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永井荷風 - 维基百科,自由的百科全书

永井ながい荷風かふう

永井ながいにち语:ながい かふう Nagai Kafuu,1879ねん12月3にち—1959ねん4がつ30にち),日本にっぽんしょう说家。本名ほんなただし永井ながいたけしきちごうきん阜山じんにち语:きんぷさんじん)、だん肠亭(にち语:だんちょうていとう日本にっぽん艺术いんいん文化ぶんかこう劳者文化ぶんか勋章获得しゃ

永井ながい荷風かふう
1927ねん昭和しょうわ2ねん)8がつ
にちぶん假名がなながい かふう
うま拼音Nagai Kafū
ごうきむ阜山じん斷腸だんちょう亭主ていしゅじん
出生しゅっしょう永井ながいたけしきち
1879ねん12月3にち
 日本にっぽん東京とうきょう小石川こいしかわ
逝世1959ねん4がつ30にち(1959さい—04—30)(79さい
 日本にっぽん千葉ちばけん市川いちかわ
創作そうさく時期じき1900ねん-1959ねん
體裁ていさい小說しょうせつ翻譯ほんやく隨筆ずいひつ日記にっき
主題しゅだい江戸えど情緒じょうちょ
文學ぶんがく運動うんどう耽美たんび
代表だいひょうさく濹東あやぎぬたん
獎項文化ぶんか勳章くんしょう(1952)
兒女じじょ永井ながい永光ながみつ養子ようし
おやぞく
1952ねん

永井ながい出生しゅっしょう于东きょう小石川こいしかわ(现为文京ぶんきょう)。ちち亲久一郎是大实业家,ただし风一直沉湎于落语和歌舞伎的世界里。ちち亲为りょう让荷风成为实业家而派美国びくにただし风在美国びくにじゅうりょう一段时间后便去了法国,接触せっしょくりょうどう时代てきほう国文学こくぶんがくきさき回国かいこく明治めいじ末期まっき风在ろうもり鸥外てき推荐下成しもなり庆应义塾てき教授きょうじゅ明治めいじ维新きさきこう文化ぶんかてきくずしじゅうふん痛惜つうせき,此后一直坚持以こう户时だい背景はいけい进行戏剧创作。

生平おいだいら

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永井ながい风生于东きょう小石川こいしかわ金富かなとみまちよんじゅう番地ばんち(现:文京ぶんきょう春日かすが丁目ちょうめ),永井ながいひさ一郎和母亲恒的长子。ちち亲久一郎是曾在普林斯顿大学和波士顿大学留学的精英官员,ざいない务省卫生きょく工作こうさくきさきにゅう日本にっぽん邮船)。はは亲恒ちち亲久一郎的老师儒学家鹫津毅堂的次女。

风幼时先きさきにゅう读东京女きょうおんな师范学校がっこう附属ふぞくよう儿园(现在てき御茶おちゃすい女子じょし大学だいがく附属ふぞくよう儿园)、小石川こいしかわしょう日向台ひゅうがだいまち(现:文京ぶんきょう小日向おびなた丁目ちょうめ存在そんざいてき黑田くろだ小学しょうがく初等しょとう、东京寻常师范学校がっこう附属ふぞく小学しょうがく高等こうとう(现:东京がく艺大がく附属ふぞく竹早たけはや小学校しょうがっこう),1891ねん转入神田かんだ锦町てき高等こうとう师范学校がっこう附属ふぞく寻常中学ちゅうがく(现:筑波大学つくばだいがく附属ふぞく中学ちゅうがく高中たかなか)2ねん级。受其爱戏剧的はは亲的かげ响,风也じゅく歌舞伎かぶきかずくに乐,并向汉学しゃがんけい裳川しょうせんがく习汉がく,师从画家がか冈不くずしがく日本にっぽん,还跟ずいない阁书记官冈さん桥学习书ほう

文学ぶんがくてき觉醒

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1894ねん风因びょう休学きゅうがく,疗养间读りょうみず浒传》、《はちいぬ传》、《东海道中どうちゅう膝栗毛ひざくりげとう传奇しょう和江わえ户戏谑文がくかい忆道“如果ぼつゆう这段经历,わが可能かのうかいぞうこんてん这样,一生始终舞文弄墨,はん而会なり为一家的主人和为人父母,跟一个普通人一样度过余生”(《じゅうろくなな岁那时》,岩波いわなみぶん出版しゅっぱん),这时てき阅读为他きさきてき文学ぶんがく创作提供ていきょうりょう充足じゅうそくてき储备。另外,いんざい帝国ていこく大学だいがくだい二医院住院时他迷恋上了一位名为莲的护士,于是给自おのれりょう风”てき笔名。

在中ざいちゅう学期がっき间,いん为长养病とめいちねん,“几年来ねんらい不能ふのうどうはんてき朋友ほうゆうざい一起かずきとめ级了いちねんきさきさい对学业感兴趣。......わが一个人在运动场的角落里,せいこう开始思考しこう个时こう刚记じゅうてき汉诗俳句はいく”(见《じゅうろくなな岁那时》)这样てき文学ぶんがくかつ动,ただしいん为被视作讨好おんなせい寺内てらうち寿一ひさいちきさきらいてきもと帅)とうじん殴打おうだ。1897ねん3がつ中学ちゅうがく毕业。同年どうねん7がつぼつのうこういれだいいちだかちゅう,9月家人かじんいちおこり上海しゃんはい旅行りょこう回国かいこくきさきてき1898ねん风发ひょうりょうゆう记《上海しゃんはいゆう记》,すえ说这现存てき风处おんなさく

1897ねん,进入神田かんだ一桥新设立的官立高等商业学校附属外国语学校清语科(现:东京外国がいこく语大がく),99ねん退学たいがく

はついれぶん

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1898ねん,进入广津柳浪りゅうろう,1899ねん清朝せいちょう留学生りゅうがくせい罗苏山人さんじんかい绍进にゅう巖谷いわや小波さざなみてきしゅうよんかい。1900ねんざいぶん艺俱乐部》てき三宅青轩的介绍下,さく为坐著作ちょさくしゃ进入歌舞伎座かぶきざ。1901ねんざい晓星中学ちゅうがくてきよるこう开始がく习法语,读了ほこりまい尔·ひしげてき大地だいちかず其他英文えいぶん译本きさき迷恋やめ。1898ねん开始ざい杂志じょう发表习作,1902ねん开始发表りょう野心やしん》(1902ねん4がつ8にち)、《狱之はな》(1902ねん9がつ10日とおか)、《梦之おんな》、こぼし译《おんなえんじ员娜娜》(ひしげ作品さくひん,1903ねん9がつ24にち)。とく别是《狱之はな》,受到もり鸥外てきこう评,なり为他なりめいさく。另一方面ほうめん为了研究けんきゅうこう文学ぶんがくなり为落语家だいろくだい朝寝坊あさねぼうむらくてき弟子でし,艺名为梦すけ

ざい旺盛おうせいてき创作かつ动的どう时,风对权力てき反抗はんこう精神せいしん反映はんえいざい作品さくひんちゅうとく别是1902ねん发表てき新任しんにん知事ちじ》,すえ说是以叔叔福井ふくい知事ちじ坂本さかもと钵之じょ为原がたいん此叔侄为此而决裂。

ゆうまなぶ国外こくがい

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1903ねん9がつ22にち,24岁的风遵从父亲的すなお美国びくにがく习实业,いた1907ねん为止,あまねゆうとう马、卡拉马祖、纽约、华盛顿等一边学习法语,一边在日本大使馆和横滨正金银行工作。よし于他适应银行工作こうさく美国びくにてき生活せいかつ,就利用りようちち亲的关系实现りょうほうこくてきすなおもち。1907ねん7がついた1908ねんざいほうこくじゅうりょう约10个月。ざいよこ滨正きん银行さとのぼるぶんてん工作こうさくりょう8个月(とう时里のぼるいちだい金融きんゆう城市じょうし)[1]),离职きさきともえはじむゆう玩,あずか莫泊くわとう作家さっか交往,并结识了上田うえださとし。[7]。

这一时期的荷风经常去欣赏歌剧和音乐会,并创さくりょう西方せいほうおん最近さいきんてき趋势》かずおうしゅう剧的现状》とう文章ぶんしょう。这些作品さくひんかい绍了おうしゅう古典こてんおん乐的现状、识和查德·ほどこせとく劳斯、とくあや西にしとう近代きんだいおん乐家てき开端,在日ざいにち本音ほんね史上しじょうとめりょうこう绩。1908ねん7がつ风离ほう回国かいこく

たかし实的时代

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1908ねん(29岁),发表りょうよしとぎ坚物语》。翌年よくねん1909ねんてきほう兰西ぶつ语》かず《欢乐》いん为涉いや败坏こうぞく禁止きんし出版しゅっぱんさく为风ぞくやぶ坏,(颓废てき氛围日本にっぽんてき蔑视ひょう现等このみぞう讨厌)。应夏目なつめ漱石そうせき邀,1909ねん12月13にち开始19いた10ねん2がつ28にち为止,永井ながいざい东京朝日新あさひしん闻上连载りょう冷笑れいしょう》,此外还发ひょうりょうしん归朝しゃ记》、《深川ふかがわうたとう杰作とうなり为一位冉冉升起的新晋作家。也与もり鸥外、夏目なつめ漱石そうせきかず小山内おさないかおるだい二代市川左团次等文化界名人过从甚密。

1910ねんざいもり鸥外上田うえださとしてき推荐なり为庆应义じゅく大学だいがく文学部ぶんがくぶ主任しゅにん教授きょうじゅ风在じょう课时,穿ほじこうたて领衬衫和西にしまい亚风领带,气质飘洒。讲课内容ないよう以法语、ほう国文学こくぶんがく评论为主,つきかん对迟到てき学生がくせい非常ひじょう严厉,ただしてき学生がくせい佐藤さとう春夫はるおとう评价“先生せんせいてき课很ゆうおもむきただしさらゆう意思いしてきてき杂谈”。曾经听过てき课的名人めいじん包括ほうかつ泽木四方吉もきち水上みずかみ泷太ろう松本まつもとやすし小泉こいずみ信三しんぞう久保田くぼた万太郎まんたろうとう。这一时期的荷风精力充沛,无论创作还是あずかひと交往积极おどり跃,参加さんかりょう木下きのした杢太郎もくたろうとう人的じんてきはんかい”,挖掘りょう谷崎たにざき一郎いちろう,还发ひょうりょう译诗しゅう珊瑚さんごしゅう》,创刊りょう杂志《三田みた文学ぶんがく》,こう读者かい绍了谷崎たにざき和泉いずみ镜花てき创作とう

そら引用いんよう (帮助) 

另外,さく为众赞助人的じんてき西にし园寺公望きんもち也对永井ながい颇为赏识。风也受邀与もり鸥外、いずみ镜花、岛崎藤村ふじむら大町おおまち桂月けいげつ、广津柳浪りゅうろう田山たやま花袋かたいとうぜん辈作参加さんかりょうざい西にし园寺私邸してい举办てき雨声うせいかい西にし园寺あずか风的ちち亲也ゆう交往。见到风后曾打おもむき说“哎呀,你父亲总为了你的事情じじょう而被气哭啊”。

私生活しせいかつてきやぶ

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永井ながい一面在大学里担任光鲜的教授,一面也与艺伎有着私情,いん此他てき私生活しせいかつ总是问题不断ふだん。1912ねん受命じゅめいあずか商社しょうしゃてきおんな儿结こん。1913ねんちち亲去永井ながい继承业后便びんあずか发妻离婚。1914ねんさいめとしん桥的艺妓はちじゅうきさきめい为藤荫静えだ),也因此与小弟しょうてい三郎和亲戚关系恶化。从第ねんおこりあずか八重次也开始分居,自己じこ搬到きょう桥区筑地ついじ(现为东京都きょうと中央ちゅうおう筑地ついじ)租房生活せいかつ。此后,さい也没ゆう开始いちだん婚姻こんいん

关于曾经与交往过的女性じょせい风在《だん肠亭日乘にちじょうてき1936ねん1がつ30にちてき文章ぶんしょうちゅう做了かい顾。

さく为戏剧作しゃ生活せいかつ

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1910ねん日本にっぽん幸德こうとく事件じけん时,风曾评价どう:“日本にっぽんすんでぞう美国びくに一样尊重个人自由,也不像法ぞうぼうこくいち遵守じゅんしゅ传统,而只一心想表面上的西欧化。而体制たいせいまた对反对的国民こくみんよこ迫害はくがいすんでしかわがぼつゆうぞうひしげ一样谴责德雷福斯事件的勇气,就只のう自己じこ沉迷于戏剧中りょう”(《けむりはな》1919ねん)。

これきさき为了つい寻昔こう户的风貌,便びん专心寻访先哲せんてつてき坟墓故里ふるさと,并创さくりょう大量たいりょうてき怀古文字もじ以及じょうしょくしょう说。1914ねんうつしりょうこう户艺术论》,并在1914ねん8がついたり1915ねん6がつ间于《三田みた文学ぶんがくじょう发表りょう以寻访江户旧かげ为主题的系列けいれつずい笔《日和下駄ひよりげた》,并在1915ねん11月结集出版しゅっぱんただしざい同年どうねん1がつ20日はつか发表てきなつ姿すがたしたれい禁止きんし发行。永井ながい风对ほう国文学こくぶんがく也有やゆう很深てきみやつこ诣,并向学生がくせい推荐りょう安德あんとくれつ·纪德罗·かつらくとくてき原著げんちょ

1916ねん左右さゆう,围绕《三田みた文学ぶんがくてき举办,风与庆应义塾间的ぶん歧日えきあきら显,さい终他ただのう辞去じきょ大学だいがく教授きょうじゅ职务。此后一边专心创作,いち边与友人ゆうじん井上いのうえ唖々ああ创办りょう杂志《文明ぶんめい》(1916ねん4がつ—1918ねん9がつとも30),并经つね与太よたしょく山人さんじんてら门静轩、柏木かしわぎ如亭、なり岛柳きたとうこう户戏剧作来往らいおう

辞去じきょ庆应大学だいがくてききょう职不ひさし永井ながい便びんかいいた余丁よちょうまちたくてい居住きょじゅう,并将其命名めいめい为“だん肠亭”,从1917ねん9がつ16にちおこりせんうつしだん肠亭日乘にちじょう》。だん肠亭めいみなもと于荷风的肠道疾病しっぺい以及他所よそ爱的秋海棠しゅうかいどう(别名“だん肠花”)。1918ねん永井ながい卖掉余丁よちょうまちてきたくてい寓居ぐうきょ筑地ついじ丁目ちょうめねんまた迁至麻布あざぶへい卫町いち丁目ちょうめ(现为みなと六本木ろっぽんぎいち丁目ちょうめ新建しんたけてき偏奇へんき馆。偏奇へんき馆之名取なとり外部がいぶそう饰的“あぶらうるし”以及自己じこてき性癖せいへき偏倚へんい。虽然偶尔かい让娼ある家政かせい妇到家中いえじゅうらいただしはじめ终声しょうつましょうかい妨碍ぼうがい创作,いん此基本上ほんじょうただし一人ひとり独居どっきょ

此时,陆续发表りょう长篇代表だいひょうさくうでくらべ》(长篇しょう说)、《鸢笹》(《中央ちゅうおうこう》1918ねん1がつ出版しゅっぱん,续作为《花月かげつ》5がつ-11月。1920ねん4月刊げっかんとうとうどう时他也与ひだり团次、小山内おさない以及川尻かわじり清潭せいたん、冈鬼太郎おにたろう山崎やまざきむらさき红、池田いけだ大伍だいごとう保持ほじ交流こうりゅう,对于南北なんぼく物的ぶってき复活狂言きょうげんてき导演和江わえ户时てき文人ぶんじん墨客ぼっかくゆうしょ研究けんきゅう

开拓しん境地きょうち

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1926ねん(47岁)左右さゆう开始,频繁出入でいり于银てき咖啡馆。风的创作兴趣从原らいてき艺妓转移いたしんてきふく务员私娼ししょうとう。1931ねんうつしりょう《つゆのあとさき》,1934ねん创作りょう《ひかげのはなとうぜんしん题材てき作品さくひん。这一时期,いえ书商そうしょう出版しゅっぱん风的作品さくひん全集ぜんしゅう使つかいとく风收获了きょ额的ばんぜい生活せいかつ无忧てき风更进入りょう创作てきだか产期。ざいうつしさくあずか友人ゆうじん神代かみよ帚叶とうじんへん访银こう东区荒川あらかわ放水ほうすいてきしん开地、浅草あさくさてき风俗たまてき私娼ししょうがいとう。1937ねん永井ながい开始在朝ざいちょう日新にっしん闻上连载《濹东绮谭》。这一系列随笔中主要以东京的旧城区游记为主题,其中とぼし深川ふかがわ散歩さんぽ》、《てらじまの》、《放水ほうすいとう佳作かさく

永井ながい非常ひじょう关注浅草あさくさてき轻戏剧和评论,结识りょうしょうまいおんな剧场经营しゃ。值得いちひさげてき,1938ねん昭和しょうわ13ねんあずかざい银座结识てき作曲さっきょく菅原すがわら明朗めいろう合作がっさくてきうた剧《かずら饰情话》ざい浅草あさくさ剧院成功せいこう上演じょうえんさく日本人にっぽんじん创作てき首部しゅぶ正式せいしき剧,广受日本にっぽん国民こくみん关注。とう时受到鼓舞こぶてき风也打算ださんはた其搬じょう银幕,并继续创さくだい作品さくひん浅草あさくさ交响乐》,ただしずい二战时局的恶化,创作せり中止ちゅうし。而《かずら饰情话》ちゅうてきおんな低音ていおん永井ながい智子さとこかず菅原すがわらずいきさき结婚,これきさき夫妻ふさい两与风成为终其一生いっしょうてきこうとも

ざい战乱ちゅう

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ずい日本にっぽんおちいにゅう战争どろ淖,しん书的出版しゅっぱん发行えきこま难,ただし风继续创さくりょう浮沈ふちん》、《勲章くんしょう》、《踊子おどりことう作品さくひんだん肠亭日乘にちじょう》。总将原稿げんこう誊抄几份きさきぶん别交给朋友ほうゆう保存ほぞん,以避めん遭受战火毁坏。此外,ゆかり于战ごと不利ふり个人生活せいかつ也日えき窘迫,偶尔也会かけしょう食物しょくもつ燃料ねんりょう

1945ねん3がつ10にちきよし晨,偏奇へんき馆在东京だい轰炸ちゅう烧毁,风只のう带着少量しょうりょう书稿避难,ただし大量たいりょうぞう书已烧成はい烬。

此后,风跟ずい菅原すがわらおっと妇从中野なかの住吉すみよしまち(现东中野なかのよん丁目ちょうめ)迁至明石あかしさいいた冈山避难,さいきさきざい7がつ3にち,终于やす顿在冈山てき岩井いわいさん门町(现冈さん市北しほくさん门东まちてきみんたくちゅうやめ经66岁的风,ざい仓皇避难际也忘每散步さんぽ记,ただしよし为反复的そら袭和奔波みさお劳,现了はら泻和不安ふあん同行どうこうてき永井ながい智子さとこざい给大岛一雄的信中写道:“最近さいきん永井ながい先生せんせいとくりょうおそれ惧症,ろう实得敢去动一下身边的东西,如孩一样什么都不明白。またこれわが们白てん有事ゆうじよう门,也会ひさしもとめわが们别门。甚至连有ぼつゆうども过早饭都记得……”。

とう时在冈山县胜やま躲避战火てき谷崎たにざき润一郎也向恩人荷风寄来一些物品,关心てきじょう况。8月13にち风到胜山あずか谷崎たにざき晤面,还把自己じこてきぶん稿こう交给きさきしゃ保管ほかん

だい二天回到冈山,得知とくち日本にっぽん投降とうこうてき消息しょうそく。归心てきざい8がつ30にちあずか村田むらた武雄たけおおと乐评论家)おっと妇乘すわれつ车于31にちかいいたりょう东京。对于这一过于突然的行程,永井ながい智子さとこ非常ひじょうせい气,いん为他们与永井ながい一直约定要三人一同返回东京。她在给大岛一雄的信中写道“わが们感觉被给抛弃了,またかんじいた孤独こどくまたかんじいた对一代大师看走了眼,心中しんちゅうの无比悲伤”。ざい此之きさき智子さとこさい也去见过风。

战后てき复出

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战后よし于住ぼう紧张以及どおり货膨胀导致的そん款限せい制度せいど风被せりあずかどうおとうとだい岛一ゆうきね叟)ほう国文学こくぶんがく小西こにし茂也しげやとう亲友あいじゅうざいいちおこりやめ经习惯了独居どっきょてき往往おうおう不能ふのう顾及どうじゅうしゃてき生活せいかつ方式ほうしきある扰大岛练习三あじ线,あるこれ带着硫磺しゅうてきかわ肤病疗药进浴そうさとあるものざいにわいんさと随意ずいい小便しょうべんとういん此与どうじゅうてきじん摩擦まさつ不断ふだん。为此,偶尔也借用しゃくよう朋友ほうゆうしょう矶凌しもざいふね桥市海神わたつみきた一丁目的别墅用于写作。

1944ねん永井ながいあずかだい岛一雄的次子永光办理了收养手续。ざい1947ねんなつたかしだい岛的家人かじん擅自售了风的《げん语》てき书稿,双方そうほうだい吵一きさき便びんたくりつ解除かいじょりょう父子ふし关系。

永井ながいじょりょう战争间积るいてき发表作品さくひんがい,还陆续发ひょうりょう收集しゅうしゅう昭和しょうわじゅうねん部分ぶぶん记的《かか灾日录》(《新生しんせい》1946ねん3がつ—6がつとう,此外また再版さいはん发行りょう战时のう出版しゅっぱんてき旧作きゅうさく,备受ぶん坛瞩ざい这之きさき,虽然りょう几部しん作品さくひんただし并不ざん上乘じょうじょうこれさくれい如《勋章》(《新生しんせい》1946ねん1がつ)、《舞子まいこ》(《展望てんぼう》1946ねん1がつ)、《浮沉》(《中央ちゅうおうこう论》1946ねん1がつ—6がつ)、《问题》(《展望てんぼう》1946ねん7がつとう

1948ねん,69岁的风在市川いちかわ菅野かんの(现为东菅丁目ちょうめ)买了房子ふさこ生活せいかつまた安定あんていりょうらいざいちゅう,1950ねんずい笔集《かずら饰土产》出版しゅっぱん。这一时期的荷风心情舒畅,时常穿ほじ西にしそう和木わき屐在浅草あさくさかずら饰的きゅうぐすく散步さんぽ。从1949ねんいたとしざい浅草あさくさらくかつ剧场とう上演じょうえんりょうこう鸟什么时こうかいらい》、《春情しゅんじょう鸽子まちとう风的作品さくひん风本じん也作为特邀嘉宾出演しゅつえんじょうざい舞台ぶたいじょうてきひょう现以及与まいおんな们谈わらいてきあきらかた报纸转载,引发りょう相当そうとうだいてき关注。

孤独こどくてき晚年ばんねん及逝

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1952ねん日本にっぽん政府せいふ以荷风“拥有温雅おんが诗情、たく绝的文明ぶんめい评价以及とおる彻的现实观等三方面的优秀创作,以及在江あるえ文学ぶんがくてき研究けんきゅう外国がいこく文学ぶんがくてき引进とう方面ほうめん做出りょう贡献,ざい日本にっぽん近代きんだい文学ぶんがく史上しじょうとめりょう独特どくとくてききょだいしるし记”为由,授予文化ぶんか勋章。つぎねん风又选为日本にっぽん艺术いんいんとう声誉せいよたかしどう时,きゅうりゅう连于浅草あさくさ,也经つねほうこく和美かずみこくてき电影。

つきかん风的创作やめ进入衰退すいたいただし也写りょう若干じゃっかん短篇たんぺん作品さくひん。其旧作品さくひんむらさき阳花》ゆかり久保田くぼた万太郎まんたろうあらため编,并由新派しんぱてき花柳はなやぎ章太郎しょうたろう出演しゅつえん,一时成为话题之作。1954ねん,为纪ねんおん师森鸥外てきさんじゅうさん周年しゅうねん忌日きじつざい团子ざか观潮ろう遗址じょう竖立りょう风书うつしてきすな罗之てき碑文ひぶん。此时风为りょう建造けんぞうもり鸥外纪念馆,捐赠りょうまんにちもと

1957ねん,78岁的风搬到八幡やはたまちよん丁目ちょうめ(现:八幡やはたさん丁目ちょうめ),这也他生たしょうぜんさいきさきてき住所じゅうしょ

1959ねん3がつ1にちざいつね多年たねんてき浅草あさくさARIZONA餐厅吃うま饭时,いん病魔びょうま肆虐,几乎不能ふのうぎょうはし”(见于《日乘にちじょう》)。此后,じょりょういた住宅じゅうたく附近ふきんてき大黑屋だいこくや就餐がい,几乎さい外出がいしゅつそく使つかい朋友ほうゆう给他かい绍了せい也都去就きょしゅう

4がつ30にちはやじょう,其遗たい在家ざいけちゅうひと发现。とう时到家中かちゅう扫卫せいてき家政かせい妇发现他吐血とけつたおせざい地上ちじょう吐出としゅつてき迹中还混杂着さいきさき一餐吃的炸猪排盖饭的米粒。てき死因しいん诊断为因溃疡出血しゅっけつ而导致的こころ脏麻痹。随身ずいじん携带てきなみ旅行りょこうつつみさとちゃく土地とち权利证、そんおり文化ぶんか勋章とう全部ぜんぶ财产。さとめんてきそんおりめん值总额超过2334まんにちもと,此外つつみさと还有31万多的日元现金。

永井ながい风葬于杂たに灵园1种1ごう7侧3ごう,这是ちち亲久一郎所设立的墓区。此外,本人ほんにん生前せいぜん表示ひょうじ希望きぼう被葬ひそうざい吉原よしわらてき风俗おんなしょ集中しゅうちゅうてき投入とうにゅうてら以及荒川あらかわみなみ千住二丁目的净闲寺等处。1963ねん昭和しょうわ38ねん)5がつ18にち,经宫茂和しげかず住持じゅうじ倡议,并在もり於菟おと野田のだ宇太郎うたろう小田おだ岳夫たけおとう42めい发起じん共同きょうどうさく划下,ゆかり谷口たにぐち吉郎よしろう设计てき永井ながい风诗笔冢落成らくせい,并与纪念吉原よしわら风俗おんなてきしん吉原よしわら总灵とう正面しょうめんしょう对。

轶事

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  • 偏奇へんき馆的旧址きゅうし存在そんざい于泉はな用地ようちてき一角いっかくよし于土开发,虽然ぼつゆう保留ほりゅう以前いぜんてき地形ちけいただしみなと教育きょういく员会ざい旧址きゅうしじょうたてりょう偏奇へんき馆旧てきいしぶみ
  • 2004ねんざい市川いちかわてきけん70周年しゅうねん纪念典礼てんれいじょう永井ながい风被つい名誉めいよ市民しみんてき称号しょうごう
  • とう时,作品さくひんてき刊行かんこうかい”曾征询荷风的养子永光ながみつただし同意どういよし该会拥有其作品さくひんてき著作ちょさく权,ただし永光ながみつ同意どうい永光ながみつざい银座经营いち家名かめい为“徧喜馆”てきさけ吧(にち语中てき发音あずか偏奇へんき馆相どう)。永光ながみつ于2012ねん4がつ25にちいん肺癌はいがん,其寿いのち碰巧风一样都79岁。另外,作品さくひんてき著作ちょさく权在2010ねん1がつ1にちやめ经届满,目前もくぜんやめ进入公有こうゆう领域。
  • 风的叔叔坂本さかもと钤之じょ曾官いたり枢密すうみつ顾问かんただし叔侄二人始终没有来往。风也知道ともみち钤之すけてき庶子しょしこう见顺为其どうおとうとただし也特けい而远
  • 风对诗作也颇ゆうづくり诣,とめりょう诗集《偏奇へんき馆吟そう》,其中包括ほうかつりょう俳句はいく汉诗。
  • いん作品さくひん春情しゅんじょう鸽子まちざいらくかつ上演じょうえん风与おんなえんじ员樱睦子むつこ也有やゆういちだん交往。对洛かつてきまいおんな也经つね给予あきら顾,ゆう时会ざいきさきだいゆび导,对表演者えんじゃてき演技えんぎとう提出ていしゅつ过建议。
  • すえ说荷风会ざい自己じこ经营てき休息きゅうそくしつてき墙壁じょう凿一个小ほら,对连らい欣赏ひょうえんじてき客人きゃくじん进行窥视。如果客人きゃくじん演出えんしゅつてき评价非常ひじょう满意,则有时他也会为客じん进行めん单等优待。
  • 风“虽然こく爱江户平民へいみん文学ぶんがくただし对于德川とくがわ幕府ばくふまえてき古代こだい文学ぶんがく非常ひじょうひやばく。虽然对蜀やまてき狂歌きょうかりゃくゆうわたる猎,ただし对万叶古今到私家集的和歌以及《源氏げんじぶつ语》以来いらいてき古典こてん故事こじ几乎毫不关心。ただゆういち个例がい,就是《平家へいけぶつ》。”
  • 虽然风主张回归传统,ただし其所谓的传统和文わぶん也只停留ていりゅう在江あるえ户时だい,并不おもえついさかのぼいたさらひさまえてき时代。
  • 非常ひじょう讨厌接待せったい访客,所以ゆえん经常让记しゃ编辑吃闭门あつものあきらあきら在家ありいえてき对于纠缠てき来客らいきゃく往往おうおう直截ちょくせつりょう当地とうち假装かそう不在ふざいただし也绝发怒,表面ひょうめんじょうれい貌恭けいただし实际却让对方ども软钉

年表ねんぴょう

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1879ねん

  • 12月3にちせい于东京都きょうと小石川こいしかわ金富かなとみまち45ごう(现文京ぶんきょう春日かすが2丁目ちょうめ),ちち亲为内政ないせい保健ほけんきょく永井ながい久一郎ひさいちろう张国(现爱县),ごう禾原かげんあるらいあお阁主じん),はは亲为儒家じゅか学者がくしゃ鹫津毅堂きどうてき次女じじょ风是长子。

1883ねん

  • 2がつ5にち - おとうと二郎じろうざい三菱银行工作后成为基督教牧师。きさきらい继承りょう鹫津家族かぞく出生しゅっしょう风被とめざい下谷しもたにたけまちてき鹫津あきら顾,ゆかり外祖母がいそぼ美代みよ抚养长大,ふか受宠爱。

1884ねん

  • 就读于东京女きょうおんな师范学校がっこう附属ふぞくよう儿园。

1886ねん

  • かいいた小石川こいしかわ父母ちちはは,进入小石川こいしかわ小日向おびなた黑田くろだ小学校しょうがっこう初等しょとう就读。

1887ねん

  • 11月18にちおとうと三郎さぶろう出生しゅっしょうざい农业にん职后なり为大がく教授きょうじゅ)。

1889ねん

  • 4月 – 从黑田くろだ小学しょうがく普通ふつうよんねん级毕业。
  • 7がつ - 就读于竹早たけはやまち东京都立とりつ师范学校がっこう附属ふぞくだか中部ちゅうぶ。 这いちねんてきちち亲久一郎从帝国大学秘书的职位进入文部省。

1890ねん

  • ちち亲久一郎成为文部科学大臣吉川健正的秘书,并迁きょ麴町いち丁目ちょうめ(现千代田ちよだてき官邸かんてい

1891ねん

  • 6がつ - てきちち亲久一郎就任教育部会计局局长,一家人回到了小石川的私宅。
  • 9月 转入神田かんだ一桥高等师范学校附属普通初中(现筑波大学つくばだいがく附属ふぞくはつちゅう高中たかなか)。

1893ねん

  • 11月 ちち亲卖掉金富かなとみまちてきたくてい,一家人搬到麴町区饭田町3丁目ちょうめ持地もちじ乃坂(现千代田ちよだ饭田桥)ちゅう间的租屋。

1894ねん

  • 10がつ 搬迁いたり麴町一番町いちばんちょう42ごう(现千代田ちよだ一番町いちばんちょうてき租屋。

1896ねん

  • むかい荒木あらき竹雄たけおがく尺八しゃくはちむかいしげるがわ岩井いわいがく中国ちゅうごく诗词れい仪。

1897ねん

  • 2がつ - だいいち逛吉ばら
  • はつちゅう毕业。 ちち亲久一郎辞去政府职务,加入かにゅう日本にっぽん邮船株式会社かぶしきがいしゃ担任たんにん上海しゃんはいぶん公司こうし经理。 风未こうにゅう第一高等学校だいちこうとうがっこう。 9月いたり11がつあずか父母ちちははおとうとおとうといちおこりじゅうざい上海しゃんはいきさきかえし进入しん成立せいりつてき神田かんだいち桥商业高ちゅう(现一桥大がく附属ふぞく外国がいこく学校がっこうきよし语科。。

1898ねん

  • 9月 – 以《帘月》とう文章ぶんしょう受广津柳つやなぎなみ赏识,はい其为师。

1899ねん

  • 1がつ - なる为落语家ろく代目だいめ朝寝坊あさねぼうむらくてき弟子でし,并以三游亭梦之助之名出入落语表演场所。同年どうねんあき,其父得知とくちてきちち亲知どう参加さんか歌舞かぶ杂耍ひょうえんじ弃了落语说书てき训练。 てき短篇たんぺんしょう说开はじめ现在报纸杂志じょう包括ほうかつにゅう选万朝报的有奖小说大赛。
  • 12月 - だい二年被外国语学校开除。

1900ねん

  • 2がつ - ちち亲久一郎就任日本邮船横滨分公司经理。 这いちねん认识りょうKonami Iwaya,并成为了Thursday Clubてきいち员。 还进にゅう歌舞伎座かぶきざ创始じん冈地福地ふくちてき学校がっこうさく学徒がくと开始​​がく习场记板。

1901ねん

  • 4がつ - あずか调到祖国そこくしん闻社てき大智たいちいちおこり加入かにゅう公司こうしなり为杂こころざし记者。
  • 9月 - 公司こうし解雇かいこがく习法语基础知识。 としそこ读到ひだりひしげてき作品さくひんふか受感动。

1902ねん

  • 5月 - あずか家人かじん搬迁いたり牛込うしごめ大久保おおくぼ阳町(现新宿しんじゅく阳町)。
  • 9月 - 出版しゅっぱん狱之はな》,深化しんか佐里さりぬし义风かく

1903ねん

  • 9月 - ざいわがちち亲的推荐搬到りょう美国びくに

1905ねん

  • 6がつ - 搬到纽约,并于个月开始ざい日本にっぽん驻华もり大使たいし工作こうさく
  • 12月 - ざい其父やすはい,就职于横滨正きん银行纽约ぶんぎょう

1907ねん

  • 7がつ - 调派いたよこ滨正きん银行さとのぼるささえくだり

1908ねん

  • 3月 - 从银ぎょう职。访问ともえはじむだい约两个月。
  • 7がつ - かいいたかみ
  • 8がつ - 《美国びくにぶつ语》由博よしひろぶん出版しゅっぱん

1909ねん

  • 3月 - 《ほうこくぶつ语》由博よしひろぶん出版しゅっぱんただしひさ就被禁止きんし发行。

1910ねん

  • 2がつ - 庆应义塾大学だいがく文学ぶんがくけい更新こうしんきさき,经森鸥外、上田うえだ聪推荐就任しゅうにん教授きょうじゅ
  • 5月 - 杂志《三田みた文学ぶんがく》创刊并监おさむ

1911ねん

  • 11月 - ざい三田みた文学ぶんがく》发表《谷崎たにざき一郎いちろう作品さくひん》。

1912ねん

  • 9月 - 与本よもと乡汤岛木材もくざい商人しょうにん斋藤正吉まさよしてき二女儿永根结婚。

1913ねん

  • 1がつ2にち - ちち亲久いちろう。继任家督かとく
  • 2がつ - あずか妻子さいしヨネ离婚。

1914ねん

  • 8がつ - ざい市川いちかわひだり团次おっと妇介绍下,与八よはち重次しげつぐ举行りょう婚礼こんれい与本よもとてき亲属几乎だん来往らいおう

1915ねん

  • 2がつ - 与八よはち重次しげつぐ离婚。
  • 5月 - 搬迁いたりきょう桥区筑地ついじいち丁目ちょうめ(现中央ちゅうおうてき租房

1916ねん

  • 1がつ - 搬迁いたり浅草あさくさ米田よねだたび笼町1-13。
  • 3月 - 从庆应义じゅく大学だいがく职并决定退出たいしゅつ三田みた文学ぶんがく”。 しょう四丁町宅邸的一半土地卖给入江为守子爵,并重新装しんそう修了しゅうりょうたくてい
  • 5月 - かいいた大久保おおくぼ余丁よちょうまちてき私宅したくはた其中一个房间命名为断肠亭。
  • 8がつ - 《うでくらべ》ざい文明ぶんめいじょう连载(1917ねん10がつ
  • 9月 - ざいたび笼町购买りょういち套小房子ふさこ,并将其作为第个家,ただし一个多月后卖掉并返回断肠亭。

1917ねん

  • 9月 - ざい小引こびきまち九丁目租了一间房子作为临时住所,并将其命名めいめい为无远庵。 9月16にち 恢复うつし记(《だん肠亭日乘にちじょう》)

1918ねん

  • 12月 - 售大久保くぼ四町しちょうまちてきたくてい,迁至きょう桥区筑地ついじ丁目ちょうめ30ごう(现中央ちゅうおう)。

1919ねん

  • 12月 - 宣布せんぷ“Fireworks”为“おさむ改版かいはん”。

1920ねん

  • 5月 - 搬迁いたり麻布あざぶへい卫町1-6(现港偏奇へんき馆。

1923ねん

  • 5月 - ざい帝国ていこく剧院欣赏しょう提琴ていきんどるさといばら·かつ莱斯勒 (Fritz Kreisler)てき演出えんしゅつ

1926ねん

  • 8がつ - 经常こう顾银 Cafe Tiger。

1936ねん

  • 3月 - あずかこう岛的私娼ししょうだま开始交往

1937ねん

  • 4がつ - 出版しゅっぱん《濹東あやぎぬたん》(私人しじんばん)。东京·大阪おおさか朝日新あさひしん连载(4がつ16にち~6がつ15にち
  • 9月8にち - はは亲去

1944ねん

  • 3月 - おさむ养大岛一おっときね叟)てき次子じし永光ながみつ

1945ねん

  • 3月 - 偏奇へんき馆在东京大空おおぞら袭中烧毁。
  • 6がつ - 经明せき避难いたり冈山。
  • 8がつ - ざいはい访了疏散いた冈山县胜やままちてき谷崎たにざき润一ろうきさきかえしかい冈山县三门町的武南家,ざいさと得知とくち日本にっぽん投降とうこう战结たば
  • 9月 - じゅう于被疏散いた热海和田わだ滨的户正かたてききね叟住しょ

1946ねん

  • 1がつ - 搬迁いたりGoso Kineyaてき新地さらち:千叶县市川市菅野258(现菅3丁目ちょうめ)。

1947ねん

  • 1月 – じゅうざい市川いちかわ菅野すげのてき小西こにし茂也しげや

1948ねん

  • 12月 - ざい市川いちかわ菅野すげの1124(现东菅野かんの2丁目ちょうめ)购买18つぼかわらぼう并搬迁。

1952ねん

1954ねん

1957ねん

  • 3月 - 搬迁いたり市川いちかわ八幡やはたまち4丁目ちょうめ1224(现八幡やはた3丁目ちょうめ)。

1959ねん

  • 4がつ30にち - 死因しいん溃疡吐血とけつ窒息ちっそく(《风外传》)。

主要しゅよう作品さくひん

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單行本たんこうぼん

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  • 『あめりか物語ものがたり』(1908)
  • 『ふらんす物語ものがたり』(1909)(きんうり
  • 『すみたかわ』(1911)
  • 新橋しんばし夜話やわ』(1912)
  • 日和下駄ひよりげた』(1915)
  • 下谷しもたにくさむらばなし』(1926)
  • 濹東あやぎぬたん』(1937)
  • 葛飾かつしか土産みやげ』(1950)
  • 斷腸だんちょうてい日乘にちじょうぜん7さつ(1980 - 1981)

全集ぜんしゅう

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  • 荷風かふう全集ぜんしゅうぜん6かん(1918 - 1920)
  • 荷風かふう全集ぜんしゅうぜん24かん(1948 - 1953)
  • 荷風かふう全集ぜんしゅうぜん28かん(1962 - 1965)
  • 新版しんぱん 荷風かふう全集ぜんしゅうぜん30かん(1992 - 1995)

关联条目じょうもく

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外部がいぶ連結れんけつ

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