(Translated by https://www.hiragana.jp/)
東南アジア(トウナンアジア)とは? 意味や使い方 - コトバンク

東南とうなんアジアみ)トウナンアジア英語えいご表記ひょうき)South-East Asia

デジタル大辞泉だいじせん東南とうなんアジア」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

とうなん‐アジア【東南とうなんアジア】

アジア南東なんとうインドシナ半島いんどしなはんとうマレー諸島しょとうからなる地域ちいき総称そうしょうミャンマータイラオスカンボジアベトナムマレーシアブルネイシンガポールインドネシアフィリピンひがしティモール諸国しょこくがある。SEA(Southeast Asia)。

出典しゅってん 小学館しょうがくかんデジタル大辞泉だいじせんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい

精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん東南とうなんアジア」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

とうなん‐アジア【東南とうなんアジア】

  1. ( アジアはAsia ) アジアのひがし南部なんぶ地域ちいきインドシナ半島いんどしなはんとうとマライ諸島しょとうとをふくめていう。ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、ブルネイ、ひがしティモールの諸国しょこくがある。
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「此年は東南とうなん亜細亜あじあ(トウナンアジヤ)は、すべまれなるべきこう季候きこうにて」(出典しゅってん内地ないち雑居ざっきょ未来みらいゆめ(1886)〈坪内つぼうち逍遙しょうようはち)

出典しゅってん 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい

改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん東南とうなんアジア」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

東南とうなんアジア (とうなんアジア)
South-East Asia

アジアの南東なんとうす。西にしからミャンマー,タイ,ラオス,カンボジア,ベトナムの5ヵ国かこく東南とうなんアジアの大陸たいりく形成けいせいし,マレーシア,シンガポール,インドネシア,ブルネイ,フィリピンの5ヵ国かこく東南とうなんアジアの島嶼とうしょかたちづくっている。かつて〈南洋なんよう〉ないし〈南方なんぽう〉としょうしていた地域ちいきを,〈東南とうなんアジア〉とぶようになったのは比較的ひかくてきあたらしく,太平洋戦争たいへいようせんそうのことである。〈東南とうなんアジア〉(あるいは〈東南とうなんアジヤ〉)というかたり自体じたいは,1930年代ねんだいすえころから,一部いちぶ研究けんきゅうしゃあいだもちいられたことがあるが,一般いっぱんには普及ふきゅうしなかった。戦後せんごもちいられるようになった〈東南とうなんアジア〉は,英語えいごのSouth-East Asia(米語べいごつづりSoutheast Asia)の訳語やくごで,それ以前いぜんの〈東南とうなんアジア〉とは由来ゆらいことにしている。

 ここでいう〈東南とうなんアジア〉の語源ごげんであるSouth-East Asiaというかたり歴史れきしはきわめてあたらしく,太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう造語ぞうごにすぎない。1943ねん南方みなかたしょ地域ちいき展開てんかいした日本にっぽんぐんたいする反攻はんこう作戦さくせん指揮しき統轄とうかつするため,連合れんごうぐんはセイロン(げん,スリランカ)にSouth-East Asia Command(東南とうなんアジアそう司令しれい)を設置せっちしたが,その名称めいしょう一部いちぶとしてもちいられたのが最初さいしょとされている。フランスの地理ちり学者がくしゃJ.デルベールが,このかたりを〈アングロ・サクソンのもちいた軍事ぐんじてき表現ひょうげん〉と説明せつめいしているのはこうした歴史れきしてき事情じじょうによる。日本にっぽんぐん作戦さくせん区域くいきは,当時とうじイギリスりょうビルマおよびマラヤ,フランスりょうインドシナ,オランダりょうひがしインド,アメリカりょうフィリピンという4植民しょくみんと,タイ王国おうこくかれており,それらを包括ほうかつするような地域ちいき呼称こしょうはなかった。そこで日本にっぽんぐん総称そうしょうとして〈南方なんぽう〉という呼称こしょう採用さいようしたが,連合れんごうぐんはこの地域ちいきに〈東南とうなんアジア〉という呼称こしょうあたえたのである。

 もっともSouth-East Asiaという言葉ことばが,それまでの英語えいごになかったわけではない。ややかたちことなるが,South-Eastern Asiaという表現ひょうげんは,すでに1839ねんにある旅行りょこう表題ひょうだいもちいられていた事実じじつ報告ほうこくされている。ただその意味いみ現在げんざいもちいられるSouth-East Asiaの一部いちぶ,すなわち東南とうなんアジア大陸たいりくのみをし,島嶼とうしょふくまないてん相違そういがみられる。したがって今日きょう東南とうなんアジア全域ぜんいきしめすにはSouth-East Asia and the Islandsといわなければならなかった。この用法ようほうは,最近さいきんまでイギリスの地理ちりしょなか踏襲とうしゅうされていた。

 あたらしくまれた〈東南とうなんアジア〉の概念がいねんにフィリピンをふくめるべきかどうかについては,はじ学者がくしゃあいだ議論ぎろんかれていた。東南とうなんアジアには,ふるくから各地かくちにインドてき原理げんりないし中国ちゅうごくてき原理げんりもとづく伝統でんとうてき国家こっか成立せいりつし,それぞれ独自どくじ歴史れきしてき発展はってんげていたが,ひとりフィリピンのみは,こうした外来がいらい文化ぶんか影響えいきょうをほとんどけず,部族ぶぞく国家こっか段階だんかいにとどまったまま,16世紀せいきにいたってスペインの植民しょくみんとなった。またそのも,スペインは政策せいさくじょう,フィリピンを東南とうなんアジアのほか国々くにぐにとより,むしろメキシコとむすびつけようとした,などの歴史れきしてき事情じじょうが,東南とうなんアジアにおけるフィリピンの取扱とりあつかいをめぐって異論いろんまれた理由りゆうかんがえられる。しかし1960年代ねんだい以降いこう,フィリピンを東南とうなんアジアにふくめることで研究けんきゅうしゃ意見いけん一致いっちし,現在げんざいにいたっている。

 1975ねんのベトナム戦争せんそう終結しゅうけつ契機けいきとして,東南とうなんアジアにはみっつの政治せいじブロックが成立せいりつした。タイ,マレーシア,シンガポール,インドネシア,フィリピン,ブルネイの6ヵ国かこく結成けっせいする東南とうなんアジア諸国しょこく連合れんごう(ASEAN(アセアン))と,ベトナムを中心ちゅうしんとし,ラオス,カンボジアをふくむインドシナ社会しゃかい主義しゅぎけんというふたつの地域ちいき連合れんごうと,そのいずれにもくみしないビルマ(げん,ミャンマー)がそれである(なお95ねんにベトナム,97ねんにラオスとミャンマー,99ねんにカンボジアが東南とうなんアジア諸国しょこく連合れんごう加盟かめいしている)。

 東南とうなんアジアはかつてヨーロッパじんによって〈こうインドFurther India(英語えいご),Hinterindien(ドイツ),l'Inde extérieureフランス語ふらんすご)〉とばれていた。ヨーロッパからみて,インドのかなたにある地方ちほうである。また古代こだいインドじんは,このを〈黄金おうごんSuvarṇabhūmi〉〈黄金おうごんしゅうSuvarṇadvīpa〉とんだ。一方いっぽう中国人ちゅうごくじんはこれを〈南海なんかい〉と総称そうしょうしていた。南方なんぽううみ経由けいゆして中国ちゅうごく朝貢ちょうこうした国々くにぐに,あるいは中国人ちゅうごくじん南方なんぽううみ到達とうたつすることのできた国々くにぐにである。もっとも〈南海なんかい〉の範囲はんいは,時代じだいくだるとともにしだいにその外延がいえん西方せいほう拡大かくだいし,やがてインド洋いんどよう,ペルシアわんから,アフリカの一部いちぶ沿岸えんがん地方ちほうをもふくめるようになった。

 東南とうなんアジアは,中国ちゅうごくとインドおよび西方せいほう諸国しょこく中間ちゅうかん位置いちしているため,ふるくから交易こうえきルートの中継ちゅうけいてんとして重要じゅうよう役割やくわりたしてきた。とくに交易こうえき媒介ばいかいとするインド文化ぶんか伝播でんぱは,東南とうなんアジアの各地かくちにインドてき原理げんりもとづく国家こっか成立せいりつさせることに貢献こうけんした。これにたいし,ベトナムは,ぜん2世紀せいき以来いらい中国ちゅうごくぐんけん支配しはいかれていたが,10世紀せいきにいたって独立どくりつ達成たっせいしたくにであり,文化ぶんかてきには中国ちゅうごく影響えいきょうつよい。こうした事情じじょうから,東南とうなんアジアにはインド文化ぶんかけん中国ちゅうごく文化ぶんかけんとフィリピンというみっつの文化ぶんかけん鼎立ていりつしている。
執筆しっぴつしゃ

東南とうなんアジアは島嶼とうしょ大陸たいりくけられる。気候きこうてきにみると,島嶼とうしょ湿潤しつじゅん熱帯ねったい気候きこうをもち,大陸たいりくモンスーン気候きこうをもつ。湿潤しつじゅん熱帯ねったいではいちねんつうじて多量たりょうあめがまんべんなくる。あさのうちはいくぶんすずしいが,にちちゅうになるときわめてあつくなり,やがて午後ごごおそくなるとスコールがきて,夕方ゆうがたになるとまたいくぶんすずしくなる,というのが典型てんけいてきなものである。大陸たいりくはそれをさらに二分にぶんして,みなみ半分はんぶん熱帯ねったいモンスーンたいきた半分はんぶん亜熱帯あねったいモンスーンたいけるのがより実際じっさいてきである。熱帯ねったいモンスーンたいではあめはふつう6がつから11月ころまでしからない。これが雨季うきである。12月になるとあめはまったくらなくなり,やがて3がつになると極度きょくど乾燥かんそうくわえて酷暑こくしょおそってくる。12月から5がつまでが乾季かんきである。亜熱帯あねったいモンスーンたいも,その基本きほんてきなもようは熱帯ねったいモンスーンのそれとおなじである。しかし,12月から2がつにかけてはかなり冷涼れいりょうあらわれる。熱帯ねったいモンスーンにあったようなひどい乾燥かんそう酷暑こくしょはなく,全体ぜんたいはいくぶん温和おんわ気候きこうといえる。

 以上いじょう気候きこうたい対応たいおうして,東南とうなんアジアにはみっつの植生しょくせいたいがある。熱帯ねったい降雨こううりんたいあめ緑林りょくりんたい照葉樹しょうようじゅりんたいである。熱帯ねったい降雨こううりん特徴とくちょうは,だい1に極端きょくたん多様たようしゅからなることであり,だい2にそれらは年中ねんじゅうきわめて旺盛おうせい生長せいちょうする常緑樹じょうりょくじゅからなることである。あめ緑林りょくりんはこれにたいしておおくの落葉樹らくようじゅ混入こんにゅう特徴とくちょうづけられる。乾季かんき乾燥かんそう,とくに酷暑こくしょ条件じょうけんがきわめてきびしく,おおくの樹木じゅもくはこのあいだとして生長せいちょう休止きゅうしするからである。種類しゅるいすくなく,その生育せいいく密度みつどひくい。亜熱帯あねったいモンスーンたいでは乾季かんききびしさはかなりやわらぎ,ふたた常緑じょうりょく世界せかいになる。しかし,ここでは熱帯ねったい降雨こううりんのような極端きょくたんおおしゅ旺盛おうせい生長せいちょうはない。森林しんりんにはかぎられた優勢ゆうせいしゅあらわれて,どちらかというと,こぢんまりとしてくる。これはひろ意味いみでいえば,日本にっぽんにもつづいてくるいわゆる照葉樹しょうようじゅりんたいである。

 一方いっぽう東南とうなんアジアは地形ちけいてきにみるといつつの部分ぶぶん大陸たいりくが3部分ぶぶん島嶼とうしょが2部分ぶぶん)にけられる。それらはきたより,山地さんち丘陵きゅうりょう平原へいげん,デルタ,それに島嶼とうしょにおける低地ていちたいこう地区ちくである。山地さんちとはヒマラヤから雲南うんなん広西ひろせにかけてつづ山地さんちみなみえんかんがえてよい。ミャンマーのカチンしゅうとシャンしゅう,タイ北部ほくぶ,ラオス北部ほくぶ,ベトナム北部ほくぶ一部いちぶがこの地域ちいきはいる。標高ひょうこう1000~2000mのやまなみがつづき,そのあいだおおくのささえたにはしり,盆地ぼんち点在てんざいする。ここはちょうどさき照葉樹しょうようじゅりんたいにあたっている。その結果けっか,ここはふか常緑じょうりょくしげみでおおわれた山腹さんぷくと,そのあいだって渓流けいりゅうながれるという景観けいかん特徴とくちょうてきとなる。これはたとえてみれば,西日本にしにほん山地さんち景観けいかんている。

 山地さんちみなみくと高度こうどげ,やがて丘陵きゅうりょう平原へいげんひろがり,もっと海岸かいがんちかづくとデルタがあらわれてくる。この丘陵きゅうりょう平原へいげんとデルタはちょうどあめ緑林りょくりんたい一致いっちする。丘陵きゅうりょう平原へいげん景観けいかんは,しかし今日きょうでは実際じっさいにはあめ緑林りょくりんというよりもむしろサバンナにている。これはすでにこの地域ちいき森林しんりん大幅おおはば破壊はかいされ,いわば一種いっしゅ植生しょくせい形成けいせいしているからである。山地さんちにみられたようなふかやま涵養かんようされた渓流けいりゅうがないから,全体ぜんたい水気みずけのない殺伐さつばつとしたかんじをあたえる。そのくせいちがくると保水ほすいせいがないので一気いっき洪水こうずいこす。ここはいわばインド大陸たいりく環境かんきょうである。デルタは大河たいが堆積たいせき完了かんりょうしたばかりのところであり,標高ひょうこう2mぐらいのてい平面へいめん延々えんえんつづく。このてい平地ひらち雨季うきには全域ぜんいきすうじゅうcmから1mちか水没すいぼつし,ぎゃく乾季かんきには全体ぜんたい完全かんぜん干上ひあがってしまう。ここは気候きこうてきにはあめ緑林りょくりんたいはいるが,実際じっさいにはこうしたみずぶん環境かんきょうのためにえない。だい部分ぶぶんところたかい禾本(かほん)(イネ)かカヤツリグサくさおおわれることになる。イラワジがわメナム川めなむがわメコンがわ河口かこうには,もともとはこういうところひろひろがっていた。

 島嶼とうしょ原則げんそくとしてはそのすべてが熱帯ねったい降雨こううりんたいである。しかし,ここでは特殊とくしゅ環境かんきょうとして島嶼とうしょだか地区ちく区別くべつしたほうがより実際じっさいてきである。こう地区ちくたとえば,そびえ火山かざん周辺しゅうへん特別とくべつたか山塊さんかい地域ちいきである。これらの高地こうちはその高度こうどのゆえに熱帯ねったい降雨こううりんそとにつきており,いわば常春とこはる気候きこう条件じょうけんをもっている。高度こうどてきにみて,こうした環境かんきょうもっともつくりやすいのは,標高ひょうこう700~1200mぐらいである。ここでは旺盛おうせいすぎる森林しんりん生育せいいくよわまり,人間にんげんにとってみよい環境かんきょう用意よういされている。

うえにみたいつつの生態せいたいには,それぞれに特有とくゆう人間にんげん活動かつどうがみられる。

(1)山地さんち 山地さんちひとつの生態せいたいである。しかし,この複雑ふくざつ生態せいたいふたつのことなった環境かんきょう複雑ふくざつんだところかんがえたほうがよい。照葉樹しょうようじゅりんおおわれた山腹さんぷくと,水田すいでんのみられるたにすじ盆地ぼんちである。前者ぜんしゃ焼畑やきばたみん空間くうかんであり,後者こうしゃ水稲すいとう耕作こうさくみん空間くうかんである。焼畑やきばたみん乾季かんきあいだもりたおし,雨季うき直前ちょくぜんにそれをき,その直後ちょくごそこに播種はしゅする。もっとおおつくられるものはトウモロコシ陸稲おかぼであるが,あわやシコクビエなどの雑穀ざっこく豆類まめるいふりるい,それにおおくの野菜やさいるいつくられる。これらの作物さくもつはしばしば同一どういつはたけこんしかつくられ,それがいったいなにはたけであるのかわからないようなさまをていすることがある。どういちしょを2~3ねん連続れんぞくして使用しようすると,もうそこでの耕作こうさくをやめ,あらたにべつもりってあたらしいはたけひらく。こうしてふたたもと場所ばしょかえるのは,すくなくとも5~6ねん,ふつうは10ねんぐらいってふたたびそこがりんおおわれるようになってからである。これは連作れんさくしていると,土壌どじょう肥沃ひよく低下ていかし,雑草ざっそうがはびこり,収量しゅうりょうちるからだといわれている。

 その農法のうほう粗放そほうであり,移動いどうせいがあるから,焼畑やきばた原始げんしてき土地とち利用りようだとの印象いんしょうあたえる。しかし,他面ためんではもり精霊せいれいれい信仰しんこうときわめてみつむすびついていて,農耕のうこう儀礼ぎれいというてんではもっと複雑ふくざつ体系たいけいをもっている。また確立かくりつした輪作りんさく混作こんさく体系たいけいをもつこともあり,原始げんし農耕のうこう簡単かんたんめつけることもできない。焼畑やきばたはいわばもりという環境かんきょうなかされたひとつの能率のうりつのよい農耕のうこう形態けいたいである。ただ最近さいきんでは人口じんこうあつ増大ぞうだい焼畑やきばたサイクルの短縮たんしゅく余儀よぎなくされ,森林しんりん消滅しょうめつ草地くさち拡大かくだいこっている。このことはとりもなおさず焼畑やきばた基盤きばん喪失そうしつであり,焼畑やきばたはこの意味いみでは消滅しょうめつみちをたどっているといわねばならない。

 たにすじ盆地ぼんちおこなわれる稲作いなさく灌漑かんがい移植いしょくほうである。渓流けいりゅうたくみに井堰いせきをかけ,そこから水路すいろみずいて,十分じゅうぶんだい搔き(しろかき)をしたわかなえをていねいにえてゆく。その稲作いなさく方法ほうほう日本にっぽんのそれとほとんどわらない。歴史れきしてきにみると,こうしたたにすじ盆地ぼんちには,12~13世紀せいきころからこの灌漑かんがい移植いしょくほうによる稲作いなさく立脚りっきゃくした王国おうこくさかすようである。たとえば14世紀せいきころのチエンマイ盆地ぼんち(タイ北西ほくせい)の景観けいかんつぎのようなものであったと想像そうぞうされる。盆地ぼんち中央ちゅうおうには城壁じょうへきかこまれた王城おうじょうがあり,それをとりまいて仏教ぶっきょう寺院じいん市場いちばがある。市場いちばには金銀きんぎんこううるしこう陶工とうこうなどのかたまる一角いっかくがあり,一角いっかくにはインドや中国ちゅうごく舶載はくさいひんならべるみせがある。土地とち物産ぶっさんならべる露店ろてんもある。ここは当時とうじ東南とうなんアジアのなかではもっともにぎやかな市場いちばであり,文化ぶんかいきあつまるところである。王城おうじょうのまわりにはよく整備せいびされた水田すいでん山麓さんろくまでひろがっている。こうした盆地ぼんちが,山地さんちには,チエンマイのほかにもいくつもあったようである。現在げんざいではこれらの王城おうじょうはもうはいじょうになっているが,いまでもなおここがこのあたりの文化ぶんかてき中心ちゅうしんであることにはかわりがない。

 盆地ぼんち農村のうそんはきらびやかさこそないが,これまたよく組織そしきされた社会しゃかいをもっていた。かれらが耕作こうさくしたは,かれらの先祖せんぞあせながして営々えいえいときずきあげた灌漑かんがい水路すいろ整備せいびされた美田びでんである。だからかれらは最大限さいだいげん注意ちゅういはらってそれを維持いじし,改良かいりょうして次代じだいゆずわたさねばならない。盆地ぼんち水稲すいとう耕作こうさくみんはかくして,土地とちたいして執着心しゅうちゃくしんがあり,責任せきにんかんがある。また灌漑かんがい施設しせつ建設けんせつ維持いじのためには,おな部落ぶらくひとたちとの共同きょうどう作業さぎょう必要ひつようになってくる。またられたみず配分はいぶんのための協議きょうぎ必要ひつようになる。こうして,かれらには地域ちいき社会しゃかいたいする帰属きぞく意識いしきつよ要求ようきゅうされることになる。ちょうどそれは,戦前せんぜん日本にっぽん農村のうそんたものである。もっとも,この東南とうなんアジアの盆地ぼんち農村のうそんは,景観けいかんてきには日本にっぽんのそれとはもちろんことなる。差異さいてん最大さいだいのものは,ここの農家のうかがいずれもすずしそうな高床たかゆかづくりになっていることである。1かいゆかは1.5~2mぐらいのたかさのところにつくられている。いえのまわりの菜園さいえんにバナナがだつのもちがいのうちのおおきなものである。

(2)丘陵きゅうりょう平原へいげん これはマンダレー以南いなんのミャンマー,中部ちゅうぶタイ,東北とうほくタイ,カンボジアなどをふくんでいる。この地域ちいき土地とち利用りよう歴史れきしつうじて,およそ3段階だんかい変容へんようげてきた。これは原初げんしょあめ緑林りょくりん破壊はかいされて今日きょう景観けいかんにいたる過程かていかんがえてよい。だい1の段階だんかいは,人々ひとびとがこのあめ緑林りょくりんから樹脂じゅしみつ蠟を多量たりょう採集さいしゅうし,わずかばかりの焼畑やきばたおこなっていた段階だんかいである。このとき,あめ緑林りょくりんはまだ健在けんざいであった。これはほぼ12~13世紀せいきぐらいまでつづいたのではないかとかんがえられる。だい2の段階だんかいは,焼畑やきばたによるあめ緑林りょくりん破壊はかいすすみ,森林しんりん物産ぶっさん採集さいしゅうがあまり期待きたいできなくなった段階だんかいである。このだい2の段階だんかいおこなわれた土地とち利用りよう焼畑やきばたてん水田すいでん放牧ほうぼく組合くみあわせである。たとえばタイの場合ばあい,アユタヤあさ,ラタナコーシン(バンコク)あさつうじ,多量たりょううし水牛すいぎゅうかわ武具ぶぐよう皮革ひかくとして日本にっぽんおくされた。19世紀せいき後半こうはんになっても放牧ほうぼく重要じゅうようせいはまだつづいている。デルタ地域ちいき農耕のうこうよう多数たすう水牛すいぎゅう必要ひつようとしたからである。だい3の段階だんかいだい2大戦たいせんこっている。戦後せんごおおきな変化へんかは,ひとつはてん水田すいでん拡張かくちょうであり,もうひとつは放牧ほうぼくえ,ここに畑作はたさくひろがりしたことである。放牧ほうぼくえた直接ちょくせつ原因げんいんは,デルタの稲作いなさくうしこうからトラクターこうえられたことにある。かつての放牧ほうぼくようのやぶの一部いちぶはトウモロコシ・モロコシ二毛作にもうさくはたけやキャッサバはたけわった。トウモロコシやモロコシは家畜かちく飼料しりょうとして,キャッサバは工業こうぎょうよう食糧しょくりょうようのデンプンとして多量たりょう日本にっぽんなどに輸出ゆしゅつされるようになったからである。

 戦後せんご変化へんか統計とうけいうえでみるとざましいものである。しかし,現実げんじつにはけっして問題もんだいがないわけではない。さきにもべたように,ここは本来ほんらい非常ひじょう水不足みずぶそく地帯ちたいであり,それがここの土地とち利用りようをきわめて困難こんなんなものにしている。たとえば,現存げんそんする水田すいでん例年れいねんその半分はんぶんぐらいしか利用りようされていない。水不足みずぶそく播種はしゅ植付うえつけができないからである。かんばつねんにはぜん水田すいでん面積めんせきの4ぶんの3ぐらいが収穫しゅうかくゼロという状態じょうたいになる。山地さんちのような安定あんていした水源すいげんがないから,生活せいかつすい人為じんいてきった溜池ためいけ井戸いどたよらねばならない。乾季かんきになると,みずもとめてなにkmもある風景ふうけいいまでもけっしてめずらしくない。人々ひとびとがいかにつよいけ依存いぞんしなければならなかったかは,たとえば東北とうほくタイにのこすうひゃくかんほり集落しゅうらく遺跡いせきをみても想像そうぞうがつく。ここではかつて人々ひとびと部落ぶらく全体ぜんたいほりかこって生活せいかつしていたのである。それは防御ぼうぎょようであると同時どうじに,乾季かんきみずるためのものであったとかんがえられる。

 平原へいげんでは山地さんち移植いしょくほうとちがって,だい部分ぶぶんところ播法が採用さいようされている。脱穀だっこくほう山地さんちおこなちつけしきちがって,いねたば水牛すいぎゅうませるインドけいのものが採用さいようされている。人々ひとびと山地さんち常食じょうしょくにされているもちまいきらって,ぱさぱさのインドいねこのむ。平原へいげんはその自然しぜん環境かんきょうがインドに類似るいじしている。そして,このインドてき環境かんきょううえにインド起源きげん文化ぶんか色濃いろこおおいかぶさっている。

(3)デルタ いちねんのうち半年はんとし水没すいぼつし,半年はんとしみずもなくなるくらい乾燥かんそうするデルタは人間にんげんところではなかった。これが人間にんげん利用りようされるようになるのは19世紀せいき後半こうはんになってからである。当時とうじ植民しょくみん経済けいざいべいたいする需要じゅよう急増きゅうぞうさせた。こうした国際こくさい経済けいざいうごきに反応はんのうして,巨大きょだいこめプランテーションとして登場とうじょうしてくるのがデルタである。デルタ開発かいはつは,たたえすい乾燥かんそう交互こうごするだい草原そうげん運河うんがもうりめぐらすという方法ほうほうによっておこなわれた。こうすることによって,まず舟運しゅううん確保かくほすることができた。げた堤防ていぼう雨季うきにも水没すいぼつしないたかみとなった。また運河うんがそのものは乾季かんきみず供給きょうきゅうした。こうして運河うんが沿いは生活せいかつ可能かのう場所ばしょになったわけである。ひとたび居住きょじゅうさえ可能かのうになれば,草原そうげんそのものの稲田いなだへの転換てんかんはそれほど困難こんなんなことではない。なぜならば,雨季うきたたえすいはせいぜいが1mぐらいであり,これはたか熱帯ねったいいねにとってはけっしてえられないふかさではないからである。人々ひとびと洪水こうずいのやってくるまえ,5月ころにそこを水牛すいぎゅうこうおこし,もみ播した。こうしておくと,いね雨季うきたたえすいのもとに生長せいちょうし,年末ねんまつになってみずえるころには立派りっぱみのった。いわゆるデルタの栽培さいばいである。しょによっては水深すいしんが2~3mになることもある。しかし,そうしたところでもおな手法しゅほうつくられる。ただ品種ひんしゅだけは深水ふかみえうるような特別とくべつなものがもちいられる。いわゆる浮稲である。

 雨季うきだいたたえすいはデルタをさかなたす。12月,1がついね収穫しゅうかくであると同時どうじに,さかな収穫しゅうかくでもある。このようにデルタはいね淡水魚たんすいぎょ宝庫ほうこである。しかしぎゃくにいえば,デルタはいねさかなしかないところということでもある。デルタはこの意味いみでは単調たんちょうそのものである。デルタの単調たんちょうせい画一かくいつせいはそのめんでもみとめられる。たとえば,ここは見渡みわたかぎりの稲田いなだつづいているだけで,小山こやまもなければ,しげみさえない。ただそのなか直線ちょくせんじょう運河うんがいくすじ等間隔とうかんかくはしっており,運河うんが沿いにこれも等間隔とうかんかくで,どれもこれもたような高床たかゆかいえならぶだけである。いえ配置はいちがこんなぐあいであるから,村人むらびとはふつう自分じぶんむら境界きょうかいらない。かたまりむらで,しまりのあるむらになれしたしんだ日本人にっぽんじん感覚かんかくからすると,ここにはまるでむらがない。こうした状況じょうきょうが100km四方しほう以上いじょうにわたってただ延々のびのびひろがる。デルタはその景観けいかん生活せいかつもそして社会しゃかいまでが,ちょうどその地形ちけいおなじようにきわめて単調たんちょう画一かくいつてきかくいている。

 デルタはしかし,たったひとつだけきわめて巨大きょだいかくをもっている。それはしゅである。ラングーン(ヤンゴン),バンコク,サイゴン(ホー・チ・ミン)の巨大きょだい都市とし忽然こつぜんとこの単調たんちょう空間くうかんにそびえっている。デルタとはそうじて人工じんこうてき空間くうかんである。

(4)島嶼とうしょ低地ていちたい これはさきべたようにもり世界せかいである。ふるくからジンコウ,リュウノウなどの香木こうぼく,コショウ,チョウジなどの香料こうりょう採集さいしゅうされてインドや中国ちゅうごくはこされた。ひがしボルネオのクテイ地方ちほうにはすでに5世紀せいきにはこうした物産ぶっさん取扱とりあつかいを基盤きばんとする王国おうこくがあったといわれている。ふるくは採集さいしゅうのみにたよっていたもり物産ぶっさんは,ヨーロッパの植民しょくみん勢力せいりょくはいってくると,栽培さいばいによる増産ぞうさんへとえられてゆく。はじめはコショウとチョウジの栽培さいばいであったが,やがてその比重ひじゅうはコーヒーとゴムにうつされていった。だい2大戦たいせんはアブラヤシがあたらしい作物さくもつとしてあらわれ,チョウジとコーヒーがふたたいきおいをかえしている。

 戦前せんぜんはこうした作物さくもつ栽培さいばいはヨーロッパじん経営けいえいするエステートでおこなわれることがおおかった。広大こうだい地域ちいきもりひらかれ,その全面ぜんめん単一たんいつ種類しゅるい作物さくもつえられ,それはエステートないみこんだ農園のうえん労務者ろうむしゃによって維持いじ管理かんりされた。このだい規模きぼ組織そしきてき経営けいえいは,いまでもマレまれ半島はんとうのゴムえんやアブラヤシえんにはみとめられる。戦後せんごはしかし,こうしたエステートにわって,普通ふつう農民のうみんによる小規模しょうきぼ商品しょうひん作物さくもつ栽培さいばいびてきている。農民のうみん最初さいしょもりややぶをくとそこに陸稲おかぼやトウモロコシをてん播する。いわゆる焼畑やきばた耕作こうさくおこなうわけである。しかしこのとき,同時どうじ陸稲おかぼやトウモロコシのあいだにコーヒーやチョウジのわかなええる。2ねんすこおおきくなったコーヒーなどのあいだにもう一度いちど陸稲おかぼとトウモロコシをてん播する。3ねんになるとコーヒーなどがおおきくなっているので,もう穀物こくもつえられない。そうすると,またあたらしいもりいてそこに穀物こくもつてん播しコーヒーなどの苗木なえぎえる。かれらはこうして毎年まいとし焼畑やきばたおこないながら,すこしずつそれをコーヒーやチョウジはたけえることによって,6~7ねんにはりっぱなコーヒーやチョウジのえんぬしになる。こうなると,かれはもう焼畑やきばたによる開墾かいこんはやめて,もっぱら園地えんち世話せわ専心せんしんし,食糧しょくりょう外部がいぶから購入こうにゅうするようになる。たような焼畑やきばたおこなうとはいえ,こうして島嶼とうしょ低地ていちたい農民のうみんは,大陸たいりく焼畑やきばたみんくらべるとはるかにつよ商品しょうひん作物さくもつ栽培さいばい指向しこうしている。

 1960年代ねんだいはいってからの島嶼とうしょ低地ていちは,うえべたあまりに商品しょうひん作物さくもつ偏重へんちょうした農業のうぎょうからの脱皮だっぴ努力どりょくをしている。それは具体ぐたいてきには,それまでほとんどかえりみられなかった海岸かいがん低湿ていしつ水田すいでんというかたちですすめられている。しかし,これはかならずしも容易よういには進展しんてんしていない。理由りゆうは,その地盤じばんがしばしばあつ腐植ふしょくのみでおおわれ,またからみった集積しゅうせきのみからなっているからである。農民のうみんあいだ水稲すいとう耕作こうさく伝統でんとうがないということも理由りゆうひとつである。かれらはいま湿地しっちおおう灌木やくさ山刀やまがたなでたたきり,地面じめんそのものにはなんこうおこりおこなわないでいね移植いしょくするという方法ほうほういねつくっている。ほんとうの意味いみでの水稲すいとう耕作こうさく確立かくりつするまでにはいましばらく時間じかんがかかりそうである。

(5)島嶼とうしょだか地区ちく 島嶼とうしょ高地こうち典型てんけいれいはスマトラのバタクぞくやスラウェシ(セレベス)のトラジャぞく居住きょじゅうである。これらの居住きょじゅう平均へいきん標高ひょうこうやく1000mである。これらの人々ひとびとおおくはすうせんねんむかし大陸たいりく山地さんちから南下なんかしてきた焼畑やきばたみんかんがえられている。かれらはこの高地こうち到着とうちゃく外界がいかい隔絶かくぜつされた状況じょうきょうつづけてきただけに,きわめて特異とくい文化ぶんかをもっている。外来がいらいしゃがこのおとずれてまず最初さいしょおどろくことはそのりっぱな家屋かおくである。ふとはしらがふんだんに使つかわれ,頑丈がんじょう構造こうぞうをもち,はしらはりかべのあらゆる部分ぶぶん彫刻ちょうこくおおわれている。全体ぜんたいがまた特有とくゆう洗練せんれんされたかたちをもっている。こうしたいえが5~6からじゅうすうかたまりをつくり,屋敷やしきりんかこまれて,尾根おねすじ見晴みはらしのよいところっている。そのたたずまいだけからでも,ここがすでに熟成じゅくせいした文化ぶんかをもっていることがかんじられる。

 農業のうぎょうからもおなじようなことがいえる。かれらの農業のうぎょう本来ほんらい焼畑やきばた系列けいれつれられるべきものである。したがって,焼畑やきばたのもつ古層こそう要素ようそ随所ずいしょみとめられる。たとえば,かれらはふつう4~5cmのすすき(のぎ)があり,しばしばあかくろいろのついた大粒おおつぶいねつくる。これはブルいねばれていて,そのむかし大陸たいりく山地さんちからはこんでこられた特別とくべつ品種ひんしゅである。このブルいね平原へいげんやデルタや島嶼とうしょ低地ていちたいつくられるすすきのインドいねとはまったくちがう。これは古層こそうあらわいち要素ようそである。しかし一方いっぽう同時どうじかれらはすでにたんなる焼畑やきばただっして独自どくじ発展はってんをもしている。このことはたとえば蹄耕稲作いなさくあらわれている。蹄耕とはごしらえを水牛すいぎゅうの蹄(ひづめ)でおこなうものである。5~6とうから,ときには20とうぐらいの水牛すいぎゅうを1まいいこみ,その水牛すいぎゅうあるきまわらせ,これでもってくさころどろやわらかくして,うえづけ準備じゅんびとするのである。山刀やまがたなぼうだけしかもたなかった焼畑やきばたみんが,その焼畑やきばた体系たいけいなかから水稲すいとう耕作こうさくそうとするとき創出そうしゅつした方法ほうほうである。島嶼とうしょだか地区ちくではこのように古層こそう要素ようそうえに,独自どくじ文化ぶんか熟成じゅくせいしている。

 かりに,ブルいねと蹄耕の組合くみあわせを島嶼とうしょだか地区ちくしるべしきてき文化ぶんか要素ようそとすると,この組合くみあわせは,さきべたスマトラ,スラウェシのほかに,ボルネオ,フィリピン,海南かいなんとう,そして沖縄おきなわ諸島しょとうにみられる。島嶼とうしょだか地区ちくひとつの特徴とくちょうはすでにれたように孤立こりつせいである。それにもかかわらず,この分布ぶんぷはこの文化ぶんかがいつの時点じてんにかうみわたってすさまじいいきおいで拡散かくさんしたことをしめしている。そしてこの文化ぶんかは,最後さいごには黒潮くろしおって日本にっぽん南端なんたんにまでいたったかのようである。
執筆しっぴつしゃ

民族みんぞくがくてき意味いみにおける東南とうなんアジアの民族みんぞくとは,大陸たいりくでは西にしはアッサム(インド北東ほくとう)の山地さんちみんからひがしベトナムじんまでをふくむが,きた境界きょうかいはあまり明瞭めいりょうでなく,中国ちゅうごく西南せいなん少数しょうすう民族みんぞく事実じじつじょうインドシナ北部ほくぶしょ民族みんぞく延長えんちょう連続れんぞくである。島嶼とうしょかんしては,その西端せいたんはベンガルわんアンダマン諸島しょとうニコバル諸島しょとう原住民げんじゅうみんやスマトラの西にし離島りとう原住民げんじゅうみんであるが,アフリカ大陸たいりくひがしにあるマダガスカルとう住民じゅうみんも,その言語げんご文化ぶんか系統けいとうからいえば,東南とうなんアジアにふくめてよい。北東ほくとうはし台湾たいわん原住民げんじゅうみん高山たかやまぞく)であり,南東なんとうはカイ諸島しょとう,アルー諸島しょとう原住民げんじゅうみんまでであって,ニューギニア島民とうみん東南とうなんアジアにれない。またミクロネシアでもマリアナ諸島しょとうチャモロぞくやパラオしょ島民とうみん言語げんご系統けいとうじょう東南とうなんアジアにれることができるが,ふつう民族みんぞく学的がくてきにはかれらはオセアニアとしてあつかっている。

東南とうなんアジアには採集さいしゅう狩猟しゅりょうみん文化ぶんかからこう文化ぶんかにいたるさまざまな生活せいかつ様式ようしき存在そんざいしている。採集さいしゅう狩猟しゅりょうみんとしてはアンダマンしょ島民とうみんマレまれ半島はんとうのセマンぞく,ルソンとうのアエタぞくなどネグリト総称そうしょうされるしょ民族みんぞくのほか,きたタイからラオスにかけてのピー・トン・ルアンぞく,ボルネオのプナンぞく,アルー諸島しょとう奥地おくち住民じゅうみんがある。またメルギー(ベイ)諸島しょとうマレまれ半島はんとう南端なんたんからインドネシア,フィリピン南部なんぶひろ分布ぶんぷする漂海みん(モーケン,オラン・ラウト,バジャウなど)がいる。ボルネオやモルッカ諸島しょとうには,野生やせいのサゴヤシの採集さいしゅう重要じゅうよう生業せいぎょう活動かつどうで,しゅとしてそれによって生活せいかつする集団しゅうだんもあるが,その文化ぶんかは,ニューギニアの場合ばあい同様どうように,周囲しゅうい農耕のうこうみん文化ぶんか大差たいさなく,農耕のうこうみん文化ぶんかからの派生はせいぶつうたがいがい。

 農耕のうこうみんおおきくみてつぎの3しゅかれる。(1)穀物こくもつ栽培さいばいおこなわず,イモるい果樹かじゅ栽培さいばいする人々ひとびとで,東南とうなんアジア島嶼とうしょ東西とうざい周辺しゅうへん,すなわちベンガルわん,スマトラの西にし諸島しょとう,モルッカ諸島しょとう一部いちぶ分布ぶんぷし,オセアニアの農耕のうこう文化ぶんか共通きょうつうせいしめす。(2)穀物こくもつ焼畑やきばた耕作こうさくみんで,東南とうなんアジアの山地さんちみん圧倒的あっとうてき多数たすうはこの部類ぶるいはいる。全域ぜんいきつうじて陸稲おかぼ作物さくもつとして主導しゅどうてきであるが,ただ台湾たいわんはアワなどの雑穀ざっこく栽培さいばい地域ちいきである。(3)平地ひらち水稲すいとうすきこうみんで,大陸たいりくにおいても島嶼とうしょにおいても,ミャンマー,タイ,ラオス,カンボジア,ベトナム,ジャワ,バリなどで国家こっかをつくりあげた民族みんぞくはこの部類ぶるいはいる。以上いじょう3しゅのほかに,アッサム,ルソン,スラウェシなどに,水稲すいとう耕作こうさくみん一種いっしゅとして,山地さんち居住きょじゅうし,すきもちいないで棚田たなだ耕作こうさくおこな民族みんぞくがいる。

 マレーシア,インドネシア,フィリピンには,海岸かいがん居住きょじゅうし,おおくの場合ばあい農耕のうこう漁労ぎょろうあわおこなうものの,貿易ぼうえきおおきな比重ひじゅうめる生活せいかつ様式ようしきがある。みなみスラウェシのブギスぞくマカッサルぞくなどがその代表だいひょうしゃであるが,歴史れきしてきにはスマトラのスリウィジャヤ王国おうこく,ベトナムのチャンパ王国おうこくもこのような生活せいかつ形態けいたい背景はいけいとしていた。

 東南とうなんアジアにおいては,あたらしい生活せいかつ様式ようしき登場とうじょうしても,ふる生活せいかつ様式ようしき完全かんぜん消滅しょうめつすることなく共存きょうぞんする傾向けいこうつよい。しかしたとえば,今日きょう採集さいしゅう狩猟しゅりょうみんは,旧石器時代きゅうせっきじだい生活せいかつ様式ようしきをそのまま保存ほぞんしてきたのではなく,農耕のうこうみん存在そんざいすることを前提ぜんていとして特殊とくしゅ発展はってんげた採集さいしゅう狩猟しゅりょうみんであるように,共存きょうぞんによって民族みんぞくあいだ関係かんけい体系たいけいまれ,また変化へんかしていくのである。

東南とうなんアジア大陸たいりくにおけるおもな語族ごぞくとしては,アウストロアジア(みなみアジア)語族ごぞくのモン・クメール,シナ・チベット語族ごぞくチベット・ビルマ,カム・タイタイ諸語しょご),アウストロネシア(南島みなみじま語族ごぞくインドネシア(ヘスペロネシア)がある。

 モン・クメールはインドのムンダ諸語しょごとともにアウストロアジア語族ごぞく形成けいせいしており,このかたり言語げんごはな人々ひとびと採集さいしゅう狩猟しゅりょうみん(ピー・トン・ルアン,セマン),穀物こくもつ焼畑やきばた耕作こうさくみんラメートぞくぞくなど),平地ひらち水稲すいとうすきこうみんモンぞくクメールぞく,ベトナムじん)というように,さまざまな生活せいかつ様式ようしきにわたっている。おそらく後期こうきしん石器せっき時代じだいころに穀物こくもつ焼畑やきばた文化ぶんかをもって拡大かくだいし,ほぼ今日きょう分布ぶんぷ領域りょういきめるようになったとおもわれる。採集さいしゅう狩猟しゅりょうみんでモン・クメールはな民族みんぞくは,過去かこにおいてモン・クメールけい農耕のうこうみんから言語げんご受容じゅようしたものであろう。クメールぞくふくめて東南とうなんアジアのこう文化ぶんかしょ民族みんぞくはインド文明ぶんめい影響えいきょうつよけてきたが,ベトナムじん土着どちゃく初期しょき金属きんぞく文化ぶんか基礎きそうえ中国ちゅうごく文化ぶんか影響えいきょうけて,その文化ぶんか発達はったつさせた。

 チベット・ビルマ原郷はらごうはおそらく中国ちゅうごく西南せいなんからチベットにかけての地域ちいきおもわれる。その初期しょき移動いどうあきらかでないが,3世紀せいきころからのピューぞくの,いで9世紀せいきころからのビルマぞくのビルマ(げん,ミャンマー)における台頭たいとうは,雲南うんなんからビルマにはいるチベット・ビルマすうにわたる移動いどうなみれいである。

 カム・タイ中国ちゅうごく南部なんぶ原郷はらごうとしていたが,この言語げんごはな民族みんぞくは,おそらく紀元きげんになって,水稲すいとうすきこう鉄器てっきという技術ぎじゅつ,および封建ほうけんてき政治せいじ組織そしきをもって河谷こうだにづたいに移動いどう開始かいしし,徐々じょじょインドシナ半島いんどしなはんとう進出しんしゅつしていった。その歴史れきしにおけるひとつのは13世紀せいきで,西にしはアッサムからきたビルマ,タイをて,ひがしはラオスにかけてのインドシナ,ことにその北部ほくぶ各地かくちにおいて一斉いっせい王国おうこく形成けいせいされ,東南とうなんアジア大陸たいりくにおいてカム・タイ民族みんぞく地位ちい確定かくていした。

 現在げんざい言語げんご民族みんぞく分布ぶんぷをみると,チベット・ビルマとカム・タイは,かなり連続れんぞくしたまとまった分布ぶんぷしめしているのにはんし,アウストロアジア語族ごぞくひろ分散ぶんさんし,その分布ぶんぷはカム・タイやチベット・ビルマによって分断ぶんだんされている。この分布ぶんぷ状態じょうたいは,すでに先史せんし時代じだいにおいてアウストロアジア語族ごぞく東南とうなんアジア大陸たいりくだい部分ぶぶんめていたところに,きたからチベット・ビルマとカム・タイ南下なんかし,ことに歴史れきし時代じだいおおきく発展はってんして各地かくちでアウストロアジア語族ごぞく分布ぶんぷ分断ぶんだんした結果けっかであろう。

 大陸たいりくにおいてはそのほか,インドシナ北部ほくぶから中国ちゅうごく南部なんぶにかけてカダイぐんという語族ごぞくしまじょう分布ぶんぷしている。これはカム・タイしんえんふる語族ごぞく推定すいていされる。大陸たいりくにおけるもうひとつの重要じゅうよう語族ごぞくアウストロネシア語族ごぞくなか西部せいぶであるインドネシアであるが,このかたりのおもな分布ぶんぷ島嶼とうしょにあって,マレまれ半島はんとうインドシナ半島いんどしなはんとう南東なんとうにおける分布ぶんぷは,インドネシア西部せいぶから鉄器てっき時代じだいあるいは歴史れきし時代じだいになってからひろがったものとおもわれる。

 東南とうなんアジア島嶼とうしょ圧倒的あっとうてきだい部分ぶぶんはアウストロネシアぞくによってめられ,ベンガルわん(アンダマン諸島しょとう),インドネシア東部とうぶ(ティモールとう東部とうぶハルマヘラとうとその離島りとうなど)にアウストロネシア以前いぜんふる言語げんごアンダマンパプア諸語しょご)がのこっているにすぎない。アウストロネシアはアウストロアジアやカム・タイとおおやえん関係かんけい想定そうていされている。おそらく中国ちゅうごく南部なんぶ原郷はらごうをもち,すでに農耕のうこう段階だんかいはいってからしん石器せっき時代じだいのうちに台湾たいわん進出しんしゅつして台湾たいわん高山たかやまぞく諸語しょご)を同島どうとうのこし,さらに南下なんかしてフィリピンをてインドネシア,マレーシアに展開てんかいする過程かていでインドネシア形成けいせいされ,拡大かくだいしたとかんがえられる。なおアフリカのマダガスカルとうでも,アウストロネシアけい言語げんご(マラガシ)がはなされているが,これは紀元前きげんぜんころにインドネシア西部せいぶからアウストロネシアけい住民じゅうみん移動いどうしたものとかんがえられる。アウストロネシア語族ごぞく東部とうぶ,すなわちオセアニアも,おそらく島嶼とうしょ東南とうなんアジアからいもさく農耕のうこうをもって東進とうしんしたものとおもわれる。
執筆しっぴつしゃ

東南とうなんアジアでは,たびかさなる民族みんぞく移動いどう複雑ふくざつ地形ちけい条件じょうけんから,言語げんご種族しゅぞくともにモザイクじょう分布ぶんぷしている。インドと中国ちゅうごくというだい文明ぶんめいなかあいだ地帯ちたいにあって,さまざまな土着どちゃく信仰しんこう体系たいけいうえ重層じゅうそうした仏教ぶっきょう,イスラム,キリストきょう国教こっきょうないしはそれにじゅんじたあつかいをけ,ポルトガル,スペイン,イギリス,オランダ,フランスとそれぞれ宗主そうしゅこくことなるきゅう植民しょくみんこく遺産いさんいでいる。西欧せいおう資本しほん主義しゅぎとの遭遇そうぐうによってしょうじた社会しゃかい経済けいざいてき亀裂きれつは,じゅう経済けいざいふくあい社会しゃかいコミュナリズムづけられて,現在げんざいいたるまでその社会しゃかい特色とくしょくづけている。すなわち,近代きんだいてき独立どくりつ国家こっか枠組わくぐみのなか国家こっかエリート,都市とし村落そんらく,プランテーション,部族ぶぞく社会しゃかい類型るいけいてき同時どうじ存在そんざいしている世界せかいである。

いわゆる少数しょうすう民族みんぞくしょうされるもののなかには,中国人ちゅうごくじん,インドじんなどの移民いみん民族みんぞくミナンカバウ,モン,シャンなどのように比較的ひかくてき人口じんこうおおく,村落そんらく社会しゃかい中心ちゅうしんとする種族しゅぞくふくまれうるが,一般いっぱんてきにはしゅとして山地さんち部族ぶぞく社会しゃかい多数たすうめる。生業せいぎょう形態けいたいによってみっつのタイプを指摘してきできる。だい1のタイプは,すうくみ夫婦ふうふ家族かぞくがバンドをんで森林しんりん移動いどうしながら,食物しょくもつ採集さいしゅう狩猟しゅりょう依存いぞんする社会しゃかいで,ネグリトの社会しゃかい代表だいひょうてきである。鉄器てっきなどの特殊とくしゅなもの以外いがい自給自足じきゅうじそくである。だい2に,焼畑やきばたによる移動いどう農耕のうこうおこな社会しゃかいがある。出自しゅつじ集団しゅうだんもとづく集落しゅうらく形成けいせいし,はん定着ていちゃく生活せいかつおくる。循環じゅんかんてき女性じょせい交換こうかんシステム,二元にげんてき宇宙うちゅうかんのある場合ばあいおおく,きよしぞくとが一元いちげんてきである。だい3に,おなじように農耕のうこうおこなうが,むしろ採取さいしゅ交易こうえき社会しゃかいぶのが適切てきせつなタイプがある。これは,樹脂じゅし,リュウノウ,とう(とう),香料こうりょう特殊とくしゅ森林しんりん産物さんぶつ,スズやかねなどの鉱物こうぶつ,ナマコなどの海産物かいさんぶつ外界がいかい需要じゅようおうじて採取さいしゅし,それとの交換こうかんによって生活せいかつ必需ひつじゅひんる。集落しゅうらくはん定着ていちゃくてきであることもあるが,近親きんしんこんないこんがみられ,耕作こうさく村落そんらく組織そしき女性じょせい中心ちゅうしんで,採取さいしゅ交易こうえきなどの村落そんらくがい活動かつどう男性だんせい中心ちゅうしんである。

部族ぶぞく社会しゃかい親族しんぞく組織そしき信仰しんこう体系たいけいなど地域ちいきてき特殊とくしゅしてしまっているが,これにたいし,村落そんらく社会しゃかいはほとんどがそうけいせい親族しんぞく組織そしきで,水稲すいとうおも生業せいぎょうとし,部族ぶぞく社会しゃかいよりはより等質とうしつてき特徴とくちょうしめす。ビルマぞく,タイぞく,マレーじん,ジャワぞく,ベトナムじんなど国家こっか主要しゅよう構成こうせい種族しゅぞくおよびそれにじゅんずる種族しゅぞく農村のうそん社会しゃかい典型てんけいてきにみられ,平地ひらちむらである。漁村ぎょそん山村さんそんふくむが,往々おうおうにしてこれらは採取さいしゅ交易こうえきがたとなりやすい。村落そんらくは,親族しんぞく擬制ぎせいてき親族しんぞくとしてとりこみながら,地縁ちえん契機けいき成立せいりつし,地域ちいき特殊とくしゅてき慣習かんしゅうほうによって生活せいかつりっし,寺院じいん,モスク,教会きょうかいなどを統合とうごうのシンボルとしている。宗教しゅうきょうてき職能しょくのうしゃとともに,貴族きぞく出身しゅっしんしゃ村長そんちょうとその取巻とりまれん農民のうみん一線いっせんかくし,社会しゃかいてき階層かいそうがより明確めいかくになる。集団しゅうだん組織そしきのありかたが〈しまりがない〉とか,間柄あいだがら論理ろんりしゃ関係かんけい人間にんげん関係かんけい支配しはいされ,親族しんぞく関係かんけいおもんじながら状況じょうきょう主義しゅぎてきであるとかいう指摘してきは,この村落そんらく社会しゃかいのもつ弾力だんりょくせい,したたかさのいちめんをいいあらわしている。また,はじ自尊心じそんしんおん観念かんねん社会しゃかい生活せいかつおおきな役割やくわりめる。

採取さいしゅ農耕のうこうとの近代きんだいてき適応てきおう形態けいたいは,石油せきゆ鉱物こうぶつ資源しげん採掘さいくつ商品しょうひん作物さくもつだい規模きぼ栽培さいばいである。ともに伝統でんとうてき社会しゃかい枠外わくがいに,経済けいざい利潤りじゅん追求ついきゅう原則げんそく,そのための近代きんだいてき管理かんり技術ぎじゅつ,とくに契約けいやくによってりっされる労使ろうし関係かんけい分業ぶんぎょう体制たいせいもとづく植民しょくみんてき集落しゅうらく実現じつげんさせた。この代表だいひょうてきなものが,可耕地かこうちだい規模きぼ単一たんいつ商品しょうひん作物さくもつ(ゴム,サトウキビ,コーヒー,ちゃ,アブラヤシ,ココヤシ,パイナップル,タバコ,綿花めんかなど)の農場のうじょう,エステートに転換てんかんさせたプランテーションである。既存きそん村落そんらく社会しゃかい基礎きそ輸出ゆしゅつよう作物さくもつ生産せいさんはかったジャワの強制きょうせい栽培さいばい制度せいどのようなれいもあるが,おおくは人口じんこう希薄きはく熱帯ねったい降雨こううりん低湿ていしつ,サバンナをだい規模きぼ開拓かいたくし,そこに労働ろうどうりょく投入とうにゅうして,土着どちゃく社会しゃかい組織そしきとはことなった社会しゃかい秩序ちつじょ監督かんとく事務職じむしょく雇用こよう労働ろうどうしゃ)をつくりげた。管理人かんりにん住宅じゅうたく工場こうじょう,インドじん労務者ろうむしゃ住宅じゅうたくからなるマラヤにおけるゴムえんは,そのように移植いしょくされた社会しゃかい典型てんけいである。

東南とうなんアジアの古代こだい中世ちゅうせいにおいて,王侯おうこう貴族きぞく宮殿きゅうでんのあるところで,〈クニ〉の象徴しょうちょうてき中心ちゅうしんであったすうおおくのは,近代きんだい首都しゅと大都市だいとしには直接ちょくせつがれていかなかった。現在げんざい都市としおおくは,中世ちゅうせいから近世きんせいにかけて出現しゅつげんした,商人しょうにんのつくったまち交易こうえきみなとえき華僑かきょうまち植民しょくみん行政府ぎょうせいふ発達はったつしたものである。たとえばマレーシアの首都しゅとクアラ・ルンプルは100ねんまえ華僑かきょうのスズこう労働ろうどうしゃがつくったまちであり,スルタンの王宮おうきゅうのあるクランは現在げんざいではちいさなまちにすぎない。都市としにあっても,村落そんらくをそのままうつしたセクターと,近代きんだいてき行政ぎょうせい金融きんゆう産業さんぎょうのセクターとが両極りょうきょくしながら共存きょうぞんしており,そのうえ,民族みんぞくべつ経済けいざい階層かいそうべつ居住きょじゅう区域くいき区分くぶんがみられる。不法ふほう占拠せんきょなどのかたち拡大かくだいする伝統でんとうてきセクターの急速きゅうそくなスラム,サービスぎょう従事じゅうじしゃ比率ひりつ異常いじょうたかさ,不完全ふかんぜん就業しゅうぎょうしゃ失業しつぎょうしゃ増加ぞうか,それにもかかわらず流入りゅうにゅうしてくる人口じんこうなどの社会しゃかい問題もんだいかかえている。また都鄙とひ(とひ)の経済けいざいてき格差かくさ顕著けんちょである。

植民しょくみん以前いぜん東南とうなんアジアでは〈小型こがた産制さんせい〉ともいえる小規模しょうきぼ国家こっかぐん並立へいりつし,ときにはゆるやかな連合れんごう成立せいりつして中心ちゅうしんてき国家こっか周辺しゅうへん国家こっかぐん支配しはいすることもあったが,おおきな帝国ていこく版図はんと成立せいりつしなかった。その国家こっか概念がいねんはヒンドゥー王権おうけん思想しそうもとづき,領域りょういき明確めいかくな,無限むげんひろがりうるコスモスとしてとらえられた。一般いっぱん民衆みんしゅうにとって国家こっかとは,このコスモスの体現たいげんしゃとしてのおうであり,その取巻とりまれんであり,具体ぐたいてき世界せかい中心ちゅうしんである宮殿きゅうでんにほかならなかった。植民しょくみん政府せいふないしは西欧せいおうからの近代きんだい法典ほうてん行政ぎょうせい組織そしき輸入ゆにゅうによって近代きんだいてき独立どくりつ国家こっかとしての態勢たいせいととのったとはいえ,そう人口じんこうの1わり前後ぜんこうひと集中しゅうちゅうする都市とし国家こっかのシンボルとしてみ,王族おうぞく交替こうたいした行政ぎょうせい官僚かんりょう支配しはい階級かいきゅう国家こっかエリートとして特別とくべつする世界せかいかんつよ民衆みんしゅうなかのこっている。あたらしいエリートとして西欧せいおうてき教育きょういくけた官僚かんりょう軍人ぐんじん知識ちしきじん学生がくせいは,地域ちいきづく伝統でんとうてき宗教しゅうきょうてき指導しどうしゃ地位ちいおどかしつつ,国民こくみん文化ぶんか形成けいせい中心ちゅうしんてき推進すいしんしゃとして,国民こくみん国家こっか概念がいねんになひとつの核心かくしんてき社会しゃかいてきカテゴリーとなっている。

 これらの類型るいけい全体ぜんたい截断せつだんする宗教しゅうきょうてき種族しゅぞくてきアイデンティティもとづく行動こうどう価値かちかんは,日常にちじょう生活せいかつにおける葛藤かっとうだけでなく,政治せいじてきなコミュナリズムをみ,ともすれば国民こくみん観念かんねん形成けいせいはばんでいる。国民こくみん観念かんねん十分じゅうぶん定着ていちゃくしないうえに,その社会しゃかいにエリート,都市とし村落そんらく,プランテーション,部族ぶぞく同時どうじ併存へいそんしているという構図こうずは,一見いっけんして典型てんけいてきふくあい社会しゃかい形成けいせいしているかにみえるが,現実げんじつには,頻繁ひんぱん出稼でかせぎ,地域ちいきてき社会しゃかいてき移動いどうともあいまって,かく類型るいけい境界きょうかい連続れんぞくてきであって,しかも類型るいけい自体じたいマージナルなかたしながら急速きゅうそく変化へんかしている。それらは,すべてがひとつのパターンに収束しゅうそくしないまでも,国民こくみん国家こっか維持いじというコンセンサスがあるかぎり,統合とうごう方向ほうこうすすんでいくであろう。
執筆しっぴつしゃ

宗教しゅうきょうてきにみると,東南とうなんアジアはきわめて複雑ふくざつである。その複雑ふくざつさは,過去かこ2000ねんにわたり,さまざまな外来がいらい文化ぶんか影響えいきょう相次あいついでこうむった,この地域ちいき歴史れきしてき状況じょうきょうふかくかかわっている。

 紀元きげん前後ぜんこうから,インドとの交易こうえきかいして,東南とうなんアジアにもたらされた宗教しゅうきょうは,ヒンドゥーきょう仏教ぶっきょう,とりわけ大乗だいじょう仏教ぶっきょうであった。これらのインド宗教しゅうきょうは,各地かくち成立せいりつしたインドてき諸王しょおうこく支配しはいしゃたちに,正統せいとうせい賦与ふよする役割やくわりたしたが,民衆みんしゅうとは縁遠えんどお存在そんざいであったとかんがえられる。カンボジアのアンコール・ワットや,インドネシアのボロブドゥールなど,今日きょうのこだい建築けんちくぶつ遺構いこうや,これまでに解読かいどくされた数々かずかずこくぶん史料しりょうは,当時とうじ信仰しんこう形態けいたい一端いったん今日きょうつたえている。ヒンドゥーきょう大乗だいじょう仏教ぶっきょうは,13世紀せいき前後ぜんこうから衰退すいたいはいり,大陸たいりくにはスリランカから上座かみざ仏教ぶっきょうが,また島嶼とうしょにはイスラムがつたえられた。これらのしん宗教しゅうきょうは,それまでの宗教しゅうきょうのように,一部いちぶ権力けんりょくしゃ信奉しんぽうされたばかりでなく,ひろ社会しゃかい各層かくそうれられ,今日きょうにいたるまで,それぞれの民族みんぞく社会しゃかい文化ぶんかふか影響えいきょうあたつづけている。

 これにたいし,ふるくから中国ちゅうごく政治せいじてき支配しはいかれ,中国ちゅうごく文化ぶんかつよ影響えいきょうけたベトナムは,宗教しゅうきょうてきにも中国ちゅうごくけい宗教しゅうきょう受容じゅようし,〈さんきょう〉のられる儒教じゅきょう仏教ぶっきょう道教どうきょうの3宗教しゅうきょうをあわせ信奉しんぽうして今日きょうおよんでいる。このあいだにあって,ひとりフィリピンだけは,インド文化ぶんか中国ちゅうごく文化ぶんかのいずれの影響えいきょうをもけることなく,16世紀せいきにいたってスペインの植民しょくみんとなった。フィリピンは,19世紀せいきすえ以来いらいアメリカの支配しはいはいったが,だい多数たすう住民じゅうみん今日きょうもなお,きゅう宗主そうしゅこくスペインの宗教しゅうきょうであるカトリックを信仰しんこうしている。

上座かみざ仏教ぶっきょうは,現在げんざい,ミャンマー,タイ,カンボジア,ラオス,およびベトナム南部なんぶ,インドネシアの一部いちぶなどで信奉しんぽうされ,信徒しんとすう合計ごうけいで8000まんにんえる。いずれもスリランカで成立せいりつ発展はってんした大寺おおてら(マハービハーラ)のながれをき,パーリかれた三蔵さんぞうけい護持ごじしている。上座かみざ仏教ぶっきょう中核ちゅうかくサンガである。サンガとは,いっさいの世俗せぞくてき労働ろうどうから解放かいほうされ,パーリ聖典せいてんかれた戒律かいりつ厳守げんしゅして,修行しゅぎょう専心せんしんする僧侶そうりょによって形成けいせいされる出家しゅっけしゃ教団きょうだんである。在家ありいえしゃ,すなわち一般いっぱん仏教徒ぶっきょうと宗教しゅうきょう行動こうどうのすべては,サンガの維持いじ発展はってん寄与きよすることが,最高さいこう功徳くどくぎょうであるという信仰しんこう中心ちゅうしんにして展開てんかいする。たとえば寺院じいん建立こんりゅう修復しゅうふくたいする貢献こうけんにち乞食こじきしてある托鉢たくはつそうへの供養くようなどは,いずれもおおきな功徳くどく幸福こうふくをもたらすぜんぎょうとしてすすめられる。

 上座かみざ仏教徒ぶっきょうとあいだには,出家しゅっけという行為こういを,とりわけすぐれたこう徳行とっこうとしてたか評価ひょうかする価値かちかんふるくから存在そんざいし,今日きょうでも,父母ちちははへの孝養こうようのため,あるいはみずか功徳くどく手段しゅだんとして,一時いちじてき出家しゅっけ志望しぼうするものえないという事実じじつは,サンガにたい不断ふだんにその成員せいいん供給きょうきゅうする結果けっかんでおり,サンガの存続そんぞくおおきく貢献こうけんしているといえよう。

イスラムは,インドネシアそう人口じんこうの87%,マレーシアでは50%の人々ひとびとによって信奉しんぽうされている。イスラム教徒きょうとは,このほか,ミャンマー,タイ南部なんぶ,フィリピンのミンダナオ島みんだなおとうなどにもいて,少数しょうすう民族みんぞく集団しゅうだん形成けいせいしている。マレーシアのイスラム教徒きょうとは,スンナシャーフィイーぞくし,一般いっぱんにイスラムの中心ちゅうしんてき教義きょうぎであるろくしんはしら忠実ちゅうじつまもる。イスラムは憲法けんぽうじょう,マレーシアの国教こっきょう規定きていされており,各州かくしゅうのスルタンが,それぞれのしゅうのイスラムの首長しゅちょうとなる。

 1おくえるイスラム教徒きょうとをもつ,東南とうなんアジア最大さいだいイスラム教いすらむきょうこくインドネシアでは,サントリばれ,純粋じゅんすいにイスラムてき傾向けいこうをもつ集団しゅうだん都市とし農村のうそん商人しょうにん階層かいそう中心ちゅうしん存在そんざいしている。しかし,ジャワ島じゃわとう住民じゅうみん中心ちゅうしんとする,アバンガンばれるだい多数たすう農民のうみんは,名目めいもくじょうイスラム教徒きょうとではあるものの,その宗教しゅうきょう実践じっせん形態けいたいにおいては,ヒンドゥー・ジャワてきなアニミズムのつよ影響えいきょうけ,正統せいとうてきなイスラムの教理きょうりからは逸脱いつだつする行為こういもしばしば観察かんさつされる。

儒教じゅきょう仏教ぶっきょう道教どうきょうの〈さんきょう〉によって代表だいひょうされる中国ちゅうごくけい宗教しゅうきょうは,ベトナムのベトナムじんのほか,シンガポールおよび東南とうなんアジアの都市とし移住いじゅう定着ていちゃくした華人かじんあいだでも信奉しんぽうされている。これらの3宗教しゅうきょうは,それぞれの独自どくじせいたもちながら,たがいに対立たいりつこすことなく併存へいそんつづけている。民衆みんしゅう信仰しんこうにおいては,さんきょうそれぞれのひじりぞうひとしく礼拝れいはい対象たいしょうとされている。ベトナムの農村のうそんでは,さんきょうくわえてむら守護神しゅごじんをまつるディン(ちん)があり,これが村落そんらく結合けつごう中核ちゅうかくをなしている。

 ぜん人口じんこうの85%がカトリック教徒きょうとであるフィリピンは,東南とうなんアジア唯一ゆいいつキリスト教きりすときょうこくである。アメリカ支配しはい時代じだいにはプロテスタントの布教ふきょうおこなわれたが,信徒しんとすうそう人口じんこうの3%をめるにすぎない。かずてきには,むしろ20世紀せいきはじめ,バチカンに反抗はんこうして創設そうせつされたフィリピン独立どくりつ教会きょうかい(アグリパヤン)のほうが4%と優勢ゆうせいである。また土着どちゃくてき色合いろあいの濃厚のうこうイグレシア・ニ・クリスト勢力せいりょくばしていることも注目ちゅうもくされる。カトリックは,このほか,ベトナムじんなかおおくの信徒しんとをもつ。キリスト教徒きりすときょうとはまた,ミャンマーのカレンぞく,インドネシアのバタクぞく,タイの山地さんち少数しょうすう民族みんぞく華僑かきょうなどのなかにもおおいだされる。

 イスラムの進出しんしゅつによって圧迫あっぱくされ衰退すいたいした古代こだいのヒンドゥーきょうは,現在げんざい,インドネシアのバリ島ばりとう周辺しゅうへんやく300まん信徒しんとのこすにとどまるが,これとはべつに,近代きんだいにおいてインドから移民いみんしたヒンドゥー教徒きょうとが,都市とし中心ちゅうしんとする東南とうなんアジア各地かくち散在さんざいしている。

 東南とうなんアジアにはこれらの外来がいらい宗教しゅうきょうのほかに,ミャンマーのナットやタイ,ラオスのピー,カンボジアのネアク・ターなどによって代表だいひょうされる固有こゆう土着どちゃくてき信仰しんこう重層じゅうそうてき存在そんざいし,民衆みんしゅう宗教しゅうきょう存在そんざい形態けいたいをさらに複雑ふくざつなものにしている。仏教徒ぶっきょうとたちは,仏像ぶつぞうまえにぬかずき,経典きょうてんとなえる一方いっぽう,ナットを信仰しんこうし,ピーをまつり,土地とちしんほこらそなえものをする。

東南とうなんアジアの現代げんだい宗教しゅうきょうは,いずれも民衆みんしゅう生活せいかつ密接みっせつ関係かんけいして存在そんざいし,実践じっせんされているてん特徴とくちょうがみられる。とくに,人口じんこうの9わりめる農民のうみん日常にちじょう生活せいかつは,宗教しゅうきょうによって規定きていされるところがおおきい。タイやフィリピンの農村のうそんにおける寺院じいん教会きょうかいは,村落そんらく生活せいかつのかなめである。早朝そうちょうむらないをまわる托鉢たくはつそうへの食事しょくじ供養くよう日曜日にちようびのミサなどは農民のうみん生活せいかつ一部いちぶとなっている。寒暖かんだん変化へんかとぼしい熱帯ねったいでは,ぶしのめりはりもまた宗教しゅうきょうによってつけられる。タイの人々ひとびとあめ安居あんきょ(うあんご)りの儀式ぎしきによって雨季うき到来とうらいかんじ,カチナのまつりによって雨季うきけをる。フィリピンの5月のフィエスタには,全国ぜんこく各地かくち守護しゅご聖人せいじんぞう先頭せんとう行列ぎょうれつがくりひろげられ,くにちゅうきかえり,遠来えんらい親族しんぞく友人ゆうじんかこんで,あちこちで旧交きゅうこうあたためる光景こうけいがみられる。

 それゆえ,農民のうみんたちは,宗教しゅうきょうからはなして自己じこ文化ぶんかかんがえることができない。タイじん,カンボジアじん,ラオスじんにとって宗教しゅうきょうとは仏教ぶっきょうであり,おな社会しゃかい仲間なかまたちが仏教徒ぶっきょうとであることは,自明じめいのこととかんがえられている。同様どうようにしてマレーじんにとって,〈イスラム教徒きょうとになる(masok Islam)〉ことは,〈マレーじんになる(masok Melayu)〉ことにほかならない。このように,東南とうなんアジア農民のうみん価値かちかんは,それぞれの民族みんぞく伝統でんとうてきいできた宗教しゅうきょう価値かちかんふかくかかわっているといってよい。たしかに近年きんねんにおける開発かいはつ政策せいさくは,各国かっこく都市とし進行しんこうさせ,都市とし世俗せぞくてき価値かちかんが,マス・メディアをとおして農村のうそん浸透しんとうし,農民のうみん伝統でんとうてき価値かちかんにも変化へんかきざしがあらわはじめている。しかしそれとてもまだ,伝統でんとうてき価値かちかん根底こんていからるがすまでにはいたっていない。

宗教しゅうきょう民衆みんしゅう価値かちかん不可分ふかぶん関係かんけいをもち,社会しゃかい統合とうごう,ひろくは国民こくみん統合とうごうのシンボルとしての機能きのうたしていることから,そのシンボルの操作そうさは,しばしば政治せいじてきにも重要じゅうよう役割やくわりたしてきた。たとえばインドネシアでは,国家こっか基本きほん原則げんそくであるパンチャ・シラ冒頭ぼうとうに,唯一ゆいいつかみ信仰しんこうかかげられているし,タイでは,〈ラック・タイ〉,すなわちタイの基本きほんてき統治とうち原理げんりひとつのはしらとして,仏教ぶっきょうてられていて,いずれも不可侵ふかしん価値かちあたえられている。

 くに内部ないぶに,これらの優勢ゆうせい単一たんいつ宗教しゅうきょうことなった宗教しゅうきょう信奉しんぽうする少数しょうすう民族みんぞくがいる場合ばあい,その取扱とりあつかいをめぐって政治せいじ問題もんだい発生はっせいすることがある。タイ南部なんぶや,フィリピンのミンダナオ島みんだなおとう集中しゅうちゅうして居住きょじゅうするイスラム教徒きょうと分離ぶんり運動うんどうはん政府せいふてき活動かつどう事例じれいがよくられている。ミャンマー(きゅうビルマ)ではかつて,15%の仏教徒ぶっきょうと反対はんたいって,仏教ぶっきょう国教こっきょう強行きょうこうしたことによって,政治せいじてき混乱こんらん発生はっせいした。民族みんぞく国家こっかであるビルマは,建国けんこく以来いらい世俗せぞく国家こっかざし,宗教しゅうきょうあいだのあつれきをける政策せいさくってきたが,ウー・ヌ首相しゅしょうは,多数たすうである仏教徒ぶっきょうと圧力あつりょく政治せいじてき利用りようして憲法けんぽう改正かいせいおこない,ビルマを仏教ぶっきょう国家こっかとしようとしたため,仏教徒ぶっきょうと反発はんぱつまねき,1962ねん失脚しっきゃくしてしまった。ビルマのしん憲法けんぽう(1974)では,宗教しゅうきょう政治せいじてき利用りよう禁止きんしされ,政教せいきょう分離ぶんり原則げんそく明確めいかくされている。

 このように東南とうなんアジアの諸国しょこくにおいては,そうじて宗教しゅうきょう文化ぶんか社会しゃかい政治せいじなどのひろ範囲はんいにわたっておおきな影響えいきょうりょくをもっているが,こうした状況じょうきょうくらべると,現代げんだいのベトナムでは,宗教しゅうきょう役割やくわり比較的ひかくてきちいさいことが注目ちゅうもくされる。これは,ベトナムの宗教しゅうきょうふくあいてきであって,ひとつの宗教しゅうきょうだけが卓越たくえつしている状況じょうきょういていること,したがって,ベトナムじん価値かちかん排他はいたてき規定きていするような,特定とくてい宗教しゅうきょう存在そんざいしないことと無関係むかんけいではなかろう。
執筆しっぴつしゃ

東南とうなんアジアを政治せいじてきひとつの地域ちいきとしてきたのは,過去かこ歴史れきし,とりわけこの地域ちいき以外いがいとの〈文化ぶんかてき接触せっしょく〉(B.ハリソンによる)であった。それは,2000ねんにもおよぶインド,中国ちゅうごく,イスラム世界せかい,ヨーロッパといった,つねに自身じしんよりもおおきいなにかの一部いちぶであったこと,歴史れきしにおける〈受身うけみ〉(C.フィッシャー)の役割やくわりえんじてきたことにしめされている。なかでも重要じゅうようなのは3世紀せいきちかくにおよんだヨーロッパの植民しょくみん支配しはいであった。

ヨーロッパの植民しょくみん支配しはいといっても,各国かっこくかく地域ちいきかく時代じだいによってじつにさまざまなパターンがみられた。複数ふくすう植民しょくみん権力けんりょく並存へいそんし,いわば,ばらばらに支配しはいおこなわれていたことが特徴とくちょうとさえいえよう。だが,今日きょうにいたるまで影響えいきょうおよぼしている,地域ちいき全体ぜんたい共通きょうつうした支配しはい特徴とくちょうつぎみっつといえる。

 だい1は,〈じゅう経済けいざい〉(ブーケ)である。つまり,もっぱらヨーロッパ経済けいざい必要ひつようおうじて導入どうにゅうされ,発展はってんさせられた近代きんだい資本しほん主義しゅぎ経済けいざいと,他方たほうその自立じりつてき発展はってん制限せいげんされ,〈停滞ていたい〉を余儀よぎなくされた伝統でんとうてき農業のうぎょう経済けいざい並立へいりつし,しかも後者こうしゃ前者ぜんしゃ一方いっぽうてきに〈搾取さくしゅ〉されるという経済けいざい構造こうぞうである。

 だい2は,こうした跛行はこうてき経済けいざい構造こうぞうまれるにともない,都市としさかえ,農村のうそん貧窮ひんきゅうするというギャップがしょうじただけではなく,植民しょくみん権力けんりょく都合つごう多数たすう外国がいこくじん労働ろうどうしゃ搬入はんにゅうされ,複雑ふくざつ社会しゃかい構成こうせいがいっそう〈ふくあいした。〈ふくあい社会しゃかい〉(J.ファーニバル)が形成けいせいされたのである。

 そしてだい3に,こうした複雑ふくざつ社会しゃかい構成こうせいをもつ植民しょくみん社会しゃかい統治とうちには,かく地域ちいき分断ぶんだんした分割ぶんかつ支配しはいと,他方たほうかく地域ちいきない伝統でんとうてき支配しはいそう温存おんぞんし,それを利用りようした間接かんせつ支配しはいをもって対処たいしょしたのである。

 このような〈じゅう経済けいざい〉〈ふくあい社会しゃかい〉そして分割ぶんかつ間接かんせつ支配しはいこそ,一方いっぽうでは東南とうなんアジアを国際こくさいてきに〈孤立こりつ〉(B.ゴードン)させ,他方たほうではかく社会しゃかいでの多様たようせいをいっそう進行しんこうさせたといえる。

このような,経済けいざいてき停滞ていたい〉,多様たようせい国際こくさいてき相互そうごてき孤立こりつ〉を克服こくふくすべく登場とうじょうするのがかく地域ちいきのナショナリズムであり,そうした運動うんどう結合けつごうしたものがはん植民しょくみん主義しゅぎであった。しかし,ヨーロッパにおけるナショナリズムとことなり,有力ゆうりょく社会しゃかいそうたとえば民族みんぞくブルジョアジー)をいていたため,運動うんどう主力しゅりょく植民しょくみん官僚かんりょう西欧せいおう教育きょういくけた伝統でんとうてき支配しはいそう子弟していである場合ばあいおおかった。それだけに,植民しょくみん権力けんりょく対応たいおう運動うんどう左右さゆうしやすく,したがって独立どくりつ態様たいようもさまざまで,ある場合ばあい権力けんりょくの〈禅譲ぜんじょう〉(フィリピンやマレーシア),またある場合ばあいは〈革命かくめい〉(ベトナム),あるいはその中間ちゅうかん(インドネシア)といったパターンがしょうじた。

 しかし,政治せいじてき独立どくりつ獲得かくとくしたとはいえ,経済けいざいてき社会しゃかいてき問題もんだい一気いっき解消かいしょうしたわけではない。むしろ,多様たようせい維持いじしながら相互そうご利害りがい調整ちょうせい植民しょくみんがた経済けいざい社会しゃかい変革へんかく同時どうじ遂行すいこうすることをもとめられたのである。当然とうぜんのことながら,変革へんかくよりは統一とういつが,民権みんけんよりは国権こっけん確保かくほえらばれることになった。その結果けっか独立どくりつまもなく,あたらしい国家こっかはん植民しょくみん主義しゅぎ運動うんどう大同団結だいどうだんけつしてきた変革へんかくもとめる革命かくめいグループ(おおくは共産党きょうさんとう),他方たほう平等びょうどうもとめる少数しょうすう民族みんぞくからはげしい批判ひはんにさらされ,いちじるしい政情せいじょう不安ふあん見舞みまわれたのである。

独立どくりつまもなくおそってきた政情せいじょう不安ふあんは,1950年代ねんだいはじめより深刻しんこくしたアジア全体ぜんたいでの東西とうざい冷戦れいせんじゅううつしとなって,各国かっこく政権せいけん危機ききかんいだかせた。こうした危機ききたいして,おおくの政府せいふは,一方いっぽう植民しょくみんがた経済けいざい変革へんかくざした工業こうぎょう政策せいさく他方たほうしゅとして保守ほしゅそう伝統でんとうてき支配しはいそう)を丸抱まるがかえした一種いっしゅ名望めいぼう支配しはい形態けいたいった。それは,こうした国内こくない秩序ちつじょをもっぱら政府せいふ主導しゅどうによる〈うえからの革命かくめい〉によってさい編成へんせいし,経済けいざい発展はってん政治せいじ安定あんていげようとしたものといえよう。

 しかし,この工業こうぎょう政策せいさく(とくに輸入ゆにゅう代替だいたい工業こうぎょう育成いくせい主眼しゅがん)は成功せいこうしなかった。なによりも,有力ゆうりょく企業きぎょうそう国内こくない資本しほんいていたばかりか,政策せいさく遂行すいこうをつかさどる官僚かんりょう役割やくわり依然いぜんとしてちいさく,有力ゆうりょく政治せいじによる利権りけん草刈くさかりじょうしてしまったからである。くわえて,資本しほんざい輸入ゆにゅうえ,貿易ぼうえき赤字あかじくるしみ,結果けっかてきはげしいインフレにおそわれることになった。また,工業こうぎょう政策せいさく失敗しっぱいによって,たとえばスカルノのインドネシアのように急激きゅうげき外国がいこく資本しほんの〈国有こくゆう〉へとすす場合ばあいふくめて,かぎられた利益りえき分配ぶんぱいもとめてエリートそう対立たいりつ激化げきかさせたばかりでなく,貧窮ひんきゅうあゆ大衆たいしゅう不満ふまん不平ふへい増大ぞうだいさせたのである。あらためて変革へんかく統一とういつかがなおされる状況じょうきょうにいたったのである。

1960年代ねんだいなかばになると,一方いっぽうではべいソのデタント(緊張きんちょう緩和かんわ)がすすみながら,ベトナムへのアメリカぐん介入かいにゅう本格ほんかくした。他方たほうで,各国かっこくないでの保革ほかく対立たいりつはそれまでの〈いちこくがた〉のかべやぶって地域ちいき全体ぜんたいにまで拡大かくだいした。その意味いみで,東南とうなんアジアは地域ちいき紛争ふんそう激発げきはつするもっと政情せいじょう不安ふあん地域ちいきへと変貌へんぼうしていった。1955ねんのバンドンにおけるだい1かいアジア・アフリカ会議かいぎ同盟どうめい主義しゅぎ誕生たんじょうといった時期じきとは対照たいしょうてきである。

 こうした内外ないがい危機きき深化しんか直面ちょくめんして各国かっこくえらんだのは,より強力きょうりょく政府せいふによる強権きょうけんてき政治せいじ安定あんていべつ言葉ことばでいえば,国内こくない治安ちあん体制たいせい強化きょうかと,他方たほうそうしたつよ政府せいふ本格ほんかくてき介入かいにゅうした国家こっか主導しゅどうがた経済けいざい開発かいはつ政策せいさく遂行すいこうであった。このようなあたらしい政治せいじ登場とうじょうは,東南とうなんアジアがナショナリズムの時代じだいから近代きんだい時代じだい移行いこうしたこと,国権こっけん民権みんけんかということがあらそいのじくとなるデモクラシーの時代じだいから国家こっか権力けんりょく強大きょうだいともなった権威けんい主義しゅぎ支配しはい時代じだいうつったこと,〈西側にしがわり〉とはいわれながら東西とうざい対立たいりつよりも南北なんぼく問題もんだいへと対外たいがい政策せいさく基軸きじく移動いどうさせたこと,を物語ものがたっていよう。

 この〈開発かいはつ政治せいじ〉とばれるパターンは,まず経済けいざい政策せいさくにおいていちじるしい特徴とくちょうをもっている。それは,外資がいし導入どうにゅう国家こっか主導しゅどう国内こくない市場いちばより外国がいこく市場いちばへの輸出ゆしゅつ目標もくひょうとした輸出ゆしゅつ代替だいたい工業こうぎょう育成いくせい,といったてんにみられる。そして,なによりも〈パイをおおきくすること(GNPの拡大かくだい)〉に主眼しゅがんかれ,それまで経済けいざい政策せいさく中心ちゅうしんをなしてきた民族みんぞくあいだ階層かいそうあいだ利害りがい調整ちょうせいといった役割やくわりおおきく後退こうたいしているてんである。

 また政治せいじにおいてはすでにれたように,それまで政治せいじのおもなになであった政党せいとう,そして議会ぎかい無力むりょくし,国家こっかるぎない謬(むびゆう)の存在そんざいとし,それへの不平ふへい不満ふまんはん国家こっかてきとして処罰しょばつするといった強権きょうけん政治せいじ,つまり権威けんい主義しゅぎ支配しはい樹立じゅりつしようとしたてんいちじるしい特徴とくちょうとなっている。ぐん警察けいさつ政治せいじにおける発言はつげんりょくしていったのもふしぎではない。

 このような経済けいざい開発かいはつ政策せいさく政治せいじ安定あんてい政策せいさくたがいに正当せいとうするといった権力けんりょく自己じこ完結かんけつせいつよまったことのほかに,もうひとあたらしい特徴とくちょうくわえられた。それは,たような性格せいかく政権せいけんが,かつての〈西さいひがしか〉という選択せんたくではなく,ゆるやかな地域ちいき協力きょうりょく機構きこうをつくりげ(東南とうなんアジア諸国しょこく連合れんごう),一方いっぽうでは伝統でんとうてき地域ちいき紛争ふんそうたいする自立じりつてきな〈平和へいわてき解決かいけつ〉の枠組わくぐみをもうけ,他方たほう共通きょうつうする〈政敵せいてき〉,たとえば共産党きょうさんとうのゲリラ活動かつどうには共同きょうどう軍事ぐんじ行動こうどうによっておのおのの政権せいけんの〈強靱きょうじんせい(レジリエンス)〉をたかめようとしたことである。

開発かいはつ政治せいじ登場とうじょうはそれまでの東南とうなんアジアを一変いっぺんさせた。それはだい1に,発展はってん途上とじょうこくのモデルといわれるまでに,高度こうど経済けいざい成長せいちょう達成たっせいし,南北なんぼく問題もんだいへのひとつのこたえをなしているとされるからである。だい2に,これまで頻発ひんぱつした地域ちいき紛争ふんそう極小きょくしょうさせた。もちろんベトナムをはじめとしたインドシナ諸国しょこくとの対立たいりつかかえているにしろ,大国たいこく介入かいにゅうなしに,いやむしろ介入かいにゅうによる地域ちいき平和へいわ実現じつげんへの展望てんぼうひらいた。そしてだい3に,東南とうなんアジアはもはやなにかの一部いちぶではなく,それ自体じたい役割やくわりをもつにいたった。

 しかし,開発かいはつ政治せいじ同時どうじに,貧富ひんぷ格差かくさおおきくし,社会しゃかい根底こんているがしはじめた。こうしたあたらしい社会しゃかい変動へんどうたいし,近代きんだい果実かじつをどうさい配分はいぶんすべきかというあたらしい問題もんだい直面ちょくめんしている。また,あまりにも巨大きょだいになった治安ちあん機構きこうぐん政治せいじ介入かいにゅうたいし,それを制限せいげんし,より自由じゆう政治せいじ実現じつげんすることをせまられている。くわえて,一気いっき増大ぞうだいした先進せんしんこくへの依存いぞん体質たいしつをどう克服こくふくするかがわれはじめた。

 このようなあたらしい課題かだいはどれひとつとってもいちこくだけで対応たいおうしきれるものではないばかりか,大幅おおはば国内こくない政治せいじ経済けいざい変革へんかくなしには遂行すいこうしうるものでもない。その意味いみで,国際こくさい環境かんきょうやそれとの関係かんけい重要じゅうようせいしているといえる。

今日きょう東南とうなんアジアの対外たいがい関係かんけいなかきんでて重要じゅうようなのはアメリカ,中国ちゅうごく日本にっぽんとの関係かんけいである。なかでも日本にっぽんだい2大戦たいせん時代じだい軍事ぐんじ占領せんりょう以来いらい特殊とくしゅ関係かんけいをもっている。

 戦後せんごたいにち感情かんじょう改善かいぜん復興ふっこう目的もくてきとした戦争せんそう賠償ばいしょう以来いらい日本にっぽん一貫いっかんして東南とうなんアジアとは経済けいざい関係かんけい中心ちゅうしん相互そうご関係かんけいきずいてきた。しかし,市場いちば資源しげん確保かくほとか投資とうしさきといったやや一方いっぽうてき関係かんけいになりがちであったことが,戦争せんそう時代じだい以来いらい反日はんにち感情かんじょうかさなって,たびたび反日はんにち運動うんどうたとえば1974ねんのジャカルタ暴動ぼうどう)のかたちをとって批判ひはんされてきた。こうした紆余曲折うよきょくせつて,今日きょうでは日本にっぽん東南とうなんアジアにとって貿易ぼうえきなどのめんさい重要じゅうようこくひとつとなっているばかりでなく,日本にっぽんにとっても東南とうなんアジアはアメリカにいで重要じゅうよう相手あいてさきとなっている。このような相互そうご依存いぞんふかまりは,相互そうご理解りかいをいっそうすすめることを必要ひつようとするだけでなく,一方いっぽうてきになりがちな両者りょうしゃあいだ関係かんけい本格ほんかくてきさい構築こうちくする必要ひつようがあることをも意味いみする。

 冷戦れいせん終結しゅうけつに,APEC(アジア太平洋たいへいよう経済けいざい協力きょうりょく会議かいぎ)など多角たかくてき協力きょうりょく関係かんけい樹立じゅりつすすみ,日本にっぽんあたらしい役割やくわりもとめられている。東南とうなんアジアの多様たようせいという現実げんじつまえた長期ちょうきてき展望てんぼう,つまり自立じりつ民主みんしゅというあたらしい潮流ちょうりゅう沿った相互そうごてき関係かんけい樹立じゅりついまわれている。
執筆しっぴつしゃ

出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんについて 情報じょうほう

百科ひゃっか事典じてんマイペディア東南とうなんアジア」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

東南とうなんアジア【とうなんアジア】

アジア南東なんとう地域ちいき総称そうしょう用法ようほう一定いっていしないが,普通ふつうインドシナふくベトナムラオスカンボジアミャンマータイ大陸たいりく構成こうせいし,マレーシアインドネシアシンガポールフィリピンブルネイひがしティモール島嶼とうしょとなる。地形ちけいてきには,東部とうぶチベットの山地さんちみなみ湾曲わんきょくしてインドシナ半島いんどしなはんとう主軸しゅじくをなすしょ山脈さんみゃく分岐ぶんき,その延長線えんちょうせんじょう諸島しょとう形成けいせいされている。熱帯ねったい亜熱帯あねったいせい気候きこうでモンスーンの影響えいきょうおおきい。世界せかいてき米作べいさく地域ちいきをなす。歴史れきしてきに,大陸たいりくはインド文明ぶんめい中国ちゅうごく文明ぶんめい影響えいきょうけたが,島嶼とうしょ東西とうざい海洋かいよう貿易ぼうえきようとしてイスラム世界せかいさいひがしはしとなった。人口じんこう密度みつどたかく,言語げんご民族みんぞく宗教しゅうきょうはきわめて多様たようである。16世紀せいき以降いこう,ヨーロッパじん進出しんしゅつすすみ,タイをのぞ全域ぜんいき植民しょくみんされた。さらに20世紀せいきには日本にっぽん進出しんしゅつもあいまってだい大戦たいせんでは激戦げきせんとなった。ほとんどのくに大戦たいせん独立どくりつした新興しんこう国家こっかだが,いちじるしい経済けいざい成長せいちょうせている。日本にっぽんからの経済けいざい進出しんしゅつすすんでいるが,戦時せんじちゅう経験けいけんもあり,たびたび反日はんにち感情かんじょう噴出ふんしゅつられる。この地域ちいき協力きょうりょく機構きこうとしては,東南とうなんアジア諸国しょこく連合れんごう(ASEAN)があり,ほかにアジア太平洋たいへいよう経済けいざい協力きょうりょく会議かいぎ(APEC)にもおおくのくに参加さんかしている。
関連かんれん項目こうもくアジア

出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ百科ひゃっか事典じてんマイペディアについて 情報じょうほう

旺文社おうぶんしゃ世界せかい事典じてん さんていばん東南とうなんアジア」の解説かいせつ

東南とうなんアジア
とうなんアジア

アジア南東なんとう地域ちいき総称そうしょうインドシナ半島いんどしなはんとう諸国しょこくとマレーシア・インドネシア・フィリピンをさす
古来こらい東西とうざい交渉こうしょうの「うみみち」がここを通過つうかした。きたヴェトナムには,はたかん以後いご中国ちゅうごくぐんかれ,中部ちゅうぶにはチャンパー,カンボジアには扶南・臘 (しんろう) が建国けんこくされ,インド文化ぶんか影響えいきょう(アンコール−ワットなど)をけた。北部ほくぶすう反乱はんらん征服せいふくをへて,10世紀せいき中国ちゅうごく支配しはいだっし,11世紀せいきあさ大越おおこし)が成立せいりつした。13世紀せいきにはひねあさわり,もと侵入しんにゅうふせいだが,分裂ぶんれつしてあかり支配しはいされた。1428ねんはじむちょう独立どくりつ回復かいふくし,チャンパーを併合へいごうしたが,のちおとろえ,西山にしやまとう支配しはいをへて,1802ねん阮朝のえつ南国なんごくがヴェトナム全土ぜんど統一とういつした。インドネシア・マレーには,7世紀せいきにシュリーヴィジャヤの統一とういつがあり,仏教ぶっきょう流行りゅうこうした(ボロブドゥール寺院じいん)。13世紀せいきまつげん侵入しんにゅう撃退げきたいしてマジャパヒト王国おうこく成立せいりつしたが,15世紀せいきごろイスラームはじまり,分裂ぶんれつした。16世紀せいきからヨーロッパじん来航らいこう資源しげん香辛料こうしんりょうなど)の収奪しゅうだつはじまり,18世紀せいきにインドネシアはオランダ,19世紀せいきにインドシナはフランス,マレーはイギリスの植民しょくみんとなった。だい世界せかい大戦たいせんでは日本にっぽん占領せんりょうされ,戦後せんごフィリピン(16世紀せいきスペインに征服せいふくされ,19世紀せいきにアメリカ植民しょくみんとなる)・インドネシア・マレーシア連邦れんぽう独立どくりつをみた。ヴェトナムでは,北部ほくぶ中心ちゅうしんにヴェトナム民主みんしゅ共和きょうわこくとフランスとのインドシナ戦争せんそうつづき,1954ねん休戦きゅうせん協定きょうていとなったが,みなみのヴェトナム共和きょうわこく支援しえんしたアメリカの介入かいにゅうでヴェトナム戦争せんそうとなり,インドシナ全域ぜんいき拡大かくだいした。1973ねん和平わへい協定きょうていでアメリカぐん撤退てったいすると,きたヴェトナムに支援しえんされた解放かいほう勢力せいりょくがわ有利ゆうり形勢けいせいまれ,75ねんがつサイゴンが陥落かんらくして15年間ねんかんにわたる内戦ないせん終結しゅうけつし,カンボジアの内戦ないせん解放かいほうがわ勝利しょうりわった。東南とうなんアジア条約じょうやく機構きこう(SEATO)の反共はんきょう体制たいせい空洞くうどうし,わって東南とうなんアジア諸国しょこく連合れんごう(ASEAN)の中立ちゅうりつ構想こうそう発展はってんしている。

出典しゅってん 旺文社おうぶんしゃ世界せかい事典じてん さんていばん旺文社おうぶんしゃ世界せかい事典じてん さんていばんについて 情報じょうほう

山川やまかわ 世界せかいしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん東南とうなんアジア」の解説かいせつ

東南とうなんアジア(とうなんアジア)
Southeast Asia/South-East Asia

Southeast(South-East) Asiaの和訳わやくで,通常つうじょうミャンマー(ビルマ),タイ,カンボジア,ラオス,ベトナム,フィリピン,ブルネイ,インドネシア,マレーシア,シンガポール,それにひがしティモールの11の国々くにぐによりなる地域ちいきをさす用語ようご。1943ねん,セイロンのコロンボ連合れんごうぐん日本にっぽん占領せんりょう東南とうなんアジアの失地しっち回復かいふくのためにもうけた東南とうなんアジア司令しれい(South East Asia Command)が,このかたり起源きげんとされる。だい世界せかい大戦たいせん上記じょうき地域ちいきをさす用語ようごとして一般いっぱん戦前せんぜんは「南洋なんよう」「南方なんぽう亜細亜あじあ」などの呼称こしょうもちいた日本人にっぽんじんもこのかたり使つかはじめた。とりわけベトナム戦争せんそうにおいてアメリカがこのかたり頻繁ひんぱんもちいたことが,このかたり普及ふきゅうさせるおおきな要因よういんとなった。

出典しゅってん 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ山川やまかわ 世界せかいしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん山川やまかわ 世界せかいしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱんについて 情報じょうほう

関連かんれんをあわせて調しらべる

今日きょうのキーワード

スケートボード

縦長たてながいた前後ぜんごよっつの車輪しゃりん (ホイール) をつけた用具ようぐ,およびそれをもちいておこなう競技きょうぎった姿勢しせいって滑走かっそうする。 1950年代ねんだいからアメリカで流行りゅうこうし,日本にっぽんでは 1970年代ねんだい中頃なかごろ一大いちだいブームとなった。 ...

スケートボードの用語ようご解説かいせつ

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android