(Translated by https://www.hiragana.jp/)
大日本帝国憲法(ダイニッポンテイコクケンポウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうみ)ダイニッポンテイコクケンポウ

デジタル大辞泉だいじせん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

だいにっぽんていこく‐けんぽう〔‐ケンパフ〕【大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう

明治めいじ22ねん(1889)2がつ11にち明治天皇めいじてんのうによって公布こうふされ、翌年よくねん11がつ29にち施行しこうされた欽定きんてい憲法けんぽう天皇てんのう主権しゅけん原理げんりとする成文せいぶん憲法けんぽうで7しょう76かじょうからなる。天皇てんのう大権たいけん臣民しんみん権利けんり義務ぎむ帝国ていこく議会ぎかい組織そしき輔弼ほひつほひつ機関きかん司法しほう会計かいけいなどについて規定きてい伊藤いとう博文ひろぶみ中心ちゅうしん井上いのうえあつしいのうえこわしらが起草きそうした。昭和しょうわ22ねん(1947)日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうにより廃止はいし明治めいじ憲法けんぽうきゅう憲法けんぽう帝国ていこく憲法けんぽう

出典しゅってん 小学館しょうがくかんデジタル大辞泉だいじせんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい

精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

だいにっぽんていこく‐けんぽう‥ケンパフ大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう

  1. 明治めいじねんいちはちはちきゅうがついちいちにち明治天皇めいじてんのうによって制定せいてい公布こうふされ、翌年よくねんいちいちがつきゅうにち施行しこうされたわがくに最初さいしょ近代きんだいてき成文せいぶん憲法けんぽうななしょうななろくじょうからり、天皇てんのう臣民しんみん権利けんり義務ぎむ帝国ていこく議会ぎかい国務大臣こくむだいじんおよび枢密すうみつ顧問こもん司法しほう会計かいけいなどについて規定きていする。天皇てんのう主権しゅけん基本きほん原理げんりとし、独立どくりつ命令めいれい条約じょうやく締結ていけつ宣戦せんせん戒厳かいげん宣告せんこくぐん統帥とうすい官吏かんり任免にんめん栄典えいてん授与じゅよ非常ひじょう大権たいけんなど議会ぎかいによらない立法りっぽう手段しゅだん天皇てんのう権能けんのうとしてひろみとめられていた。だい世界せかい大戦たいせん昭和しょうわねんいちきゅうよんなな廃止はいしされ、あたらしい日本国にっぽんこく憲法けんぽう成立せいりつした。きゅう憲法けんぽう帝国ていこく憲法けんぽう明治めいじ憲法けんぽう

出典しゅってん 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい

改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう (だいにほんていこくけんぽう)

1889ねん2がつ11にち発布はっぷされ,90ねん11月29にちより施行しこうされ,形式けいしきてきには1947ねん5がつ2にちまで存続そんぞくした憲法けんぽうてんで,〈明治めいじ憲法けんぽう〉あるいは〈きゅう憲法けんぽう〉ともばれる。

明治維新めいじいしんにあたり政府せいふヵ条かじょう誓文せいもん政体せいたいしょ政府せいふ組織そしきととのえるとともに,版籍はんせき奉還ほうかん廃藩置県はいはんちけん身分みぶんせい廃止はいし徴兵ちょうへいれい地租ちそ改正かいせいひとしによって近代きんだい国家こっかとしての体裁ていさい形成けいせいしていった。しかし,西洋せいよう諸国しょこくとのあいだ不平等ふびょうどう条約じょうやく撤廃てっぱいさせるためには,富国強兵ふこくきょうへい政策せいさく推進すいしんする一方いっぽうで,文明ぶんめいこくにふさわしい近代きんだい法典ほうてん整備せいびする必要ひつようがあった。法典ほうてん中心ちゅうしんをなす近代きんだい憲法けんぽう制定せいていうごきは1874ねんみんせん議院ぎいん設立せつりつ建白けんぱくしょ触発しょくはつされたが,政府せいふ急速きゅうそく憲法けんぽう制定せいていのぞまず漸進ぜんしん主義しゅぎをとった。翌年よくねん設立せつりつされた元老げんろういんがこの方針ほうしんした憲法けんぽうあん作成さくせいにあたり,ベルギー憲法けんぽうプロイセン憲法けんぽうはんをとった〈日本にっぽん国憲こっけん按〉が78ねんにできたが,その立憲りっけんてき傾向けいこう岩倉いわくら具視ともみなどのいれるところではなかった。

 他方たほう明治めいじ10年代ねんだい活発かっぱつした自由じゆう民権みんけん運動うんどうなかからは,イギリスやフランスの憲法けんぽう影響えいきょうをうけたさまざまな憲法けんぽう私案しあんわたしなずらえ憲法けんぽう)が発表はっぴょうされたが,もとより政府せいふるところではなく,自由じゆう民権みんけん運動うんどう自体じたいがやがて抑圧よくあつされていった。

 しかし,〈明治めいじ14ねん政変せいへん〉により〈国会こっかい開設かいせつみことのり〉がされ,これによって1890ねんして国会こっかい開設かいせつされることになり,それまでに憲法けんぽう制定せいていされることになった。そこで伊藤いとう博文ひろぶみわたりおうし,しゅとしてドイツ,オーストリアでグナイストシュタインについて憲法けんぽう制度せいど取調とりしらべをおこなった。帰国きこく伊藤いとうレースラー意見いけん参考さんこうにしつつ,井上いのうえあつし伊東いとう巳代治みよじらとともに憲法けんぽうあん起草きそうし,その成案せいあんは1888ねん設置せっちされた枢密院すうみついん諮詢しじゅんて,89ねん2がつ11にち大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうとして公布こうふされた。しかし,公布こうふいたるまでその内容ないよう国民こくみんにはまったく秘匿ひとくされていた。

(1)基本きほんてき特色とくしょく 大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうは,西欧せいおう諸国しょこく近代きんだい憲法けんぽう体裁ていさい一応いちおうとっていたが,君主くんしゅけんつよいドイツがた立憲りっけん君主くんしゅせいはんとし,それに日本にっぽん独自どくじ天皇てんのう中心ちゅうしん国家こっかかん加味かみしたものであっただけに,絶対ぜったい主義しゅぎてき色彩しきさいつよびていた。このためきゅう憲法けんぽうは,議会ぎかいもうけるなどの立憲りっけんてき要素ようそ絶対ぜったい主義しゅぎてき要素ようそりょう要素ようそからなっており,しかも後者こうしゃ顕著けんちょなので〈外見がいけんてき立憲りっけん主義しゅぎ〉との評価ひょうかあたえられている。きゅう憲法けんぽううえたとえと7しょう76じょうからなる簡潔かんけつなものであるが,天皇てんのう制定せいていした欽定きんてい憲法けんぽうであり,その改正かいせい発案はつあんけん天皇てんのうのみにあり,発布はっぷさい勅語ちょくごでは永遠えいえん不滅ふめつな〈不磨ふま大典たいてん〉として位置いちづけられていた。実際じっさい日本国にっぽんこく憲法けんぽう制定せいていまでいち改正かいせいされることがなかった。なお,皇室こうしつかんする事項じこうについては,皇位こうい継承けいしょうとうふくめて,べつ皇室こうしつ典範てんぱん制定せいていされ,みやつとむほう最高さいこう法規ほうきとされており,政務せいむほう最高さいこう法規ほうきとされたきゅう憲法けんぽうとともに二元にげんてき法体ほうたいけいがとられていた。

(2)天皇てんのう だい1しょう天皇てんのうであり,それは17ヵ条かじょうという比較的ひかくてきおおくの規定きてい構成こうせいされていることにしめされるように,天皇てんのうきゅう憲法けんぽう中核ちゅうかくであった。〈大日本帝国だいにっぽんていこくまんせいいちけい天皇てんのう統治とうちス〉(大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう1じょう)とされて天皇てんのう主権しゅけんしゃであるとともに,元首げんしゅとして統治とうちけん総攬そうらんした(4じょう)。この天皇てんのう地位ちい天孫てんそん降臨こうりんかみみことのりによって根拠こんきょづけられていたので,〈天皇てんのう神聖しんせいニシテおかせスヘカラス〉(3じょう)との規定きていから文字もじどおり天皇てんのう現人神あらひとがみ(あらひとがみ)とみる解釈かいしゃく一方いっぽうで,国家こっかたいしてつよ宗教しゅうきょうせいあたえ,神道しんとう国家こっか宗教しゅうきょうをもたらした。天皇てんのう憲法けんぽう条規じょうきにより統治とうちけん行使こうししたが,立法りっぽうけん議会ぎかい協賛きょうさんによって,また広範こうはん大権たいけん原則げんそくてき国務こくむかく大臣だいじん輔弼ほひつ(ほひつ)によって天皇てんのうがこれをおこない,司法しほうけん天皇てんのうによって独立どくりつ裁判所さいばんしょがこれをおこなった。他方たほう天皇てんのう皇室こうしつちょうとして皇室こうしつ事務じむ統裁とうさいした。

(3)統治とうち構造こうぞう 天皇てんのうした統治とうちけん行使こうし関与かんよする機関きかん帝国ていこく議会ぎかい国務大臣こくむだいじん裁判所さいばんしょの3機関きかん分離ぶんりせいをとっていた。立法りっぽう協賛きょうさんする機関きかんとして帝国ていこく議会ぎかい存在そんざいしたことはきゅう憲法けんぽう立憲りっけんてき側面そくめんさいたるものであるが,天皇てんのう議会ぎかい関与かんよしえない独立どくりつ命令めいれいけん(9じょう)などのふく立法りっぽうけんみとめられていたことや,公選こうせんによる衆議院しゅうぎいん基本きほんてき対等たいとうなものとして皇族こうぞく華族かぞくみことのりにん議員ぎいんなどからなる貴族きぞくいん設置せっちされ国民こくみん意見いけん抑制よくせいしていたことなどに立憲りっけんてき側面そくめんあらわれている。大権たいけん行政ぎょうせいけん輔弼ほひつする国務こくむかく大臣だいじん天皇てんのうによって任命にんめいされ,天皇てんのうたいしてのみ責任せきにんうものとされており,内閣ないかく総理そうり大臣だいじん同輩どうはいちゅう首席しゅせきにすぎず,その権限けんげんよわかった。また,統帥とうすい大権たいけん栄誉えいよ大権たいけんなどには国務大臣こくむだいじん輔弼ほひつおよばないなど,その権能けんのうには限界げんかいがあった。他方たほう財政ざいせいけんについては議会ぎかい責任せきにん追及ついきゅうまぬかれうるよう配慮はいりょされており(63,67,71じょう),立憲りっけんてき要素ようそ加重かじゅうされている。司法しほうけん独立どくりつ大津おおつ事件じけん(1891)などをとおして一応いちおうまもられていたが,軍法ぐんぽう会議かいぎといった特別とくべつ裁判所さいばんしょや,行政ぎょうせい事件じけん終審しゅうしんとしてあつか行政ぎょうせい裁判所さいばんしょ行政ぎょうせい裁判さいばん)が設置せっちされていた。

 以上いじょう立憲りっけんてき機関きかんのほかに,天皇てんのう諮詢しじゅんにこたえて重要じゅうよう国務こくむ審議しんぎする枢密院すうみついんもうけられていたが,枢密すうみつ顧問こもんかんみことのりにんであり,国民こくみん統制とうせいおよばなかった。また,憲法けんぽうがい機関きかんとして,天皇てんのう常時じょうじ輔弼ほひつする内大臣ないだいじんや,次期じきないかく総理そうり大臣だいじん天皇てんのう推薦すいせんした元老げんろうなどがあり,事実じじつじょう政治せいじ関与かんよした。ぐん慣習かんしゅう法的ほうてきみとめられていた〈統帥とうすいけん独立どくりつ〉によって天皇てんのう以外いがいなにものにも制約せいやくされない立場たちばにあった。このように,きゅう憲法けんぽうには立憲りっけんてき機関きかん複雑ふくざつ存在そんざいし,天皇てんのう以外いがいにこれらを統括とうかつするものはなく,かく機関きかん各個かっこ無責任むせきにんになりがちであった。

(4)権利けんり きゅう憲法けんぽう一応いちおう表現ひょうげん自由じゆうなどの権利けんりみとめていたが,それは西洋せいよう近代きんだい憲法けんぽうにおける基本きほんてき人権じんけんのような自然しぜんけんてきぜん国家こっかてき権利けんりではなく,天皇てんのう恩恵おんけいてきに〈臣民しんみん〉にあたえたのち国家こっかてき権利けんりにすぎなかった。実際じっさいに,信教しんきょう自由じゆうのぞいて,いずれも法律ほうりつによって制限せいげんできるか,法律ほうりつ範囲はんいないにおいてみとめられる権利けんりであった(〈法律ほうりつ留保りゅうほ〉)。〈法律ほうりつ留保りゅうほ〉のない信教しんきょう自由じゆうについても〈安寧あんねい秩序ちつじょさまたげケス及臣民しんみんタルノ義務ぎむカサルげん〉(28じょう)においてみとめられる権利けんりであったから,現人神あらひとがみたる天皇てんのうひいては国家こっか神道しんとう靖国神社やすくにじんじゃ伊勢神宮いせじんぐう)を礼拝れいはいすることが臣民しんみん強制きょうせいされることになった。

 なお,非常時ひじょうじには,天皇てんのうはこれらの権利けんり全面ぜんめんてき停止ていしすることができた(非常ひじょう大権たいけん)。また,皇族こうぞく華族かぞくなどの特権とっけん身分みぶんもうけたので,平等びょうどう原則げんそくかんする一般いっぱんてき規定きていはない。

絶対ぜったい主義しゅぎてき立憲りっけんてき両面りょうめんをもつきゅう憲法けんぽう解釈かいしゃくにおいて,天皇てんのう大権たいけん強調きょうちょうする方向ほうこう理解りかいしようとする穂積ほづみ八束やつか上杉うえすぎ慎吉しんきちら(神権しんけん学派がくは)と,立憲りっけんてき側面そくめん中心ちゅうしん理解りかいしようとする美濃部みのべ達吉たつきちら(立憲りっけん学派がくは)との対立たいりつがあった。両者りょうしゃは,〈国体こくたい概念がいねん憲法けんぽうじょうみとめるか,天皇てんのう統治とうちけん主体しゅたいであるか,天皇てんのう神格しんかくするか,大権たいけん行使こうし議会ぎかい参与さんよゆるされるか,輔弼ほひつ大権たいけん行使こうし要件ようけんであるかなどのてんするど対立たいりつした。この結果けっか神権しんけん学派がくはによると,神格しんかくされた天皇てんのう具体ぐたいてき決断けつだんおこない,機関きかん天皇てんのう決断けつだんたすける存在そんざいでしかないことになるが,立憲りっけん学派がくはは,国家こっか最高さいこう機関きかんである天皇てんのうとともに議会ぎかい直接ちょくせつ機関きかんとして位置いちづけることによって天皇てんのう地位ちい権能けんのう相対そうたいし,憲政けんせい議院ぎいんないかくせいてき運用うんよう期待きたいした。また,後者こうしゃでは国務大臣こくむだいじん輔弼ほひつ実質じっしつてき拘束こうそくりょく期待きたいされていたので,現実げんじつ政治せいじ議会ぎかい信任しんにん基礎きそをおく内閣ないかくによっておこなわれ,天皇てんのうはその上部じょうぶ権威けんいとして存在そんざいすることが構想こうそうされていた。

 きゅう憲法けんぽう実際じっさい運用うんようにおいて,大正たいしょうデモクラシー時期じきから立憲りっけん学派がくはてき理解りかい有力ゆうりょくとなり,議会ぎかい主義しゅぎ重点じゅうてんをおく政党せいとうないかくせい時代じだい実現じつげんした。しかし,昭和しょうわはい軍部ぐんぶ勢力せいりょくつよまると政党せいとうないかくせい崩壊ほうかいし,立憲りっけん学派がくはてき理解りかい批判ひはんまととなり,1935ねんの〈天皇てんのう機関きかんせつ事件じけん〉を契機けいき政治せいじてき物理ぶつりてき圧殺あっさつされた。また,立憲りっけん学派がくはでも肯定こうていされていた〈統帥とうすいけん独立どくりつ〉によって内閣ないかくとう軍令ぐんれい事項じこうくちをはさめない一方いっぽうで,りく海軍かいぐん大臣だいじん武官ぶかんでなければならないという〈陸海りくかいぐん大臣だいじん武官ぶかんせい〉(軍部ぐんぶ)によってぐん公然こうぜん政治せいじくちをはさめるばかりか内閣ないかく進退しんたいをも左右さゆうできたので,昭和しょうわになっての軍部ぐんぶ独走どくそう制度せいどてきにもゆるすことになった。しかも,陸軍りくぐん海軍かいぐんただ一人ひとり統括とうかつできる天皇てんのう軍令ぐんれい機関きかん輔弼ほひつたいして消極しょうきょくてき対応たいおうする状況じょうきょうしたでは,かくぐん独走どくそう制約せいやくするものはなにもなく,結局けっきょく歯止はどめのないまま全面ぜんめん戦争せんそう突入とつにゅうすることになったのである。権利けんりについても,治安ちあん維持いじほう治安ちあん警察けいさつほうなどの権利けんり制約せいやく立法りっぽう乱立らんりつし,実態じったいてき権利けんりはなきにひとしい状況じょうきょうがあった。そして,法律ほうりつ規制きせい事項じこう大幅おおはば命令めいれい規制きせい事項じこうにした1938ねん国家こっか総動員そうどういんほうによってきゅう憲法けんぽう立憲りっけんてき要素ようそ実質じっしつてき払拭ふっしょくされた。
天皇てんのう
執筆しっぴつしゃ

出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんについて 情報じょうほう

百科ひゃっか事典じてんマイペディア大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう【だいにほんていこくけんぽう】

戦前せんぜん日本にっぽん憲法けんぽう明治めいじ憲法けんぽう通称つうしょう。1889ねんがつ11にち発布はっぷ,1890ねん11月29にち施行しこう憲法けんぽう制定せいてい機運きうんはやくから政府せいふないにもあったが,自由じゆう民権みんけん運動うんどう高揚こうようとともに民間みんかんでもわたしなずらえ憲法けんぽう作成さくせいされ,これらのうごきに対抗たいこう欽定きんてい(きんてい)憲法けんぽうとして制定せいてい。プロイセン憲法けんぽう参考さんこう伊藤いとう博文ひろぶみ井上いのうえあつしらが起草きそう枢密院すうみついん可決かけつ全文ぜんぶんしょう76じょう三権分立さんけんぶんりつ原則げんそく臣民しんみん権利けんり自由じゆう保障ほしょう一応いちおうとりれたが,万世ばんせいいちけい神聖しんせい不可侵ふかしん天皇てんのう統治とうちけん掌握しょうあくする天皇てんのう主権しゅけん原則げんそくとした。天皇てんのう帝国ていこく議会ぎかい関与かんよなしにおこなえる大権たいけん事項じこう緊急きんきゅうみことのりれい発布はっぷ大臣だいじん任命にんめいその広範こうはんおよび,枢密院すうみついん設置せっちとうあいまって議会ぎかい地位ちいよわめた。臣民しんみん権利けんり法律ほうりつにより制限せいげんできた。またぐん統帥とうすいけん天皇てんのう直属ちょくぞくし,これには政府せいふ関与かんよできなかった。1947ねんがつにち日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうにより廃止はいし
関連かんれん項目こうもく井上いのうえあつし金子かねこ堅太郎けんたろう黒田くろだ清隆きよたか内閣ないかく国家こっか神道しんとう自由党じゆうとう上諭じょうゆ臣籍しんせき降下こうか勅語ちょくご天皇てんのう天皇てんのうせい日本にっぽん日本国にっぽんこく憲法けんぽう法制ほうせいきょく長官ちょうかん明治天皇めいじてんのうレースラー

出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ百科ひゃっか事典じてんマイペディアについて 情報じょうほう

山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう」の解説かいせつ

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう
だいにほんていこくけんぽう

明治めいじ中期ちゅうき昭和しょうわ前期ぜんき日本にっぽん国家こっか基本きほんとなった憲法けんぽう通称つうしょう明治めいじ憲法けんぽう。ヨーロッパで憲法けんぽう調査ちょうさにあたった伊藤いとう博文ひろぶみ中心ちゅうしんに,おもにプロイセンやドイツしょくに憲法けんぽうはん起草きそう枢密院すうみついん審議しんぎをへて1889ねん(明治めいじ22)2がつ11にち欽定きんてい憲法けんぽうとして発布はっぷされ,90ねん11月29にち帝国ていこく議会ぎかい開会かいかいとともに発効はっこうした。ぜん76じょう。この憲法けんぽうによれば,天皇てんのうくに元首げんしゅとして統治とうちけん総攬そうらん(そうらん)し,法律ほうりつ裁可さいか議会ぎかい召集しょうしゅう衆議院しゅうぎいん解散かいさん陸海りくかいぐん統帥とうすい編制へんせい宣戦せんせん講和こうわ条約じょうやく締結ていけつ文武ぶんぶかん任免にんめん緊急きんきゅうみことのりれい発布はっぷなど広範こうはん大権たいけんゆうし(だい4~16じょう),憲法けんぽう条規じょうきにより統治とうちけん行使こうしすることとされた(だい4じょう)。国務大臣こくむだいじん天皇てんのう輔弼ほひつ(ほひつ)し責任せきにんうとしているが,国民こくみん議会ぎかいへの責任せきにん明文化めいぶんかされていない。国民こくみん公務こうむへの就任しゅうにん請願せいがん権利けんり法律ほうりつによらない逮捕たいほ否認ひにん言論げんろん出版しゅっぱん集会しゅうかい結社けっしゃ信教しんきょう自由じゆう所有しょゆうけん不可侵ふかしんなどを制約せいやくつきながらみとめられた。帝国ていこく議会ぎかい衆議院しゅうぎいん貴族きぞくいん二院にいんせい立法りっぽう予算よさん議定ぎていなどの権限けんげんをもった。大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう発布はっぷにより天皇てんのう中心ちゅうしんとする国家こっか体制たいせい確立かくりつされるとともに,国民こくみん国政こくせい参与さんよするひらかれ,日本にっぽんはアジアにおける唯一ゆいいつ立憲りっけん国家こっかとなった。この憲法けんぽうにはきみけん主義しゅぎ立憲りっけん主義しゅぎ原理げんり併存へいそんし,解釈かいしゃくはばおおきく,大正たいしょうには立憲りっけん主義しゅぎてき理解りかいふかまったが,1930年代ねんだい後半こうはん以降いこう軍部ぐんぶ台頭たいとう立憲りっけん主義しゅぎてき要素ようそ骨抜ほねぬきとなった。だい2大戦たいせん敗戦はいせんにより実質じっしつてき機能きのううしなわれ,47ねん(昭和しょうわ22)5がつ3にち日本国にっぽんこく憲法けんぽうにかわった。

出典しゅってん 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱんについて 情報じょうほう

ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう
だいにほんていこくけんぽう

1889ねん2がつ 11にち公布こうふされた憲法けんぽうで,りゃくして「帝国ていこく憲法けんぽう」,あるいは「明治めいじ憲法けんぽう」といわれる。現在げんざい日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうまでの最高さいこう法規ほうきであり,有効ゆうこう改正かいせいされたことがない。ドイツ・プロシアの立憲りっけん君主くんしゅせいはんとしたもので,その制定せいていは 81ねん政変せいへんさいして決定けっていされた。 88ねん伊藤いとう博文ひろぶみ井上いのうえあつし金子かねこ堅太郎けんたろう伊東いとう巳代治みよじによって最終さいしゅう草案そうあん完成かんせい枢密院すうみついんよく 89ねん欽定きんてい憲法けんぽうとして発布はっぷ,90ねん 11月 29にち施行しこうされた。内容ないようは,7しょう 76じょうからり,まずだい1じょう天皇てんのう主権しゅけんさだめ,ほかに統帥とうすい大権たいけん外交がいこう大権たいけん非常ひじょう大権たいけんなどの広範こうはん天皇てんのう大権たいけん規定きていした。臣民しんみん権利けんり規定きてい君主くんしゅたいする大臣だいじん助言じょげんせい司法しほうけん独立どくりつなど一応いちおう近代きんだいてき立憲りっけんせい体裁ていさいをとりながら,貴族きぞくいん衆議院しゅうぎいん対立たいりつさせ,実質じっしつてきには立法りっぽうけん予算よさん審議しんぎけん大幅おおはば制限せいげんするなど,立憲りっけんてき側面そくめんすくなくなかった。とく軍部ぐんぶは,天皇てんのう軍隊ぐんたいとして政府せいふ議会ぎかい関与かんよできない独立どくりつした地位ちいあたえられ,おおきな影響えいきょうりょくおよぼすことになった。 1947ねん5がつ3にち日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうとともにその効力こうりょく消滅しょうめつした。

出典しゅってん ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてんブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてんについて 情報じょうほう

旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう」の解説かいせつ

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう
だいにほんていこくけんぽう

戦前せんぜん日本にっぽん国家こっか骨格こっかくとなった憲法けんぽう
明治めいじ憲法けんぽうともいう。伊藤いとう博文ひろぶみ中心ちゅうしん井上いのうえあつし伊東いとう巳代治みよじ金子かねこ堅太郎けんたろうらがプロシア憲法けんぽう模範もはんとし,ロエスレル・モッセの助言じょげんのもとに草案そうあん作成さくせい枢密院すうみついん審議しんぎて1889(明治めいじ22)ねんがつ11にち欽定きんてい憲法けんぽうとして発布はっぷよく'90ねん11月29にち施行しこう。「大日本帝国だいにっぽんていこくまんせいいちけい天皇てんのう統治とうちス」「天皇てんのうこく元首げんしゅニシテ統治とうちけん総攬そうらんシ」と,天皇てんのう唯一ゆいいつ統治とうちしゃであることをさだめている。国民こくみん天皇てんのう統治とうちされる「臣民しんみん」とされ,天皇てんのう統治とうち翼賛よくさんするだけであるが,臣民しんみん参政さんせいけん基本きほんてき人権じんけんがいくらかでもみとめられているてんに,自由じゆう民権みんけん運動うんどう成果せいか反映はんえいされていた。1947(昭和しょうわ22)ねんがつにち日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうにより廃止はいしされた。

出典しゅってん 旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばんについて 情報じょうほう

世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう言及げんきゅう

基本きほんてき人権じんけん】より

特異とくいれいであるが植木うえき枝盛えもり作成さくせいした〈日本国にっぽんこく国憲こっけん按〉(1881)には,人民じんみん自由じゆう権利けんり制限せいげんする立法りっぽう禁止きんし思想しそう自由じゆう教授きょうじゅ自由じゆう歩行ほこう自由じゆう拷問ごうもん禁止きんし死刑しけい廃止はいし無法むほう抵抗ていこうする権利けんりなど斬新ざんしん内容ないよう人権じんけん規定きていおおふくまれている。国民こくみんのあいだにみられた人権じんけん要求ようきゅう大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう(1889公布こうふ)には十分じゅうぶん反映はんえいされなかった。憲法けんぽう審議しんぎさいして,〈臣民しんみん分際ぶんざい〉にあらためてはどうかというもり有礼ありのり提案ていあんたいし,伊藤いとう博文ひろぶみは,憲法けんぽう臣民しんみん権利けんり列記れっきせず責任せきにんのみを記載きさいするのであれば,憲法けんぽうもうける必要ひつようはないとこたえている。…

わたしなずらえ憲法けんぽう】より

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう制定せいてい以前いぜんに,民間みんかん起草きそうされた憲法けんぽう官吏かんり個人こじんてき立場たちばためしそうした憲法けんぽうあんもこれにふくめることができる。…

天皇てんのう】より

…また民間みんかん憲法けんぽう草案そうあんおおくは〈皇帝こうてい〉〈くにみかど〉というるいみかどごうしるされていた。まさに〈天皇てんのう〉という公称こうしょう成立せいりつ大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうによって確定かくていされたわけであるが,その英訳えいやくはEmperorであり,外交がいこう文書ぶんしょでは〈皇帝こうてい〉とされていた。外交がいこう文書ぶんしょの〈皇帝こうてい〉が〈天皇てんのう〉となるのは,国体こくたいろん時代じだい謳歌おうかする潮流ちょうりゅうになってのことで,1936ねんをまたねばならない。…

法制ほうせい】より

…この時期じき特徴とくちょうは,自由じゆう民権みんけん運動うんどう鎮圧ちんあつ国内こくないてきには一応いちおう天皇てんのう中心ちゅうしんとする統治とうち機構きこう確立かくりつしたものの,なお平等びょうどう条約じょうやく改正かいせい法典ほうてん編纂へんさん完成かんせいとによる法体ほうたいけい完成かんせいへの模索もさくおこなわれたてんにある。統治とうち機構きこうは,1889ねん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうとその付属ふぞく法令ほうれい制定せいていによって確立かくりつした。しゅとしてプロイセン憲法けんぽう参照さんしょうした大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうは,帝国ていこく議会ぎかい開設かいせつしたものの,天皇てんのうによる統治とうちけん総攬そうらんと,国民こくみん基本きほんてき人権じんけん制約せいやくとを特徴とくちょうとする。…

※「大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

出典しゅってん株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばん)」

関連かんれんをあわせて調しらべる

今日きょうのキーワード

五節ごせちまい

日本にっぽん上代じょうだい芸能げいのうひとつ。宮廷きゅうていわれるおんなまいだいうた (おおうた) のひとつの五節ごせち歌曲かきょく伴奏ばんそうわれる。天武天皇てんむてんのうかみおんな歌舞かぶをみてつくったとつたえられるが,元来がんらい農耕のうこう関係かんけいするまいはっするといわれる。五節ごせち意味いみは...

五節ごせちまい用語ようご解説かいせつ

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android