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于吉 - 维基百科,自由的百科全书

于吉

ひがしかん道士どうし

于吉(?—200ねん),《こう漢書かんしょさくきち」,ひがしかん道士どうし琅琊ぐんいまやま东省临沂にん傳說でんせつ最早もはやてき道教どうきょう典籍てんせき太平たいへいきよしりょうしょてき作者さくしゃゆかり此開そうりょう最早もはやてき道教どうきょう宗派しゅうはいち太平たいへいどう相關そうかん經典きょうてん納入のうにゅうみちぞう太平たいへい。于吉建立こんりゅう精舍しょうじゃため百姓以符水治病,ざいかいとうこう受民眾敬たてまつ

于吉

生平おいだいら

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于吉せい琅琊ぐんさきざい東方とうほう寄居よりい往來おうらいくれぐんかいりょう建立こんりゅう精舍しょうじゃ修道しゅうどうじょう燒香しょうこう讀道しょ製作せいさくすいため百姓ひゃくしょうびょうかいてきじんたてまつことまごさく曾經於郡城門じょうもんろうじょう集會しゅうかいしょしょう賓客ひんきゃく,于吉當時とうじ穿ほじもりふくうら拿著しょうくしげ,以漆うらめんそうちょめいため仙人せんにん鏵」てき法器ほうきざいろう經過けいか當時とうじゆう三分之二的諸將及賓客,みなろうむかえはい管理かんり賓客ひんきゃくてき官員かんいんだいののし不能ふのう阻止そし,於是まごさく即時そくじれいはた于吉おさむ押。這些信奉しんぽう于吉てきじん使婦女ふじょいれまごさくはは夫人ふじん請求せいきゅうかいすくい于吉。夫人ふじんたいまごさくせつ:「于先生せんせい也是幫助ぐんいのりぶくかえまもる將士しょうし不可ふかはた殺害さつがい。」まごさくせつ:「這先生せんせい妖妄これにんのう幻惑げんわくしゅこころかえ使つかいしょしょうふくしょう君臣くんしんれい理會りかいわがまごさく紛紛ふんぷんろう禮拜れいはい不可ふかしょう除去じょきょ。」しょしょうさいつぎれんしょ上書うわがき,乞求于吉,まごさくせつ:「過去かこ南陽なんようちょうため交州刺史しし,捨棄さきせい先賢せんけんてき典章てんしょうあずか教訓きょうくん廢除はいじょかんちょう法律ほうりつかえ曾戴じょう紅色こうしょく頭巾ずきんつづみきん燒香しょうこう,讀邪ぞくどうしょせつゆうじょ教化きょうか最終さいしゅうため南夷みなみえびすしょころせ迷信めいしんこと甚為無益むえき諸君しょくんかえ醒悟而已。現在げんざい這位先生せんせいやめざい死人しにんてきめいたんじょう各位かくい不要ふようさい浪費ろうひひつりょう。」たてそく催促さいそくはた于吉これ梟首きょうしゅ於巿。信奉しんぽう于吉てきじんなお且不みとめため于吉やめ而說しかばねかい」(捨棄肉體にくたい而成せん),繼續けいぞくこう于吉祭祀さいしもとめぶく[1]

另據《三國志さんごくし·まご策傳さくでん》引《こころざしりん所載しょさいかんじゅんみかど(125-144ねん),于吉徒弟とてい琅邪じんみやたかしすすむみやけんじかみしょあずかじゅんみかど;此神しょ乃于きち於曲泉水せんすいじょうしろもとしゅかいごう太平たいへいあおりょうどう》,凡百ぼんぴゃくかんゆかりかんじゅんみかどいたりかんけんじみかどたてやすしなか經歷けいれきりょうろくじゅうねんてき時間じかん麼孫さくようしょ于吉とき,于吉やめねんきんひゃくさいねんざいほけ[2],按禮就算有罪ゆうざい也不けいまた天子てんしじゅんかりもんひゃくさい長者ちょうじゃもたれきんあいけいみことけん以表親愛しんあい聖王せいおうてき最高さいこうれいきょう。于吉ざい致死ちし,而暴酷刑こっけいいん此孫さくしょ于吉ため謬誅。[3]

さがせかみ記載きさいりょうまごさくよう于吉もとめ一事いちじ,這事件じけんためさんこく演義えんぎしょ採用さいようまごさくてき部隊ぶたいよく渡江とのえ偷襲もとあきら,于吉ずいぐん出征しゅっせい當時とうじ大旱たいかん氣候きこうえんねつまごさく催促さいそくしょ將士しょうしつきそくひらきせん親身しんみぜん監督かんとく將士しょうし們多ざい于吉しょまごさくいん憤怒ふんぬせつ:「わが如于きち所以ゆえん大家たいかさき找他麼?」於是便びんじん捉拿于吉。于吉いたのちまごさくせめといせつ:「てんひでりあめ水流すいりゅう阻礙,ぼつゆうてき時候じこうわがぐん無法むほう渡江とのえいん此我一大清早出來做事,きょうぶんゆうかいろう安坐あんざせんちゅうそうかみろうおにはい壞我ぐん隊伍たいご現在げんざい該把你除掉。」れいじん綁在地上ちじょう,於陽こう曝曬,ようもとめわかのう感動かんどう上天じょうてん降雨こうう,就赦免しゃめん不能ふのう斬殺ざんさつゆるがせしか雲氣うんき蒸發じょうはつ,於天じょう逐漸集合しゅうごう中午なかうま下起しもおこし大雨おおあめけい澗盈溢。將士しょうし喜悅きえつ,以為于吉必定ひつじょう釋放しゃくほう共同きょうどうぜん往慶しゅく道賀どうがまごさく惱羞なりいかはん而將于吉ころせりょう將士しょうしかんいた哀惜あいせき,一起把屍體收納起來。いたばんじょうゆるがせしかゆうくもそうくつがえぶた天空てんくう將士しょうし們到天明てんめいぜん往觀,于吉屍體したいやめ不知ふちこう[4]

份事あと考證こうしょう

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史學しがく裴松引《こころざしりん所載しょさいかんじゅんみかど(125-144ねん),琅邪じんみやたかしすすむみやけんじかみしょ太平たいへいあおりょうどう》,凡百ぼんぴゃくかんかんじゅんみかどいたりけんやすちゅう經歷けいれきろくじゅう,于吉當時とうじやめ接近せっきんいちひゃくさい

于吉ごとまたじゅつ於《こう漢書かんしょ·じょう楷傳》,名字みょうじためきち。于吉於(東海とうかいきょく泉水せんすいじょうとく仙人せんにん授神しょいちひゃくななじゅうかんめいため太平たいへいきよしりょうしょ》。ひがしかんかんじゅんみかど,于吉てき徒弟とていみやたかしすすむみやけんじ其師所傳しょでんかみしょ」(道教どうきょう典籍てんせき)《太平おうひらしんりょうしょ》。其言以陰陽いんようぎょう為本ためもとみこ覡雜ため妖妄けいじゅんみかどいのち有司ゆうしぞうのちちょうかく頗得此書真傳しんでん[5]

近代きんだい學者がくしゃみとめためかんじゅんみかど活躍かつやくてき于吉,あるあずかかんけんじみかど活躍かつやく於吳、かいてき道士どうし于吉どういちにんしゅ要理ようりよりどころためふるとき根據こんきょ禮儀れいぎきんひゃくさいてき長者ちょうじゃそく使つかい有罪ゆうざい也不けい。而當時とうじ就算天子てんし出外ではずれ狩獵しゅりょういたきんひゃくさいてき長者ちょうじゃ都會とかいけいみことけんいん此學しゃみとめためまごさくしょ誅殺ちゅうさつてき道士どうし于吉,活躍かつやく於漢じゅんみかどけんじかみしょあずかじゅんみかどてき于吉,二者是兩個完全不同時代的人,いん史料しりょう記載きさいゆうあやまざい出現しゅつげん混淆こんこう

演義えんぎちゅうてき于吉

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于吉ざいさんこく演義えんぎだいじゅうきゅうかいしょう霸王いか于吉,碧眼へきがんすわりょう江東こうとうちゅう登場とうじょう,其形象けいしょうためいち道人どうじん披鶴氅,攜藜つえたて於當どう,百姓俱焚香伏道而拜。」

まごさく要求ようきゅう于吉乞雨てき事大じだい致與《さがせかみ接近せっきんただ于吉ふく誅後,不斷ふだんあらわれいこうまごさくさくいのちじょうぶしさがせかみさらためしんかい,如「ゆるがせ香爐こうろちゅうけむりおこり結成けっせい一座いちざはなぶた上面うわつら端坐たんざちょ于吉。さくいよいよいか,拔佩劍はいけんもち于吉擲去,一人ひとりちゅうけん而倒。眾視,乃前日動にちどうしゅころせ于吉しょうそつけん砍入のうぶくろなな流血りゅうけつ而死。」、「おこりしょまた于吉りつ於火光之みつゆきちゅう。」、「よるまごさく宿やど於寨內,また于吉披髮而來。」、「ゆるがせ于吉りつ於鏡ちゅうさくはくきょうだいさけべ一聲いっせい金瘡きんそうほとばしきれ,昏絕於地じょう。」とう,以怨たましいてき形態けいたいこうまごさくさくいのち

另于吉向よしむかいまごさく自我じがかい紹時,自稱じしょう貧道ひんどう乃瑯琊宮道士どうし。」,瑯琊宮成みやなりりょうどうかんてき名稱めいしょう。《こころざしりん》曰:「はつじゅんみかど,琅邪みやたかしまい闕上于吉所得しょとくかみしょ於曲泉水せんすいじょうしろもとしゅかいごう太平たいへいあおりょうどう凡百ぼんぴゃくかん。」,其中琅邪じんみやたかし于吉弟子でしめいまい闕,诣是“いたりぜん往”てき意思いし;“阙”ほん义指すめらぎ宫门ぜん两边きょうあきらもちてきろうきさき引申为皇帝こうていきょ处,ゆび朝廷ちょうていめん聖上せいじょうよし此小せつはた于吉せつなり貧道ひんどう乃瑯琊宮道士どうしたいこころざしりんしも原文げんぶん理解りかいあやま。此情きょう就如しょうちょう楊弘、大將たいしょうちょういさお誤寫ごしゃ成人せいじんぶつ「楊大將たいしょうてきひつあやま

弟子でし

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みやたかしいちさくみやたかしひがしかん琅邪(こん山東さんとう臨沂)にん。曾師事しじ于吉,受授《太平たいへいけい》。《歷世れきせいしんせんからだどうどおり鑒》まきじゅう記載きさいじゅんみかど(125ねん-144在位ざいいみやたかしまい闕獻しょ有司ゆうしそう書中しょちゅう妖妄ざつおさむ。曾服雲母うんもめんしょく如童こういれ紵嶼さん得道とくどうせん[6]

评价

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  • 孙策:“此子妖妄,のう幻惑げんわく众心,远使诸将复相顾君臣くんしんれいつきさくろうはい不可ふかじょ也。”

どう漫遊まんゆうおどけ

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  • おおとり燎原りょうげん》(ちんぼう): 設定せっていためみなみはなはちかいいちはなこれ醫術いじゅつ師承ししょう於其。曾密謀みつぼう統治とうち江東こうとうただしよしまごさく出現しゅつげん失敗しっぱい,曾為りょうあずかまごさくあきらそうくら鬥及分別ふんべつあずか曹操そうそうれんしゅ失敗しっぱいにゅう大牢たいろうなみ於牢ちゅう自盡じじん同時どうじまごさくひだりこれ刺客しかく刺殺しさつ而痛ひゃくにちほろび
  • 臥龍がりょう蒼天そうてん隕落》: 設定せっていため无恶不作ふさくてき黑衣くろご道士どうし」,利用りよう药令天下でんか大乱たいらん,为祸苍生。

註釋ちゅうしゃくあずか参考さんこう

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  1. ^ 三國志さんごくしまご策傳さくでん》引《こうひょうでん》曰:ときゆう道士どうし琅邪于吉,さき寓居ぐうきょ東方とうほう往來おうらいくれかいたて精舍しょうじゃ燒香しょうこう讀道しょ制作せいさくすい以治びょうくれかいじん多事たじさく嘗於ぐん城門じょうもんろうじょう集會しゅうかいしょしょう賔客,吉乃よしのもりふくつえしょうはこうるしめいため仙人せんにん鏵,趨度門下もんかしょしょう賔客三分之二下樓迎拜之,てのひら賔者きんしか不能ふのうどめさくそくれいおさむこれ諸事しょじこれしゃ,悉使婦女ふじょいれさくはは,請救ははいいさく曰:「于先せいまたじょぐんさくぶくまもる將士しょうし不可ふかころせこれ。」さく曰:「此子妖妄,のう幻惑げんわくしゅこころとお使しょしょうふくしょう君臣くんしんれいつきさくろうはい不可ふかじょ也。」しょしょうふく連名れんめいどおりしろことひね乞之,さく曰:「むかし南陽なんようちょうため交州刺史しししゃぜん聖典せいてんくんはいかん法律ほうりつ,甞著絳帕あたまつづみきん燒香しょうこう,讀邪ぞくどうしょうん以助そつため南夷みなみえびすしょころせ。此甚無益むえき諸君しょくんただしさとるみみこん此子やめざいおに籙,勿復ひつ也。」そく催斬梟首きょうしゅ於巿。諸事しょじこれしゃなおいい而云しかばねかい焉,ふく祭祀さいしもとめぶく
  2. ^ れい·きょくれいじょう》:“八十やそきゅうじゅう曰耄,ななねん曰悼。ほけあずか悼,雖有ざいけい焉。”ていげんちゅう:“あいよう而尊ろう。”
  3. ^ こころざしりん》曰:はつじゅんみかど,琅邪みやたかしまい闕上于吉所得しょとくかみしょ於曲泉水せんすいじょうしろもとしゅかいごう太平たいへいあおりょうどう凡百ぼんぴゃくかんじゅんみかどいたりけんやすちゅうろくじゅうさい,于吉きんやめひゃくねんねんざいほけ悼,れいけいまた天子てんしじゅんかりもんひゃくねんしゃ,就而これけい以親あい聖王せいおういたりきょう也。きちざい及死,而暴酷刑こっけい乃謬誅,所以ゆえんため美也みや推考すいこう桓王薨,けんやすねんよんがつよんにち曹、袁相おさむゆう勝負しょうぶあんなつこうもと讓與じょうよせきそくしょ「袁紹破也。しょ授孫賁以ちょうすなぎょうちょう以零、かつら。」此為桓王於前ほろびちょう於後とくしょうゆずるたとえごと矣。しんまつあんふとしかんはちねん廣州こうしゅうだい中正ちゅうせいおうはんじょう交廣しゅう春秋しゅんじゅうけんやすろくねんちょうなおため交州まきこうひょうでんきょ如志りんしょうん
  4. ^ さがせかみ》曰:さくよく渡江とのえかさねもと與吉よきち俱行。とき大旱たいかん所在しょざい熇厲。さく催諸將士しょうし使そく引船ひきふねある早出そうしゅつとくきりはた吏多ざいきちしょさくいん激怒げきどげん:「わがため如于きちよこしま,而先趨務?」便びん使おさむきちいたりしかとい曰:「てんひでりあめみちぬり艱澁,不時ふじとく早出そうしゅつ,而卿同憂どうゆう戚,安坐あんざせんちゅうさくおにぶつたいはいわれこんとうしょうじょ。」れいじんばくおけ地上ちじょう暴之,使つかい請雨,わかのうかん天日てんじつちゅうあめしゃとうげん赦,なんじぎょう誅。にわか而雲じょうふけはだすん而合,いたりちゅう大雨おおあめそういたりけい澗盈溢。將士しょうし恱,以為きち必見ひっけんばらなみ往慶慰。さくとげころせこれ將士しょうし哀惜あいせききょうぞう其尸。てんよるゆるがせさらきょうくもくつがえこれあかりだん往視,不知ふち所在しょざいあんひょうでんさがせかみ吉事きちじ不同ふどうしょう孰是。
  5. ^ はつじゅんみかど,琅邪みやたかしまい闕,うえ其師きち于曲泉水せんすいじょう所得しょとくかみしょひゃくななじゅうかんみなはなだしろもとしゅかいあおくびしゅごう太平たいへいきよしりょうしょ。[いち]其言以陰行為こうい,而多みこ覡雜。[]有司ゆうしそうたかししょじょう妖妄けい,乃收臧之。きさきはりかく頗有其書焉。ちゅう[いち]こんうるうしゅうゆうきょくさんゆうかみけいすいじょうしゅうゆうきょくさんゆうかみけいすいうみしゅうゆうきょくじょうきたゆう潭水;ことぶきしゅうゆうきょくじょうまたゆうきたけいすい。而干きちみやたかし并琅よこしまじんぶた東海とうかいきょく是也これやはなだあお白也はくやもと,縑也。以朱ためかいどうくび,慓也。題目だいもく也。太平たいへいけい曰:“われ書中しょちゅうぜんしゃ悉使あお而丹ごう乎吾みち,乃丹青たんせい信也しんやあおしゃなまじん而有しんあかしゃ太陽たいようてんせいいろ也。
  6. ^ えびすまこと琛主へん:《中華ちゅうか道教どうきょうだい辭典じてん》(北京ぺきん中國ちゅうごく社會しゃかい科學かがく出版しゅっぱんしゃ,1995ねん),ぺーじ75。