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漢川草廬-二十四史-舊唐書-卷一百三十八‧列傳第八十八
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きゅうとうしょ   まきいちひゃくさんじゅうはち列傳れつでんだいはちじゅうはち  ちょう憬 韋倫 賈耽 きょうこう


ちょう憬字退すさおう天水てんすい隴西じん也。そうあきらちゅう吏部さむらいろうどう東西とうざいだい三品みしなひとしほん曾孫そうそん諠,れきひだり 司郎しろうちゅうちちどうさきひろししゅうろくごとさんぐん。憬少好學こうがくこころざしぎょうおさむきよしもとめ聞達ぶんたつたからおうちゅうげんむね、肅 そうあずさみや祔,有司ゆうし山陵さんりょう制度せいど西にししげる入寇にゅうこう天下てんか饑饉ききん,憬以褐衣じょう疏,むべ遵儉せい 人稱にんしょうこうれんためしゅう從事じゅうじためし江夏えなつじょうるい遷監察御ずい牒藩れき殿中でんちゅうさむらい太子たいししゃ じんきょははゆうあい毀幾ぜっふくじょたてちゅうはつ,擢授すい部員ぶいん外郎ういろうはいかい湖南こなみ觀察かんさつ使うけたまわため副使ふくし檢校けんぎょうこうろうちゅうたかししょくとしあまりうけたまわそつとげとめ後事こうじひろ授潭しゅう刺史ししけんちゅうすすむ湖南こなん觀察かんさつ使,仍賜きんむらさききょさい,受代歸京ききょう,闔門しずかあずかひと交。久之ひさゆきとく召對於 別殿べつでん。憬多學問がくもんゆうべんじきそうしょうむねうええつはいきゅうごとちゅう

貞元さだもとよんねんかい紇請ゆい和親わしんみことのり以咸やす公主こうしゅくだかい紇,いのち檢校けんぎょうみぎぼくしゃせき播充使,憬以本官ほんかんけん ちゅうすすむためふく前後ぜんご使かい紇者,わたし齎繒絮,しげる中市なかいちかい以規,憬一ところにん歎美たんび 使つかいかえ,遷尚しょひだりすすむつな轄省つとむせいつとむ奉職ほうしょく。竇參ため宰相さいしょうあく其能,請出ためどうしゅう刺史ししうえしたがえ

はちねんよんがつ,竇參やめ黜,憬與りくにえなみはい中書ちゅうしょさむらいろうどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと。憬深於理どうつねげん :「為政いせいほんざい於選けんのうつとむ節儉せっけんうす斂,ひろし刑罰けいばつ。」たいあげさい,必以此為ごと,乃 けんじしんかんろく曰:

しん謬登宰府さいふよんねん於茲,きょううけたまわとくおん嘗不以求かしこためきりいたり於延こもしょくざいしん,雖當だい てんこう,且乏知人ちじん鑒,ややせき歲月さいげつ於聖あきらおう猷,ゆうさまたげけんきょうおおやまし恙,けんおもんばか 闕遺,ごろたてまつおもてあきら,備陳きも膈。陛下へいか以臣せいつたなただしびょう矜,棄孱ほろなお委任いにんおもえしょうほうこうゆうなん,莫副堯、しゅんこれこころそらふところしかばね素之もとゆき懼。ふくおもんみ陛下へいかほうぞうおうせいかみこううんくも ぎょうほどこせみなはつ自然しぜんくん誥典謨,悉經睿覽。しん所以ゆえん援引えんいん古昔こせきうえはんてんさとし,且以用人ようにん ようねがいしん鄙見ひけんふくねん稽顙陛,おおせたい宸嚴,謇訥えききゅう,遽數なんべんしょうそくちり瀆頗甚, げんりゃくそく利害りがいせんわかだま以求よう,苟而竊位,たて天地てんちじんこうまぬかれ,而中がいせめなん逃,陛下へいか ようしん也。其所よくげんしゃみな陛下へいかきよしおもんばかこれ內,しん以頂戴恩づくり不知ふち所為しょい被風ひふどくやや さとし沉痼,以勤つとむこんこんきり於愚まこと也。しん聞貞かんひらく元之もとゆきさいおさむ輔論ごとある上書うわがきしょ 冀獲つき情理じょうりこんしんしゃく前代ぜんだい損益そんえきたい當時とうじこれどおりへん,謹獻しんかんろくふくおもんみあいだえんたまものしょうらん

其大ゆびしょうのり曰:「むべひろし眾賢,ようため輔弼ほひつこん中外ちゅうがい其賢しゃふくねがい陛下へいかよう,識 其能しゃにんもとめ其全ざいおそれ不可ふかとく。」

しんよう庶官,のり曰:「異同いどうこれろん是非ぜひなんべんよし考課こうかなん於實こう好惡こうおざつ於眾ごえしょ以訪 わたるとくわたるしょうせん古今ここんためなん,拔じゅうとく賢愚けんぐなおはん陛下へいかいいしん曰:『なに必五也? じゅうとくさん斯可矣。』きよししゅおもえけんいたり,而宰しん不能ふのう進之しんのしんつみ也。すすむけんざい於廣任用にんようあきら 殿どのさい,舉大ぶし,棄其しょうきずずい其所のうためし以事,用人ようにん大綱たいこう也。」

きょうしょつかさ闕官,のり曰:「當今とうぎんようかん闕,あいだかんじゅういち文武ぶんぶ任用にんようじょ遞遷,ようかんほん 以材ぎょうあいだかんよし恩澤おんたく朝廷ちょうていあるはたにんなずらえようかんそくじんしょう闕多,あいだかんのりじん闕少;あかり當選とうせん 拔者てんしょうざいゆうようしゃうたておおむべ闕員,つとむそだてざいよう大廈たいかながかた棟梁とうりょう榱桷ぜん也;せいあさ 致理,また庶官ぐん吏之のう也。」

中外ちゅうがい考課こうかかんのり曰:「かん以數えきちょう吏,いい弊政へいせい。其有能ゆうのうしゃ,輒增秩賜きんあるはちきゅう ねんじゅうねん,乃入ためきゅうきょうあるさん輔,功績こうせきしげこととげいたり丞相じょうしょう,其間へだたすうかんこん陛下へいかせん庶僚,そとしゅう績高しゃつぎちょうます,致理ほう踰於此。しん以為黜陟且立ねん げんわかところようじゅうとう遷移せんい,就加爵秩。其餘進退しんたいれい褒貶ほうへん必應,遲速ちそくゆうつね。如 在中ざいちゅうねんこう及限,あずかこれひらてん中外ちゅうがい迭處,れきためし其能,使つかい苟且しんまたとどこお淹之おもんばか 。」

舉遺とどこおのり曰:「かんすんでひろ,必委おさむ輔以舉之;おさむ不能ふのうあまねまた詢於庶官;庶官 のうへんまたおとずれ於眾じん。眾聲囂然,互有臧否,じゅうにん舉之しんじ一人ひとり毀之うたぐ,迨至於今 ,茲弊あらため。其所以然しゃつきため愛憎あいぞう也,於不しんじつ而承ごえげん大凡おおよそ常人じょうじんしん,以 しょうじんためきよし,以攻じんためじき,苟有じょ授,多生たしょう橫議おうぎよしおさむしんごとはたこもようまた自重じちょうなんにち往月らいふくせいむべ須採聽時ろん,以所舉多しゃさきよう,必非だいみな棄之。」

擢用しょ使つかい僚屬,のり曰:「しょ使つかい辟吏,各自かくじせいもとめつとむ於得じんはたじゅうもちすんでけいためしこう能否のうひ可知かち,擢其けんのうおけあされつある曰外使須才,かた不可ふかだつしん必不しか也。ぞくしゃ使つかい まろうどかいまいゆうとうあさほん使つかいこと以為さかえ知人ちじん,且明公選こうせん大凡おおよそ才能さいのうめいひつじたち 在方ざいかた鎮,日月じつげつざいうえだれ不知ふちおもえとう闕庭,如望霄漢,むべ須博よろしひさしとどこお。」うえゆうみことのり こたえ

どき吏部さむらいろうもりためちゅう讒譖及他おかせちゅうすすむきよしさんきょうちょうしょういん韋武、まんねん縣令けんれいせん長安ながやすれいくもみなため裴延よわい搆陷,はた斥逐,憬保護ほごすくいかいしたがえけい貶。はつ,憬廉察湖 みなみれいきつね峘、ちぇ儆並ためじゅんぞく刺史しし。峘嘗れき中書ちゅうしょ舍人とねりれいさむらいろう,儆久在朝ざいちょうれつ所為しょいある法令ほうれい,憬每以正どうせい。峘、儆密人數にんずう憬罪じょう,毀之於朝。及憬為相ためすけ,拔儆自大じだいきょう ため尚書しょうしょみぎすすむ,峘先貶官ためべつまた擢為よししゅう刺史しし時人じじんおおこれ

憬與りくにえどう政事せいじにえ恃久ざいきんにわとくうけたまわ恩顧おんこ,以國政こくせいためおのれにん,纔周としてん憬為門下もんかさむらい ろう,憬由ふか銜之,すう以目やまし請告,甚當政事せいじいんそうきょう。裴延よわいかんいつわりほしいまま睢,滿まんあさ 側目そばめ,憬初あずかにえやく上前うわまえろん;及延えいそうたいにえ極言きょくげんのべよわいかんよこしま誑誕じょう不可ふか任用にんようとく そうえつかたち於顏しょく,憬默然もくぜん無言むごんゆかりやめにえたいらあきらごと,而憬とうくに矣。

どき宰相さいしょう賈耽、邁與憬さんにんじゅうねんはる正月しょうがつふけ、邁皆ゆうかり憬獨たい於延えいうえとい曰 :「近日きんじつ起居ききょ注記ちゅうき何事なにごと?」憬對曰:「いにしえしゃひだり史記しきげん人君じんくんどうどめゆうじつげんしたがえそく記錄きろくおこり きょちゅう是也これやくに朝永あさなが徽中,起居ききょただとくたい仗承むね,仗下謀議ぼうぎみなとく聞,其記ちゅうただ編制へんせい敕, さら他事たじ所以ゆえん長壽ちょうじゅちゅう姚璹政事せいじ,以為おやうけたまわとくおん謨訓,わか宣旨せんじ宰相さいしょう史官しかん以得しょ ,請宰しょう一人ひとり記錄きろく所論しょろん軍國ぐんこく政事せいじいい時政ときまさ每月まいつきおくかんすんで而時せいまたはい。」じょう 曰:「きみ舉必しょそんすすむ誡。すんで嘗有時政ときまさおさむしんむべ故事こじ為之ためゆき。」なに,憬卒,時政ときまさ またくだり

憬特うけたまわ恩顧おんこせいきよし儉,雖為おさむ輔,きょだいぼく使るいひん大夫たいふいえ所得しょとく俸入,さきおけわたしびょう, 而竟だてだいしゃさん。其年はちがつぐう暴疾,しん宿やど而卒,ねんろくじゅういちもとあきらしん憬遺ひょうくさ曰 :「しん叨荷せい慈,竊塵だいかなえねんじょ頗久,績用聞,まけじょうこれはいやめあきらくつがえ餗之とがめにわか及。而 天與てんよやましぶくなまわざわい自今じこん以來いらいややこまじゅうはりやいと及,藥餌やくじ奚施。奄然ゆうたましいおわりとう就木,冥冥めいめいざん喘,あににんてんごうよび涕零,がわいきこころだんはんふうゆいそうちかいほうふかおん,雖死なお なまあにもとねがいにん感恩かんおん嗚咽おえつ痛恨つうこんいたり。」とくむねゆう悼惜とうせき廢朝はいちょうさんにちさつおく太子たいしふとしでん, 賻帛ひゃくはしべいあわよんひゃくせきれいおおとり臚卿王權おうけんたかしさつちょう使

げんあきらかんいたりひだり司郎しろうちゅうさむらい雜事ざつじそつ次子じしちょんあきらかんいたりさむらいかつらかん防禦ぼうぎょ判官ほうがんげんあきらけい せんあきらおとうとうけたまわあきらみな以門かげ授官。

韋倫,ひらきもと天寶てんぽうちゅうついたちかた節度せつど使こうじょう之子ゆきこしょう以蔭るい授藍田縣たがたじょう。以吏ごとつとむつとむ,楊國ちゅう しょためぜに內作使判官ほうがんくにちゅう恃權ちょうまた邀名たたえちょうしょしゅうけん農人のうにんれいぜに農夫のうふすんでほんしょく 工匠こうしょう所由しょゆうそもそもれい就役しゅうえき遭箠ばつにん聊生。りん白國しらくにちゅう曰:「ぜに須得ほんしょくじんこんそもそも 百姓ひゃくしょう農人のうにん為之ためゆきゆうりょくこうにん且興そし。請厚かか估價,つのこうあかつきしゃ為之ためゆき。」ゆかりやく使つかいげん しょう,而益ぜにかず天寶てんぽうまつみや土木どぼくこうきょ,內作じん吏因えんためかんりん乃躬おや閱視 ,しょうげんばいあらためだいひょうごと

かいやす祿ろくやまはんしゃこうしょくはいりんかん察御けんみなみ節度せつど行軍こうぐん司馬しばけんたかしおけひたぶる使判官ほうがんひろあらためたむろ でん員外いんがいけんさむらいとき內官きんぐんしょういたしょく所在しょざいおかせ暴,ごうためなんりんきよし儉率以化しょくがわ咸賴其理。竟遭ちゅうかん毀譖,貶衡しゅうつかさぞく東都とうと河南かなんなみおちいぞくこげうんぜっささえ使 だい五琦薦倫有理能,はいしょうしゅう刺史ししたかし荊襄とうどう租庸使かいじょうしゅう裨將やすしすわえもとちょうよしみのべ聚眾 ため叛,兇黨まん餘人よにん自稱じしょうひがしすわえおうじょうしゅう刺史しし王政おうせい棄城遁走とんそうよしみのべまたみなみかさねやぶこうりょうかん、 沔饋うん阻絕,朝廷ちょうてい旰食。りん乃調はつへいかぶとちゅう鄧州かい,兇黨ゆうらいくだしゃ,必厚接待せったい數日すうじつすわえもと眾頗だるりん進軍しんぐんげきなまとりこすわえもと以獻,あまり眾悉はしおさむ租庸ぜにぶつひゃくまんかんなみ 失墜しっつい。荊、じょうしゅうひらめみことのりじょちぇひかりとおためじょうしゅう節度せつど使しるしりんためまもるじょうきょう旬日じゅんじつまた以本かんけん やすししゅう刺史しし、招討處置しょちとう使ひろまたけん隴州刺史しし

いぬいもとさんねんじょうしゅう大將たいしょうちょう瑾殺節度せつど使翽作みだれ,乃以りんためじょうしゅう刺史ししけん大夫たいふやま南東なんとう どうじょう鄧等じゅうしゅう節度せつど使とき輔國秉權用事ようじせつはたじょはいみな其門。りんすんでため朝廷ちょうてい公用こうようまた わたし謁輔こくりん受命じゅめいくだりあらためしんしゅう刺史ししけんちゅうすすむ本州ほんしゅう防禦ぼうぎょ使とき吐蕃、とうこう歲歲さいさい 入寇にゅうこうへんはた奔命ほんめいひまりんいたりしんしゅう,屢與とりこせんへい無援むえんしき致敗衄,れん貶巴しゅうちょうおもえ しゅうつとむかわけんじょう

だいむね即位そくいおこりためただしゅう刺史ししれきだいにょうしゅう。以中かんりょふと一於嶺南矯詔募兵為亂,乃以りん ため韶州刺史ししけんちゅうすすむ、韶連郴さん州都しゅうとだんねり使。竟遭太一たいちようまいない反間はんかん,貶信州しんしゅう司馬しばけん しゅうつかさずいしゅうつかさずいしゅう司馬しばぐう赦,旅寓りょぐう於洪しゅうじゅうすうねん

とくむね即位そくいせんこらえ使絕域ぜついきしゃしるしりんおがめぶとつねしょうきょうけんちゅうすすむぶしたかしどおり吐蕃使りんいたりしげる ちゅうはつせんさとしすめらぎおんじゅつこく威德いとくとお蕃人ばんじんだいえつさんひろしにゅうけんじかたぶつ使つかいかえ,遷太つねきょうけん 大夫たいふぎんあおこう祿ろく大夫たいふさいいれ吐蕃,たてまつ使つかいしょうむね西にししげる敬服けいふく朝廷ちょうてい得失とくしつすうじょう疏言またため宰相さいしょう杞所あくあらため太子たいししょうたもて累加るいか開府かいふどうさん。涇師みだれさいわい奉天ほうてん。及盧杞、 しろこころざしさだちょうさんとう貶官,せき播罷しょうため刑部おさかべ尚書しょうしょりん於朝どう嗚咽おえつ而言曰:「宰相さいしょう不能ふのう弼諧けい 沃,使つかい天下でんかいちいたり於此!仍為尚書しょうしょ天下てんかなんよし致理?」聞者けいはばかこれしたがえやなしゅうかえきょうまた よく擢用杞為にょうしゅう刺史ししりんまた上表じょうひょう切言せつげん不可ふかふかため忠正ただまさこれしょしょう歎。以年踰ななじゅうひょうきゅうかんあらため太子たいししょう致仕ちしふう郢國こうときすわえ琳以ぼくしゃけんまもるじょうきょう忠誠ちゅうせい以尚しょけんしょうかんりんじょうげん曰:「すわえ琳兇ぎゃく忠誠ちゅうせいしげるえびす醜類しゅうるいごう廁列きよしはん。」またおもて請置くら防水ぼうすいひでり賢良けんりょうにん左右さゆうまたげん吐蕃必無しんじやくせん防備ぼうび不可ふか輕易けいいうえごとぜんぐうりんきょ孝友たかともなでおとうとめい以慈愛稱あいしょう貞元さだもとじゅうよんねんじゅうがつそつねんはちじゅうさんおくあげ州都しゅうととく

賈耽あつし,滄州みなみかわじん。以兩けいとうだい調ちょう授貝しゅう臨清けんじょううえ疏論時政ときまさ,授絳しゅう正平しょうへい じょう從事じゅうじ河東かわとう檢校けんぎょう膳部ぜんぶいん外郎ういろうふとしはらしょういん北都ほくとふく留守るすまた檢校けんぎょうれいろうちゅう節度せつど副使ふくしあらため汾州刺史ししざいぐんななねんせい績茂ことにゅうためおおとり臚卿,左右さゆうどお營隸おおとり臚,ふけ仍領其使 。だいこよみじゅうよんねんじゅういちがつ檢校けんぎょうひだりつねさむらいけんやなしゅう刺史しし大夫たいふ山南さんなん西道さいどう節度せつど使

けんちゅうさんねんじゅういちがつ檢校けんぎょうこう尚書しょうしょけん大夫たいふ山南さんなん東道とうどう節度せつど使とくむねうつりこうやなしゅうきょうもと 元年がんねんがつふけ使つかい行軍こうぐん司馬しば樊澤そうごと於行ざいさわすんで復命ふくめいぽうだいえんしょしょうゆうきゅう牒至,げんさわだい ふけため節度せつど使,而召ふけためこう尚書しょうしょふけ牒內懷中かいちゅううたげいんあらためよう,及散,召樊さわ,以詔授 曰「みことのり以行ぐんため節度せつど使ふけこんそく上路あげろ。」いんつげはた吏使謁澤。きばはたちょうけんじはじめ曰:「天子てんしじゅん こう山南さんなん尚書しょうしょ使行軍こうぐんたてまつおもて起居ききょ,而行ぐん敢自ぶし鉞,せんだつ尚書しょうしょ土地とち,此可いいごとじん不忠ふちゅうぐんちゅうみなふく,請殺樊澤。」ふけ曰:「おおやけなんこと歟!天子てんしゆういのちそくため節度せつど使矣。ふけこん赴行 ざい便びんあずかおおやけ偕行。」即日そくじつはなれ鎮,以獻はじめしたがえぐんちゅう乃安。ひろ以本かんため東都とうと留守るすひがし畿汝 みなみ防禦ぼうぎょ使貞元さだもとねんあらため檢校けんぎょうみぎぼくしゃけんなめらしゅう刺史しし義成よしなりぐん節度せつど使淄青節度せつど使 おさむ雖去にせおうごうそとたてまつあさむね,而心つね蓄并吞之はかりごとおさめ兵士へいしすう千人自行營歸,ゆかりなめらしゅうだい しょう請城がいかんふけ曰:「あずかひと鄰道,奈何いかんしょ其兵?」いのちかんしろ內,淄青將士しょうしみな心服しんぷくふけぜんこうりょうまい畋不ひゃく往往おうおうりょう於李おさめさかいおさめ聞之,大喜だいぎこころかしこ其度りょう 敢異きゅうねんしるしためみぎぼくしゃどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと

ふけこう地理ちりがく,凡四夷之使及使四夷還者,必與從容しょうよう,訊其山川やまかわ土地とち終始しゅうし九州きゅうしゅう えびすけわしひゃく蠻之土俗どぞく區分くぶんゆび,備究源流げんりゅう吐蕃おちい隴右積年せきねん國家こっかもり於內舊時きゅうじ 鎮戍,不可ふかふくふけ乃畫隴右、山南さんなんけん黃河こうが經界けいかい遠近えんきん,聚其せつためしょじゅうかんおもてけんじ曰:

しん聞楚ひだり相能あいのう讀九おかすすむそら裴秀そうためろくたい;九丘乃成賦之古經,六體則為圖之新 しん愚昧ぐまい,夙嘗師範しはんるいこうむ拔擢ばってきとげかたじけなだい。雖歷踐職にんまこと曠闕,而率土山つちやまがわ忘寤寐。其大がいうす四海しかい,內別九州きゅうしゅう,必藉せいしょう,乃可摹寫,さら纘集,ぞく冀畢こうしか而隴みぎ一隅いちぐうひさ淪蕃寇,職方しょくかたしつ其圖さかいなん區分くぶん。輒扣むなしほろ掇輿かくせきちゅう隴右及山みなみ九州きゅうしゅうとう一軸いちじくふく以洮、湟舊墟,連接れんせつかんまきあまりょうみぎひかえたいついたち陲 。岐路きろ偵候交通こうつうぐん鎮之備禦衝要,莫不たくみ就實,まれぞうしん。如聖恩せいおんはたまもるあたりしん しょ授律,のりれいけいしつらえけわしざいはらかいふうじりゃく可知かちしょしゅうしょぐん,須論さとすうにんがく諸山しょざんしょ みず,須言首尾しゅび源流げんりゅう圖上ずじょう不可ふか備書,憑據必資ちゅう謹撰きんせんべつろくろくかんまた黃河こうがためよん瀆之むね西戎せいじゅう乃群羌之そちしんなみけんひろ牒,翦棄浮詞,罄所聞知ぶんちへんためよんかんつうろくなるじゅうかん文義ふみよしひなしらきふくぞう慚悚。

とくむねらんたたえぜんたまもの廄馬いちひきぎんひゃくひきぎんびんばんかくいち

いたりじゅうななねんまた譔成うみ內華えびす及古今郡いまごおりこく縣道けんどうよんえびすじゅつよんじゅうかんおもてけんじこれ,曰:

しん聞地以博あつもの萬國ばんこく棋布;うみ以委輸環がいひゃく蠻繡錯。ちゅうなつそくふく九州きゅうしゅうことぞくそく ななえびすろく狄,普天ふてんした,莫非おうしんむかし毋丘出師すいしひがしめいじたいあまえいたてまつ使つかい西にし抵條ささえ;奄 蔡乃大澤おおさわ無涯むがい,罽賓そくかかさくけんある道理どうり回遠まわりどおある名號みょうごうあらためうつり古來ふるくどおり儒,罕遍しょうきわむしん 弱冠じゃっかんとしこう聞方ききかたごと,筮仕たつ注意ちゅうい地理ちりきわむかんけんかんがえたれさんじゅうねん絕域ぜついき鄰,しげる 習俗しゅうぞくかけはしさんけんじ琛之じょう舶來はくらいあさこれにん,咸究竟其源流げんりゅうおとずれもとめ其居しょ。闤闠これぎょう賈,えびす 貊之のころう,莫不聽其げん而掇其要;閭閻瑣語,ふううたい小說しょうせつまたおさむ其是而芟其偽。

しかいんしゅう以降いこうふうりゃくえきあきらうけたまわ曆數れきすうしゃはちいえ,渾區宇者せいこえきょうしょ及,おもんみからためだいはたすめらぎ やめこうおけもり長城ちょうじょうおこり於臨洮;こうたけ卻地ひらけあたりさわふさがかぎり於雞鹿しかひがしかんそくあいろう請吏;西にしすすむのりはなれゆいわだちずいしつれつ四郡於卑和海西,そう三州於扶南江北,りょうしつりついん而棄こう祖神そしん皇帝こうてい誕膺天命てんめい,奄有四方しほうふとしそうつぎあきらじゅう熙,やわとおのう邇,踰大磧通どうきたいたるせん娥,於骨 みきおけげん闕州。こうはじめ嗣守丕績,克廣かつひろぜんれつ單車たんしゃ齎詔,西越さいごし蔥山,於波剌斯りつやましりょうちゅうむね復配ふくはいてんこれぎょうしつ舊物きゅうぶつ。睿宗含先天せんてんりょうおもんみしんながげんむね以大こうきよし內,以無為むい がいだいあて驥騄,さいたかし內廄,あずかきゅうへい黷武,あに同年どうねん哉!肅宗掃平氛祲,潤澤じゅんたくせいじんだいむねじょざん孽,つねりん攸敘。ふくおもんみ皇帝こうてい陛下へいか以上いじょうひじり姿すがたとう太平たいへいうん敦信あつのぶ明義あきよし履信りしん つつみもとめぐみやしなえはじむふけ懷柔かいじゅう遐裔。瀘南みつぎ麗水れいすいこれきんばくきたけんじあまりわれうまげんよう溢,率土そっと霑 濡。

しんよう切磋せっさ師友しゆうちょう趨侍於軒墀,揣孱,叨榮よりどころおおとりわたし莫答,夙夜兢惶。きょうもと 元年がんねんふくたてまつすすむとめれいしんおさむせんこく,旋即たかし使しゅう、汴州,鎮東らくひがしぐんあいだ以眾つとむとげ專門せんもん,績用なお虧,ゆう愧彌きりきん乃力竭衰びょうおもえ殫所聞見,くさむら丹青たんせい。謹令こうじん うみ內華えびす一軸いちじく廣三こうぞうたけしたがえさんたけさんしゃくりついちすんおりなりひゃくさとべつあきらはじめ左衽さじん,奠高さん大川おおかわちぢみよんきょく於纖しまふんひゃくぐん於作宇宙うちゅう雖廣,舒之みつるにわぶねしゃしょどおりらん咸在なみ せん古今ここんぐんこく縣道けんどうよんえびすじゅつよんじゅうかん中國ちゅうごく以禹みつぎためくびそとえびす以班はつげんこおりけん其增げんしげる 落敘其衰もりぜん地理ちりしょ以黔しゅうぞくとりこんのりあらためいれともえぐんぜん西戎せいじゅうこころざし以安こくため安息あんそくこんのりあらため にゅうやすしきょ。凡諸疏舛,悉從釐正。隴西、北地きたじ,播棄於永はつちゅう遼東りゃおとんらくなみおちいこごめ於建 やすさい。曹公棄陘きたすすむ遷江みなみ緣邊えんぺんるいけいおかせぬすめ墟日致堙毀。きゅうせんろくじゅうとく さんいましょさがせしょぶとはんしゅうあや職方しょくかた,以淄、ときためかそけしゅうひた,以華やまため荊河鎮,すんでゆう 乖於禹貢,また不出ふしゅつ於淹ちゅう多聞たもん闕疑,詎敢へん。其古ぐんこくだい以墨,いましゅうけんだい以朱,こん ことぶん簡易かんいしんがくしゃ小成しょうせいさい博物はくぶつふく聚米,開示かいじ眾軍;酇侯圖書としょほう とも阨塞。くわだて慕前あきら,嘗所よせしん,輒罄いさお陋,慚紕繆。

ゆうみことのりこたえたまものにしきひゃくひきほうだんろくにしきちょうぎんびんばんかくいちぎん榼二、うまいちひきしんふうこく こう

じゅんむね即位そくい檢校けんぎょうそらまもりひだりぼくしゃ政事せいじ如故。どきおう叔文用事ようじせい群小ぐんしょうふけあく其亂せい ,屢移びょう乞骸,もとふけせい長者ちょうじゃ臧否人物じんぶつ居相いあい,凡じゅうさんねん,雖不能ふのう安危あんき 大計たいけいけい沃於じんぬし,而常以檢厲行以律じんまいあさだいせったい賓客ひんきゃく終日しゅうじつ倦,いたり於家 じん近習きんじゅ嘗見其喜慍之しょくいにしえじゅんとく君子くんしなに以加焉!えいさだ元年がんねんじゅうがつそつねんななじゅうろく廢朝はいちょうよんにちさつおくふとでんおくりな曰元やすし

きょうこう輔,不知ふちなんもとじんとう進士しんしだいためこうしょろうおうせいさく高等こうとう,授左拾遺しゅうい,召入翰林かんりんためがく とし滿まんとうあらためかんおおやけ上書うわがきひね,以母ろうひん,以府じょう俸給ほうきゅうややゆう,乃求けんきょう兆尹戶曹參 ぐんとくうけたまわ恩顧おんこざいだかゆう識,まいたいみるげんごととくそうしたがえこれ

けんちゅうよんねんじゅうがつ,涇師はん闕,とくむねあおえんきた便びん門出かどでみゆきおおやけ輔馬ぜん諫曰:「しゅ泚嘗ため涇原 そちとくしんさく以朱滔叛,すわだつ兵權へいけん,泚常いきどおとくこころざし如使じんこれ使つかい陪鑾ゆるがせ ぐん兇立,必貽こく患。しんごろ曾陳そう陛下へいか不能ふのうひろしふところまちのりころせこれやしなえじゅう貽其患,悔 且無えき。」とくむね曰:「やめ及矣!」したがえさいわいいたる奉天ほうてんはい諫議大夫たいふにわか以本かん同中どうちゅうしょもん下平しもだいら あきらごと

したがえこう山南さんなんくるまいたりじょうかたけんとうやす公主こうしゅ薨。上之うえの長女ちょうじょ昭德あきのり皇后こうごう所生しょせいせいさとさと仁孝にんこう上所かみところ 鍾愛しょうあいはつみことのりなお韋宥,克禮よしのりかい而遇播遷;及薨,うえ悲悼ゆう甚,みことのり所司しょしあつ葬禮そうれいおおやけ輔 諫曰:「ひさ克復こくふくきょうじょう公主こうしゅ必須ひっすそうこん於行,且宜儉薄,以濟ぐん。」とくむねいかいい翰林かんりん學士がくしりくにえ曰:「とうやす夭亡,よく於此ため塋壟,むべれいみやつこいち磚塔安置あんちこう甚微, ごうせき宰相さいしょうろんれつきょうこう輔忽しんひょうあきら道理どうりただしよくゆびちん過失かしつなずらえめいちん擢拔ためはら しん,乃負ちん如此!」にえたい曰:「おおやけ輔官諫議,しょくきょおさむ衡,けんじがえかた其職ぶん本立ほんたて輔臣, おけ左右さゆう朝夕ちょうせきおさめ誨,ざいぼうほろほろ而弼,乃其しょ也。陛下へいか以造とうやく微小びしょう宰相さいしょう 所論しょろんことただしとい理之まさゆき是非ぜひあにろんごと大小だいしょう若造わかぞうとうためやく雖大而作なにきず若造わかぞうとうため 雖小而言しゃなんざい。」みかどまた曰:「きょうかいちんちん以公輔才ぎょうきょう宰相さいしょう相當そうとうざい奉天ほうてんやめよく罷免ひめんいんこう辭退じたいちんやめめんもとひろぞくふところこう背叛はいはんとげ因循いんじゅんよういたり山南さんなんおおやけ輔知ちんなずらえあらためかんしょ以固ろんづくりとううれちょくめいよりどころ此用しんあにりょうぜんちんしょ惆悵しゃただえん 如此。」にえ再三さいさん救護きゅうごみかどいかやめ,乃罷ためひだり庶子しょしひろひのとははゆうふく闋,授右庶子しょし久之ひさゆき 遷。

洎陸にえ政事せいじ,以有翰林かんりんきゅうすうつげにえもとめかんにえみついいこう輔曰:「嘗見郴州竇相,げんため こうそうなずらえすう矣,うえむねまことゆういかおおやけげん。」おおやけ恐懼きょうくうえ疏乞やめかんため道士どうし久之ひさゆきほう また廷奏,とくむねとい其故,おおやけ輔不敢洩にえ便びん以參げんためたいみかどいか,貶公輔為泉州せんしゅうべつまた ちゅう使つかい齎詔せめ竇參。じゅんむね即位そくいおこりためよししゅう刺史ししひろそつけんむねあさおくれい尚書しょうしょ

ふみしん曰:賈魏こう以溫かつ長者ちょうじゃ,致位丞相じょうしょうこばめけんじはじめ請,畋李おさめ郊,のりりゃく可知かち矣。韋 郢公慷慨こうがい節義せつぎこま於讒よこしまいのち矣夫!ちょう丞相じょうしょう區分くぶんけんさいもとめため雅士まさし,以爭けん而陷りくにえのり まえ以德ほう怨,其可しん乎!おおやけ一言ひとことさとるぬし,驟及だい一言ひとことごうれい遽疏うすすなわちひざいずみあいだくんどう可知かち矣!

さん曰:げんやすし訏謨,いいじゅん儒。調ちょうかなえ飪,こころうん地圖ちずきょう躁趙けわしなみおどてん衢。あい哉韋こうおわりこま讒夫。