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楊廷和 - 维基百科,自由的百科全书

楊廷

明代あきよない阁首辅

楊廷(1459ねん10がつ15にち—1529ねん7がつ25にち),かいおっとごういしとき四川しせん新都しんとけんいまなり都市とししん都区とくうまますいおりむらにんせき江西えにしいおりりょう[1][2][3]明朝みんちょう中期ちゅうき重臣じゅうしんうち阁首輔

楊廷
《古聖賢像傳略》之《楊文忠像》
聖賢せいけんぞうでんりゃく《楊文ちゅうぞう
大明だいめいしょうけん太子たいしふとし
吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくし
せきぬき四川承宣布政使司成都せいと新都しんとけん
ぞくかんぞく
ごうかいおっとごうせきとき
諡號しごう文忠ふみただ
出生しゅっしょうてんじゅんさんねん(1459ねんきゅうがつじゅうきゅうにち
四川承宣布政使司成都せいと新都しんとけん
逝世よしみやすしはちねん(1529ねん
四川承宣布政使司成都せいと新都しんとけん
配偶はいぐう(聘)
おやぞく曾祖そうそ)楊壽さん,()楊玟
ちち楊春,(ははよう
おとうと)楊廷ひらた 楊廷 楊廷せん
楊慎楊惇
まご楊有ひとし
出身しゅっしん
  • なりじゅう四年戊戌科同進士出身
著作ちょさく
  • 明憲あきのりそう實錄じつろく》、《大明だいめいかいてん》、《あきらたけはじめ實錄じつろく》(おさむ
  • くさ餘錄よろく》、《楊廷そう》、《いしときしゅう》、《楊文ちゅうこうさんろく

楊廷早年そうねんとう進士しんしいれ翰林かんりん參與さんよおさむせん明憲あきのりそう實錄じつろく》、《大明だいめいかいてん》。正德まさのり年間ねんかんしん文淵ぶんえんかくだい學士がくしいれ內閣參與さんよつとむあきらたけはじめ後期こうき擔任たんにん內閣くび輔,しょう太子たいしふとしはなぶた殿どのだい學士がくしあずかりゅうこうあきらひとし宦官かんがん寵臣ちょうしん勢力せいりょく對抗たいこう,并逐きよしじょたけはじめ時期じきせいへいたけはじめくずしこう嗣,楊廷あずか內閣大臣だいじん宗法しゅうほうすめらぎあかりくんたてきょうけんじおう世子せいししゅあつしつぎため明世あきよむね,并出だいりょう一系列政弊改革方略。よしみやすし初年しょねん,楊廷あずか其子楊慎ざい大禮たいれい議事ぎじけんなかいん極力きょくりょく反對はんたい明世あきよむねついみことせいちちせり致仕ちし歸鄉ききょう

生平おいだいら

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にゅうつかまつ翰林かんりん

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楊廷和之かずゆきちちため楊春かんいたりみずうみひろひさげがく僉事。楊廷じゅうさい參加さんかさとためし就中なかんづくしき舉人なりじゅうよんねん(1478ねん),じゅう九歲的他就先於其父,こうちゅうつちのえいぬ三甲さんこう進士しんしあらため庶吉[4]ずい請假歸鄉ききょう結婚けっこんかえあさきさき翰林院かんりんいん檢討けんとう。楊廷ちょうとく英俊えいしゅん瀟灑,性格せいかく沉靜穩重,ぜん觀察かんさつ思考しこうしゅ文章ぶんしょう簡潔かんけつ流暢りゅうちょう頗有あきらほうかえ喜好きよし考察こうさつ研究けんきゅう典故てんこ民情みんじょうあたりぼう事務じむ以及一切いっさい法家ほうか文章ぶんしょう,其志向しこう高遠こうえんこころふところなりためおさむ重臣じゅうしんてき願望がんぼう[5][6]

弘治こうじねん(1489ねん),楊廷和進わしん翰林院かんりんいんおさむせん編纂へんさん明憲あきのりそう實錄じつろく》,しょなりきさき擢為ひだりはるぼうひだりなかまことさむらい太子たいししゅあつしあきら講讀こうどくこれ大明だいめいかいてん修成しゅうせい破格はかくひさげますためひだりはるぼうだい學士がくし擔任たんにんにちこうかん[7][8]

進入しんにゅう內閣

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正德まさのりねん(1507ねん),ためみかどてき楊廷和由かずよし詹事進入しんにゅうひがしかく專門せんもんてのひらかんくさなずらえ誥命、敇書。いんざい御前ごぜんこう經學けいがくかい歷史れきし斥責諂媚とくちょうてき寵臣ちょうしん,而忤ぎゃく宦官かんがんりゅうりゅう瑾私なずらえみことのり,貶其ため南京なんきん吏部ひだりさむらいろう同年どうねんがつますにん南京なんきん戶部とべ尚書しょうしょ[9]またりょうさん個月かげつざいたけはじめといりゅう瑾關於楊廷和こうきさき,楊廷召回朝廷ちょうていつつみます兼任けんにん文淵ぶんえんかくだい學士がくし參與さんよつとむ[10]正德しょうとくさんねんためしょうけん太子たいしふとしよしりゅう瑾摘ろく楊廷あずかだい學士がくし東陽とうようとうひと参与さんよ编写てき大明だいめいかいてんちゅうてきいち些小錯,だつりょう们的きゅうかん俸。ひさよし修成しゅうせいあきらこうむね實錄じつろくてき功勞こうろうたけはじめ仍把りょうきゅうかん俸還きゅうつぎねん楊廷ひかり祿ろく大夫たいふはしらこくます擔任たんにん吏部尚書しょうしょ武英たけひで殿どのだい學士がくし[11]

當時とうじりゅう橫行おうこう霸道,而且大臣だいじんこげかおるちょうまたあずか在朝ざいちょう內外勾結おちいがい排除はいじょおのれ,并打あつ百官ひゃっかん。楊廷あずか東陽とうよう雖在其中盡力じんりょく周旋しゅうせん,卻也些許抵制すくい而已。やすおうしゅ寘鐇誅殺ちゅうさつりゅう瑾之めいおこりへい謀反ぼうほん。楊廷とう起草きそう赦免しゃめん詔書しょうしょ請求せいきゅうひさげ拔時たたえあるやめ叛逆はんぎゃくてきあたりはたかたき,以離あいだ叛軍はんぐんかたき鉞果しかしゅ寘鐇逮捕たいほ并呈于朝廷ちょうていよし叛軍はんぐん以誅りゅう瑾起へい,楊廷とげ此機,あずかつねとしあずか刘瑾ごうてき宦官かんがんちょうひさし合作がっさく并揭はつりゅう瑾罪じょうりゅう瑾伏誅。楊廷いんこうすすむますためしょうでん太子たいしふとしでん謹身殿どのだい學士がくし朝廷ちょうてい并錄其子にん中書ちゅうしょ舍人とねり[12][13]

ひさながれりゅうろくりゅうななひとし彥名おこりごと楊一きよし舉薦うまちゅうすずぜん征討せいとう。楊廷和則かずのりしょう其只文人ぶんじん不能ふのうしょうにん來馬らいばちゅうすず果然かぜん能平のっぺい寇。楊廷とげ請求せいきゅう逮捕たいほちゅうすず入獄にゅうごくあらためりくかん代替だいたい,并斬殺ざんさつばららい接受せつじゅ賄賂わいろたてようりゅう寇的まいりしょうくわだましたがえ而軍だい[14]これたけはじめまた聽從ちょうじゅう學士がくしちん進言しんげん調しらべかく鎮邊ぐん征討せいとう河南かなんちょう鐩等みんへん勢力せいりょく,并舉こも彭澤ためそうせい,此後かくみち叛軍はんぐん悉數平定へいてい論功ろんこう朝廷ちょうていろくよう楊廷かず一子かずこためにしきころもまもるせん,楊廷和則かずのり堅持けんじ推辭;たけはじめとげとく其任しょう太子たいしふとしはなぶた殿どのだい學士がくし[15]

擔任たんにんくび

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東陽とうよう致仕ちし歸鄉ききょうきさき,楊廷つぎにんため內閣くび當時とうじいぬい清宮きよみや發生はっせい火災かさい,楊廷請武むね避開大殿おおいどの,并下つみおのれみことのり請求せいきゅう直言ちょくげんずいあずか同僚どうりょうじょう疏,すすむたけはじめはやじょう朝晚あさばんやめあさ,躬身おや參加さんかきゅうびょう祭祀さいし,并尊崇そんすうりょうみや皇后こうごう勤學きんがくけい講習こうしゅうずいまためん奏請そうせいこうひらきげんあきらかい民情みんじょうかえしへいかわじょ宮中きゅうちゅうあつまりやめじょすめらぎてん、趕走西にしそうげんしょう土木どぼく工程こうていあずかみやつことういちどもじゅうじょうひとしきりちゅう時弊じへいしか而,たけはじめ卻未省察せいさつひさいん父親ちちおや,楊廷請求せいきゅう奔喪,たけはじめ批准ひじゅん。楊廷とげさん請求せいきゅうおわりとくたけはじめ同意どうい,并派宦官かんがん護送ごそうぼつ過多かたひさしまたざいもり起用きよう,楊廷れんじょうさん疏推やめ最終さいしゅうとく許可きょか。而內かく大臣だいじんとく以守滿まんてきしたがえ楊廷ためはじめ[16]服喪ふくもごう結束けっそく,楊廷就被たけはじめ召回。當時とうじたけはじめざいせん狩獵しゅりょう使者ししゃたまものきゅう楊廷ひつじしゅぎんりょう。楊廷却借じょう疏谢おん际,请求たけはじめかい帝都ていと,却没ゆういたこたえ复。楊廷于是あずかだい學士がくし蔣冕はせ趕到きょいさおせきけい劃親ふさが請武むねかい朝廷ちょうてい。而武むね命令めいれいたに大用おおゆうもりせき,楊廷無法むほうふさがただのうかえしかいつばめきょうこれきさきたけはじめ命令めいれいかいきょうにち群臣ぐんしんかく做旗のぼりいたとばりぜん迎接げいせつ,楊廷和則かずのりしょう其為天子てんしみこととうと,并執反對はんたいたけはじめとげただこうさくやめ[17][18]

正德しょうとくじゅうよんねん(1519ねん),しょう揭發やすしおうしゅ宸濠意圖いと謀反ぼうほん,而せんやすしとうひと卻還つつみひさしやすしおう,并詆毀蕭淮是離間りかんすめらぎおや骨肉こつにく。楊廷和則かずのり請求せいきゅう按照せんそうさとしれいちょうおうしゅだかひうちてき事例じれい派遣はけん大臣だいじんたいちょ敕書せんさとしおさむかいやすしおうてき護衛ごえい屯田とんでん[19]たけはじめ於是いのち宦官かんがん賴義よりちか駙馬じょうちぇはじめひとしぜん往,しゅ宸濠卻在們尚到達とうたつまえやめけいおこりへい謀反ぼうほんりょうたけはじめそうたいへいおやせい,遭到楊廷とう人的じんてき極力きょくりょくすすむ阻。たけはじめめいしゅひさしまた自稱じしょう總督そうとく軍務ぐんむ威武いぶ大將軍だいしょうぐんそうへいかんこうぐんとくふとし、鎮國こうしゅひさし”,みつるりょうかくきょう將士しょうしみなみせいいのちやすあたりはくもとやすしため威武いぶふく將軍しょうぐんひだりとくりゅうあきら為平ためひら賊將ぞくしょうぐん前驅ぜんく鎮守ちんじゅじゅんなでめぐ按均聽節制せっせい。并命楊廷あずかだい學士がくしもうおさむ留守るすじゅんてん[20]當時とうじいぬいきよし宫、ひつじさるやすしみややめじゅうけん朝廷ちょうてい推恩ろく楊廷一子为錦衣衞副千戶,さいつぎこれため內閣くび輔的おうとう起草きそう大將軍だいしょうぐんせいみなみさとしれい卻辭しゃ肯,於是遭致たけはじめ怨恨えんこんまた恰逢推舉南京なんきん吏部尚書しょうしょりゅうはる處理しょりひがしかく誥命敕書,たけはじめ以楊廷和へん袒同きょう,而加以嚴厲斥せめ。楊廷とげじょう謝罪しゃざい請求せいきゅう罷免ひめん歸鄉ききょう允許いんきょ[21]しょうはりもうかとう請求せいきゅうあずか一同いちどうやめかんまた允許いんきょ。楊廷とげしょうびょう入朝にゅうちょうたけはじめ於是でんむね軍隊ぐんたい出發しゅっぱつみなみせい,儘管當時とうじおう陽明ようめいやめけいおこりへい勤王きんのう平定へいていりょう宸濠みだれ[22]

たけはじめみなみめぐそうきょう兩年りょうねん。楊廷留守るすあさちゅうせめいんため做事鎮靜ちんせい穩重,とげ朝廷ちょうてい內外推重すいちょうまことふく前後ぜんご請求せいきゅうたけはじめかいてきそう疏共有數ゆうすうじゅうふうひとしぼつゆういた省察せいさつたけはじめしたがえ南方なんぽうかえしかいきさきちゅう扎于とおりしゅう。楊廷とうじんれつ舉古代案だいあんれい,請武むねかいだい內御殿どの舉行受俘儀式ぎしきしかはた叛逆はんぎゃくとりこてきしゅ宸濠とうじん正法しょうぼうただしたけはじめ此時やめよし落水おちみずしみやまし而深かん不適ふてき於是召楊廷和とういたとおりしゅう接受せつじゅ要務ようむ,并于ぎょうざいぐうしょはたしゅ宸濠とう誅殺ちゅうさつ掉,さいかえしかい京師けいし[23]

せんりつすめらぎ嗣與總攬そうらん朝政ちょうせい

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正德しょうとくじゅうねん(1520ねん正月しょうがつたけはじめざいくだり郊祀以まつりたかしいん吐血とけつ發病はつびょう而急せわし乘車じょうしゃ歸朝きちょう次月しづきびょうじょうさら嚴重げんじゅうたけはじめ當時とうじつかさあやふとしかんあきらひとしいた內閣たたえくにやめつき全力ぜんりょくりょう,請捐萬金招募民間醫生。楊廷こころ其意(あさ外立はしだてもうか),卻不正面しょうめん回答かいとう,而暗ちゅう倫理りんり次序じじょせつ諷喻,あきらとう聽後唯唯ただただこたえおう三月さんがつじゅうよんにちたに大用おおゆうちょうひさし抵達內閣,たたえたけはじめざいひょうぼう根據こんきょ皇太后こうたいごうめいじうつり殯到大殿おおいどの,并討ろんゆかりだれ繼承けいしょう皇位こうい[24]。楊廷舉出《すめらぎあかりくんだししめせ並稱へいしょう

はりもうか蔣冕もうおさむとうひと贊同さんどう,於是命令めいれい宦官かんがんにゅう內宮けいそう皇太后こうたいごう,楊廷とうじんざいひだりじゅんもん下等かとうこうひさ宦官かんがんたてまつのこみことのりあずか皇太后こうたいごう懿旨,せんさとし群臣ぐんしん全部ぜんぶ按照楊廷請求せいきゅう辦理,皇位こういこととげじょう[26]

ずい,楊廷按遺みことのり命令めいれいふとかんちょうひさしたけじょうこうかくやすあたりはくもとやすし尚書しょうしょおうけんせんかく營兵,ふん佈在すめらぎじょうよんもんきょうじょう九門以及南北要害等地,并命ひがししょうにしきころもまもるりつ部署ぶしょ保衛やすえ內宮あずか巡視じゅんし[27]。并傳たち遺命いめいやめ威武いぶ營團えいだんねりかくぐんかくあたりぼう部隊ぶたい入京にゅうきょうさむらいまもるてき發給はっきゅうじゅうしょう解散かいさんかえさと,并革じょすめらぎてん軍門ぐんもん辦事かんこう全部ぜんぶかえしかいかくまもるしょ哈密魯番ふつろうかくあさ使者ししゃひとしきゅう賞賜しょうしかえし回國かいこくひょうぼうばんそう少林寺しょうりんじそうきょうぼう樂人がくじん南京なんきんかいうません各種かくしゅ規定きていれいてき全部ぜんぶやめじょかえしまた以遺みことのり釋放しゃくほう南京なんきんせき押的しゅうはんかえ各地かくちしんけんじてき女子じょし停止ていし京師けいし不急ふきゅう需的土木どぼく工程こうてい,并收かいせん行宮あんぐうてき金銀きんぎんおく內庫。這些命令めいれい讨好りょう朝廷ちょうてい內外官員かんいん[28]

此時,ひらとりこはくこうあきら受明たけ宗重むねしげたく,执掌きょうじょうじゅうへい。於是楊廷はかりごと劃剪じょあかりたけはじめ羽翼うよく,以皇太后こうたいごうてき名義めいぎ诱捕こうあきら,并與同僚どうりょう蔣冕、もう紀和きわつかさあやふとしかんぬるさちよんにんごうはかりごとちょうひさしさがせ得知とくち此事きさき,也私秘密ひみつ準備じゅんびつかさあやあきら以前いぜん就與こうあきらゆうれん繫。楊廷みとめためあきらためじん軟弱なんじゃく脅迫きょうはくいん此借だいうつしだいぎょうめい旌的機會きかいたいあきらあつしさち以及其他宦官かんがんちょうするどちんいわおひとし詳細しょうさいじゅつせつこうあきら謀反むほんあとぞう,并用使じん吃驚びっくりてき語氣ごき嚇唬。あきらこころどうただゆうはりするどごく力說りきせつこうあきら無罪むざい,遭到楊廷當面とうめん斥責。ざい蔣冕、ちんいわおてき幫助決定けっていあつしさちあきらとげにゅうみや告知こくち皇太后こうたいごう,并最终逮捕たいほこうあきらこうあきら誅后,杨廷夺取内外ないがいだい权,朝廷ちょうてい上下じょうげ內外惊惧しょううたぐ[29]

むかいたてむねあずか大禮たいれい

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たけはじめくずし,楊廷起草きそうたけはじめのこみことのりしょう:“皇考こうこう孝康たかやすけい皇帝こうていおやおとうときょうけんじおう次子つぎこ聰明そうめい仁孝にんこうとく夙成,りんじょとうだてやめ遵奉じゅんぽうくんけい终弟及之ぶんつげ宗廟そうびょう,請於慈壽皇太后こうたいごうあずか內外文武ぶんぶ群臣ぐんしんあいはかりごとどう即日そくじつかんむかえらいきょう,嗣皇帝位ていい。”而令れいかんじょう禮儀れいぎじょう,請奉しゅあつし熜進入京にゅうきょう,并由ひがしやすもん入居にゅうきょぶんはな殿どの世子せいししゅあつし熜读かん特別とくべつ留意りゅういりょう「嗣皇帝位ていいよん,对其みぎ长史袁宗皋说:“のこみことのり以吾嗣皇帝位ていいため皇子おうじ也。”于是一行人在抵達京師后,とまざいしろがい。楊廷堅持けんじ請求せいきゅう按照れいしょそう儀禮ぎれい,而朱あつ熜不聽。さいきさきよし皇太后こうたいごうれい群臣ぐんしんじょう笺劝进,しゅあつし熜在郊外こうがい受笺,とうてん中午なかうま,从大明だいめい门入,ずいそくざい奉天ほうてん殿でん即位そくい詔書しょうしょ草稿そうこうしょう:“たてまつすめらぎけいのこみことのりいれたてまつそう祧”,しゅあつし思考しこう良久よしひさきさき最終さいしゅう认可。楊廷選出せんしゅつかんあさていすえおう汉哀みかど)、宋朝そうちょう濮王そうえいむねためれい,授意于毛きよしみとめためむねすんでしかゆかりしょうむねにゅうつぎ大宗たいそう,就應該尊たてまつ正統せいとうしょう:“這足以為よりどころおうみことこうむねため皇考こうこうたたえあずかけんじおうためすめらぎ叔考興國こうこく大王だいおうははためすめらぎ叔母おば興國こうこくたい自稱じしょう皇帝こうていめい,另立えきおう次子つぎこたかし仁王におうためきょうおう奉祀ほうしきょうけんじおう。如果たい此有不同ふどう議論ぎろんしゃ就是奸邪これにんおうとうしょ。”なながつはつさんしん進士しんし张璁さむらいろうおううえ疏支持世もちよそう,认为しゅあつし即位そくい继承すめらぎ统,而非继承皇嗣こうし。楊廷擔心其擾亂じょうらん議事ぎじあらためいのち其赴南京なんきんにんしょく[30] ざい明朝みんちょう內閣與六よろく大臣だいじんてき聯合れんごうほどこせあつしんのぼりはじめてきそうしゅあつし熜不とくしょうこうむねため皇考こうこう,慈壽皇太后こうたいごうため聖母せいぼきょうけんじみかどきさき為本ためもとせい父母ちちははしょう皇考こうこう[31]

楊廷總理そうり朝政ちょうせいきんよんじゅうにちずいむかえたてまつむね有功ゆうこう,仍居くび要職ようしょくのう夠仰よりゆき權勢けんせいかわじょ大量たいりょう正德しょうとく年間ねんかんてき弊政へいせい。如正とくじゅうろくねん在京ざいきょう官軍かんぐんはたこう勇士ゆうしぐんたくみじん總數そうすうどもさんじゅうななまんせんななひゃくあまりいんめいさいささえまいさんひゃくきゅうじゅうはちまんはちせんはちひゃくせきじょ海運かいうんさんじゅうまんせきこげうん不能ふのう負擔ふたん剩餘じょうよかず。楊廷促嘉やすしみかどみことのりかわにしきころもとうまもる(如外よんいえりょう官廳かんちょう[32])、內監きょくひとしてきはたこうこうやく總數そうすうじゅうよんまんはちせんななひゃくにん減免げんめんこげかていちひゃくじゅうさんまんせんいしくにけいこまひたすら為之ためゆき紓緩。 いち些宦かん義子ぎしつてます、乞升とう一切靠武宗恩寵而得官的人大半被罷黜[33]朝廷ちょうてい內外稱讚しょうさんしん天子てんし聖人せいじんなみ且讚あげ楊廷功績こうせきしか而,しつ官職かんしょくてき眾人卻對楊廷かたき恨刻こつ[34]入朝にゅうちょう有人ゆうじん帶刀たいとうざいてき轎子つくり窺視。事情じじょうじょうむくいきさきむねしもみことのりきょう營一百士兵負責護衛楊廷和出入。而世むね臨御りんぎょまえこうせき,楊廷せめけいむしろ事務じむこれおさむせんたけはじめ實錄じつろく》,楊廷またたかしにん總裁そうさいかんざい此前やめ特進とくしん一品いっぴんかんやめ滿まんきゅうねんけんりょうだい學士がくし俸祿,たまもの敕書旌諭,并加ふうひだりはしらこくそうつぎ召見たいこたえ慰勞いろう備至。楊廷さらよくゆうしょ作為さくい,引薦任用にんよう正直しょうじきこれにん,并安置あんちあい適職てきしょく[35]

當時とうじきゅうごとちゅうとう紛紛ふんぷん彈劾だんがい兵部ひょうぶ尚書しょうしょおうむさぼ罪狀ざいじょう後者こうしゃ逮入みことのりごくおう瓊於じょう告發こくはつ楊廷以自かいほう按奸とうばんおう死刑しけいおう瓊極りょく自辯じべんとく減刑げんけい戍邊,時人じじん懷疑かいぎほう秉承楊廷和之かずゆき排除はいじょおのれ[36]また恰逢いしれい尚書しょうしょてのひらかん詹事きさきあらためにん吏部尚書しょうしょ,楊廷また上奏じょうそうあらためにんてのひらかん詹事。时人稱にんしょう楊廷此舉ふとし專權せんけん,而楊そくしょうむね雖年かるただし性情せいじょうさととし自信じしん輔佐ほさむね而使天下でんか太平たいへい所以ゆえんごとぐうごとひとしゆうしょ議論ぎろんしん諫。せんやすしこうあきら雖被ふく誅,而ちょうするどちょうただし于經もとやすしとうあんひさごくけつ。楊廷とう上奏じょうそうしょう:“誅殺ちゅうさつ這些じんのり國法こくほう不正ふせい公道こうどう不明ふめいきゅうびょう祖先そせん英靈えいれい不安ふあん萬民ばんみん百姓ひゃくしょう不能ふのう心服しんぷくわざわいらん危險きけんぼつゆうどめいき太平たいへい就不かい實現じつげん。”むね於是沒收ぼっしゅう這些じん財產ざいさん。楊廷ずいまたうえ疏請そうたかしかしこ上天じょうてんつげ誡,遵循祖先そせん遺訓いくん,推崇こうじゅんみち愛惜あいせき身體しんたい,致力公道こうどう勤勉きんべん學習がくしゅう慎重しんちょう法令ほうれい賞罰しょうばつ分明ふんみょうせっおさめ諫諍,親近しんきんけんぜん節儉せっけんひらけささえ。其話ひとしきりちゅう時弊じへいひとしとく以批ほう[37]。雖然當時とうじゆうげんかんふみどう曹嘉彈劾だんがい恣意しい人臣じんしんれいただしむね仍以貶史曹兩じん安定あんてい楊廷ずい論定ろんていさくこうしんふう楊廷、蔣冕、もうおさむため伯爵はくしゃくねん祿ろくいちせんせき,楊廷堅持けんじ推辭。きさきあらためためいのち一子嗣錦衣衞指揮使,さいつぎ推辭。むねみとめため賞賜しょうしふとかるよんひんきょうしょく世襲せしゅう,楊廷さいつぎ推辭。せいよんねん任期にんきこう滿まんちょうはいためふとしでんだいよん推辭。むねとげたまもの敕書表彰ひょうしょうざいれいたまものえんきゅうきょうひとしさんえん[38]

致仕ちし

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さんねんこれしゅあつし熜的地位ちい穩固,并再试图为生父母ちちははふうごうすめらぎ,试图夺回杨廷しょおかせうらないてきすめらぎ权。這時やめ貶至南京なんきん刑部おさかべ主事しゅじてき张璁あずか同僚どうりょうかつらがくとう揣測みかど便びん紛紛ふんぷん上書うわがきじゅうひさげきゅうこと兩人りょうにんとく以宣みことのり入京にゅうきょうゆだねため翰林かんりん學士がくしせんせめ禮儀れいぎ事項じこう,议礼そう再起さいき。楊廷於是連續れんぞくじょう疏以退为进乞求退すさきゅう,并以こうけんじみかどごう而語ぞう不平ふへいよしみやすしさんねんせいそう批准ひじゅんりょうてき辭職じしょく。并指せめ其因言語げんご不和ふわとがめ皇帝こうていごう大臣だいじんみちしか而世むね仍賜璽書,按事れいじょう驛傳えきでんよしせんじん護送ごそうかいきょう,并重さるりょう此前所說しょせつてきふうかげてきいちにんにしきころもまもる指揮しきてき命令めいれいきゅうごとちゅう紛紛ふんぷん請求せいきゅうとめよう楊廷せいそうひとしこたえくつがえ。楊廷はなれひらき朝廷ちょうていきさきあさ中有ちゅうう大臣だいじん開始かいし討論とうろんしょうこうむねためすめらぎはくこう。於是,楊廷かず之子ゆきこ翰林かんりん編修へんしゅう楊慎りつ群臣ぐんしんはいふくみや闕前哭著すすむ諫,楊慎つえ貶雲みなみひさおうくにつげ楊廷及其次子じし兵部ひょうぶ主事しゅじ楊惇女婿じょせい翰林かんりん編修へんしゅうかねうけたまわ同鄉どうきょう翰林かんりん侍讀じどくかのうかつらあきら彭澤これおとうと彭冲勾結請托せいたくみなにゅうみことのりごくきさき以查无实すえ为由釋放しゃくほう[39]

よしみやすしななねん(1528ねん),《明倫めいりん大典たいてん修成しゅうせいきさきせいむねみことのり判定はんてい大禮たいれいちゅう各位かくい大臣だいじんつみ。并稱楊廷錯誤さくご主張しゅちょう濮議”,自己じこ詭稱門生もんせい天子てんし決定けっていさくたて皇帝こうていてき國老こくろう,按照法律ほうりつおうとう斬首ざんしゅおんそぎため庶人だいねんろくがつじゅういちにち(1529ねん7がつ25にち),楊廷享年きょうねんななじゅういちさい[40][41]。很久きさきぼうにちむねといだい學士がくしときふとしくらてきせきかてかえのうささえいくねんたいこたえしょう:“かえ以支撐すうねん,這都陛下へいか即位そくい初期しょき詔書しょうしょさいかわ宂員しょふししょうてき結果けっか。”むね感慨かんがいどう:“這都楊廷てき功勞こうろう啊,不可ふか抹殺まっさつてき。”りゅうけい初年しょねんきよしむね恢復かいふく楊廷てき官職かんしょく,并贈ふとしおくりな文忠ふみただ[42]

事蹟じせき

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楊廷かずつよしいれ內閣とき東陽とうよう就曾せつ:“わがたい詩文しぶんゆういちにちこれちょう,如果是安こりゃすくにすみみんてき大事だいじかえ須倚じゅうかいおっと啊。”[43]いたたけはじめきさき最終さいしゅう安定あんてい國家こっかてき楊廷和之かずゆきりょくにん們都以為東陽とうようゆう先見せんけんあきら[44]

其在內閣期間きかんつぎ抵制宦官かんがんせい正德しょうとく初年しょねんあずかちょうひさし合作がっさく剷除りゅう事後じごちょうひさしまたなまおごよこざい逮捕たいほいちゆうりゅうもん刺青しせいてき男子だんしきさき邀功,并援引えんいんふとかんりゅうえいまことこれれいまれふうこう。楊廷和則かずのりしょう:“りゅうえい誠之せいしりゅういんため自己じこ戰功せんこう而封こうなみりゅうひさしまこと親身しんみ受封。”於是此事制止せいし[45]正德しょうとく年間ねんかん楊廷ぬしせい時期じきたけはじめつねとしうえあさせい,并在大同だいどうせんのべいちだいゆう玩,政事せいじゆうしょしつ。楊廷經常けいじょうじょう疏進諫,たけはじめ卻不聽從ちょうじゅう卻也不能ふのう堅持けんじ奏請そうせいただのうこころ忡忡。ずいつぎやまい請辭,とくたけはじめ批准ひじゅん宦官かんがんたに大用おおゆうあきらちょうつよしたけはじめ義子ぎしせんやすしこうあきらひとし十分じゅうぶんおごよこ,楊廷雖不屈從くつじゅう卻也のうゆうしょ制裁せいさいいん而得以稍やややす[46]

楊廷起草きそう呈上ていじょう皇帝こうてい登極とうきょく詔書しょうしょ时,文書ぶんしょぼう官員かんいんゆるがせしか進入しんにゅう內閣,せつおもえ掉在詔書しょうしょちゅう不便ふべんひさげ及的いくけんごと。楊廷しょう:“以前いぜんてきこと上下じょうげ意見いけんごうどう輒就しょう皇帝こうていむね現在げんざい也是しん天子てんしむね麼?わが們在慶賀けいが登極とうきょくこれはた當面とうめん上奏じょうそう,詢問到底とうていこれだれそうそぎあらため詔書しょうしょ草稿そうこう。”蔣冕もうおさむ也相つぎ說明せつめい此事てき危害きがい最終さいしゅう仍然堅持けんじ楊廷原稿げんこう詔書しょうしょ下達かたつきさきたけはじめ時期じきてき大量たいりょう弊政へいせいひとしとく以正しきかわじょ[35]そう篤信あつのぶ道教どうきょう,很喜歡設だんもとむしん,楊廷極力きょくりょく反對はんたい,并引用いんようりょうたけしみかどそう徽宗いん迷信めいしん國家こっか滅亡めつぼうてき事例じれい作為さくい喻,せいそう表示ひょうじ接受せつじゅこうひだりいちだい連年れんねん歉收,而宦かんまた請派官員かんいん督促とくそくづくこうきゅうごとちゅうすすむ反對はんたいせいそうみやこ聽從ちょうじゅう,而督促內かく起草きそうみことのりれい。楊廷とうたてまついのち,趁機極力きょくりょくすすむせつ人民じんみんこまとぼし物資ぶっし枯竭,請不よう派遣はけんむねさらきゅう催促さいそく,并告誡不よう阻攔。楊廷りょくそうどう

いん而他請求せいきゅう追究ついきゅうなずらえむねてき人名じんめい懷疑かいぎ有人ゆうじん假借かしゃく批以ぎょう私欲しよくむね推辭せつ不知ふちしょうじょうただつげ誡所宦官かんがん不要ふよう放縱ほうしょう而已,ただし不能ふのう制止せいし[47]

此外,楊廷和知わちじんぜんにん,并有謀略ぼうりゃく當初とうしょ彭澤ざい西にしせい鄢本じょまえこう楊廷請求せいきゅうけいさく。楊廷しょう:“憑閣才略さいりゃくぞく寇不なん平定へいていよう警惕てきただ不要ふようはやはんかいあさ。”彭澤ざいおさむやぶ叛軍はんぐん誅殺ちゅうさつ鄢本じょきさき即刻そっこくはん,而其あまりとうまたおこり謀反ぼうほん。彭澤とくとめ,於是感慨かんがいせつ:“楊公有こうゆう先見せんけんあきらわが如他啊!”[48]

家庭かていあずかねん

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楊廷和之かずゆきおとうと楊廷,曾官兵部ひょうぶみぎさむらいろうかんいたりれい尚書しょうしょ楊慎楊惇まご楊有ひとしみなため進士しんし。其中,楊慎以じょうもとにゅうつかまつ,并成ため大禮たいれい議事ぎじけんてきくび要人ようじんぶつあずかかいじょきょうしょう明朝みんちょうさんだい才子さいし[49]

  • もとはい明善あきよしてきさんじょ[50],赠いちひん夫人ふじん生子いくこ楊慎正德しょうとくからしじょうもと
  • 继室喻氏,ないこうじんふういちひん夫人ふじん,无出
  • 侧室蒋氏,ふう孺人,生子いくこ楊惇兵部ひょうぶ主事しゅじ;杨恒,赠中书舍じんさきおおやけそつ;杨忱,举人

おんなにん

孙男じゅうにん

  • 杨同ひとし、杨宁ひとしなま员;
  • 杨志じん广都经厯;
  • 杨其ひとし,荫生;
  • 杨斯ひとしなま员;
  • 杨有ひとし,举人;
  • 杨兴ひとしゆび挥同
  • 杨右ひとしなおたからつかさつかさすすむ
  • 杨资じん;杨力ひとし

ざい四川しせんしん都城みやこのじょう西北せいほく現存げんそんゆう新都しんとじょうもと坟,ため楊春、楊廷、楊慎とうさんにんてき家族かぞく墳墓ふんぼよし楊廷かず之子ゆきこ楊慎ため明朝みょうちょう四川しせん唯一ゆいいつてきじょうもと墓地ぼち也被しょうためじょうもとふん正德しょうとくじゅうねん(1515ねん),楊春きさきあきらたけはじめれい主事しゅじしゅく为其けん谕祭。よしみやすしさんねん(1524ねん),楊廷いん大禮たいれい議事ぎじけん辭職じしょくかえさとよしみやすしはちねん,并葬于其ちち楊春はかてき左側ひだりがわよしみやすしさんじゅうはちねん,楊慎ざい雲南うんなん戍地,其妻むかえかい灵柩,そう于其ちち楊廷みぎ侧,死後しごまたそう于此ときにゅう清朝せいちょうめいつかまつ马能おさむうみ沈联かおる调元张邦しん何人なんにん张怀泗とうひとし拜謁はいえつ并留题咏。きよし中前ちゅうぜん,评价杨廷为权奸,きさきいぬいたかしいん政治せいじそう需要じゅようしょう其忠。みちこうじゅうねん(1832ねん),杨氏子孫しそん杨光うみおさむ葺,并設立せつりつ杨春神道しんとう。1935ねん,杨氏子孫しそん杨崇焕重立しげたて墓碑ぼひ文化ぶんかだい革命かくめい期間きかん墓地ぼちいんおさむ水利すいり而遭到破壞はかい。1985ねん新都しんとけんこう佈其ため县文ぶつ护單,并于1988ねんじゅうけん并开放,きょうゆうじんさい[51]

延伸えんしん阅读

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[]

 くにあさけんじちょうろく·まきじゅう》,出自しゅつじこげくにあさけんじちょうろく
 あかりまきいちひゃくきゅうじゅう》,出自しゅつじあかり

参考さんこう文献ぶんけん

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腳註

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  1. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと謚文ちゅう楊公廷和行狀ぎょうじょう》(まき15,まごこころざしひとしじゅつ):“楊氏せん?いおりりょうじんもとまつ避歐祥之よしゆきらん徙楚あさじょうさい避紅ぐんらん乃入しょく
  2. ^ あきら·赵贞きち,《とく进光ろく大夫たいふひだりばしらこくしょう师兼太子たいしふとし师吏なお书华盖殿だい学士がくし赠太杨文ちゅうこう神道しんとう》:“けい出潮でしお广之あさじょう,五世祖世贤避乱入蜀,きょ新都しんとちちはる广提がく佥事;ははかのう。以天顺已きゅうがつじゅうきゅうにちせいおおやけ
  3. ^ なりじゅう四年戊戌科進士登科錄》:みんせきえきけい》,ねんじゅう九歲中式成化十四年戊戌科第三甲第一百二十五名進士。九月くがつじゅうきゅうにちせいぎょういち曾祖そうそ楊壽やま楊玟しゅう吏司;ちち楊春みつぎはは重慶たーちんつま(聘),おとうと廷平;廷儀;廷簡;廷宣。よしこく子生こなじちゅうしき四川しせんきょうためしだいじゅうななめい舉人かいためしちゅうしきだいさんじゅうよんめい
  4. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと謚文ちゅう楊公廷和行狀ぎょうじょう》(まき15,まごこころざしひとしじゅつ):“新都しんとじんいみな賢者けんじゃじつ新都しんと楊氏始祖しそけんせい壽山ことぶきやま壽山ことぶきやませい玟貢つかまつ?えいやすし吏目玟生はるごうとめ耕成こうせいからしうし進士しんしれきかんみずうみこうひさげがく僉事春生はるおおおやけいみな和字わじかいおっとべつごうせきときせい以天じゅんおのれきゅうがつじゅうきゅうにち邑有光之みつゆきみずはじめよんさいごえりつななさい誦書すうかん習舉ぎょうからしねんじゅう舉於きょうみずのえたつかいためしだい入國にゅうこくがくかんすすむ眉山びざん公明こうめいぜん其才もとつま焉成つちのえいぬ舉進
  5. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“楊廷かいおっと新都しんとじんちちはるみずうみこうひさげがく僉事。廷和ねんじゅう舉於きょうなりじゅうよんねんねんじゅうきゅうさき其父なり進士しんしあらため庶吉つげめとかえあさ檢討けんとう。廷和ため人美ひとみ風姿ふうしせい沉靜しょうしんためぶん簡暢ゆうほうこう考究こうきゅうてのひらみん瘼、あたりごと一切いっさい法家ほうかごと鬱然うつぜんおおやけ輔望。”
  6. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと謚文ちゅう楊公廷和行狀ぎょうじょう》(まき15,まごこころざしひとしじゅつ):“翰林かんりん庶吉こうとくがく雲南うんなんこう請假往迎夫人ふじん鎮守ちんじゅふとしかんぜにのう黔國こう沐廷あきらみなあつのこおおやけりょく郤不受庚檢討けんとう弘治こうじおのれとりこう績陞おさむ撰修せんしゅうけんそう實錄じつろくおかぶんそうこう?ふく總裁そうさいこう以纂おさむけん校正こうせい官有かんゆうだい關係かんけい及大あきらそうめいしんでんおか悉以ぞくこうくさなりおか不易ふえき一字歎曰良史才也”
  7. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“弘治こうじねんすすむおさむせんけんそう實錄じつろくなり,以預纂修しん侍讀じどくあらためひだりはるぼうひだりちゅうまことさむらい皇太子こうたいし講讀こうどくおさむかいてんなりちょうはいひだりはるぼうだい學士がくしたかしにちこうかん。”
  8. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと謚文ちゅう楊公廷和行狀ぎょうじょう》(まき15,まごこころざしひとしじゅつ):“からししょなり陞侍讀壬たかしけいむしろこうかんおつ皇太子こうたいしかくかく絍奏せん正人まさとはし國本こくほんくびこもこうあずかしゅうと王公おうこう鏊等ななにんおおやけ遷左はるぼうひだりちゅうまことつちのえうまぬしためしじゅんてんしょろく名士めいしかんぶんいたりいまほどおのれよんがつちょう祖母そぼ孺人ゆうみことのりたまものはせえきからしとり夏服なつふく闋冬北上ほくじょう復舊ふっきゅうしょくみずのえいぬさんがつ大明だいめいかいてん成當なりとう官吏かんりなずらえこうひだりはるぼう大學だいがくじょうれいちゅう使つかいいたり內閣とい曰所なずらえ廷和かんあにあやま文正ふみまさおおやけたい曰其じんもちりょうたかし東宮とうぐうまちこうけい沃有ねん纂述こうまたことりゅうやからとくなずらえ此官むくいあやま也中使以聞じょう曰朕またひさ其人あにしわ此官乎旨下士かしりん驚喜きょうきぶたかん輔臣きょ內閣銜不しつらえしゃじゅうねん矣未いく?にちこうかん闡經ろん政孝まさたかすめらぎ重之しげゆきすず踰常れいいちにちじょう御膳ごぜんやめそく以御ぜん饌頒すず宸翰しんかん親署しんしょふういいゆうさだかんけいれきふう焉”
  9. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと謚文ちゅう楊公廷和行狀ぎょうじょう》(まき15,まごこころざしひとしじゅつ):“ろくがつじょういのちだい學士がくしりゅう徤李東陽とうようしゃ編纂へんさんどおりかん綱目こうもくぶしようおおやけため纂修かん潤色じゅんしょく論斷ろんだんおおやけしゅおつうしはるぬしかいためしがつこうむねまろうど天武てんむはじめ登極とうきょく七月以從龍恩陞詹事府少詹事丙寅正德改元公?こう官有かんゆう白金はっきん綵幣たいくつたまもの十月脩孝宗實錄公?ふく總裁そうさいちょうしげる陞詹ごとにゅう內閣誥勑りゅうしゃ二公去位姦璫劉瑾用事公侍講筵惓惓以遠小人戒遊逸?げん左右さゆう讒之またゆうかげゆい近侍きんじしゃ阻公とげあらため南京なんきん吏部ひだりさむらいろういのち數日すうじつ即行そっこう瑾使邏者伺公しょうちゅうはんほううん楊初怨怒乃止がつ陞戶尚書しょうしょ
  10. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと謚文ちゅう楊公廷和行狀ぎょうじょう》(まき15,まごこころざしひとしじゅつ):“はちがつじゅう八日上退朝思公問曰楊學士何不在瑾對曰今?南京なんきん戶部とべ尚書しょうしょじょう曰楊廷和にゅうひがしかく矣戶あに翰林かんりんかん耶明ゆう勑取こう內閣辦事はせえきらいきょうあらためけん文淵ぶんえんかくだい學士がくし
  11. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“正德しょうとく二年由詹事入東閣,せんてん誥敕。以講筵こうえんゆび斥佞こう,忤劉瑾,つてむねあらため南京なんきん吏部ひだりさむらいろう五月ごがつ南京なんきん戶部とべ尚書しょうしょまたさんがつ召還しょうかんしんけん文淵ぶんえんかくだい學士がくしさんあずかつとむ明年みょうねんしょうけん太子たいしふとし。瑾摘かいてんしょうあやまだつ廷和あずかだい學士がくし東陽とうようとうきゅうひろ以成こうむね實錄じつろくこうかえこれ明年みょうねんこう祿ろく大夫たいふはしらこく,遷改吏部尚書しょうしょ武英たけひで殿どのだい學士がくし。”
  12. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“とき瑾橫えき甚,而焦よしちょう綵為中外ちゅうがい媾。廷和あずか東陽とうよう委曲いきょく其間,しょうゆうざいすくい而已。やすおう寘鐇はん,以誅瑾為めい。廷和とうくさ赦詔,請擢はたかたき鉞,以離賊黨ぞくとう。鉞果寘鐇。かいちょうひさしはつ瑾罪,瑾伏誅,廷和とう乃復論功ろんこうすすむしょうでんけん太子たいしふとしでん、謹身殿どのだい學士がくしいち子中こなかしょ舍人とねり。”
  13. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと謚文ちゅう楊公廷和行狀ぎょうじょう》(まき15,まごこころざしひとしじゅつ):“こうむね實錄じつろくなりふく俸如ゆうぬさきん乘馬じょうばたまもの旋授こう祿ろく大夫たいふばしらこく庚午こうごがつあらため吏部尚書しょうしょけん武英たけひで殿どのだい學士がくしよんがつけい有安ありやすへんこういい文正ふみまさおおやけ曰宜請頒榜開さとしやすしなつひと及慶宗室そうしつある阻之曰黃かわふねつき?寘鐇そくゆう榜誰あずかつておおやけ曰此ごとなつじんあずかしゃじゅうはちきゅう?寘鐇しょおびえ以慰?寘鐇じゅとう耶亟請於じょうぎょうまたなずらえようかたき鉞?はたぎゃく瑾云鉞巳したがえ寘鐇矣公曰鉞もとしょうはかりごといさみ不幸ふこうざいらん城中じょうちゅう未必みひつしたがえらん朝廷ちょうていようあにはたしかおもえ奮亦使寘鐇自生じせい嫌疑けんぎはた內潰矣未いく鉞果とりこ寘鐇以效焉九月敘績加少傅兼太子太傅謹身殿大學士廕子恒?中書ちゅうしょ舍人とねり勑諭褒美ほうび
  14. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと謚文ちゅう楊公廷和行狀ぎょうじょう》(まき15,まごこころざしひとしじゅつ):“からしはるきた畿流ぞくりゅう六劉七齊彥明陷郡邑殺良民諸將莫能禦朝議起馬中錫?そうせいこう曰馬文士ぶんし也豈こらえにん乎眾たがえ其議よう竟僨ごとさんはたくわだまりょう大軍たいぐんついりゅうなな於村ちゅう窘甚はたけい於民しゃ其黨どめ曰賂あるめん乃投きんろうくわ受而たて公言こうげん於朝下中しもなかすずごくくわだま以陸かんだいぐんだい
  15. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“ながれぞくりゅうろくりゅうななひとし彥名はん,楊一清薦馬中錫討之。廷和ごと:「ちゅうすず文士ぶんし也,にん此。」ぎょうやめくだりはて能平のっぺいぞく。廷和請逮ちゅうすず下獄げごく,以陸かんだい,而斬受賕たてぞくしゃさんはたくわだまやめまたもちい學士がくしひね霽言,調しらべしょあたりへい討河みなみぞくちょう鐩等,而薦彭澤ためそうせいぞくひら論功ろんこうろく廷和いちにしきころもまもるせんとくしょう太子たいしふとしはなぶた殿どのだい學士がくし。”
  16. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“東陽とうよう致政,廷和とげためくび輔。いぬい清宮きよみやわざわい,廷和請帝避殿,しもみことのりざいおのれもとめ直言ちょくげんいんあずか其僚じょう疏,すすむみかど早朝そうちょう晏罷,躬九びょう祭祀さいしたかしりょうみや孝養こうようつとむにちこうふくめんそうひらけげんたち下情かじょうかえあたりへいかわみややめすめらぎてん出西しゅつさいそうしょう工作こうさくげんみやつこ,凡じゅうじょうみなきりいたりみかどしょうひろ以父そつ乞奔もとさん請乃もとちゅうかんまもるぎょう。旋復おこりさん疏辭,はじめもとかくしんおわり父母ちちははしゃ廷和はじめ也。”
  17. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“ふくはじめ闋,そく召至。みかどかたりょうせん使つかい使たまもの廷和ひつじしゅぎんぬさ。廷和疏謝,いん請迴鑾,ほうふくあずかだい學士がくし蔣冕はせいたりきょいさおよくふさが請。みかどれいたに大用おおゆう扼關もん,乃歸。みかどいのち迴鑾羣臣かくせいはたちょうむかえ,廷和曰:「此里ぞく以施おやきゅうみみ天子てんし至尊しそん敢瀆けんじ。」みかどさい使つかい使さとししたがえ,乃已。”
  18. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと謚文ちゅう楊公廷和行狀ぎょうじょう》(まき15,まごこころざしひとしじゅつ):“ちょううしろくがつろくにちふく朝廷ちょうていさき行人こうじんりゅう翀至しょく以服闋之明日あしたどう鎮巡さんつかさ府縣ふけんかんまい公家くげせん璽書こう時事じじなんためけんよくおこりみことのり使ざいもんとうみちもりこう府縣ふけんじゅう俸同促就どうはちがつさんにちはつ新都しんといたりひがしかわえきふくよくやまし陝西せんせいとうみち請曰きん聞聖きょいさおせき人情にんじょうすめらぎすめらぎこう輯寧以報こく乎舟しん潞河京師けいしくん戚府きょう寺部てらべしょ及臺輿こしこうやくみなしょうりつ出迎でむかえたかしぶんもんせっどおりしゅうしゃくもようじょうざいあたり聞公いたり甚喜內侍たまものたから鏹羊しゅじゅうがつじゅういちにち入閣にゅうかく疏謝且請かい鑾不ほうじゅうがつじゅうはちにちあずか蔣公いたりきょいさお請駕ゆうむねどめこれきたかりはたかえり先遣せんけんじんさとし內閣かく?はたちょう奉迎ほうげいせんやすしらい逼公くび倡公曰旂つね在國ざいこくめい功臣こうしんみみはたちょうほどこせおやきゅうさとぞく也君みこと如天敢有凟獻乎威武いぶ大將軍だいしょうぐんなんめいごうじょうふくしょ幸通さいわいどおり使ちょうりゅうらいうん朝廷ちょうていせつ楊閣ろう肯作はたちょう忘了往年おうねんいち內臣りょう行人こうじんこれ恩典おんてん大臣だいじんじゅうばいいま乃執抝問懼否こう雷霆らいていしも敢不ふるえ懼但敢以非禮ひれいごとくんみみ
  19. ^ きよし·たにおうやすし,《あきら史紀ふみのりごと本末ほんまつ》(まき47):“さきあさ廷遣赖义、ちぇはじめ、颜颐寿ことぶきとうぎょうちぇもと过杨廷和询之。廷和曰:“せんとく中有ちゅうううたぐ于赵つねれい驸马袁泰往,竟得释,ある此意也。”もととう遂行すいこう,而京师竞传以为且とりこ宁王。侦卒りん华者,そくけんほど逃归,以ろくがつじゅうさんにちいたり江西えにし,值濠せいうたげ镇巡さんつかさとうかん,闻报だい惊。”
  20. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“しょう淮發やすしおう宸濠はんはかりごとせんやすしやからなおひさし,詆淮離間りかん。廷和請如せんそうさとしちょうおう故事こじ大臣だいじん齎敕往諭,おさむ護衞ごえい屯田とんでん。於是命中めいちゅうかん賴義よりちか、駙馬じょうちぇもととう往,いたり而宸ほりはんみかどよくそちおやせい,廷和とうりょく阻之。みかど自稱じしょう總督そうとく軍務ぐんむ威武いぶ大將軍だいしょうぐんそうへいかんこうぐんとくふとし、鎮國こうしゅひさしみつるかくきょう將士しょうしみなみ討。而安はくもとたいため威武いぶふく將軍しょうぐんひだりとくりゅうあきら為平ためひら賊將ぞくしょうぐん前驅ぜんく鎮守ちんじゅなで、按悉聽節制せっせいいのち廷和あずかだい學士がくしもうおさむきょもり。”
  21. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと謚文ちゅう楊公廷和行狀ぎょうじょう》(まき15,まごこころざしひとしじゅつ):“國家こっかけい瑾敗そぎまもる聞索錯者こんさく錯豈ゆうぬしこれしゃ耶崔もとやから遷延せんえんすすむいたり浙江せっこう聞孫ひうちもと副使ふくし逵遇がい乃奔かいいたり天津てんしんおう尚書しょうしょ瓊使じんよう於路曰復命ふくめいとううんやすし府本ふもとはんいんそぎ護衛ごえい乃反さん使者ししゃ以其ごと?しか南京なんきん以變聞瓊なおひさしふくそううんやすしそくはんきゅう彭澤なん乃無しるししん文書ぶんしょこう曰來そううんぞくやぶきゅう彭澤しるししんじだつやすし有印ゆういんしん文書ぶんしょ耶瓊またふくそうごと有可ゆかうたぐちゅうあいだしんはしてきまた曰尤?うたぐちゅうあいだおそれゆうべつ情意じょういざい阻官ぐんかげじょ宸濠也公あずか廷辨つきはつ其姦而瓊甚怨こうひゃくけい誣陷しかおおやけ守正もりまさそつ不能ふのう中也ちゅうやなながつ特進とくしん疏辭まこと有清ありきよ德正のりまさがくからだこく忠誠ちゅうせい褒時じょうほししんせい羣小慫恿えきけつこう屢疏諫止おわり不納ふのうじゅうさんにちいのちつかさあやかんしゅう百官ひゃっかん於左じゅんもんおおやけあずかどうとらさんおおやけ曰此ただしとういのち文武ぶんぶ大臣だいじんとくきょう營官ぐん討之みみ此賊とくざい天地てんち祖宗そそう且無せい以懷其軍民ぐんみんしゃわか榜諭以順ぎゃく使つかい勤王きんのう誅首あくひろしおびえしたがえそく旬日じゅんじつへんしたがえせいはんてんへい矣昔永樂えいらく中北なかきたせいゆう皇太子こうたいしきょもりせんとくちゅうせいかんゆうていおうじょうおうきょもりいませい出征しゅっせいきょもり重任じゅうにんづけ何人なんにん乎明おやせいむねみち不能ふのうどめ也兵請內かくまもるしたがえまた乞載御寶みたからゆきおおやけ曰戰危事也倉そつ草野くさの中易なかやすおこり奸心往時おうじ四川賊藍五鄢老人掘□はいいんなお且惑眾況こくそく乎有じょはい號令ごうれいまた凱旋がいせんぎょう御寶みたから所用しょよう焉由御寶みたからくだり而梁こう蔣公まもる蹕又明日あしたゆうちゅう人傳ひとづてむねよくうつし調ちょうへい及王へいそら勑公曰土へい反覆はんぷく必調おうへい調ちょう也竟すすむ稿こうまた明日あしたでんいのちうつし威武いぶ大將軍だいしょうぐん勑公曰朝廷親せい奉行ぶぎょうてん討誰敢云差遣さけんまただれ敢稱威武いぶ大將軍だいしょうぐん耶近聞逆ほりにせかた失政しっせいめい威武いぶ大將軍だいしょうぐんなん政令せいれい假作かさく孽者いい朝廷ちょうていおやせい乃稱威武いぶ大將軍だいしょうぐん何人なんにんくだ?此名ごう何人なんにんうつし勑請さき誅戮ちゅうりくしかこうきょうへい問罪もんざいそく今日きょう不在ふざい宸濠而在此勑矣中使
  22. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“以乾きよしひつじさるやすし二宮にのみやこうなり,推恩ろくいちにしきころもまもるふくせんとき廷和とうくさ大將軍だいしょうぐんせいみなみ敕諭,しゃどる肯,みかどこころ恚。かい南京なんきん吏部尚書しょうしょりゅうはるひがしかく誥敕,以廷わたし其鄉じんきりせめ。廷和謝罪しゃざい,乞罷,もとしょうはりもうかとう請與俱罷,ふくもと。廷和かた引疾不入ふにゅうみかどとげでんむねぎょうときじゅうよんねんはちがつ也。”
  23. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“みかどすんでみなみりょうさらさいついたち。廷和頗以鎮靜ちんせいじゅうため中外ちゅうがいしょ推服すいふく。凡請迴鑾しゃすうじゅう疏,みなふくしょうみかどちゅう蹕通しゅう。廷和とう故事こじ,請帝かえだい內御殿どの受俘,しかせい宸濠とう誅,而帝やめ。趨召廷和とういたりどおりしゅう受事,即行そっこうざい宸濠とう僇之,乃旋。”
  24. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“明年みょうねん正月しょうがつみかど郊祀,嘔血輿こしやまし,逾月えきあつしときみかど嗣。つかさあやちゅうかんあきらとういたりかくごとくにりょく竭矣,請捐萬金購之草澤。廷和こころ所謂いわゆるおう,而微以倫じょせつふうあきらとう唯唯ただただ三月さんがつじゅうよんにちへいとらたに大用おおゆうちょうひさしいたりかくげんみかどくずし於豹ぼう,以皇太后こうたいごういのちうつり殯大內,且議しょとうだて。”
  25. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“廷和舉皇あかり訓示くんじ曰:「あにおわりおとうと及,だれのう瀆焉。きょうけんじおう長子ながこけん宗之むねゆきまごこうむねしたがえだいくだり皇帝こうてい從弟じゅうていじょとうだて。」”
  26. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“はりもうか、蔣冕、もうおさむ咸贊,乃令ちゅうかんにゅうけい皇太后こうたいごう,廷和とうこうひだりじゅん門下もんかころちゅうかんたてまつのこみことのり及太きさき懿旨,せんさとし羣臣,一如いちにょ廷和請,こと乃定。”
  27. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと謚文ちゅう楊公廷和行狀ぎょうじょう》(まき15,まごこころざしひとしじゅつ):いのちひがししょうにしきころもまもる及五じょう巡視じゅんしげんよるきん盜賊とうぞくみなおおやけ獨斷どくだん而以先帝せんていまついのちぎょうある曰此とうごとなんしょうとめまち嗣君ぎょうおおやけ曰機かいあいだようがみけんかん人人ひとびと危若不急ふきゅうかい倉卒そうそつゆうへんだれのうせい耶九もんぼう守之もりゆきいのち
  28. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“廷和とげ矫诏れいふとしかんちょうひさしたけじょうこうかく勛、やすあたりはくもとたい尚書しょうしょおうけんせんかく營兵,分布ぶんぷすめらぎじょうよんもんきょうじょう九門及南北要害,しょうまもる以其ぞく扞掫。つて遺命いめいやめ威武いぶ營團えいだんねりしょぐんかくあたりへいにゅうまもるしゃ俱重賚散鎮,かわすめらぎてん及軍もん辦事かんこう悉還まもる,哈密、魯番、ふつろうしょみつぎ使みなきゅうしょうかえくにひょうぼうばんそう及少りんそうきょうぼう樂人がくじん南京なんきんかいうませんしょ常例じょうれいしゃ一切いっさいやめまた以遺みことのりしゃく南京なんきん逮繫しゅう四方よもすすむけんじ女子じょしとま京師けいし不急ふきゅう工務こうむおさむせん行宮あんぐう金寶きんぽうしょ內庫。中外ちゅうがいだいえつ。”
  29. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“ひらとりこはくこうあきらようじゅうへいざいひじわきあいだ天下でんかあくこころやす。其黨とく僉事琮尤狠黠,すすむあきらじょうあいだ以其眾反,勝則かつのりきたはし塞外さいがいあきら猶豫ゆうよ未決みけつ。於是廷和はかりごと皇太后こうたいごうむね誅彬,とげあずかどうかん蔣冕、もうおさむ及司れいちゅうかんゆたかさちよんにんはかりごとちょうひさし伺知其意,またみつため備。つかさあやあきらしゃあずかあきらゆうれん。廷和以其じゃくおびえ也,いんだいだいぎょうめい旌,あずかあきらさち及他ちゅうかんはりするどちんいわおとうため詳言しょうげんこうあきらはんじょう,以危怵之。あきらこころどうおもんみするどりょくげんこうあきら無罪むざい,廷和めんおり。冕曰:「今日きょう必了此,乃臨。」いむまたしたがえつくりさんけついん俾祥、あきらとうにゅうしろ皇太后こうたいごう良久よしひさむくい,廷和、冕益危。ころいむいたる曰:「あきらやめとりこ矣。」あきらすんで誅,ちゅう外相がいしょうけい。”
  30. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“さきたけはじめくずし,廷和くさのこみことのりげん皇考こうこうこうそうたかし皇帝こうていおやおとうときょうけんじおう長子ながこぼうりんじょとうだて遵奉じゅんぽうくんけいおわりおとうと及之ぶんつげ宗廟そうびょう,請於慈壽皇太后こうたいごうむかい嗣皇帝位ていいすんでれいれいかんじょう禮儀れいぎじょう,請由ひがしやすもん入居にゅうきょぶんはな殿どのつばさ百官ひゃっかんさんじょう勸進かんじん,俟令むね俞允,即位そくい。其箋ぶんみな皇子おうじ嗣位故事こじむねらんれいじょういい:「のこみことのり以吾嗣皇帝位ていいため皇子おうじ也。」及至きょうとめじょうがい。廷和かた請如れいしょせいそう聽。乃御こう殿どの受箋,ゆかり大明だいめいもん直入なおいりつげだいぎょう几筵,にちちゅうそく帝位ていいみことのりくさごとたてまつすめらぎけいのこみことのりいれたてまつそう祧」,みかどおそかい久之ひさゆきはじめほうえつさんにちかん往迎みかどははきょうけんじいくいのちれいかんきょうけんじおうおもまつ稱號しょうごう。廷和けんかんていすえおうそう王事おうじ授尚しょもうきよし曰:「あしためよりどころむべみことこうむね皇考こうこうしょうけんじおうためすめらぎ叔考興國こうこく大王だいおうははためすめらぎ叔母おば興國こうこくたい自稱じしょうめい皇帝こうていめいべつだてえきおう次子つぎこたかし仁王におうためきょうおう奉獻ほうけんおうまつゆう異議いぎしゃそく奸邪,とう。」進士しんしちょう璁與さむらいろうおう瓚言,みかどいれまましだいすべためじん。瓚微ごと,廷和おそれ其撓あらため瓚官南京なんきん。”
  31. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“がつきよしかい廷臣ていしんじょう,如廷ごとみかどえつしかまい召廷從容しょうようたまものちゃ慰諭,よくゆうしょさらじょう,廷和そつ肯順みかどゆび。乃下廷臣ていしん再議さいぎ。廷和偕蔣冕、もうおさむそうごと:「ぜん代入だいにゅうつぎきみついたかし所生しょせいしゃみなごう典禮てんれいおもんみそう儒程頤濮さいとく義理ぎりただしためまんせいほういたりきょうけんじおうまつ,雖崇仁王におうぬし他日たじつ皇嗣こうししげる衍,仍以だい二子為興獻王後,而改ふうたかし仁王におうため親王しんのうすなわち天理てんり人情にんじょう兩全りょうぜんしつ。」みかどえきえついのちはくこう典禮てんれいつとむもとめ至當しとう。廷和、冕、きのふくげん:「さんだい以前いぜんせい莫如しゅん未聞みもんついたかし其所せいちち瞽瞍也。さんだい以後いごけん莫如かん光武みつたけ未聞みもんついたかし其所せいちちみなみとみくん也。おもんみすめらぎじょうほうくんのり聖德せいとくるいひじりたかし有光ありみつ矣。」きよしとうまた再三さいさん執奏しっそうみかどとめちゅうしたなながつちょう璁上疏謂とうつぎすべ繼嗣けいしみかどつかさあやふとしかんしめせ廷和,げん此議遵祖くんよりどころれいむべしたがえ。廷和曰「秀才しゅうさいやす國家こっかごとからだ」,ふくいれなにみかどぶんはな殿どの召廷、冕、きの,授以しゅ敕,れい尊父そんぷははためみかどきさき。廷和退すさ上奏じょうそう曰:「れいいい為所しどころ後者こうしゃため父母ちちはは,而以其所生者しょうじゃためはく叔父おじははぶたおもんみ其服而又其名也。しん阿諛あゆじゅんむね。」仍封かえみことのり。羣臣またみなぜんみかど聽。迨きゅうがつははいたりきょうみかどていよし中門ちゅうもんいれ謁見えっけんふとびょうふくさるさとしよくしょうきょうけんじみかどきさきためすめらぎ。廷和ごと:「かんせんみかどままし孝昭たかあきおくりな皇孫こうそんおう夫人ふじん曰悼かんがえ、悼后,光武みつたけうえまましもとみかど,鉅鹿、みなみひたすらきみ以上いじょうたてびょうあきらりょうみな嘗追みことこんわかすめらぎあずかこうびょう、慈壽なみ忘所而重ほんせいにんわたしおん而棄大義たいぎしんとうとく其責。」いん請斥やめ廷臣ていしんいさかいしゃひゃく餘人よにんみかどとくやめ,乃以よしみやすし元年がんねんみことのりしょうこうむねため皇考こうこう,慈壽皇太后こうたいごうため聖母せいぼきょうけんじみかどきさき為本ためもとせい父母ちちははしょうすめらぎ。”
  32. ^ あかりまきはちじゅうきゅう こころざしだいろくじゅう へいいち
  33. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと謚文ちゅう楊公廷和行狀ぎょうじょう》(まき15,まごこころざしひとしじゅつ):しょなずらえ懿旨及大ぎょう皇帝こうていしょにゅうけい畢就ひだりじゅんもんせんさとし朝臣あそん眾皆おどしか大呼たいこ曰天事大じだいてい朝臣あそん就閣ちゅう謁謝且賀曰昔りょはしくさりおうつぎおんかん琦斥はち大王だいおう恃權專任せんにん重也しげやこん其權而事またどくなんしかじょうさくごろこくあいだけんかん拱手こうしゅがいあさ不知ふちりょかん數等すうとう矣公曰祖宗そそう功德くどく疆之ぶくまたどうかん協力きょうりょくしょ致予なんりょくゆう焉遂なずらえむねひょうぼう官軍かんぐんれいふとしかんちょうひさしちょう忠武ただたけじょうこうかく勛安はくもとたい兵部ひょうぶ尚書しょうしょおうけん提督ていとくゆう恤揀せんだん營官ぐん分布ぶんぷすめらぎじょうよんもん及京じょうきゅうもんぼうもりれい威武いぶだんねり營官ぐん各回かくかいげん營各鎮守ちんじゅふとしかん各回かくかいほん鎮革すめらぎてんかんこう并軍もん辦事かんはたこうじょう俱回もとまもるいのちきゅうみつ及土魯番諸處しょしょみつぎえびすじんとう回者まわしもの該部あきらげんなずらえしょうじんおくかいあまり會同かいどうだてだてせきぼう出入でいりふつろういちじんかい廣東かんとん聽候ひょうぼうばんそう少林寺しょうりんじらい和尚おしょうかく本寺ほんじ南京なんきんかいふねせき常例じょうれい聽候がいつきすうはつかいかくしょたいらいかくいろたくみやくらくこうすいしゅとう各回かくかい原籍げんせき
  34. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと楊文ちゅう公廷こうていほこら》(まき15,ちょう貞吉さだきちしょ):“はつ輟草威武いぶ勑巳はま逮嗣くんいたりうけたまわせい專斷せんだんしゃ廿にじゅうななにちそもそも奸雄かんゆう如泰如瓊やや疏皆あし以死しんみことのりさいかわ人數にんずうじゅう四萬八千七百餘歲省太倉粟一百五十三萬餘怨□洶洶うたい曰終
  35. ^ 35.0 35.1 きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“廷和そう朝政ちょうせいいくよんじゅうにちきょう世子せいしはじめ入京にゅうきょうそく帝位ていい。廷和そうじょう登極とうきょく詔書しょうしょ文書ぶんしょぼうかんゆるがせいたりかくちゅうげんほしみことのりちゅう不便ふべんしゃすうこと。廷和曰:「往者おうしゃごと齟齬そごどうしょう上意じょういいままたしん天子てんし耶?われ儕賀登極とうきょく當面とうめん奏上そうじょうもんだれよくそぎみことのりくさしゃ。」冕、またあいつぎはつ危言,其人ふさがやめ而詔正德まさのりちゅう蠹政釐抉且盡。ところさい汰錦ころもしょまもる、內監きょくはたこうこうやくためすうじゅうよんまんはちせんななひゃくげんこげかてひゃくじゅうさんまんせんせき,其中とうと義子ぎしつて陞、乞陞一切恩倖得官者大半皆斥去。中外ちゅうがいたたえしん天子てんし聖人せいじん,且頌廷和こう。而諸失職しっしょく銜廷こつ,廷和入朝にゅうちょうゆうはさみ白刃はくじん伺輿つくりしゃこと聞,みことのり以營そつひゃくにんまもる出入でいりみかどけいむしろ,廷和知わちけいむしろごとおさむたけはじめ實錄じつろくたかし總裁そうさい。廷和さきやめ特進とくしん一品いっぴん滿まんきゅうけんささえだい學士がくし俸,たまもの敕旌さとしいたりひだりばしらこくみかど召對しゃさん慰勞いろう備至。廷和えきよくゆうしょはつ攄,引用いんよう正人まさとぬのれつ在位ざいい。”
  36. ^ あきら·しる,《续藏书·经济めいしん》(まき17):“弇州(おう)谓晋けいおおやけ贪财,こう睚眦ちゅうじんおっと满朝みな受宸ほり贿,どくすすむけいこうおうあずかりょうこうはりもうかほろびゆう也。杨廷首相しゅしょう,擅与护卫,乃驾祸于りょうこう,而梁こう辩,りつ劾去。またよめ祸于すすむけいおおやけすすむけいこうまた辩,りつした狱论孰为贪财乎?じゅく为好睚眦じん乎?呜呼!すすむけいおおやけ贪宸ほり贿,而明ようもりひとし使つかいきょ上流じょうりゅう以擒ほり明知めいちもりひとし以一钱与じんあずか面相めんそう识,而故しんようなに也?しょう具眼ぐがんしゃとうりょうりょうなに况弇しゅうもと读书作文さくぶんじん耶?かれこばめこうあきらしゃよく以行かれこころざしみみ以能使もりじんとう请大ごう杰士,じょ朝廷ちょうていよう也!”
  37. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“きゅうごと交章ろんおう瓊罪じょうしもみことのりごく。瓊迫,疏訐廷和以自かいほうとう瓊奸とうりつろん,瓊力自辨じべんとくげん戍邊。あるうたぐほううけたまわ廷和ゆびしゃかいせき珤自れい尚書しょうしょてのひら詹事あらため吏部,廷和ふくそうあらためてのひら詹事誥敕。ひとあるいい廷和ふとしせんしか廷和以帝雖沖ねんせい英敏ひでとし自信じしん輔太ひらめ事事ことごとゆう所持しょじいさかいせんやすしこうあきら雖伏誅,而張するどちょうただし、于經、もとたいとうごくひさしけつ。廷和とうげん:「誅此曹,のり國法こくほう不正ふせい公道こうどう不明ふめいきゅうびょうれい不安ふあんまんせいこころ不服ふふくわざわいらんいき太平たいへい臻。」みかど乃籍ぼつ其貲さん。廷和ふく疏請敬天けいてん戒,ほうくんりゅう孝道たかみちせい躬,つとむ民義たみよし勤學きんがくとえまき命令めいれいあきら賞罰しょうばつせん委任いにんおさめ諫諍,親善しんぜんじんせつ財用ざいようかたり剴切がいせつみなゆうみことのりほう。及議「大禮たいれい」,廷和持論じろんえき不撓ふとうそつ以是忤帝。”
  38. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“とう,廷和先後せんごふう還御かんぎょ批者よん執奏しっそういくさんじゅう疏,みかどつねゆるがせゆるがせゆうしょ恨。左右さゆういんじょうあいだげん廷和ほしいまま人臣じんしんれいげんかんどう、曹嘉とげ交劾廷和。みかどためうす謫道、よしみ以安廷和,しか內移矣。ひろ論定ろんていさくこうふう廷和、冕、きの伯爵はくしゃくさい祿ろくせんせき,廷和固辭こじあらため廕錦ころもまもる指揮しき使ふくみかど以賞ふとかるよんひんきょうしょく世襲せしゅうふくかい滿まんよんこうちょうはいふとでんふくよん而止。とくたまもの敕旌ことすずえん於禮,九卿皆與焉。”
  39. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“廷和さきるい疏乞きゅう,其後請益りょくまた以持こうけんじみかどごう,疏語不平ふへいさんねん正月しょうがつみかど聽之せめ以因とがめ大臣だいじんどうしかなおたまもの璽書,きゅう輿こし廩郵まもる如例,さるぜん廕子にしきころもまもる指揮しき使いのちきゅうごと請留うけどめ廷和,みなほう。廷和はじめしょうこうむねためすめらぎはくこう。於是,廷和おさむせんまきりつ羣臣ふく闕哭そうつえ謫雲みなみすんで而王くに誣訐廷和及其次子じし兵部ひょうぶ主事しゅじあつしむこおさむせんきんうけたまわ勛、さとじん侍讀じどくかのうかつらあきらあずか彭澤おとうとおき交關請屬,俱逮みことのりごく。鞫治じょう,乃得かい。”
  40. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“ななねん明倫めいりん大典たいてんなりみことのりていれいしょしんざいげん廷和謬主濮議,詭門せい天子てんしじょうさく國老こくろうほうとう僇市,しゅうとそぎしょくためみん明年みょうねんろくがつそつねんななじゅういち。”
  41. ^ あきら·赵贞きち,《とく进光ろく大夫たいふひだりばしらこくしょう师兼太子たいしふとし师吏なお书华盖殿だい学士がくし赠太杨文ちゅうこう神道しんとう》:“おおやけ以嘉やすしやめうしろくがつじゅういちにちそつ于正
  42. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“きょ久之ひさゆきみかどといだい學士がくしふとしくらしょせき幾何きかたい曰:「ささえすうねんよし陛下へいか初年しょねん詔書しょうしょさいかわ宂員しょ致。」みかど慨然がいぜん曰:「此楊廷和こう不可ふかぼつ也。」りゅうけいはつふくかんおくふとたもておくりな文忠ふみただ。”
  43. ^ あきら·こげへん,《くにあさけんじちょうろく·特進とくしんこう祿ろく大夫たいふひだりばしらこくしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくしおくふと楊文ちゅう公廷こうていほこら》(まき15,ちょう貞吉さだきちしょ):“正德まさのりちょうしげるふゆみなみ戶部とべ尚書しょうしょどうちょうすなこう辦□こと孽璫熖毒ふけ寰宇すうねん內駭奔未いき南平みなみだいらきた政府せいふ囂欱而長すなまた倦念よくれい公代きみよ也嘗じん曰吾於文翰有いちにちながわか經濟けいざいごと須歸かいおっとおっとあまりおおやけ識公於早さいしょう察公於同ごと楊氏あわび叔哉”
  44. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“はつ,廷和入閣にゅうかく東陽とうよういい曰:「われ於文翰,頗有いちにちこれちょうわか經濟けいざいごと須歸かいおっと。」及武宗之むねゆきおわりそつやす社稷しゃしょくしゃ,廷和力也りきやにん以東いとうためごと。”
  45. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“ちょうひさしすんで瑾而驕,男子だんしひじりゅう文者もんじゃ以為こう,援故ふとしかんりゅうひさしまことれい,覬封こう。廷和ごとえいまことしたがえ聚自以戰こうふうはくみみ,且非えいまこと受之也」,乃止。”
  46. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“とう廷和がらせいみかどつねあさほしいままゆう大同だいどうせんのべ綏間,失政しっせい。廷和嘗不諫,俱不聽。廷和また不能ふのう執奏しっそう。以是邑邑自得じとくかずうつやまし乞骸こつみかどまた聽。ちゅうかんたに大用おおゆうあきらちょうつよし義子ぎしせんやすしこうあきらやからほしいままよこ甚。廷和雖不為ふためしかまた不能ふのうゆうしょさいきん,以是どくやややす。”
  47. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“みかど頗事とき醮。廷和りょくげん不可ふか,引梁たけそう徽為喻,ゆうむねほうおさめこうひだりとしとうちゅうかん請遣かんとくみやつここう及給ごとげんみな聽,おもむき內閣せん敕。廷和とうたてまついのちいん極言きょくげんみんこまざい竭,請毋遣。みかどおもむきいよいよきゅう,且戒毋瀆擾執拗しつよう。廷和りょくそうげん:「しんとうあずか舉朝大臣だいじんげんかんげん聽,顧三邪佞之言是聽,陛下へいかのうどくあずか三邪佞共治祖宗天下哉?且陛以織づくりためるいあさ舊例きゅうれい不知ふちひろし以來いらいなん嘗有はじめなり弘治こうじみみけんそうこうそうあいみんぶしざいせいいち陛下へいかほうどくほう其不しゃなに也?即位そくいいちみことのりちゅうかん倖路絀塞殆盡,天下てんかかたでん聖德せいとくこんゆるがせゆう此,なに以取しん?」いん請究なずらえむねしゃ何人なんにんうたぐゆうかり批以ぎょう其私しゃみかどためしゃ不審ふしん,俾戒しょかん毋縱肆而やめ不能ふのうどめ也。”
  48. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“彭澤はた西にし討鄢ほんじょもんけい廷和。廷和曰:「以君ざいぞく不足ふそくひらめしょ戒者はん早耳はやみみ。」さわやぶ誅本じょとうそくはん,而餘とうふく蝟起不可ふかせいさわすんではつふくとめ,乃歎曰:「楊公先見せんけんわれ及也。」”
  49. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき190):“おとうと廷儀,兵部ひょうぶみぎさむらいろうまきあつしまごゆうじんみな進士しんしまきゆうでん。”
  50. ^ 《姨母淑人よしと墓誌ぼしめい》:「淑人よしとためくもひさげがく副使ふくし眉山びざん公明こうめい善之よしゆきおんな。姊妹にんちょうてきまゆしゅう引禮ぐま瑋;てきちょう夀御しゅうしげるためわれははため淑人よしとてき香河かごすすむたかし慶萬けいまん衡。」
  51. ^ 新都しんとますあんかつら:新都しんとじょうもと. 先鋒せんぽうたびゆうもう. [2011-09-04]. (原始げんし内容ないようそん档于2015-06-20). 

資料しりょう

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外部がいぶ連結れんけつ

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かん
前任ぜんにん
東陽とうよう
明朝みんちょうないくび
1512ねん-1515ねん
つぎにん
はりもうか
前任ぜんにん
はりもうか
明朝みんちょうないくび
1517ねん-1524ねん
つぎにん
蔣冕