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弾左衛門(ダンザエモン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

たま左衛門さえもんみ)ダンザエモン

デジタル大辞泉だいじせんたま左衛門さえもん」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

だんざえもん〔ダンザヱモン〕【たまひだり衛門えもん

江戸えど時代じだいせきはちしゅうおよび陸奥みちのく甲斐かい伊豆いず駿河するがの12かこくえた非人ひにん支配しはいしたあたまかしら代々だいだいしょう江戸えど拠点きょてんいた。

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精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてんたま左衛門さえもん」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

だん‐ざえもん ‥ザヱモンたま左衛門さえもん

めい江戸えど時代じだいせきはちしゅうほか伊豆いずこく全部ぜんぶおよび陸奥みちのく甲州こうしゅう駿しゅんしゅう一部いちぶのえた(けがれ)、非人ひにんそう取締役とりしまりやく江戸えどみ、皮革ひかく灯心とうしん製造せいぞう販売はんばい特権とっけんゆうし、えた、非人ひにんたいするある程度ていど裁判さいばんけんあたえられていた。
俳諧はいかい大坂おおさか独吟どくぎんしゅう(1675)じょうさむらいもいさやしらゆき たつときもだん左衛門さえもんはなて〈いくおと〉」

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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんたま左衛門さえもん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

たま左衛門さえもん (だんざえもん)

江戸えど本拠ほんきょをおいた〈きたなあたま(えたがしら)(ちょう吏頭(ちようりがしら))〉で,せきはちしゅう伊豆いず全域ぜんいき,および甲斐かい駿河するが陸奥みちのく一部いちぶ差別さべつ部落ぶらく統轄とうかつするとともに,さわあたま(ふれがしら)として全国ぜんこく差別さべつ部落ぶらく号令ごうれいする権限けんげん幕府ばくふからゆだねられていた。歴代れきだいこの襲名しゅうめいし,幕末ばくまつ維新いしんだい13だいだん左衛門さえもんたま内記ないき(ないき),直樹なおき(なおき))にいたって旧来きゅうらい地位ちい権益けんえきうしなった。

 たま左衛門さえもんの,江戸えど時代じだい以前いぜんにおける沿革えんかくについては,ほとんどわかっていない。《たま左衛門さえもん由緒ゆいしょしょ(ゆいしよがき)》は,とおうけたまわ4ねん(1180)9がつに〈鎌倉かまくらちょう藤原ふじわらだん左衛門さえもん〉というものみなもと頼朝よりともから朱印しゅいんじょうけ,ちょう吏や非人ひにんをはじめとする28しゅしょしょくうえたま左衛門さえもんってかれらを統轄とうかつする権限けんげんみとめられたのがはじまりであるとつたえており,また足利あしかがから〈せきはちしゅうちょう吏頭〉に任命にんめいされたともしょうするが,いずれも確証かくしょうがなく,その取扱とりあつかいには慎重しんちょうようする。

 たま左衛門さえもん住所じゅうしょは,当初とうしょ江戸城えどじょうちか日本橋にほんばしかいわいにさだめられたが,やがて浅草あさくさうつされて,新町しんまち(しんまち)を〈がこない(かこいうち)〉とし,だい規模きぼ屋敷やしきかまゆるされて〈たま左衛門さえもん役所やくしょ〉とばれた。将軍家しょうぐんけ威光いこうにしながら,江戸えどはもとよりのこと関東かんとうしょ地域ちいき差別さべつ部落ぶらく掌握しょうあくつとめ,1722ねんとおる7)には江戸えど非人ひにん統轄とうかつにんたっていた〈人頭じんとう〉を配下はいかれるのに成功せいこう。これにより,だん左衛門さえもん支配しはいけん大幅おおはば拡張かくちょうされたとみられる。以降いこうしゅとして行刑ぎょうけいかわ(かわはぎ)(皮革ひかく生産せいさん)を生業せいぎょうとする人々ひとびと中核ちゅうかくとした差別さべつ部落ぶらくうえ屹立きつりつきつりつ)して,その強大きょうだい実権じっけん確固かっこたる管理かんり統制とうせい機構きこうとにより幕府ばくふ人民じんみん支配しはい根底こんていからささえる任務にんむつづけたすえに,幕末ばくまつ激動期げきどうきむかえた。

 幕末ばくまつ維新いしんに,一族いちぞく配下はいか命運めいうん双肩そうけんにになっただい13だいだん左衛門さえもんは,遠縁とおえん摂津せっつ住吉すみよしぐんちょう吏であった利左衛門りざえもん(りざえもん)の長男ちょうなんとしてまれ,小太郎こたろうといったが,わかくして病臥びょうがとなっていただい12だいゆずる周司しゅうじ)の養嗣子ようししむかえとられて同家どうけいだ。その歴代れきだい同様どうよう幕府ばくふ忠節ちゅうせつくし,だい2長州ちょうしゅう征伐せいばつ(1866)にさいしては,幕命ばくめいほうじて500めい配下はいか軍夫ぐんぷとして大坂おおさか急派きゅうはしたのみならず,みずからも独断どくだん摂津せっつ差別さべつ部落ぶらくにおもむいて〈鉄砲てっぽうぐみひゃくにん〉の編成へんせい幕府ばくふぐんへの提供ていきょうすすめたりもしたほどであった。

 しかしながら,過酷かこく身分みぶんてき差別さべつたいする差別さべつ部落ぶらく住民じゅうみん不満ふまんは,すでに集中しゅうちゅうてきたかまってきており,幕府ばくふしょはんはんする行動こうどう人々ひとびとだっていたし,そのうえ,〈えた・非人ひにん〉の人数にんずう実力じつりょく着眼ちゃくがんして特別とくべつ軍隊ぐんたい編成へんせいするはん長州ちょうしゅうはん)や,江戸えどちゅう攪乱かくらん工作こうさく利用りようしようとしてたま左衛門さえもんさそいをかけるはん薩摩さつまはん)など,倒幕とうばくをめざすしょはんうごきもみられたから,幕府ばくふとしてもたま左衛門さえもん志向しこう神経しんけいてざるをえなくなった。たま左衛門さえもんはみずからの身分みぶん呼称こしょうの〈えた〉を〈醜名しこな〉とみてふかじており,その除去じょきょ,すなわち身分みぶん格上かくあねがってやまなかったから,将軍家しょうぐんけ侍医じい松本まつもとりょうじゅんをつうじて〈醜名しこな除去じょきょ〉を請願せいがんするにいたった。このけん政情せいじょう多端たたんのなかで一時いちじまぎれはしたが,大政奉還たいせいほうかん王政おうせい復古ふっこ(1867)のあとにこった鳥羽とば伏見ふしみせん(1868ねん1がつ)の直後ちょくごだい15だい将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶいのちにより,長州ちょうしゅう征伐せいばつでの功績こうせき理由りゆうにしてようやく実現じつげんし,〈えた〉身分みぶんから〈たいらじん(へいじん)(平民へいみん)〉身分みぶんてんじ,あわせてたま内記ないき(のち直樹なおき)と改名かいめいすることもゆるされて〈海陸かいりくぐんづけ病院びょういん御用ごよう〉をもうけられ,医学いがくしょ頭取とうどり松本まつもとりょうじゅん配下はいかれられた。内記ないきはすぐに〈譜代ふだい手下てした(ふだいてか)〉65めいについても格上かくあげを請願せいがんし,認可にんかされた。またかれはこのけん関連かんれんして幕府ばくふ建白けんぱくしょうえてい,そのなかで,積年せきねん差別さべつを〈すうひゃくねん流弊りゅうへい因習いんしゅうによる弊害へいがい)である〉とだんじ,〈天地てんちあいだせいをうけた人種じんしゅ人間にんげん)にかわりないにもかかわらず,人倫じんりんまじわりもりたぬとは,まことに歎かわしいごく(きわ)みである〉とべて,配下はいかにあったすべての〈賤〉,および直接ちょくせつ管轄かんかつがいにあった西日本にしにほん各地かくち天領てんりょう幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう)・譜代ふだい大名だいみょう領内りょうないの〈賤〉の身分みぶん格上かくあげをつよ要望ようぼうした。だが,これの実現じつげんは,維新いしん政府せいふによる1871ねん明治めいじ4)の〈解放かいほうれい〉をまたねばならなかったのである。明治めいじはいってからは直樹なおきとし,文明開化ぶんめいかいか風潮ふうちょうのなかで皮革ひかくようくつ製造せいぞう工場こうじょう設立せつりつ経営けいえい一族いちぞくとともにんで苦闘くとうしたが,資本しほん積極せっきょくてき進出しんしゅつ圧倒あっとうされ,大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう公布こうふの89ねんぼっした。
執筆しっぴつしゃ

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)たま左衛門さえもん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

たま左衛門さえもん
だんざえもん

江戸えど時代じだいせき(かん)はちしゅう大半たいはんおよび甲斐かい(かい)・伊豆いず駿河するが(するが)・陸奥むつ(むつ)の一部いちぶ、あわせて12かこくにまたがる地域ちいきけがれ(えた)・非人ひにん(ひにん)・猿飼さるかい(さるかい)を支配しはいしたけがれあたま(えたがしら)代々だいだいしょう武士ぶし支配しはい社会しゃかいてき秩序ちつじょ維持いじ強化きょうかする役割やくわりたす江戸えど時代じだい封建ほうけんてき身分みぶんには支配しはい身分みぶん)、農工のうこうしょう平民へいみん身分みぶん)などがあった。けがれは、非人ひにんとともに、平民へいみん身分みぶんしたにおかれた賤民せんみん(せんみん)身分みぶんで、きびしい差別さべつけた。たま左衛門さえもんは、1722ねんとおる7)、人頭じんとうしゃ善七ぜんしち(くるまぜんしち)がけがれあたま配下はいかではないと主張しゅちょうしておこったそうろん勝訴しょうそ江戸えど人頭じんとうたいする支配しはいけんをいちおう確立かくりつし、非人ひにん刑罰けいばつしょする仕置しおき(しおき)けん掌握しょうあくすることとなった。これらの事実じじつは、せきはちしゅうなどにおけるたま左衛門さえもん頂点ちょうてんとする賤民せんみん支配しはい体系たいけい整備せいびされたことをしめす。たま左衛門さえもんは、やくとして、太鼓たいこ(たいこ)、かわ細工ざいく灯心とうしんなどを幕府ばくふ上納じょうのうしたほか、将軍しょうぐん旅行りょこうするさい警護けいご罪人ざいにん護送ごそう処刑しょけい人足ひとあしなどをすようめいじられ、これを配下はいかけがれ非人ひにんてた。かれは、零細れいさい農耕のうこうのほか、かわ鞣(かわなめ)しや灯心とうしん製造せいぞうなどに従事じゅうじする配下はいかけがれや、人頭じんとうつうじて非人ひにんから徴税ちょうぜいし、その経済けいざいてき実力じつりょくは3000せき旗本はたもときゅうといわれ、江戸えど北郊ほっこうだい邸宅ていたくかまえていた。1800ねん寛政かんせい12)のしょじょう(かきあげ)では、けがれ5664けん非人ひにん1995けん猿飼さるかい61けんかれ直接ちょくせつ間接かんせつ支配しはいにあった。

成澤なりさわ榮壽えいじゅ

部落ぶらく問題もんだい研究所けんきゅうじょへんかん部落ぶらく歴史れきし 東日本ひがしにっぽんへん』(1983)』

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百科ひゃっか事典じてんマイペディアたま左衛門さえもん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

たま左衛門さえもん【だんざえもん】

江戸えど時代じだい江戸えどちゅうおよび関東かんとう周辺しゅうへん12ヵ国かこくにまたがる賤民せんみん身分みぶんひとびと(えた非人ひにん猿飼さるかい(さるかい)など)を統轄とうかつした〈けがれあたま〉。出自しゅつじ来歴らいれきはつまびらかでないが,江戸えど時代じだいはじめに幕府ばくふから関東かんとうにおける賤民せんみん身分みぶん取締とりしまりの特権とっけんあたえられたものと推定すいていされ,17世紀せいきなかごろにはその地歩ちほ確定かくてい江戸えど中期ちゅうきから支配しはい地域ちいきがしだいに拡大かくだいしたものとみられる。寛政かんせい年間ねんかん(1789ねん−1801ねん)の〈たま左衛門さえもんしょじょう〉によると支配しはいすうはえた5664けん非人ひにん1995小屋こや猿飼さるかい61けんおよんでいる。たま左衛門さえもん居所きょしょ当初とうしょ江戸えど日本橋にほんばし室町むろまちにあったが,のち浅草あさくさうつされたとつたえ,新町しんまちたま左衛門さえもん支配しはいじょうかこえないという)に定着ていちゃく幕末ばくまつおよんだ。たま左衛門さえもん支配しはい賤民せんみん部落ぶらくへの徴税ちょうぜいけんをもち,また皮革ひかくおよび灯心とうしん製造せいぞう販売はんばい独占どくせんてき特権とっけん幕府ばくふからみとめられ,その収入しゅうにゅう莫大ばくだいがくのぼった。一方いっぽうこれらの特権とっけん代償だいしょうとして,幕府ばくふ必要ひつようとする陣太鼓じんだいこ太鼓たいこをはじめ,きずなもうなど一切いっさい皮革ひかくるい無償むしょう提出ていしゅつ,また幕府ばくふ必要ひつようとする灯心とうしんをすべてみつぎおさめした。そのほか幕府ばくふけいせいじょう末端まったんてき役割やくわりになっていた。幕末ばくまつ長州ちょうしゅう戦争せんそうのとき幕府ばくふせいちょうぐんに500めい軍夫ぐんぷ提供ていきょうするなどの協力きょうりょくおこない,直属ちょくぞく手下てした65めいとともに幕命ばくめいによって〈たいらじん〉へ身分みぶん引上ひきあげられた(たま内記ないき身分みぶん引上いちけん)。
関連かんれん項目こうもく猿回さるまわ差別さべつ部落ぶらく

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たま左衛門さえもん
だんざえもん

けがれおお (えた) ,非人ひにんそう支配しはいあたま摂津せっつこく池田いけだ出身しゅっしんとも,みなもと落胤らくいんともいわれるがあきらかでない。江戸えど時代じだいには江戸えど浅草あさくさみ,幕府ばくふ管下かんか武蔵むさし上野うえの下野げや上総かずさ下総しもうさ安房あわ陸奥みちのくなどの全域ぜんいきと,常陸ひたち相模さがみ伊豆いず駿河するが甲斐かいなどの一部いちぶちょう吏 (けがれあたま) ,非人ひにん支配しはいした。中期ちゅうき支配しはいそう戸数こすうは 7700だったという。のちだんしょうした。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうちたま左衛門さえもん言及げんきゅう

みなもと頼朝よりとも】より

…なぜならば,北畠きたばたけ声聞しょうもんというのは北畠きたばたけところ(さんじよ)を根拠地こんきょちとして活動かつどうした当代とうだい賤民せんみんてきざつ芸者げいしゃ集団しゅうだんであるが,それとの歴史れきしてき連関れんかんはさておくとして,江戸えど時代じだい身分みぶんせい賤民せんみん身分みぶん中核ちゅうかくにすえられた〈えた〉が,〈えた〉としての権益けんえき主張しゅちょうするための根本こんぽんてきな〈証文しょうもん〉としてつたえ,保持ほじしていた文書ぶんしょ(名称めいしょう種々しゅじゅあるが,こんにちでは《河原かわはら巻物まきもの(かわらまきもの)》と総称そうしょうされている)に,みなもと頼朝よりともからてられて御用ごようをつとめたのがはじまりであると由来ゆらいきおこすのが通例つうれいだからである。たとえば,江戸えど浅草あさくさの〈けがれあたま(えたがしら)〉たま左衛門さえもん(だんざえもん)伝来でんらいの《頼朝よりともきょう御朱印ごしゅいんうつし(うつし)》では,1180ねん9がつに〈鎌倉かまくらちょう吏(ちようり)だん左衛門さえもん藤原ふじわらよりゆきけん(ふじわらのよりかね)〉が頼朝よりとも朱印しゅいんじょうにより,ちょう吏,座頭ざがしら(ざとう),まい々(まいまい),猿楽さるがく(さるがく),陰陽いんよう(おんみようじ)など各種かくしゅ職業しょくぎょう支配しはいけんたという。 このたね文書ぶんしょにせ文書ぶんしょであることは,すでにあきらかにされているが,なぜ〈みなもと頼朝よりとも〉が〈えた〉の由緒ゆいしょ意識いしき中心ちゅうしんにあったのかは,解明かいめいされつくしたとはいいがたい。…

※「たま左衛門さえもん」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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