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第二次楊廷和內閣 - 维基百科,自由的百科全书

だい二次楊廷和內閣

だい二次楊廷和內閣成立せいりつ正德まさのりじゅうねんじゅういちがつじゅうにち(1517ねん11月28にち),結束けっそくよしみやすしさんねんがつじゅういちにち(1524ねん3がつ15にち)。あきらたけはじめ統治とうちてき最後さいごいち內閣,またこれ明世あきよむね統治とうちてきだいいち內閣,ゆかりざい家鄉かきょうもり滿まんてき前任ぜんにんくび楊廷たてまつ召返きょう組閣そかく[1][2]

だい二次楊廷和內閣

明朝みょうちょう內閣
建立こんりゅう1517ねん11月28にち (1517-11-28)
解散かいさん1524ねん3がつ15にち (1524-03-15)
组织与人物じんぶつ
国家こっか元首げんしゅあきらたけはじめ(1517-1521)
明世あきよむね(1521-1524)
政府せいふくび楊廷
ふく政府せいふくびはりもうか(1517-1521)
蔣冕(1521-1524)
政党せいとうまもるれい政治せいじ立場たちば
はん对党れい政治せいじ立場たちば
はん对党领袖ちょう
历史
前任ぜんにんはりもうか內閣
继任蔣冕內閣

正德しょうとくじゅうろくねんさんがつじゅうよんにち(1521ねん4がつ20日はつか),たけはじめざいひょうぼうくずれゆかり於沒有子ゆうこ嗣,內閣援引えんいんすめらぎあかりせんたて皇位こうい繼承けいしょうじんたけそう唯一ただいちてきおとうとおとうと蔚悼おうしゅあつし殤,あかりこうむねぜっ嗣;じょう推至明憲あきのりむね家系かけいこうそうりょうあに無名むめいすめらぎ長子ちょうし、悼恭太子たいししゅゆうそく逝,よんおとうときょうけんじおうしゅゆう逝於正德しょうとくじゅうろくねん(1519ねん),其長子ちょうしたけふところおうしゅあつし殤,次子じしため嗣位きょうおうしゅあつし。楊廷とげ按「あにおわりおとうとてき原則げんそくちょう召朱あつ熜出にん皇帝こうていしゅあつし熜於同年どうねんよんがつじゅうにち(5がつ27にち入京にゅうきょう即位そくいためむね[3][4]

よしみやすしさんねんがつじゅういちにち(1524ねん3がつ15にち),楊廷ざい大禮たいれいそうちゅうしつ,請辭じゅん[5][6]同日どうじつ由次よしじ蔣冕つぎにん內閣くび

內閣成員せいいん

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職位しょくい 姓名せいめい 備注
くび 楊廷
はりもうか はりもうか內閣ぞくにん正德しょうとくじゅうろくねん(1521ねん辭職じしょく[7]
蔣冕 はりもうか內閣ぞくにんほんため武英たけひで殿どのだい學士がくし正德しょうとくじゅうろくねんすすむます謹身殿どのだい學士がくし[8]
文淵ぶんえんかくだい學士がくし もうおさむ はりもうか內閣ぞくにん正德しょうとくじゅう六年晉升武英殿大學士[9]
文淵ぶんえんかくだい學士がくし 袁宗さつき 正德しょうとくじゅうろくねん入閣にゅうかく同年どうねん逝世[10]
だい學士がくし ひろし だい一次楊廷和內閣期間きかん離職りしょく[11]正德しょうとくじゅうろくねん復職ふくしょく[12]

內閣大事だいじ記錄きろく

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たけはじめ時期じき

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たけはじめ在位ざいい期間きかんはた大半たいはんこころ力投りきとうちゅう於南せいきた討,あずかしゅちょうつとむおさむ內政てき楊廷內閣ゆう牴觸ていしょく
1.正德しょうとくじゅうさんねん(1518ねんなながつたけはじめ邊疆へんきょうゆう警報けいほうためゆかりいのち總督そうとく軍務ぐんむ威武いぶ大將軍だいしょうぐんそうへいかんしゅひさしみつるりょうろくぜん征討せいとう,以將りょうこうあきらもとやすし備兵偕同北出きたいで塞外さいがいれい內閣そうなずらえ詔書しょうしょ。內閣大臣だいじんひとしみとめため不可ふかたけはじめとげさいざいひだりじゅんもん召集しょうしゅう百官ひゃっかんめんさとし楊廷蔣冕つげびょうはりもうかもうおさむのり哭泣しん諫,眾位大臣だいじん聽後まただい哭,たけはじめ仍然おさむかいなりいのちこれもうおさむまたいんやまいうえあさおもんみはりもうか堅持けんじしん數日すうじつたけはじめまた聽從ちょうじゅう九月くがつじゅうろくにち(10がつ20日はつか),たけはじめ以大將軍しょうぐんしゅひさし肅清しゅくせい邊境へんきょうあるきふうため鎮國こうはりもうかもうおさむ進言しんげん反對はんたいたけはじめほう批准ひじゅんずい遊歷ゆうれきせん大同だいどうちょくいたりのべ綏。はりもうか屢次じょう疏,ひとし省察せいさつ[13][14]
2.正德しょうとくじゅうよんねん(1519ねんろくがつやすしおうしゅ宸濠ざいみなみあきらおこりへい造反ぞうはん迅速じんそくおさむうらないみなみやすしきゅう,并计划出へいおさむ南京なんきん,进而北上ほくじょう入朝にゅうちょうかんこく[15][16]みなみ贛巡なでおうまもるひとし吉安きちやすぶんじょう募兵ぼへい勤王きんのう,於同年どうねんなながつじゅうろくにち(8がつ20日はつか殲滅せんめつ叛軍はんぐんなみせいとりこしゅ宸濠[17]たけはじめため肅清しゅくせいやすしおうあまりとうとげ決意けついおや視察しさつ長江ちょうこう一帶いったいれいはりもうか、蔣冕隨行ずいこう,楊廷もうおさむ留守るす京師けいし主持しゅうもち政務せいむ展開てんかいはたきん兩年りょうねんてきみなみじゅん同年どうねんじゅうがつたけはじめざい南京なんきん受朱宸濠くだこれ仍不ねがいかいあさ繼續けいぞく巡幸じゅんこうこう地區ちくりょう、蔣二人於是在行宮門前長跪上疏,請武むねはやはんかいあさたけはじめ在處ありかしゅ宸濠最終さいしゅう於次ねんじゅうがつじゅうにち(1521ねん1がつ18にちかえしきょうぬしせい[18][19][20]

むね時期じき

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むね即位そくいはつゆかり於自つくりけいいれまましだいすべなお不知ふち如何いか運用うんようすめらぎけん行事ぎょうじ朝政ちょうせいよし楊廷內閣處理しょり。楊廷改革かいかく吏治,节省なみ费,きよしじょ宦官かんがん,頗有けん树。しか而,せいそうざいみことたてまつしんなま父母ちちははてき禮節れいせつうえあずか楊廷意見いけんしょうひだりしるべ致楊廷和內閣おわりきわむしつぜい垮台:
1.正德しょうとくじゅうろくねんよんがつじゅうななにち(1521ねん6がつ1にち),せいむねれい群臣ぐんしん议定及生ちちしゅゆうてきおもまつ及封ごう。以杨廷和为首てきあさちゅう大臣だいじんみとめためむねすんでしかゆかりしょうむねにゅうつぎ大宗たいそう,就應該尊たてまつ正統せいとうよう以孝むね皇考こうこう宗法しゅうほうじょうてき父親ちちおや),きょうけんじおう改称かいしょうすめらぎ叔考兴献大王だいおう”,はは蔣氏为“すめらぎ叔母おば兴国だい”,祭祀さいし时对其亲せい父母ちちはは自称じしょう“侄皇帝こうてい”,另以えきおう次子つぎこたかし仁王におうしゅあつし为兴けんじおう嗣,おもたてまつ兴王まつむねみとめため此舉とうどう於背棄親せい父母ちちはは無法むほう接受せつじゅ朝臣あそんてき提議ていぎ雙方そうほうおちいにゅう僵局[21]なながつさんにち(8がつ4にち),しん進士しんしちょううえ大禮たいれい疏》,みとめためむね即位そくい繼承けいしょう皇統こうとう,而非繼承けいしょう皇嗣こうし建議けんぎむね仍以せいちちためかんがえざい北京ぺきんべつたてきょうけんじおうびょう[22]むね此奏あきら表示ひょうじ贊同さんどうしか而張璁人たんぜいなん以動眾,せいそうゆいゆう先行せんこう妥協だきょうただしざい奉迎ほうげい生母せいぼ蔣妃入京にゅうきょうてき禮儀れいぎじょうせいそう堅持けんじぎょう以迎皇太后こうたいごうこれれい,遭到楊廷反對はんたい表示ひょうじ願意がんいたてまつははかえしかいあんりく,楊廷ただとく讓步じょうほ同年どうねんじゅうがつせい宗尊むねかた父親ちちおやためきょうけんじみかど」,母親ははおやためきょうけんじきさき」,なみ以太きさきれいむかえ母親ははおやにゅうみや[23]
2.よしみやすし元年がんねん正月しょうがつせいやすしみや發生はっせい火災かさい,楊廷內閣藉此せんしょう宗尊むねかた父母ちちははためみかどきさき使つかいとく祖宗そそうなんようぎょうしつじょせいそうただとく暫稱こうむねため皇考こうこうこうむね皇后こうごうため聖母せいぼきょうけんじみかどきょうけんじきさきためほんせい父母ちちはは[24]つぎねんじゅういちがつ時任ときとう南京なんきん刑部おさかべ主事しゅじてきちょう璁與同僚どうりょうかつらがくじゅうひさげきゅう奏請そうせいむね正式せいしきたてまつきょうけんじみかどため皇考こうこう獲得かくとく南京なんきん兵部ひょうぶみぎさむらいろう席書せきがき吏部いん外郎ういろうかたけんじおっととうひと支持しじ[25]朝廷ちょうていとげ正式せいしき分化ぶんかため以孝むねため皇考こうこうてきまもるれい」(楊廷ためくびあずか以興けんじみかどため皇考こうこうてきれい」(ちょう璁為くび)。むねしたがえれいてき主張しゅちょうてい於隔ねんじゅうきょうけんじみかど地位ちい及尊ごう,楊廷堅持けんじげんただとく致仕ちし歸鄉ききょう

參考さんこう文獻ぶんけん

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  1. ^ あかり》(まき190):“もうか懼不かつにん,以廷和服わふく闋,屢請召之。廷和かえあさもうかとげゆずる而處其下。”
  2. ^ あかり》(まき16):“(正德しょうとくじゅうねんじゅういちがつちょう,召楊廷和ふく入閣にゅうかく。”
  3. ^ あかり》(まき190):“さんがつじゅうよんにちへいとらたに大用おおゆうちょうひさしいたりかくげんみかどくずし於豹ぼう。以皇太后こうたいごういのちうつり殯大內,且議しょとうだて。廷和舉《すめらぎあかりくんしめせ曰:「あにおわりおとうと及,だれのう瀆焉!きょうけんじおう長子ながこけん宗之むねゆきまごこうむねしたがえだいくだり皇帝こうてい從弟じゅうていじょとうだて。」はりもうか、蔣冕、もうおさむ鹹贊。乃令ちゅうかんにゅうけい皇太后こうたいごう,廷和とうこうひだりじゅん門下もんかころちゅうかんたてまつのこみことのり及太きさき懿旨,せんさとし群臣ぐんしん一如いちにょ廷和請,こと乃定。”
  4. ^ あかり》(まき17):“なつよんがつみずのとはつやすりくみずのといたり京師けいしとめ於郊がいれいかん,請如皇太子こうたいし即位そくいれいおう顧長袁宗さつき曰:「のこみことのり以我嗣皇帝位ていい皇子おうじ也。」だい學士がくし楊廷とう請如れいしんしょゆかりひがしやすもん入居にゅうきょぶんはな殿どの登極とうきょくまことかい皇太后こうたいごうおもむき羣臣じょう勸進かんじん,乃即郊外こうがい受箋。にちちゅうにゅう自大じだいあかりもんかんつげ宗廟そうびょう社稷しゃしょく,謁大ぎょう皇帝こうてい几筵,あさ皇太后こうたいごう出御しゅつぎょ奉天ほうてん殿でんそく皇帝こうてい。”
  5. ^ あかり》(まき190):“廷和さきるい疏乞きゅう,其後請益りょくまた以持こうけんじみかどごう,疏語不平ふへいさんねん正月しょうがつみかど聽之せめ以因とがめ大臣だいじんどうしかなおたまもの璽書,きゅう輿こし廩郵まもる如例,さるぜんかげにしきころもまもる指揮しき使いのちきゅうごと請留うけどめ廷和,みなほう。廷和はじめしょうこうむねためすめらぎはくこう」。”
  6. ^ あかり》(まき17):“(よしみやすしさんねんがつ丙午ひのえうま,楊廷致仕ちし。”
  7. ^ あかり》(まき109):“(正德しょうとくじゅうろくねんもうか五月ごがつ致仕ちしひだりばしらこく。”
  8. ^ あかり》(まき109):“(正德しょうとくじゅうろくねん)冕正がつしょうでん謹身殿どのだい學士がくし。”
  9. ^ あかり》(まき109):“(正德しょうとくじゅうろくねんきの正月しょうがつしょうたもてあらため戶部とべ尚書しょうしょけん武英たけひで殿どのだい學士がくし。”
  10. ^ あかり》(まき109):“(正德しょうとくじゅうろくねん)五月陞吏部左侍郎晉禮部尚書兼文淵閣大學士入。きゅうがつそつ。”
  11. ^ あかり》(まき109):“(正德しょうとくきゅうねんひろしがつ致仕ちし。”
  12. ^ あかり》(まき109):“(正德しょうとくじゅうろくねんひろしよんがつ召,じゅうがついればしらこくしょう。”
  13. ^ あかり》(まき190):“じゅうさんねんなながつみかどしたがえこうあきらげんはた徧游ふさがじょうたくげんせき警,いのち總督そうとく軍務ぐんむ威武いぶ大將軍だいしょうぐんそうへいかんしゅひさしすべろく往征,れい內閣くさ敕。かくしん不可ふかみかどふくしゅう百官左順門面諭。廷和、冕在つげもうかきの泣諫,眾亦泣,みかど不可ふかかいやめ而紀また引疾,もうかどく廷爭累日るいじつみかど竟不聽。踰月,みかど大將軍だいしょうぐんことぶき肅清しゅくせい邊境へんきょうれいふう鎮國こうもうかじょうげん:「おおやけ雖貴,人臣じんしんみみ陛下へいかうけたまわ祖宗そそうぎょうため天下でんかくん奈何いかん謬自貶損。すんでふうこくおおやけのりはた授以誥券,ついふうさんだい祖宗そそう在天ざいてんれいまた肯如陛下へいか貶損きょうてつけん必有めんぶん陛下へいかことぶきぶく疆,なにあま菲薄,こうむ此不祥之よしゆきめいすんで不正ふせいげん不順ふじゅんしんとうだん敢阿苟從,にち戮身ほろびわざわい也。」ほうみかどとげれきせん大同だいどうちょく抵延綏。もうかとう疏數じゅうじょう,悉置しょう。”
  14. ^ あかり》(まき16):“(正德しょうとくじゅうさんねんあきなながつおのれろくおうしゅういさおじょ廕陞しょうしゃまん餘人よにん丙午ひのえうまふく如宣はちがつおつとり,如大同だいどう九月くがつかのえへんあたませきみずのとうし,敕曰:「總督そうとく軍務ぐんむ威武いぶ大將軍だいしょうぐんそうへいかんしゅひさしおやすべろく肅清しゅくせい邊境へんきょうとくふう鎮國こうさいささえ祿ろくまいせんせき。吏部如敕奉行ぶぎょう。」きのえとらふうしゅあきら為平ためひらとりこはくしゅやすし為安ためやすはくふゆじゅうがつつちのえたつ渡河とかおのれ榆林。十一月じゅういちがつかのえ調しらべ西にし官廳かんちょう及四衞營兵赴宣、だいみずのえ綏德,さいわいそうへいかん戴欽だい十二月じゅうにがつつちのえとら渡河とかこういししゅう戊子ぼしつぎたいばら。”
  15. ^ あかり纪事本末ほんまつ·まきよんじゅうなな》:寻各かんにゅう谢,はい毕,左右さゆう带甲さむらい卫者すうひゃくにん。宸濠出立しゅったつ露台ろだい大言たいげん曰:“ふとしきさきゆうみつむねれいわがおこりへい入朝にゅうちょう监国,なんじとう知之ともゆき乎?”孙燧毅然きぜん曰:“みつむね安在あんざい?”ほり曰:“多言たげんわがいま南京なんきんなんじ驾否?”ひうち张目ちょく视濠,厉声曰:“てんにちしんあん有二ゆうじくんふとし法制ほうせいざい,谁则敢违?”ほりだいいかいのち缚燧,众骇愕,そう顾失しょく。按察副使ふくし许逵大呼たいこ曰:“孙都朝廷ちょうてい大臣だいじんなんじはん贼,敢擅杀耶?”顾燧语曰:“我欲がよくさき发,听,いませい于人,なおなんこと!”ほり并缚。讯逵且何ごと?逵曰:“おもんみゆうあか心耳しんじ,岂从なんじはん!”且缚且骂。贼捶おりひうちひだりひじ,并缚逵,かつこうじょうしんとう拽出めぐみみん门外杀之。逵且,骂曰:“今日きょう贼杀わが明日あしたあさ廷必杀贼!”
  16. ^ おう阳明全集ぜんしゅう·まきさんじゅうよんとし谱二》:(正德しょうとくじゅうよんねんろくがつつちのえとら,(宸濠)袭南やすし陈霖とう遁。おのれ,袭九こうへい备曹かみなりひろし颖、ゆび挥刘勋等遁,ぞく县闻风皆溃。ほりはつ谋欲みち南京なんきんとげはん北京ぺきんじょう胜克东下。
  17. ^ あかり》(まき16):“(正德しょうとくじゅうよんねんなながつきのえたつみかどしょう討宸ほりやすあたりはくしゅやすしため威武いぶふく將軍しょうぐんそちため先鋒せんぽう丙午ひのえうま,宸濠はんやすけい指揮しき楊銳、ちょうぶんにしき禦卻からし提督ていとくみなみ贛汀漳軍務ぐんむふくおうまもるじんそちへいふくみなみあきらちょうまもりじんはい宸濠於樵しゃとりこ。”
  18. ^ あかり》(まき16):“(正德しょうとくじゅうよんねんはちがつみずのとしゃはつ京師けいしちょう涿州,おうまもるひとしとしそういたり不發ふはつふゆじゅういちがつおつりょう於清江浦えのうらみずのえ冬至とうじ,受賀於太かんちょうようだい十二月じゅうにがつからしとりあげしゅうおつとり渡江とのえへいいぬいたり南京なんきん。”
  19. ^ あかり》(まき190):“やすしおう宸濠はんみかどみなみせいもうか、冕扈從こしょうざいみち聞賊ほろびれん疏請旋。抵揚しゅうみかど南京なんきんゆき郊禮。もうか、冕計此議ぎょうのりかい鑾益ごくひね不可ふか,疏三上みかみはじめとく請。みかど以宸ほり械將いたりもん處置しょちむべもうかとう請如せんむねせいだか故事こじ罪人ざいにん既得きとく即日そくじつはんまたいん郊期あらためぼく四方しほうわざわいことあたり警,乞還じょう輿こし。疏八きゅうじょうみかどことかえあきぎょうざいゆうぶつわかいのこくび墮帝まえいろあおまたすすむ婦人ふじんしつちゅうわかがかひとくびじょう人情にんじょうえきおどろきもうか、冕危げん諫,みかど頗心どう。而羣しょうなおよくしるべみかどゆう浙西,泛江、かんもうか、冕益懼,疏跪泣行宮門きゅうもんがいいたりとりみかどひと疏入,さとしおこり叩頭こうとうごと:「たてまつ俞旨,敢起也。」みかどとくやめもと不日ふじつかえきょう,乃叩頭こうとう。”
  20. ^ あかり》(まき16):“(正德しょうとくじゅうねん十二月じゅうにがつおのれうし,宸濠ふく誅。かぶとうまかえ京師けいしつげとし於郊びょう社稷しゃしょく。”
  21. ^ あかり纪事本末ほんまつ·まきじゅう》:“(正德しょうとくじゅうろくねんよんがつつちのえさるいのちれいかんしゅうたかしまつきょうけんじおう典禮てんれいれい尚書しょうしょもうきよし請於だい學士がくし楊廷,廷和かんていすえおうそう王事おうじ授之,曰:「此篇ためよりどころ異議いぎしゃそく奸諛とう誅。」ゆうまちたいおおやけ交車舉人ちょう璁者,ためれいさむらいろうおう瓚同鄉士ごうしまい瓚言:「みかどいれまましだいすべためじんあずかかんあいそうすぐるるい。」瓚然宣言せんげん於眾。廷和いい瓚獨異議いぎれいげんかんれつ瓚他しつため南京なんきんれいさむらいろう,而以侍讀じどく學士がくしひろししゅんだい尚書しょうしょもうきよしかい公卿くぎょうだい諫等かんろくじゅう餘人よにんじょう:「かんなりみかどりつていすえおうため嗣,而以すわえおうまごていすえうけたまわ其王まつ以為とくれい今上きんじょういれまましだいすべむべ以益王子おうじたかしじんぬし興國こうこく。其崇ごうそくかさねそうえい故事こじ,以孝むねためかんがえきょうけんじおう及妃ためすめらぎ叔父おじははまつりつげじょう箋稱めい署名しょめい。而令たかしひとししゅこうきょうけんじおう,叔益おう。」みかどらん曰:「父母ちちははうつりえき乎?其再議さいぎ!」於是廷和及蔣冕、もうおさむとうふくじょうげん:「ほど頤《濮議》,さいとくれい義之よしゆきただしすめらぎじょうさい而行ためまんせいほうきょうけんじまつことこん雖以たかしじんぬしにち仍以すめらぎ次子じし興國こうこく,而改たかしじんため親藩しんぱん天理てんり人情にんじょう,庶無りょうしつ。」尚書しょうしょきよしさむらいろうしゅんとうろくじゅう餘人よにんまたふくじょう如廷ごとみかど聽,仍命はくこう典禮てんれい,以求至當しとうやめ而廷ふくじょうげん:「しゅんついたかし瞽瞍,かんついたかしみなみとみくんすめらぎじょうほうくん,斯聖德せいとくるい。」きよしとうななじゅう餘人よにんまたうえ:「たけはじめ皇帝こうてい以神授之陛下へいかゆうちちどう焉。とく以昭きよしすんでどう不可ふかためこうびょう而上,しょう、曾、こう,以次しょうあによう異議いぎきょうけんじおう雖有罔極おんだん不可ふか以稱こうびょうしゃしょう也。」いんろくあかりみかどみことのりぶん以上いじょうとめちゅうほうふみしゅうせん進士しんしこごめ儒、ほう廷訓またかくそう如禮かんゆびみかどおわりしたがえ六月ろくがつ,敕修《たけはじめ實錄じつろく》,仍命れいかんしゅうついたかし大禮たいれい。”
  22. ^ あかり纪事本末ほんまつ·まきじゅう》:“(正德しょうとくじゅうろくねんなながつかんせい進士しんしちょう璁上《大禮たいれい疏》,曰:「朝議ちょうぎいいすめらぎじょうにゅう大宗たいそうむべたたえこうむね皇帝こうていため皇考こうこう改稱かいしょうきょうけんじおうためすめらぎ叔父おじ王妃おうひためすめらぎ叔母おばしゃかかわかんていすえおうそう濮王故事こじみみおっとかんあいそうえいみなあずかたてため皇嗣こうし,而養於宮ちゅうあかりため人後じんごしゃ也。司馬しば光之みつゆきろんほどこせ於彼いちなおこんたけはじめ皇帝こうていやめ嗣孝むねじゅうゆうろくねん於崩殂,而廷臣ていしん遵祖くんたてまつのこみことのりむかえすめらぎじょういれまましだいみつるのこみことのりちょく曰:『きょうけんじおう長子ながこりんじょとうだて。』はつ嘗明ちょためこうむねあずかたてため嗣,やしなえ宮中きゅうちゅうしゃ,較然不同ふどうおっときょうけんじおう往矣,しょう以皇叔父おじ鬼神きじんかた不能ふのううたぐ也。こん聖母せいぼむかえ也,しょうすめらぎ叔母おばのりとう君臣くんしんれいおそれしんはは。《れい》:『長子ちょうしとくためじん。』きょうきょうけんじおうおもんみなますめらぎじょういちにん天下でんか而為じんおそれぜっ父母ちちははすめらぎじょうためまましみつるたけはじめ,而得尊崇そんすう其親そくいい嗣孝むね,以自ぜっ其親そく不可ふかある以大すべ不可ふかぜっためせつしゃのりはたつぎこうむね乎?つぎたけはじめ乎?おっとすべあずか不同ふどう必父りつ也。漢文かんぶんみかどうけたまわめぐみみかどこれのりおとうとつぎせんみかどうけたまわあきらみかどこれのり以兄まごまましわか強奪ごうだつ父子ふしおやたてかれ父子ふしこれごうしかこういいつぎすべのりふるとうゆうしょうだかはくすめらぎはくこうしゃみなとくいいすべ矣。しん竊謂今日きょうれいむべべつためきょうけんじ王立おうりつびょう京師けいし使つかいとくりゅうたかしおや之孝ゆきたか,且使はは以子とうとみことあずかちちどうのりきょうけんじおうしつ其為ちち聖母せいぼしつ其為はは矣。」”
  23. ^ あかり》(まき17):“(正德しょうとくじゅうろくねんふゆじゅうがつおのれついたちつい尊父そんぷきょうけんじおうためきょうけんじみかど祖母そぼけんそうたか邵氏ため皇太后こうたいごうははためきょうけんじきさきみずのえうまきょうけんじきさきいたりやすりく。”
  24. ^ あかり纪事本末ほんまつ·まきじゅう》:“そうよしみやすしもと年春としはる正月しょうがつ,郊祀はじめ畢,せいやすしみや小房おうさわざわい,楊廷、蔣冕、もうおさむひろしじょうげん:「おこりかぜれつ,此殆天意てんいきょうさこきよしやすし殿どのあにきょうけんじみかどきさきしょう祖宗そそう神靈しんれいよう有未ゆみえつ乎?」きゅうごとちゅう鄧繼曾上ごと:「ぎょうぬしれい今日きょうれいめい紊言ぎゃく陰極いんきょく變災へんさいしん雖愚,ためはいれいおう。」主事しゅじ高尚こうしょうけんていたすくしょうつぎじょうげん:「うつ攸之わざわい於他みや,而於せいやすしこれ不在ふざい他日たじつ,而在郊祀へんあにきょせいわざわいゆうよし召。」みかどらんこころどう,乃從廷和とうしょうこうむねため皇考こうこう,慈壽皇太后こうたいごうため聖母せいぼきょうけんじみかどきさき為本ためもとせい父母ちちはは,而「すめらぎふく矣。”
  25. ^ あかり纪事本末ほんまつ·まきじゅう》:“(よしみやすしねんじゅういちがつ南京なんきん刑部おさかべ主事しゅじかつらがくあずかちょう璁討ろんれい,其議符合ふごういたりじょうげん大禮たいれい,并獻席書せきがきほうけんじおっとそう》,疏曰:「しん聞古しゃ帝王ていおうごとちちこう故事こじ天明てんめいごとははこう故事こじ察。未聞みもんはい父子ふしりん,而能事のうじ天地てんちしゅひゃくかみしゃ也。こんれいかん以皇じょうあずかため人後じんご,而強末世まっせ故事こじめつたけ宗之むねゆきすべだつきょうけんじむねおっとこうそうゆうたけはじめため矣,ふくためりつ乎?たけはじめ以神授皇じょう矣,つぎ其統乎?こん舉朝しん未聞みもんゆうしょぶんまわしおさめしゃなに也?ぶたちょう建議けんぎ論者ろんしゃゆびためすすむゆえたちれい敢遽げん其非。きりねんすめらぎじょうざい興國こうこくふとしきさきこれがわ,慨興けんじみかどどるまつさんねん矣。而臣子しんし乃肆しか以為乎?しんねがいすめらぎうえそく發明はつめいみことのり,循名こうしょうこうむね曰皇はくかんがえきょうけんじみかど皇考こうこう,而別りつびょう於大おだい內。興國こうこくふとしきさき聖母せいぼたけはじめ曰皇けいのり天下でんかため父子ふし君臣くんしんしゃじょういたり朝議ちょうぎ謬,ゆう不足ふそくべんしゃかれしょそう濮王みみしん按:そうしん范純じんつげえいむね曰:『陛下へいかさく受仁むねみことのり親許おやもとためじん宗子むねこいたり於封爵,悉用皇子おうじ故事こじあずかにゅうつぎおもことたい不同ふどう。』のりそうしんこれろんまたゆうべつこんすめらぎじょうたてまつくんいれまましだいすべはて曾親うけたまわこうむねみことのり而為之子ゆきこ乎?すなわちすめらぎじょうためじん,而為にゅうつぎしゅあかり矣。しかのりこうきょうけんじみかどはは興國こうこくふとしきさき以質鬼神きじんひゃくせいしゃ也。しんひさほっじょう請,乃者ふくとく席書せきがきほうけんじおっとしん疏,以為すめらぎじょう必為惕然更改こうかい有無うむまち於臣げんしゃいたりこんたてまつ宸斷,あにすめらぎじょう偶未しょうらん耶?そもそも二臣將上而中止耶?しん敢愛さいさる其說,并錄二臣疏以聞。」”