デジタル大辞泉だいじせん 「上京かみぎょう区く」の意味いみ・読よみ・例文れいぶん・類語るいご かみぎょう‐く〔かみギヤウ‐〕【上京かみぎょう区く】 ⇒上京じょうきょう 出典しゅってん 小学館しょうがくかんデジタル大辞泉だいじせんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい
日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 「上京かみぎょう区く」の解説かいせつ 上京かみぎょう区くかみぎようく 面積めんせき:九きゅう七なな・三さん一いち三さん平方へいほうキロ京都きょうと盆地ぼんちの中央ちゅうおうやや北きた寄よりの地域ちいき。北きたは鞍馬口くらまぐち(くらまぐち)通つうを隔へだて北きた区くと、南みなみはほぼ丸太まるた町まち(まるたまち)通つうを隔へだて中京ちゅうきょう区くに接せっするが、いずれも多少たしょうの出入でいりがある。東ひがしは鴨かも(かも)川かわ(賀茂かも(かも)川かわ)を隔へだてて左京さきょう区く、西にしは天神てんじん(てんじん)川かわを隔へだてて北きた区くに接せっする。区内くない南東なんとう部ぶには御所ごしょがある。寺町てらまち(てらまち)通つう以西いせいの一条通いちじょうどおり以南いなんは平安京へいあんきょうの境域きょういきであって、かつての大内裏だいだいり、内裏だいりも区内くない西南せいなん部ぶにあった。区くの中央ちゅうおう部ぶを北きたから南みなみへ堀ほり(ほり)川かわが貫流かんりゅうするが、現在げんざいではほとんど水流すいりゅうがない。〔原始げんし〕上京じょうきょう区域くいきはかつての賀茂川かもがわと高野たかの(たかの)川かわの合流ごうりゅう点てん(現げん四よん条じょうから五条ごじょう辺あたり)よりかなり北きたではあったが、東部とうぶはおおむね沖おき積層せきそうの礫つぶて質しつ砂層さそうであり、西部せいぶは粘土ねんどまたは粘土ねんど質しつ砂層さそうである。もっとも北部ほくぶの船岡ふなおか(ふなおか)山やま辺あたりは、新しん期き洪ひろし積層せきそうとなっていた。この地域ちいきには縄文じょうもん時代じだいの遺跡いせきは発見はっけんされておらず、わずかに内膳ないぜん町まち弥生やよい遺跡いせきから弥生やよい前期ぜんきの土器どき・石器せっきが出で、また京都きょうと御苑ぎょえん(きようとぎよえん)内うちに古墳こふん群ぐんの存在そんざいが確認かくにんされている。〔古代こだい・中世ちゅうせい〕平安へいあん遷都せんと以前いぜんの京都きょうと盆地ぼんちについては不明ふめいな点てんが多おおいが、葛野くずの(かどの)郡ぐんと愛宕あたご(おたぎ)郡ぐんの境さかいは、現げん堀川ほりかわの辺あたり(旧きゅう賀茂川かもがわともいわれる)であったと思おもわれる。この川かわを挟はさんで東側ひがしがわに出雲いずも(いずも)郷さと、西側にしがわに上林うえばやし(かむつはやし)郷さとがあり、上京かみぎょう区く北部ほくぶから北きた区く南部なんぶ辺あたりはこの二に郷さとに含ふくまれていたと思おもわれる。平安京へいあんきょうの大内裏だいだいりは、現在げんざいの通とおりでは、北きたは一条通いちじょうどおり、南みなみは二条通にじょうどおり、東ひがしは大宮おおみや(おおみや)通つう、西にしは御前ごぜん(おんまえ)通つうに囲かこまれた長方形ちょうほうけいの区域くいきであった。また内裏だいりは、ほぼ北きたは下した長者ちょうじゃ町まち(しもちようじやまち)通つう、南みなみは下しも立売たちうり(しもたちうり)通つう下かルまで、東ひがしは智恵ちえ光ひかり院いん(ちえこういん)通つうと浄福寺じょうふくじ(じようふくじ)通つうの間あいだ、西にしは千本せんぼん(せんぼん)通つうの西入にしいりまでの方形ほうけいの地域ちいきにあった。従したがって大内裏だいだいり内ないの重要じゅうような建物たてものはかつて本ほん区内くないにあり、大内裏だいだいりをとりまく、官衙かんが町まちの諸しょ町まち、諸しょ施設しせつも多おおくこの地ちにあった(→平安京へいあんきょう)。〔中世ちゅうせい〕平安京へいあんきょうは朱雀すざく大路おおじ(すざくおおじ)を中心ちゅうしんに、東ひがし(左京さきょう)と西にし(右京うきょう)とに分わかれていたが、湿潤しつじゅんな西京にしぎょうは早はやく荒廃こうはいし田園でんえん化かした。「思円しえん上人しょうにん一いち期き形像けいぞう記き」建治けんじ元年がんねん(一いち二に七なな五ご)条じょうに「上下じょうげ町中まちなか」という漠然ばくぜんとした表現ひょうげんで京都きょうとを上下じょうげに分わけて記しるす。一いち四よん世紀せいき末まつから一いち五ご世紀せいき初はじめに至いたり、上辺うわべ・下辺かへんという表現ひょうげんや、「上京じょうきょう」(「遍あまね智さとし院いん宮みや御ご入いれ壇だん記き」裏書うらがき具ぐ注ちゅう暦こよみ、応おう永なが一いち〇年ねん一いち〇月がつ三さん日にち条じょう)、「下京しもぎょう」(「山科やましな家か礼れい記き」応おう永なが一いち九きゅう年ねん五ご月がつ二に日にち条じょう)などが現あらわれる。室町むろまち時代じだいには左京さきょうが東ひがしや北きたに拡張かくちょうされ、南みなみの四条しじょう室町むろまちを中心ちゅうしんとする辺あたりが商しょう工業こうぎょうの中心ちゅうしんとなって発展はってんした。 出典しゅってん 平凡社へいぼんしゃ「日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい」日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけいについて 情報じょうほう
ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてん 「上京かみぎょう区く」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 上京じょうきょう〔区く〕かみぎょう 京都きょうと市しの市街地しがいち北部ほくぶを占しめる区く。京都きょうと府庁ふちょう所在地しょざいち。 1889年ねん市制しせい施行しこうと同時どうじに設置せっちされた2区くの一ひとつ。 1929年ねんに左京さきょう,中京ちゅうきょう,東山ひがしやま各区かっくの新設しんせつに伴ともない区域くいきが縮ちぢまり,さらに 55年ねんには北きた区くを分ぶん区く。現在げんざいでは中京ちゅうきょう区く,下京しもぎょう区くとともに市しの中心ちゅうしんをなす。京都きょうと御所ごしょをはじめ北野きたの天満てんま宮みや (北野きたの神社じんじゃ ) ,相国寺しょうこくじ,盧の山寺やまでら,大だい報恩寺ほうおんじ,千本せんぼん釈迦堂しゃかどうなどの社寺しゃじがあり,所蔵しょぞうする多おおくの書画しょがは国宝こくほうに指定してい。史跡しせき・名勝めいしょうも数多かずおおい。面積めんせき 7.03km2。人口じんこう 8万まん3832(2020)。 出典しゅってん ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんについて 情報じょうほう