ちょうまご

ぶん維基大典たいてん
ちょうまごぞう

ちょうまごきゅうとうしょたたえしんとうしょしょう无忌輔機せいどおりさとるひろしわたるしょはじめから高祖こうそへいかわしんちょう春宮とうぐう,授渭北どう行軍こうぐんてんくじしたがえはたおう征討せいとう有功ゆうこうるい擢比ろうちゅううえとうけんこう

皇太子こうたいしたてしげるどくおうおうびょう,舉府危駭。ぼうげんよわいいい曰:「わざわいすきやめきばはい旋踵矣。おっと大計たいけいしゃのこほそゆきしゅう公所ぐぞ以絀かん、蔡也。」とげ俱入白王しらおう,請先ごと誅之,おうもと曰:「大王だいおうしゅんなに如人?」おう曰:「濬哲文明ぶんめいためこうためくんじんまたなに哉?」たい曰:「こう使つかい濬井どるとくためこう乎?ぬり廩弗とくためじん乎?だいつえ避,しょうつえ受,りょうゆう以也。」おう未決みけつことえききゅう,乃遣かげ召房げんよわいもり如晦ていけいあずかじょうおそけいとくほうくんしゅうちょうこうりゅうりつ公孫こうそんたけいたるどく彥雲もりくんていひとしきょうはじめ討難,平之ひらのおうため皇太子こうたいし,授左庶子しょし即位そくいためふとしむね。遷吏部尚書しょうしょ,以功だいいちしんふうじひとしこくこうみかど以無皇后こうごうけいまたしょうあいとも,眷倚あつしつね出入でいり內。すすむ尚書しょうしょみぎぼくしゃ

突厥頡利あせやめめい而政みだれしょしょう請遂討之。みかど顧新歃血,ためしつこれしつしんじけい猶豫ゆうよ,以問大臣だいじんしょう曰:「けんじゃくおさむ昧,討之便びん。」曰:「いまわがつとむ戢兵,まち夷狄いてきいたり,乃可げき使つかいとげじゃく,且不能ふのうわがまたなにもとむしんいい按甲そんしん便びん。」みかど曰:「ぜん。」しかそつ突厥。

あるゆうげんけんふとし盛者じょうしゃみかど表示ひょうじ曰:「わがあずかおおやけ君臣くんしんあいだしょううたぐ使つかいかくふところしょ不言ふげん,斯則蔽矣。」いんしめせ羣臣曰:「ちんよう於我ゆう大功たいこう猶子ゆうし也。疏間おやしんあいだきゅうこれいい不順ふじゅんちん焉。」また懼貴且亢,きさきまたすうこととげかいぼくしゃ,授開府かいふどうさんつかさあずかぼうげんよわいもり如晦、じょうおそけいとくみな元勳げんくんふういちぐんこうすすむさつそら門下もんか尚書しょうしょしょうごとやめまたいん高士こうしかどこうひね以外いがい戚位三公みつきみいやしゃいい天子てんし以私きさき」。みかど曰:「ちん任官にんかん必以ざいしゃ,雖親わかじょう邑王しん妄授;わかざい,雖仇如魏ちょう棄也。おっとえんきさきけいあい昵,あつ以子おんなだま帛,あにとく?以其けん文武ぶんぶりょううつわちん相之あいのおおやけとう孰不曰然?」かたじょうみことのりこたえ曰:「みかどとくちからまきためみかどさきなつとくとがめためさんおうひとしとくかんなかためはくちょうちんとくこうとげてい天下てんかおおやけ其無ゆずる!」みかどまたおもえ所與しょよども艱難かんなんよりゆき以免,さくたけしおおとり以賜,且況其功。

みかどよく功臣こうしんなみ世襲せしゅう刺史ししさだかんじゅういちねん,乃詔有司ゆうし:「ちん憑明れいゆうけんちからかつ翦多なんきよし宇內。ぶたたむろども其力,世安よやすせんとおる其利,ちんしょ刺史しし諸侯しょこう,雖名不同ふどう,而監統一とういつ也。とうぬき休戚きゅうせきこうていえびすけわしよしみいさお懿績,簡在ちんしん。其改すず土宇つちうよう及之せい。」乃以ためちょうしゅう刺史しし,以趙ため公國こうこくぼうげんよわいそうしゅう刺史ししくに於梁;もり如晦おくみつしゅう刺史ししくに於萊;やすし濮州刺史ししくに於衞;高士こうしれんさるしゅう刺史ししくに於申;こうくんしゅうひねしゅう刺史ししくに於陳;どうむね鄂州刺史ししおう江夏えなつこうきょうかんしゅう刺史ししおう河間こうまじょうおそけいとくせんしゅう刺史ししくに於鄂;勣蘄しゅう刺史ししくに於英;だんこころざしげんきんしゅう刺史ししくに於褒;ほどぶしひろししゅう刺史ししくに於盧;りゅうひろしもとろうしゅう刺史ししくに於夔;ちょうあきら澧州刺史ししくに於鄖。凡じゅうゆうよんにんかんしょく邑尚不在ふざいとう曰:「羣臣披荊とげこと陛下へいかこん四海しかいこんいちまことねがいたがえどお左右さゆう,而使まきがいしゅうあずか遷徙とう。」みかど曰:「わりふう功臣こうしんよくこうとう後嗣こうしちょう為藩ためはん翰,而薄山河さんがちかいはんため怨望,ちんまたやすつよしおおやけ土宇つちうよこしま?」とげどめこうみかどこう其第,自家じかじん姻婭ろうたまものみなゆうひさしん

太子たいしうけたまわいぬいはいみかどほっりつすすむおう未決みけつすわりょうただし殿どの,羣臣やめやめどくとめげんよわい、勣言東宮とうぐうごといん曰:「わが三子みつごいちおとうと未知みちしょりつわれこころほろび聊。」そくとうゆか佩刀はかせむかいとうおどろきそうだきだつかたな授晉おう,而請みかどしょよくりつみかど曰:「我欲がよくりつすすむおう。」曰:「謹奉みことのり異議いぎしゃ!」みかど顧王曰:「しゅうともとなんじ矣,むべそくしゃ。」おう乃拜。みかどふく曰:「おおやけとうあずか我意がいあい天下てんか其謂なに?」こたえ曰:「おう以仁こう聞天ひさ矣,かたゆう不同ふどうしん陛下へいかひゃく。」於是とげじょう。以無ため太子たいしふとしどう中書ちゅうしょ門下もんかさんひん,「どうさんひん此始。みかどまたよくりつおうつとむみつそうどめみかどせいこううららみことのりさむらいちゅうかえ師傅しふかん,聽罷太子たいしふとしはるかりょうあげしゅうとく

みかど從容しょうようとい曰:「ちん聞君せいしんちょくにんつねおおやけよろしめんおさむちん得失とくしつ。」曰:「陛下へいか神武じんむせいぶんかんむりたく千古せんこせいあずか天道てんとうしんとうしょ及,まことゆうしょしつ。」みかど曰:「ちん冀聞おおやけとう乃相諛悅。ちんとうひょうこうとう可否かひ以相ぶんまわし。」いい:「高士こうしれん心術しんじゅつ警悟,臨難不易ふえきぶししょとぼししゃこつ鯁耳。から儉有やめぜん和解わかいじん酒杯しゅはい流行りゅうこう發言はつげん憙,ことちんじゅうねん一言ひとこと國家こっかごと。楊師どうせい謹審,のう,而懦さらごと緩急かんきゅう倚。岑文もとあつしあつし文章ぶんしょう論議ろんぎ其所ちょう也,はかりごとつねけいとおとうまけ於物。りゅう洎堅ただし,其言有益ゆうえきけい然諾ぜんだく於人,のう闕。うましゅうさとしするど而正,ひょうさい人物じんぶつ直道なおみち而行,しょにんみなしょうちん。褚遂りょう鯁亮,ゆう學術がくじゅつ,竭誠おや於朕,わか飛鳥ひちょうひと憐愛。應對おうたい機敏きびんぜん避嫌,もとめ於古じんゆう其比;そうへいおさむせんところよし也。」

じゅうさんねんみかどやまし甚,召入內,みかど引手ひきて捫無頤,哭,みかどかんふさがとくゆうしょげん翌日よくじつあずかとげにゅう受詔,顧遂りょう曰:「わがゆう天下でんか力也りきやしか輔政,勿令讒毀しゃがい。」ゆうごろくずしほうざい離宮りきゅう皇太子こうたいし悲慟,曰:「だいくだり宗廟そうびょう社稷しゃしょくぞく殿下でんかむべはや即位そくい。」いん不發ふはつ,請還みや

太子たいし即位そくいためこうはじめすすむふとしじょう檢校けんぎょう中書ちゅうしょれいなお門下もんか尚書しょうしょしょう固辭こじ尚書しょうしょしょうもとみかどほっりつたけあきらためきさきかたげん不可ふかみかどみつ以寶にしき帛十あまりしゃたまものまたこう其第,擢さんみなあさ散大さんだいおっとあきらははふくまい其家申請しんせいもとけいむねかずすすむ厲色おりこばめみかど召無とげ及于こころざしやすしげんきさきいきあきら有子ゆうこ,必欲りつこれしゃおのれすう諫,そく曰:「先帝せんてい付託ふたくとげねがい陛下へいかおとずれこれ。」とげ極道ごくどう不可ふかみかど聽。

きさきすんでりつ,以無受賜而不すけおのれ,銜之。けいむね揣后ゆびかげ使洛陽らくようじんたてまつふしうえ變事へんじあずかさむらいちゅうからししげるはた臨按,でん致反じょうみかどおどろき曰:「はた妄人構間,殆不其然。」けいむねげん:「はんあとやめ陛下へいかにん社稷しゃしょくぶく。」みかど泣曰:「我家わがや不幸ふこうこう公主こうしゅあずかわが同氣どうき,往謀反ぼうほんこんしゅうとふくしか使つかいわがじゅう愧天奈何いかん?」たい曰:「ぼう遺愛いあいこう乳臭にゅうしゅうあずか女子じょしはんやすのう就事?姦雄かんゆう天下てんかしょ畏伏いふく一旦いったん竊發,陛下へいかだれ使禦之?こん即急そっきゅうおそれ攘袂いちよび,以嘯どうあく,且為宗廟そうびょう陛下へいかずいしつ乎?宇文うぶん及父宰相さいしょうおとうとひさしおも,而身てのひらきんへい,煬帝しょうたぐしか而起ためえびすくびとげほろびずいねがい陛下へいかけつ。」みかどなおうたぐさらみことのりしん覈。明日あしたけいむねげんはんあかり甚,請逮捕たいほみかど泣曰:「しゅうとはてなんじわがけつにんころせ後世こうせい其謂わがなに?」けいむね曰:「漢文かんぶんみかどしゅうとうすきあきらしたがえだいらい有功ゆうこうすわ殺人さつじんみかど惜撓ほうれい朝臣あそん喪服もふく就哭あきら自殺じさつりょう以為しつこん先帝せんていとく,捨陛いたりおや,乃欲うつり社稷しゃしょくはい宗廟そうびょうあにとくあきらよこしまざいほうえびすぞくしん聞當だん不斷ふだんはん受其らんじょう亟行,なる必生へんあずか先帝せんていはかりごと天下てんか天下てんかふく其智,おう莽、司馬しば懿之りゅうこん逆徒ぎゃくとうけたまわなにうたぐ而不けつ?」みかどおわり質問しつもんとげみことのりそぎ官爵かんしゃくふう,以揚州都しゅうととくいちひん俸置于黔州所在しょざいはつへい護送ごそうりゅう其子祕書ひしょかんおきとう於嶺がい從弟じゅうてい渝州刺史ししじん貶翼しゅう司馬しばこうすうがつまたみことのりそら勣、中書ちゅうしょれいけいむねさむらいちゅうしげるしょうとうくつがえ按反ごくけいむねれいだいただし袁公瑜そうじゅんひとしそく黔州暴訊。とう繯卒,おきめんころせぞくさちりゅうぞくおとうとおもえ于檀こう大抵たいていおやみな謫徙。

はつあずかとげ悉心たてまつくに,以天安危あんき自任じにんえいこれせいゆうさだかんふうみかどまた賓禮ひんれい老臣ろうしん,拱己以聽。綱紀こうきしつらえちょう,此兩じん維持いじ也。すんできさき廢立はいりつけいごう姦臣かんしんかげみかどくら於聽受,そつ以屠くつがえ是政これまさかえりたけしいくいたり亡國ぼうこく

うえもと元年がんねんついふく官爵かんしゃく,以孫もとつばさかさねふうはつ自作じさくあきらりょう塋中,いたりもとかえそうぶんむね開成かいせいさんねんみことのり曰:「まいらん國史こくしいたりふとしじょうごと嘗不はいまき而歎。其以裔孫ひとしため猗氏れい。」

よりどころ[]

  • しんとうしょ列傳れつでん 凡一ひゃくじゅうかんまきいちひゃく 列傳れつでんだいさんじゅうちょうまご无忌》