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叶向高 - 维基百科,自由的百科全书

かのう向高むこうたか

重定しげさだこう向高むこうたか

かのう向高むこうたか(1559ねん9がつ1にち—1627ねん10がつ7にち),进卿ごう台山だいやまばんごうぶく庐山じん福建ふっけんふくしゅうぶくきよしひと明朝みょうちょう政治せいじ人物じんぶつまんれきじゅういちねん進士しんし。万历天启年間官至內閣首輔。

かのう向高むこうたか
签名:
だい明光めいこう祿ろく大夫たいふじょうはしらこくふとしでんけん太子たいしふとし吏部尚書しょうしょちゅうごく殿しんがりだい學士がくし
せきぬき福建ふっけんふくしゅうぶくきよし
ぞくかんぞく
ごう进卿,ごう台山だいやま
諡號しごう文忠ふみただ
出生しゅっしょうよしみやすしさんじゅうはちねんなながつさんじゅう
(1559ねん9がつ1にち
福建ふっけんふくしゅうぶくきよし
逝世てんななねんはちがつ廿にじゅうきゅう
(1627ねん10がつ7にち
福建ふっけんふくしゅうぶくきよし
はかそうふくしゅう闽侯县
おやぞく祖父そふかのう广彬
ちちかのうちょう
かのうしげるがく
出身しゅっしん
  • まんじゅういちねんみずのと进士出身しゅっしん
經歷けいれき
著作ちょさく
  • 《纶扉そうそうとう

生平おいだいら

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祖父そふこうあきらちちあささかえ。其母りん夫人ふじん怀孕时逢やまとにゅうおかせ,四处奔波逃难,せいかのう向高むこうたか于道つくり败厕ちゅうとく小名しょうみょう廁仔はやし夫人ふじん怀抱かのう向高むこうたかよう时多ぐういたやまと寇,他人たにんひとし弃子逃生,はやし夫人ふじんにん弃之,かのう向高むこうたかさい终幸运地かつりょうらいかのう向高むこうたか五岁开始启蒙,じゅうふん聪敏,人称にんしょう神童しんどうなな岁正しき读书。りゅうけい元年がんねん(1567ねん)“诏选ぐんこく廪生いれふとしがく”,かのう向高むこうたかずいにゅう选的ちち亲叶あさ荣进きょう

りゅうけいさんねん(1568ねんかのうちょう荣名落孙さんかのう向高むこうたか跟随ちち亲返かい乡,ざいふくしゅう读书。りゅうけいねん(1570ねんかのう向高むこうたかくび参加さんか县试,颇受赞赏。まんななねん(1579ねん乡试ちゅう举。まんじゅういちねん(1583ねんとうみずのと进士,授庶吉まんじゅうさんねん(1585ねん)为翰林院かんりんいん编修まんれきじゅうよんねん(1586ねんがついんちち亲去かのうかんかい守孝もりたかまんじゅうはちねん(1590ねん)复起,ただしひさ就得はは亲病逝,年春としはるかい奔丧。

まんじゅうねん(1594ねんかのう向高むこうたかかいきょう补官,にん国子くにこつかさ间受到国子くにこ师生てき爱戴,两年きさきほう从哲せっがえかのう向高むこうたか任国にんごく监司业。まんじゅうねん(1597ねんかのう向高むこうたかますにんみぎ谕德ねん召为ひだり庶子しょしとう太子たいししゅつねらくかけ讲官かくただしいき张位推荐かのう向高むこうたかせっにんただし沈一贯闽人とくさく讲官为由はん对。ひさくび赵志皋直接ちょくせつそう请叶向高むこうたかせっにん太子たいしさむらいはんかん,为台こう讲解对句书法和字わじ太子たいし颇喜かのう向高むこうたかてき讲解,ただし沈一贯从此对叶更为不满[3]

にん南京なんきん

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まんじゅうよんねん(1596ねんおこり,为增加ぞうか财政收入しゅうにゅう明神みょうじんむね陆续派出はしゅつふとし为矿监、ぜい使いた各地かくち“开矿榷税”,此举损害りょうこうしょう业集团利えき,且所ぜい使つねさがせくく钱财さくさくぶくげきおこりつぎみんかのう向高むこうたか甚为关注矿税问题,うえ疏举汉灵みかど开西てい卖官获钱てきれい以反对矿ぜい,请求罢免げきおこりみん变的辽东ぜい使だかじゅん

まんじゅうななねん(1599ねんかのう向高むこうたか结识りょうざい南京なんきん传教てき耶稣かい玛窦きさき进入うちきさき,还曾拨冗两次かい见利玛窦。まんさんじゅうはちねん(1610ねん玛窦去きさきかのう向高むこうたかじゅうふん悲痛ひつうちからぬしたまものそう给利玛窦神父しんぷ,为此说道:“しゅうと勿论其他,そく其所译《几何原本げんぽんいち书,そくむべ钦賜そう矣”[4]

まんさんじゅうねん(1604ねんだい妖书あん发生,ない大臣だいじん间的けいそうこう开化。かのう向高むこうたかわたし致信くび沈一贯希望きぼう不要ふよう妖术あん兴大狱,かぶ连无辜,引起沈一贯的满,受沈抑制よくせいとくます迁为南京なんきんれいなお

どくしょうななねん

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まんさんじゅうよんねん(1606ねんくび沈一贯沈鲤ひとし职,うちちゅうただあましゅ一人ひとり明神みょうじんむねただとくれいぞう阁臣つぎねんがつかのうこうこうすすむれいなおけん东阁だい学士がくし本当ほんとうあずかおう锡爵于慎ぎょう廷机共同きょうどう进入ない阁成为おさむただしおう锡爵坚辞不出ふしゅつ,于慎ぎょうくつにんそくねんくび辅朱赓又びょう逝,辅李廷机いんげんかんしゅう团攻击,さくせいしょうびょうもり门不。这样本来ほんらい应该てき五人内阁变成了叶向高一人处理政务,かのう也不とくやめ开始りょう自己じこてきどくしょう生涯しょうがい[4]

ざい六年多的内阁生涯中,かのう向高むこうたか一方面维持行政基本运行,调停明神みょうじんそうかずげんかん矛盾むじゅん一方いっぽうめん不断ふだんじょう希望きぼうのうかい决两个问题。

いち.针对越来ごえくえつげきおこり地方ちほう极大はん对的矿税,极力ぬし张停どめおさむ矿税,いたりしょう应尽かい严查だい肆扰みんてき矿监,以平いたいらいきみん

.针对まんこよみだるせい导致てき阁臣ろく办事じん员纷纷辞かん,而考かくかん毕的かん员无ほうます迁的かん缺乏けつぼう现状,希望きぼうつきかい推选贤能にゅう阁,以保证行政ぎょうせい命令めいれいてき执行。そくかのうこう高所こうしょ说的“大臣だいじんしゃしょうしん纲。いまろくきょうとめ赵焕一人ひとり,而じゅうねん补,弹压无人,人心じんしんなんよし戢?”ただしかのうこう高所こうしょ基本きほんかみはじめかい复,“しか其言大抵たいていかく不用ふようしょすくえせいじゅうさん而已”。

ぶくおう就藩事件じけん

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明神みょうじんむねいちちょく宠爱郑皇贵妃之子ゆきこしゅつねまことざいかくかた压力ざいりつ长子しゅつねらく太子たいしふうしゅつねまこと为福おうただし万历将福王长期留在きょう,却有五年不给太子指派讲官使つかいとく朝野ちょうや议论纷纷。まんれきよんじゅうねん(1612ねん南京なんきんかくみちうえ:“たいしょう空虛くうきょしょつとむはい墮,うえ深居ふかいじゅうねん嘗一接見せっけん大臣だいじん天下てんかはたゆうりく沉之。”[5] 而葉こう高說こうせつ:“奉天ほうてんがおひさ,而福おういちにちりょう。”。ざい群臣ぐんしんあつし请下,万历只得同意福王就はんぜんらくただしまた提出ていしゅつ必须让福おう庄田しょうだ达到よんまんさいまこと许福おう就藩。かのう向高むこうたか直言ちょくげんよんまん顷,必不能ふのうあしこれこく且无あきらむねまた不信ふしん于天矣。”并举むね立太子りったいし,致使しんむねてきちちきよしむねしゅ载坖けいおう互相猜疑さいぎてき事例じれい以劝说。

せいざいかみはじめ决之时,发生りょう锦衣卫百户王曰乾告郑贵妃内侍ないしかず妖人くしどおり诅咒皇太后こうたいごう皇太子こうたいし,拥立ぶくおうてき事件じけんかみはじめふるえいかふみ载“绕殿ぎょう半日はんにち,曰:此大变事,宰相さいしょうなに无言?” 内侍ないしそく跪上かのう向高むこうたかてきそうあきらかのう向高むこうたか认为此事妖书あん类似,如大追究ついきゅう,必惹大乱たいらん皇帝こうてい需慌ちょう,一方面让人审问王曰乾,一方面确定福王就藩的确切日期即可。かみはじめ此次完全かんぜん接受せつじゅりょうかのう向高むこうたかてき见,确定りょうぶくおう就藩ただしひさ受到郑贵かげ响,じゅう新手あらて谕要ぶくおうとめいただいねんふゆてんかのう向高むこうたかとめ谕旨不宣ふせんまん历派宦官かんがん督促とくそくかのうこう高下こうげ谕,かのう却封还手谕,こばめ从命,かみはじめ无奈,ただとく同意どういぶくおう按时就藩。

よし党争とうそう渐烈,しょひさげてきけん议又かみはじめさい纳,かのう向高むこうたかふかかん自己じこやめ无能为力,ざい推荐りょうほう从哲吴道みなみこれきさき便びんじょう疏坚决请もとめかんかみはじめ却又つぎまことかのう向高むこうたかただとくつとむりょくささえ撑局めんいちちょくいたまんよんじゅうねん(1614ねんかみはじめざいれいすすむかのう向高むこうたかしょうけん太子たいしふとし致仕ちし。闲居在家ありいえてきかのう向高むこうたか日本にっぽんだき有高ありだかてき警惕。まんよんじゅうよんねん(1616ねんうつししん推荐ろうとも沈有ようこれきさき几年一直表现出对日本想占领台湾たいわんてき担忧[4]

复起いたさいつぎかん

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明光めいこうむねやすしあきら元年がんねん(1620ねん家居かきょ六年后的叶向高被召重入うちなお动身,ひかりむね病死びょうし即位そくいてきあかり熹宗继续催促さいそくかのう向高むこうたかかえしあさ天啟てんけい元年がんねん(1621ねんじゅうがつかのう向高むこうたか重任じゅうにんくびずいそく请发ないひゃくまんきょう辽东防御ぼうぎょ,熹宗じゅんそうひさちゅう开始执掌つかさあや,逐贤しん吏部なおしゅうよしみだい学士がくし刘一燝请归,かのう向高むこうたか为刘鸣不平ふへい,开始遭到ちゅう贤记恨。ずいきさきかのう向高むこうたか不断ふだん护了いち正直しょうじきてきげんかん,如帅众、ちんりょう训等こうめん于难,ただしざい王化おうかくま廷弼对辽东防务的そう论中,かのうこう高作こうさ为王贞的すわ师,对其颇为维护,じょ长了两人てきごう[6]

天啟てんけいよんねん(1624ねんとうこれ势日もり,开始だい迫害はくがい东林とうひととうおう绍徽编制りょう东林てんはた》,かのう向高むこうたかいんあさちゅう清流せいりゅうてき代表だいひょうれつ东林とう首魁しゅかい于“及时”。六月ろくがつ杨涟うえ弹劾ちゅう贤,かのう向高むこうたか认为ちゅう不易ふえきじょ,仍应以调为主。かのう向高むこうたかてきそとおいはやしなんじむちむちちゅうけんてき手下てしたちゅうけん聞知ぶんちだいいかじゅん逮捕たいほりんなんじzhùはやしなんじ翥事さき得知とくち,逃到遵化ちゅう贤遂じん围住くび辅叶向高むこうたかてきたくいんだい肆搜很多宦官かんがん围住かのう向高むこうたかてい噪,“ちゅうかん围阁しんだいひゃくねん来所らいしょ无”,かのう向高むこうたか朝政ちょうせい不可ふかためとげ請辭じゅう,於同年どうねんなながつ致仕ちし

天啟てんけいななねん(1627ねんよん五月ごがつ间,かのう向高むこうたか曹学佺もぐさ儒略三人进行了两天的讨论,かのう曹站ざい儒家じゅかたて场,对天主教てんしゅきょう这种舶来はくらい信仰しんこう提出ていしゅつうたぐ问,もぐさ儒略则一いちさくこたえしょう三山みやま论学”。六月ろくがつかのう向高むこうたかかいいたいえ乡,はちがつ廿にじゅうきゅう(10がつ7にちびょう逝,とおることぶきろくじゅうきゅう岁。たかし元年がんねん(1628ねんあかりおもえむね即位そくいざい诛杀ちゅう贤後,つい赠葉向高むこうたかふとし文忠ふみただ

成就じょうじゅ著作ちょさく

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かのう向高むこうたかこう书法ゆう专精くさ著作ちょさく颇丰,ゆう《纶扉そうそう》30かん,《续纶とびらそうそう》14かん,《ひかりむね实录》8かん,《蘧编》20かん,《纶扉そうそう》10かん,《きさき纶扉そうそう》10かん,《苍霞そう》20かん,《苍霞ぞくくさ》22かん,《苍霞あまりくさ》14かん,《苍霞诗草》8かん,《说类》60かん,《まいり古今ここん大方おおがた诗经大全たいぜん》14かん,《玉堂きょくどう纲鉴》72かん,《ぶくきよしこころざし》4かん,《宫词》4かん,《ぶく庐灵がんこころざし》3かん

遺跡いせき

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いまふくしゅうしゅむらさきぼうゆうかのう向高むこうたかきょぶくせい保存ほぞんゆうかのうしょうたくざい向高むこうたかがいこんただそんきさきはな园,かり山池やまいけ桥亭榭的ぬのきょく构思しょう明代あきよ园林てき杰作,90年代ねんだいきさき大面おおも改造かいぞうきさき辟为おおやけやめ复旧貌,こと为可惜。另有赐“阁重伦”ぼう,以彰显叶向高むこうたか两次にゅう阁为輔的经历。此坊きん处又ゆうぜんいし雕砌てき桥塔,たからむちろくめんじゅうなな层,こう逾30べい,甚是ひろし伟。传为かのうむかい高之たかゆきしょづくりちん贵的明代あきよいしりょうけん筑的实物资料。ぶくきよしきさきかのうむら也有やゆうかのう向高むこうたかさとめん还悬挂许ぱい匾,现是かのうむねほこら.

家族かぞく

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祖父そふかのう广彬(1491ねん-1572ねん),だいむべいち说字だいえきごうがつまどつきあん中年ちゅうねんつまさいぞくつる[7][8]

ちちかのうちょう(1515ねん-1586ねん),りょう时,ごう桂山かつらやまかんいたり广西养利しゅうしゅう有清ありきよめいためこうあきらどく[7][8]

だいおとうと むかいあきらおとうと むかいひさしさんおとうと むかいとおる;另あねいもうと[7][8]

长子かのうしげるがく(1578ねん-1614ねん),なんじ习,曾任なおたからつかさすすむ[9]

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ あきら熹宗悊皇帝こうてい實錄じつろくまきじゅういち》:以黔いさおおん輔臣,前任ぜんにんくび輔見こん召用向高むこうたかしんちゅうごく殿しんがり大學だいがく
  2. ^ 大明だいめい熹宗悊皇帝こうてい实录まきよんじゅう》:だい学士がくしかのう向高むこうたか一品いっぴんろくねんこう满,韩爌いちひんさんねんこう满,吏部そううえ谓叶むこうだかやめ经三かんがえ,历事さんあさ,从来阁臣しょ无,じょうはしらこくふとしでん,荫一子为尚宝司司丞...
  3. ^ あかり·向高むこうたかでん
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 ちぇらい廷. 海国かいこくせい明代あきよくび辅叶むこうだかあずか海洋かいよう社会しゃかい. こう西南せいなんあきら: 江西えにし高校こうこう出版しゅっぱんしゃ. 2006. ISBN 7-81075-714-8. 
  5. ^ あかり·しんむね本紀ほんぎ
  6. ^ あかり·王化おうか贞传》
  7. ^ 7.0 7.1 7.2 しゅうあきらてる,"あささかえ有道ありみちこつとうぐう異人いじん平生ひらお三次みつじとく神仙しんせん救命きゅうめい"[1]页面そん档备份そん互联网档あん),Epoch times,2021-12-06.
  8. ^ 8.0 8.1 8.2 明代あきよ涌幢小品しょうひん
  9. ^ 明代あきよおさむ辅叶こうこう之子ゆきこ坟墓频遭ぬすめ. 2008-09-21 [2008-09-24]. (原始げんし内容ないようそん档于2012-07-12) ちゅうぶん(简体)). 

外部がいぶ链接

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かん
前任ぜんにん
廷機
明朝みんちょうないくび
1612ねん-1614ねん
つぎにん
かたしたがえあきら
前任ぜんにん
りゅういち
明朝みんちょうないくび
1621ねん-1624ねん
つぎにん
かん