阮善述じゅつ(越えつ南みなみ语:Nguyễn Thiện Thuật/阮善述じゅつ;1844年ねん—1926年ねん),《國くに朝あさ鄉さと科か錄ろく》“阮德述じゅつ”,字じ孟はじめ孝こう(越えつ南みなみ语:Mạnh Hiếu/孟はじめ孝こう),越こし南みなみ阮朝官員かんいん。勤王きんのう運動うんどう中ちゅう領りょう導しるべ人じん之の一いち,人稱にんしょう贊さん述じゅつ(越えつ南みなみ语:Tán Thuật/贊さん述じゅつ)。
阮善述じゅつ是ぜ海陽かいよう省しょう平江ひらえ府ふ唐から豪ごう縣けん白杉しらすぎ總そう春はる育そだて社しゃ(今こん屬ぞく興きょう安やす省しょう美よし豪ごう市し社しゃ春はる育そだて社しゃ春はる陶すえ村むら)人にん。嗣德二に十じゅう七なな年ねん(1874年ねん),阮善述じゅつ參加さんか南みなみ定じょう場じょう鄉きょう試こころみ,考こう中ちゅう秀才しゅうさい。嗣德二に十じゅう九きゅう年ねん(1876年ねん),再さい次つぎ參加さんか南みなみ定じょう場じょう鄉きょう試こころみ,考こう中ちゅう舉人[1]。後こう被ひ任命にんめい為ため海陽かいよう贊さん襄じょう軍務ぐんむ。1881年ねん,被ひ派は往山西さんせい,任にん山西さんせい贊さん襄じょう軍務ぐんむ。1883年ねん,法ほう國こく發動はつどう北きた圻遠征えんせい。法ほう國こく軍隊ぐんたい勢ぜい如劈竹ちく,越えつ南みなみ軍隊ぐんたい不能ふのう抵抗ていこう。阮善述じゅつ前ぜん往故鄉こきょう海陽かいよう募兵ぼへい,抵抗ていこう法ほう國軍こくぐん隊たい。同年どうねん阮文祥さち代表だいひょう越えつ南みなみ阮朝朝廷ちょうてい,同どう法ほう國こく簽訂《第だい一いち次じ順化じゅんか條約じょうやく》。朝廷ちょうてい命令めいれい各地かくち的てき軍隊ぐんたい停止ていし抵抗ていこう,但ただし阮善述じゅつ拒絕きょぜつ執行しっこう命令めいれい,退すさ到いた東ひがし潮うしお縣けん(今こん屬ぞく廣こう寧やすし省しょう東ひがし潮うしお市し社しゃ),與あずか劉りゅう永福えいふく的てき黑くろ旗はた軍ぐん互相聲援せいえん,繼續けいぞく抗こう擊げき法ほう軍ぐん。
1885年ねん,兵部ひょうぶ尚書しょうしょ尊みこと室しつ說せつ以咸宜帝みかど的てき名義めいぎ發はつ佈《勤王きんのう詔みことのり》,號ごう召越南みなみ人じん起おこり兵へい反抗はんこう法ほう國こく的てき殖民しょくみん統治とうち。阮善述じゅつ在ざい興きょう安やす省しょう起おこり兵へい,發動はつどう荻おぎ林りん起おこり義よし,與あずか提督ていとく謝しゃ現げん、黑くろ旗はた軍ぐん餘あまり黨とう梁はり三さん奇き合ごう兵へい,以荻おぎ林道りんどう地區ちく為ため根據地こんきょち,攻おさむ打だ興きょう安やす、海陽かいよう、太平たいへい等とう省しょう。
1888年ねん,北きた圻經略けいりゃく使し阮仲合なからい任命にんめい海陽かいよう總督そうとく黃き高だか啟けい為ため剿撫使し,圍かこえ攻おさむ荻おぎ林りん。阮善述じゅつ戰敗せんぱい,流亡りゅうぼう中國ちゅうごく。1926年ねん,在ざい廣西ひろせ省しょう南みなみ寧やすし逝世。今こん南みなみ寧やすし市し郊有阮善述じゅつ墓ぼ。[2]