监军也称监军事ごと、督とく軍ぐん,是ぜ中國ちゅうごく歷史れきし上うえ,替がえ中央ちゅうおう政府せいふ監督かんとく在外ざいがい之の軍隊ぐんたい的てき官職かんしょく,常つね持じ節ぶし。
監かん軍ぐん之の名めい最さい早見はやみ於春秋しゅんじゅう時代じだい齐景公こう以司つかさ马穰苴为将,以宠臣しん莊そう賈为监军[1]。
秦はた始はじめ皇すめらぎ命いのち蒙こうむ恬率りつ兵へい防御ぼうぎょ匈奴きょうど,以長子ちょうし扶苏为监,是ぜ為ため太子たいし監かん軍ぐん之の始はじめ。
至いたり南朝なんちょう時とき,監かん軍ぐん發展はってん成なり為ため“典てん簽制度せいど”。
隋ずい末すえ,常つね以御ご史し监军事ごと。
唐から玄げん宗むね開ひらき元もと二に十じゅう年ねん(732年ねん)以後いご,開始かいし委い派は宦官かんがん擔任たんにん監かん軍ぐん,職權しょっけん為ため“監視かんし刑けい賞しょう,奏そう察違謬”,唐とう代だい監かん軍ぐん制度せいど完備かんび,主要しゅよう原因げんいん在ざい於府ふ兵制へいせい的てき瓦解がかい、募兵ぼへい制せい取と而代之の以後いご,朝廷ちょうてい無法むほう有效ゆうこう控ひかえ制せい地方ちほう軍隊ぐんたい,必須ひっす使用しよう監かん軍ぐん制度せいど。安やす史し之の乱みだれ后きさき,置おけ左右さゆう龙武、左右さゆう神武じんむ。左右さゆう羽わ林りん六ろく军辟仗使,以宦官かん充たかし任にん。唐から朝ちょう中ちゅう後期こうき,宦官かんがん權勢けんせい開始かいし坐すわ大だい,甚至有ゆう廢立はいりつ皇帝こうてい之これ權けん。直ちょく到いた唐から昭あきら宗むね天てん復ふく三さん年ねん,朱しゅ溫あつし盡つき殺ころせ宦官かんがん,唐とう代だい宦官かんがん監かん軍ぐん制度せいど告つげ終おわり,至いたり此監軍ぐん制度せいど亦また走はし向こう衰おとろえ落。
宋朝そうちょう的てき基本きほん國策こくさく是ぜ強きょう幹みき弱じゃく枝えだ,“兵へい無常むじょう帥そち、帥そち無常むじょう師し”,兵へい將はた不ふ相あい習,可か以有效ゆうこう控ひかえ制せい地方ちほう軍隊ぐんたい,因いん而逐漸やや不ふ需要じゅよう監かん軍ぐん一いち職しょく。
宋そう代だい以後いご各かく朝代あさしろ,時じ設しつらえ時じ不ふ設しつらえ。
民みん國こく初年しょねん,位い居い要よう津つ的てき軍ぐん官かん,往往おうおう以行くだり省しょう督とく軍ぐん、某ぼう部ぶ督とく軍ぐん、監かん軍ぐん等とう頭あたま銜任にん職しょく於北洋ほくよう政府せいふ,而實際ぎわ為ため軍閥ぐんばつ。
今日きょう,中華民國ちゅうかみんこく國軍こくぐん實行じっこう的てき輔導ほどう長ちょう制度せいど、中國ちゅうごく人民じんみん解放かいほう軍ぐん實行じっこう的てき指導しどう員いん制度せいど,亦また有ゆう古いにしえ時じ監かん軍ぐん的てき功こう能のう。