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楊一清 - 维基百科,自由的百科全书

楊一きよし

楊一きよし(1454ねん12月24にち—1530ねん9がつ5にち),おうやすしごう邃庵學者がくしゃしょういし先生せんせい雲南うんなん安寧あんねいひとみずうみひろともえりょうせき[2]明朝みんちょう政治せいじ文學ぶんがく進士しんし出身しゅっしん,此後歷任れきにん山西さんせい陝西せんせい官員かんいん擔任たんにんくびにん陝甘總督そうとく,并平定へいていやすおうしゅ寘鐇謀反むほんあずかちょうひさしじょ掉宦かんりゅうせいかん吏部尚書しょうしょよしみやすし初年しょねん,其在大禮たいれいちゅう支持しじ明世あきよむねたてなまちちため皇考こうこう擔任たんにん內閣くび晚年ばんねんいんあずかちょうかつらがくごう致仕ちしそつぶんじょう

楊一きよし
明佚名《明良真像》冊之文襄公楊一清遺像
あかり佚名《明良あきよししんぞうさつぶんじょうおおやけ楊一きよしのこぞう
大明だいめいしょうけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょはなぶた殿どのだい學士がくし
せきぬき雲南うんなん安寧あんねいひと
みずうみひろともえりょうせき
ぞくかんぞく
ごうおうやすしごう邃庵,學者がくしゃしょうせき先生せんせい
諡號しごうぶんじょう
出生しゅっしょうけいやすしじゅうねん十二月じゅうにがつろくにち
(1454ねん12月24にち
廣東かんとんしゅう
逝世よしみやすしきゅうねんはちがつじゅうよんにち
(1530ねん9がつ5にち[1]
ちょくかちけんいま江蘇こうそ鎮江
おやぞく楊景(ちち
出身しゅっしん
  • なり八年壬辰科同進士出身
著作ちょさく
  • 《楊文じょうおおやけしゅう

生平おいだいら

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なり弘治こうじ年間ねんかん

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杨一清游焦山七律诗。こげやまりん

楊一きよしせきぬき雲南うんなん安寧あんねいしゅう內有せき淙渡。凡撰述せんじゅつだい識皆以石淙繫時人じじんしょう為石ためし先生せんせいちち楊景,ため永樂えいらくみずのと舉人初任しょにんちょく霸州判官ほうがんこうあらためみずうみひろ澧州判官ほうがんひさ,遷廣東かんとんしゅうどう

けいやすしねん十二月じゅうにがつろくにち(1454ねん12月24にち),楊一清生せいせい於化しゅうてんじゅんよんねん(1460ねん),ちち楊景致仕ちし,攜楊一清かずきよ家居かきょともえりょう[3]少年しょうねん時代じだい,楊一清有神童之譽。こも翰林かんりん秀才しゅうさいけんむねいのち內閣教之のりゆきなりよんねん(1468ねん),楊一清中式戊子科さとためしねんかたじゅうよんなりはちねん(1472ねんとうみずのえたつ进士。よしちち,徙葬觀音かんのんろうちまたえんどおりあんきたなみざい此定きょふくじょ,授中書ちゅうしょ舍人とねり[4]

なりじゅうさんねん(1487ねん),楊一きよしますにん山西さんせい按察使僉事,あらため陝西せんせいひさげがく副使ふくしざい陝西せんせいにんしょくはちねんあいだ考察こうさつ邊疆へんきょうせんごと弘治こうじじゅういちねん(1498ねん入朝にゅうちょうにんふとつねてらしょうきょうしん南京なんきんふとつねてらきょう[5]

弘治こうじじゅうねん(1502ねん),けいりゅうだいなつ舉薦,ます察院ひだりふくめぐなで陝西せんせいとく陝西せんせいせいにん平定へいてい邊疆へんきょうしんおかせ彈劾だんがいむさぼいさおそうへい武安たけやすこう郑英[6]并推荐都ゆび挥佥ごと曹雄代任だいにん,及裁げん鎮守ちんじゅちゅう官費かんぴよう軍紀ぐんき為之ためゆき肅然しゅくぜん

正德しょうとく年間ねんかん

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たけはじめ即位そくいこうむすうまん入寇にゅうこうかたはらそうへいかん曹雄拒絕きょぜつ援助えんじょ。楊一清則帥輕騎自平涼晝夜行,抵禦いれおかせ發動はつどう奇襲きしゅう擊退げきたいしんはん。此後,楊一清以延綏、やすしなつ甘肅かんせい三地有警不相援,請求せいきゅうりつりょう大臣だいじん兼任けんにんりゅうだいなつ於是請求せいきゅう楊一清總制三鎮軍務(陝甘總督そうとく),正德まさのり元年がんねん(1506ねん),加都かつ察院みぎ[7]。楊一清在任期間因修建邊疆防禦,たけはじめ贊同さんどう并發帑金すうじゅうまん使つかい完成かんせい防禦ぼうぎょ工事こうじふとしかんりゅういん楊一清不依附自己,而彈劾楊一清かずきよせりやまい辭職じしょくこれりゅう瑾誣陷其冒りょう浪費ろうひ邊疆へんきょう費用ひよう,而被逮捕たいほいれみことのりごくだい學士がくし東陽とうようおうろんすくえかたざい救出きゅうしゅつ。仍命致仕ちし先後せんごばつまいろくひゃくせき[8]

正德しょうとくねん(1510ねん),ふう於陝西にしてきやすおうしゅ寘鐇謀反むほんたけはじめいのちふくおこり楊一きよしそうせい軍務ぐんむあずかそうへいかんかみすぐるひら叛,并命中めいちゅうかんちょうひさし擔任たんにんとくぐん大軍たいぐんひさし抵達,楊一きよしきゅうかたきやめけいひら叛并逮捕たいほしゅ寘鐇。楊一清馳馬抵達鎮縣,并宣佈德ちょうひさしずい趕到,兩人りょうにん相談そうだん甚歡。楊一清知道张永與劉瑾有矛盾,趁機あずか张永はかりごと劃除掉劉瑾之さく。张永けいかいきょうめんたけはじめひさりゅう瑾伏誅。

同年どうねん,楊一清奉召入朝,はいため戶部とべ尚書しょうしょ論功ろんこう太子たいししょう賜金しきんぬさつぎねんあらため吏部尚書しょうしょ[9]

楊一きよし為政いせいどおりねり性情せいじょう寬大かんだい。其在吏部尚書しょうしょにんじょう恢復かいふく此前ためりゅう瑾所おちいがいてき官員かんいん,并派遣はけん官員かんいん中原なかはら平定へいていぬすめらんとう,此後しょうたもて太子たいしふとしたもて,廕錦ころもひゃく。此後いんせんよう尚書しょうしょ靳貴,而進楊一きよためしょうでん太子たいしふとしでんいぬい清宮きよみやわざわいみことのりもとめ直言ちょくげん,楊一清上書稱皇上視朝太遲,とおるまつふと慢,ざい西にし內大づくりてらびょうざい禁中きんちゅうとめ宿やどへい,并闡じゅつ在京ざいきょう畿內設立せつりつすめらぎてんてきへいびょう,以及江南こうなんみやつことう擾民事情じじょうこれいんびょう乞歸,たけはじめ仍然挽留。だい學士がくし楊廷ちょうゆうたけはじめいのち其兼武英たけひで殿どのだい學士がくし進入しんにゅう內閣さんさんつとむせんやすしらんせい,受到楊一きよしてきゆびせめ,於是其與こうあきらとうひと勾結,じんざいたけはじめ面前めんぜん詆毀楊一きよし,此後楊一きよし請求せいきゅう致仕ちし歸鄉ききょうあずかこげ山寺やまでらそうみょうぶく禪師ぜんじためとも[10]たけはじめみなみじゅん,曾經抵達楊一せいあずか其樂いんりょう晝夜ちゅうや。楊一清借機勸阻,たけはじめ於是取消とりけしこう浙等てき巡遊じゅんゆう[11]

よしみやすし年間ねんかん

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圣贤ぞう传略》じゅうろくかん《楊文じょうぞう

明世あきよむねひさしため世子せいしときあずかけんじおう就曾けいたい其稱,すわえゆうさんすぐる分別ふんべつりゅうだいなつ東陽とうよう及楊一清かずきよむね銘記めいき於心。即位そくいきさき廷臣ていしん紛紛ふんぷん交相舉薦楊一きよし,於是むね派遣はけん官員かんいんたまものきむぬさそんとえ,楊一きよし謝絕しゃぜつせいそうとくいちかん中書ちゅうしょ舍人とねりよしみやすしさんねん十二月じゅうにがつ(1525ねん),せいそうみことのり楊一清少傅兼太子太傅,あらためにん兵部ひょうぶ尚書しょうしょひだりそうせい陝西せんせいさんへん軍務ぐんむいたり此,以尚しょ擔任たんにん邊疆へんきょう大臣だいじんてき慣例かんれい楊一せいはじめそうざい詔書しょうしょちゅう褒獎讚美さんび,以其あずかかく相稱そうしょう。楊一清至此第三次為總制,其部ひとし踴躍興奮こうふんひさ平定へいていまたすすむはん,并接受せつじゅ魯番まともとめみつぎ

よしみやすしねん(1526ねん),入朝にゅうちょうにん吏部尚書しょうしょ武英たけひで殿どのだい學士がくししょう、仍兼太子たいしふとしでんひさけんじ皇帝こうてい實錄じつろくしょなりきさき太子たいしふとし、謹身殿どのだい學士がくし。楊一清以未曾參預纂修而請辭,ぼつゆういたむね批准ひじゅんおうけんそう戰功せんこう,推功于楊一清かずきよ,於是ためひだりはしらこくはなぶた殿どのだい學士がくし。此時,まえ內閣くびひろしやめしょく,於是楊一きよしせっにんせいそうたまものぎんしょう分別ふんべつ「耆德忠正ただまさ」、「なわ愆糾違」,いのち其可以密封みっぷうげんごと。楊一きよしあずかちょう論及ろんきゅうちょうひさしぜんこうおこりため提督ていとくだん營。きゅうごとちゅうりくつばら增築ぞうちく牆,也得いた楊一きよし批准ひじゅん。《明倫めいりん大典たいてんしょなりきさきせい一品いっぴん[12]

大禮たいれい期間きかん,楊一きよしきょあいだいたちょうてきじょう疏后,たい門人もんじんたかししょう:「ちょうなま此議,聖人せいじんふくおこり不能ふのうえき也。」またすすむ席書せきがき及早赴召,以定だいちょう璁等じんあらわ赫,たい楊一きよし頗為推重すいちょうむね以其ため老臣ろうしんおんれい渥。ちょう璁與かつらがくすんでやめ攻擊こうげき趕走ひろし想到そうとう楊一きよし必然ひつぜんかい援助えんじょ自己じこ,而楊一清卻堅持召しゃ,於是ちょうひとし人心じんしんゆう怨恨えんこんしゃ遷未いたりちょう璁已にゅう內閣,於是ばららい商議しょうぎ事情じじょうゆう當時とうじにしきころも聶能遷攻擊こうげきちょう璁,ちょう璁欲おけ死地しち楊一きよそもそも阻。张璁だいいかうえ疏诋毁杨一清かずきよ,杨一清于是上疏乞归,せいそう从中调解。杨一清又因災變,请求戒飭かいしょく百官ひゃっかん和衷わちゅうさいつぎ请求宽恕大礼たいれい议諸しんざいまちかつらがくにゅう內閣,矛盾むじゅんいよいよはつ激化げきかきゅうごとちゅうおうじゅんりくつばらけん舉揭はつちょう璁、かつらがく招權おさめまかないことせいそうずいそく罷免ひめん兩人りょうにんおおやけ佈其ざい。其黨霍韜しょう兩人りょうにんはなれ去勢きょせい必牽れんいたわが。於是じょう疏攻げき楊一きよししょう接受せつじゅちょうひさししょうけい賄賂わいろ。楊一清再次上疏辯解并請求罷免。むね雖然挽留,ただしちょう璁再召還しょうかん,霍韜さいつぎ攻擊こうげき,并稱げんほうつかさ秉承楊一きよしてき意思いし,而無げんかつらがくてき罪過ざいかそういたる此大いかれいほう司會しかいどう廷臣ていしん商議しょうぎ,貶刑尚書しょうしょしゅうりんにん南京なんきん刑部おさかべ尚書しょうしょ,以侍ろうもとたたえ代任だいにんもとたたえ於是以霍韜的ばなし請求せいきゅうそぎせき楊一きよしちょう璁又三上みかみひそか疏,しょう楊一清假意乞求辭退,而實質じっしつ以堅ていむねてきそうほう。於是むね果然かぜん允許いんきょ楊一きよし致仕ちしはせえき,仍賜きんぬさつぎねんちょう璁等誣陷しゅつぎむねとう入獄にゅうごく,并連坐れんざ楊一清接受張永之弟張容的錢財,ためちょうひさしうつし墓誌ぼしめいとう。楊一きよしだい恨道:“ろう矣,乃為孺子じゅししょうり!”背部はいぶ疽發而死,とめのこ疏,瞑目めいもくむね於是れいさいついとい此前贓事,すうねんついふく官職かんしょく久之ひさゆきおくふとしおくりなぶんじょう[13]

著作ちょさく

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しるゆう《楊文じょうおおやけしゅう》、《关中そう议》、《いし淙诗钞》とう

はかそう

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楊一清墓在今江苏镇江南山的九华山,现存はかしつはかどうはかどう长近いち,两侧ゆうおうなかいしじん)、いし狮、いし马及龟蚨しょう峙对りつ,并有三门四柱冲天式牌坊和石拱桥。こんぱいぼうせき桥已毁,あまりひとしそん。杨一清墓作为镇江地区保留比较完整的私人墓道,1987ねんれつ为市级文ぶつ护单

評價ひょうか

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あかりちゅう稱讚しょうさん楊一きよため“其才いちりょう”、“これ姚崇”。其博がくぜんけんへんゆう其曉とおるあたりごと。其生而隱みや,貌てらじん[14]

注釋ちゅうしゃく

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  1. ^ あきら·こげ,《くにあさけんじちょうろく》(まき15):おおやけせい燥熱またいんあつししゅまいやまいねつどくいたりろくがつおわり疽發泄瀉えつ數日すうじつそついち言及げんきゅう後事こうじぜん半月はんつき嘗歎曰吾やましおこり矣使やましはやはつそくわれとく林泉りんせん使やまし後發こうはつそくわれとくしろこころ迹今適當てきとう蒙昧もうまいさい而是やまし乃發嗟乎じんはた以為口實こうじつ也卒これためよしみやすしきゅうねんはちがつじゅうよんにち
  2. ^ 沈登なえ明代あきよそうせき进士てき分布ぶんぷながれこうあずか明代あきよ移民いみん. [2020-02-08]. (原始げんし内容ないようそん于2020-08-18). 
  3. ^ あきら·こげ,《くにあさけんじちょうろく》(まき15):楊公一清かずきよおうやすしごう邃菴。さき雲南うんなん安寧あんねいしゅうしゅうゆうせき淙渡,おおやけ撰述せんじゅつだい識皆以石淙繫時人じじんたたえ為石ためし先生せんせいちちいみなけいちゅう永樂えいらくみずのときょうためしはつはん霸州,あらため澧州遷廣ひがししゅうどうけいたいかぶといぬじゅうがつ六日生公於化州。てんじゅんかのえたつちち致仕ちし攜公便びんどうおとずれぜんははりゅういえ於巴りょう
  4. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき198):楊一きよしおうやすし,其先雲南うんなん安寧あんねいじんちちけい,以化しゅうどう致仕ちし,攜之きょともえりょうしょう能文のうぶん,以奇童きどうこもため翰林かんりん秀才しゅうさいけんそういのち內閣教之のりゆきとしじゅうよん舉鄉こころみのぼりしげるはちねん進士しんしちちそうとげ焉。ふくじょ,授中しょ舍人とねり
  5. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき198):久之ひさゆき,遷山西にし按察僉事,以副使ふくしとくがく陝西せんせい。一清貌寢而性警敏,こうだん經濟けいざい大略たいりゃくざいはちねん,以其ひまきわむあたりごと甚悉。にゅうためふとつねてらしょうきょうしんみなみ京太きょうたつねてらきょう
  6. ^ あかりさく郑宏うたぐ误。武安たけやすこう郑宏はややめとう时已よし其子郑英袭爵,郑英曾任陕西总兵。
  7. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき198):弘治こうじじゅう五年用劉大夏薦,擢都察院ひだりふくとく陝西せんせいせい西番にしのばんにょう,而仰きゅう中國ちゅうごくちゃいん以去やましふとしちょれい,以蜀ちゃえきばんぐんちゅうようひさ而寖たゆ,奸人はさみわたしちゃたけなわためばん不時ふじいたり一清かずきよいむためきんつきかご茶利ちゃり於官,以服致諸ばんばんうまだいしゅうかい大入おおいりはな馬池うまいけみかどいのち一清巡撫陝西,仍督せいはじめ受事,寇已退すさ。乃選そつ練兵れんぺい創平そうへいとりこべに二城以援固原,ちくかきひんかわ以捍やすしとりこ,劾罷むさぼいさおそうへい武安たけやすほうていひろしたっ鎮守ちんじゅちゅう官費かんぴ軍紀ぐんき肅然しゅくぜんたけはじめはつだて,寇數まん抵固ばらそう兵曹へいそうゆうぐん隔絕かくぜつ相聞そうもん。一清帥輕騎自平涼晝夜行,抵雄ぐん為之ためゆき節度せつどはりうたぐへいおびえ寇,寇移はん隆德たかのり一清かずきよよる發火はっか礮,ひびきおう山谷さんやあいだ。寇疑大兵だいひょういたり,遁出ふさが一清かずきよ以延綏、やすしなつ甘肅かんせいゆう警不しょう援,患無しょすべ,請遣大臣だいじんけんりょうだいなつ請即いのち一清總制三鎮軍務。ひろしんみぎ
  8. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき198):大發だいはつ帑金すうじゅうまん使つかいいちきよちく牆。而劉瑾憾一清かずきよおのれ一清かずきよとげ引疾。其成しゃざい要害ようがいあいだ僅四じゅうさと。瑾誣一清冒破邊費,逮下にしきころもごくだい學士がくし東陽とうようおう鏊力すくいとくかい。仍致仕ちし先後せんごばつまいろくひゃくせき
  9. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき198):やすおう寘鐇はんみことのりおこりいちせいそうせい軍務ぐんむあずかそうへいかんかみえい西にし討,ちゅうかんちょうひさしかん其軍。いたり,一清故部將仇鉞已捕執之。一清馳至鎮,宣布せんぷとくちょうひさし旋亦いたり一清かずきよあずか結納ゆいのうそうとく甚歡。知永ちながあずか瑾有すきじょうあいだ扼腕やくわんごと曰:「よりゆきおおやけりょくていはんがわしか此易じょ也,如國家こっか內患なに。」えい曰:「なにいい也?」一清遂促席畫掌作「瑾」ながなん曰:「晨夕上前うわまええだ根據こんきょ耳目じもくこう矣。」一清かずきよ慷慨こうがい曰:「おおやけまたうえしんしん,討賊づけ他人たにん而付こう可知かちこんこうなりそうとし,請間ろん軍事ぐんじいんはつ瑾奸,ごくひねうみ內愁怨,懼變おこり心腹しんぷくうえ英武ひでたけ必聽ひっちょうこう誅瑾。瑾誅,公益こうえきよう,悉矯ぜんへいおさむ天下てんかしんりょきょうちょううけたまわぎょう暨公,千載せんざいさんにんみみ。」えい曰:「だつすみ奈何いかん?」一清かずきよ曰:「げん於公必濟。まんいち不信ふしんおおやけ頓首とんしゅよりどころ泣,請死上前うわまえ,剖心以明妄,うえ必為こうどう。苟得請,そく行事ぎょうじ,毋須臾緩。」於是なが勃然ぼつぜんおこり曰:「嗟乎,ろうやつなん惜餘ねん以報ぬし哉!」竟如いちしんさく誅瑾。えい以是とく一清かずきよ左右さゆうとく召還しょうかん拜戶はいど尚書しょうしょ論功ろんこう太子たいししょうたもて賜金しきんぬさひろあらため吏部。
  10. ^ こげやまこころざし
  11. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき198):“一清於時政最通練,而性闊大。あいらくけん大夫たいふあずかきょう功名こうみょう。凡為瑾所搆陷しゃりつ甄錄。あさゆうしょゆうそくとうこも門生もんせい徧天。嘗再そちせきちゅうおこりへん裨至大將たいしょうふうこうしゃ累累るいるいしかぜっ。饋謝ゆうしょいれえんしゅそくこれ大盜たいとう中原なかはら,一清疏請命將調兵。前後ぜんご凡數じょうみなほうぬすめひらめしょうたもて太子たいしふとしたもて,廕錦ころもひゃくさい推內かく不用ふようよう尚書しょうしょ靳貴,而進一清かずきよしょうでん太子たいしふとしでんきゅうごとちゅうおうのぼるろんせんほうへいゆび一清かずきようえ私黨しとうみかどため謫昂。一清かずきよさらさるすくえゆうむねほう聞。いぬい清宮きよみやわざわいみことのりもとめ直言ちょくげん。一清上書言視朝太遲,とおるまつふと慢,西にし內創梵宇,禁中きんちゅう宿やどへい,畿內すめらぎてんがい江南こうなんみやつこ擾。よし引疾乞歸,みかど慰留いりゅうだい學士がくし楊廷かずゆういのち一清兼武英殿大學士入參機務。ちょうひさしひろとくざいやめ,而義せんやすし用事ようじやすしぜん一清かずきよゆう搆之しゃいん蓄怨。かいわざわいこと一清かずきよ劾,ごくちん時政ときまさ中有ちゅうう狂言きょうげん惑聖聽,匹夫ひっぷゆら國是こくぜ禁廷きんていざつかいかぶとおっと京師けいしはんませたくそしせつなきん倖,みかどどるしょうやすしあずかこうあきらやから聞之,だいいか使つかいゆうじん於帝ぜんため蜚語ひごとげそし一清かずきよときゆう考察こうさつやめかんしゃ,嗾武學生がくせいしゅ大周たいしゅう訐一きよしかげごと,而以やすしため內主。きゅうごとふみしゅうきんちん軾等交章劾大しゅう妄言ぼうげん,請究ぬし使みかど聽。一清乃力請骸骨歸,たまもの敕褒さとしきゅうおっと廩如せいみかどみなみせいさいわい一清かずきよだいらくいんりょう晝夜ちゅうや賡和以十すう一清かずきよ從容しょうよう諷止,みかどとげ不為ふためこう、浙行。”
  12. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき198):むねため世子せいしけんじおう嘗言すわえゆうさんすぐるりゅうだいなつ東陽とうよう及一きよし也,こころ識之。及即位そくい廷臣ていしん交薦一清かずきよ,乃遣かん賜金しきんぬさそんとえさとし以宣召期,おもむき使ゆうごと一清かずきよ陳謝ちんしゃとくいちかん中書ちゅうしょ舍人とねりよしみやすし三年十二月戊午詔一清以少傅、太子たいしふとしでんあらため兵部ひょうぶ尚書しょうしょひだりそうせい陝西せんせいさんへん軍務ぐんむそうぎょうあたりいちせいはじめゆたかみことのり褒美ほうびかく。一清至是三為總制,きょくみな踴躍また西海にしうみため西にしやすし洮河がいかねけんじみんげんなで便びんどく一清かずきよ請剿。魯番もとめみつげひねきゅうよくぜっいち清則きよのり請撫。ときそちしょしょう肄習ぎょうじん,嘗曰:「無事ぶじとう有事ゆうじ隄防,有事ゆうじとう無事ぶじ鎮靜ちんせい。」かいちょうとうちからはいひろしよしいん請還一清かずきよ內閣。きゅうごとちゅうあきらほうとうそうみかど謫秩かん,召一清為吏部尚書、武英たけひで殿どのだい學士がくしすんでいれしょう,仍兼太子たいしふとしでん故事こじ也。ほろびなにけんじ皇帝こうてい實錄じつろくなり太子たいしふとし、謹身殿どのだい學士がくし。一清以不預纂修辭,もとおうけんそうとし,推功一清かずきよ特進とくしんひだりばしらこくはなぶた殿どのだい學士がくしひろしやめ,一清遂為首輔。みかどたまものぎん章二しょうじ,曰「耆德忠正ただまさ」,曰「なわ愆糾違」,れい密封みっぷうげんごとあずかちょう璁論ちょうひさしぜんこうおこりため提督ていとくだん營。きゅうごとちゅうりくつばら增築ぞうちく牆,推明一清曩時議,一清因力從臾之。みかどためはつ帑金,いのちさむらいろうおう廷相往,しかひさまた竟止。明倫めいりん大典たいてんなりせい一品いっぴん俸。
  13. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき198):はつ,「大禮たいれいおこりいち清方きよかた家居かきょ見張みはり璁疏,ぐうしょ門人もんじんたかし宇曰:「ちょうなま此議,聖人せいじんふくおこり不能ふのうえき也。」またすすむ席書せきがき赴召,以定だい。璁等すんで驟顯,頗引一清かずきよみかどまた以一きよし老臣ろうしんおんれい渥。めんつね朝日あさひこうさむらいはんさくのぞむちょうさんれい晨初はじめ入閣にゅうかくごとしょかずあきら及金ぬさろう醴之たまもの甚渥。ところげんごとくにけい大小だいしょう傾聽けいちょう。璁與かつらがくすんでおさむひろし一清必援己,一清顧請召謝遷,しん怨之。遷未いたり,璁已にゅう內閣,しょさらけん。一清引故事稍裁抑,其黨せき不平ふへいにしきころも聶能遷訐璁,璁欲おけこれ一清かずきよ不可ふか。璁怒,うえ疏陰詆一きよしまた嗾黃たがねはい甚力。一清かずきよ疏辨,げん璁以のう遷故はいおのれ,且傍及璁よし乞骸こつみかどためりょうかい。一清又因災變請戒飭百官和衷,ふく乞宥れいしょしんざい,璁益憾。かつらがくにゅう內閣,また相能あいのう一清かずきよ屢求,且言:「こん持論じろんしゃなおまがえさらしんどくぬし安靜あんせいなおこく覈,しんどくぬし寬平かんぺいよう齟齬そごねがい避賢しゃ。」みかどふくぬるむね褒之。而給ごとちゅうおうなずらえりくつばらはつ璁、がく招權おさめまかないじょうみかどりつやめ璁、がく,且暴其罪。其黨霍韜攘臂曰:「ちょうかつらこういきおい且及。」とげじょう疏力おさむ一清かずきよげん其受ちょうひさししょうけいまかない一清かずきよさい疏辨,乞罷。みかど慰留いりゅう,而璁ふく召還しょうかん,韜攻えききゅう,且言ほううけたまわいち清風せいふうゆび,搆成がくざいみかどはていかれいほう司會しかい廷臣ていしんざつ刑部おさかべ尚書しょうしょしゅうりん南京なんきん,以侍ろうもとたたえだいたたえ乃實韜言,請削一清かずきよせきみかどれい一清かずきよひね。璁乃三上みかみひそか疏,引一きよしさんれいこう,乞賜ひろしかりじつ以堅みかど俾之みかどはてまこと致仕ちしはせえき,仍賜きんぬさ明年みょうねん,璁等搆朱つぎむねごくすわ一清受張永弟容金錢,為永ためながはかまたあずかようにしきころも指揮しきとげ落職あいだじゅう一清かずきよだい恨曰:「ろう矣,乃為孺子じゅししょうり!」疽發のこ疏言衊,且不つむみかどれいしゃく贓罪不問ふもんこうすうねんふくかん久之ひさゆきおくふとたもておくりなぶんじょう
  14. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき198):一清かずきよなま而隱みや,貌寺じん博學はくがくぜんけんへんゆうあかつきとおるあたりごとはねしょつくりうま一夕いっせきうらないじゅう疏,悉中機宜きぎひとある訾己,はんこもあげおもんみばんあずか璁、がくこと為所しどころきし以恩れいおわりしか其才いちりょうある姚崇うん

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 くにあさけんじちょうろく·まきじゅう》,出自しゅつじこげくにあさけんじちょうろく
 あかりまきいちひゃくきゅうじゅうはち》,出自しゅつじあかり
 しょうふとしはなぶた殿どのだい學士がくし吏部尙書ぶんじょう楊公墓表ぼひょう
  • 《楊一きよししゅう》(上下じょうげ),ちゅう华书きょくだい1はんISBN 7101022340
かん
前任ぜんにん
りゅう
明朝みんちょう戶部とべ尚書しょうしょ
1510ねん-1511ねん
つぎにん
まご
前任ぜんにん
りゅう
明朝みょうちょう吏部尚書しょうしょ
1511ねん-1515ねん
つぎにん
りくかん
前任ぜんにん
ひろし
明朝みんちょうないくび
1526ねん
つぎにん
ひろし
前任ぜんにん
ひろし
明朝みんちょうないくび
1527ねん-1529ねん
つぎにん
ちょう