虞おそれ集しゅう(1272年ねん—1348年ねん),字じ伯はく生せい,祖そ籍せき仁じん寿ことぶき(今こん属ぞく四川しせん省しょう),元もと代だい文学ぶんがく家か。
南みなみ宋そう丞相じょうしょう虞おそれ允まこと文ぶん的てき五ご世せい孙。父ちち虞おそれ汲曾任黄き冈尉じょう,宋そう亡ほろび后きさき,徙居临川崇たかし仁ひとし(今こん属ぞく江西えにし省しょう)。虞おそれ集しゅう自じ小しょう聰さとし敏さとし,戰亂せんらん流離りゅうり之の際さい,無む書しょ可讀かどく,其母楊氏以口授其《論語ろんご》、《孟子もうし》、《左ひだり傳でん》。元成もとなり宗むね大德だいとく元年がんねん(1297年ねん)至いたり大だい都と,任にん大だい都路みやこじ儒学じゅがく教授きょうじゅ,累るい迁秘书少监。仁じん宗むね时,擔任たんにん集しゅう贤修撰せん。文ぶん宗むね时,任にん奎章阁侍さむらい书学士し,纂修《皇すめらぎ朝あさ經世けいせい大典たいてん》。元もと順じゅん帝みかど即位そくい,稱しょう病びょう歸かえり臨川りんせん。至いたり正ただし八はち年ねん五ご月がつ(1348年ねん)卒そつ,年ねん七なな十じゅう七なな。谥文ぶん靖やすし。
工こう書法しょほう,得とく晉すすむ朝あさ人ひと韵味;又また工こう於詩,與あずか柳やなぎ貫ぬき、黃き溍、揭傒斯被ひ稱しょう為ため“儒林四よん傑すぐる”。[1]其詩具ぐ民族みんぞく意い识,與あずか揭傒斯、范梈、杨载齐名,被ひ譽ほまれ為ため元もと詩し四よん大家たいか之の一いち,自称じしょう其诗如“漢かん廷老吏”。[2]人称にんしょう邵庵先生せんせい。著ちょ有ゆう《道みち園えん學がく古いにしえ錄ろく》五ご十じゅう卷かん、《道みち園えん類るい稿こう》五ご十じゅう卷かん、《道みち園えん遺稿いこう》六ろく卷かん、《虞おそれ文ぶん靖やすし公道こうどう園えん全集ぜんしゅう》(1837年ねん刊本かんぽん)。傳つて世よ詞し作さく很少,清人きよひと朱しゅ祖そ謀はかりごと《彊つよし村むら叢書そうしょ》曾輯校こう《道みち園えん樂らく府ふ》一いち卷かん。近きん人ひと王おう颋点校こう《虞おそれ集しゅう全集ぜんしゅう》,2007年ねん天津てんしん古こ籍せき出版しゅっぱん社しゃ出版しゅっぱん。
清きよし翁おう方かた纲作さく《虞おそれ文ぶん靖やすし公おおやけ年譜ねんぷ》。
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