いらい の反日 はんにち 感情 かんじょう と重 かさ なって,たびたび反日 はんにち 運動 うんどう (例 たと えば1974年 ねん のジャカルタ暴動 ぼうどう )の形 かたち をとって批判 ひはん されてきた。こうした紆余曲折 うよきょくせつ を経 へ て,今日 きょう では日本 にっぽん が東南 とうなん アジアにとって貿易 ぼうえき などの面 めん で最 さい 重要 じゅうよう 国 こく の一 ひと つとなっているばかりでなく,日本 にっぽん にとっても東南 とうなん アジアはアメリカに次 つ いで重要 じゅうよう な相手 あいて 先 さき となっている。このような相互 そうご 依存 いぞん の深 ふか まりは,相互 そうご 理解 りかい をいっそう進 すす めることを必要 ひつよう とするだけでなく,一方 いっぽう 的 てき になりがちな両者 りょうしゃ 間 あいだ の関係 かんけい を本格 ほんかく 的 てき に再 さい 構築 こうちく する必要 ひつよう があることをも意味 いみ する。
冷戦 れいせん 終結 しゅうけつ を機 き に,APEC (アジア太平洋 たいへいよう 経済 けいざい 協力 きょうりょく 会議 かいぎ )など多角 たかく 的 てき な協力 きょうりょく 関係 かんけい の樹立 じゅりつ が進 すす み,日本 にっぽん の新 あたら しい役割 やくわり が求 もと められている。東南 とうなん アジアの多様 たよう 性 せい という現実 げんじつ を踏 ふ まえた長期 ちょうき 的 てき 展望 てんぼう ,つまり自立 じりつ 化 か と民主 みんしゅ 化 か という新 あたら しい潮流 ちょうりゅう に沿 そ った相互 そうご 的 てき 関係 かんけい の樹立 じゅりつ が今 いま 問 と われている。執筆 しっぴつ 者 しゃ :鈴木 すずき 佑 たすく 司 し