陳ちん茂しげる源げん(1903年ねん2月がつ16日にち—1990年ねん),字じ少しょう鵠くぐい,台灣たいわん法官ほうかん、法學ほうがく教師きょうし、詩人しじん、翻譯ほんやく家か,出身しゅっしん桃園ももぞの大溪おおたに,父ちち陳ひね乾ひ,弟おとうと陳ちん茂しげる棠醫い生せい(齒科しか、外科げか)。妻つま林りん芯しん是ぜ板橋いたばし林家はやしや林はやし熊くま祥さち的てき女兒じょじ。
著作ちょさく有ゆう《自由じゆう丘おか吟ぎん草くさ》(漢語かんご古典こてん詩集ししゅう,自由じゆう之の丘おか是ぜ作者さくしゃ和わ作者さくしゃ老師ろうし矢や內原先生せんせい在ざい東京とうきょう住じゅう的てき所在しょざい)等とう,譯わけ作さく有ゆう矢や內原忠雄ただお《日本にっぽん帝國ていこく主義しゅぎ下之したの台灣たいわん》等とう。
與あずか葉は榮さかえ鐘がね同どう為ため矢や內原忠雄ただお最さい早期そうき的てき《聖せい經けい》學生がくせい和かず台灣たいわん人じん《聖せい經けい》學生がくせい。
1925年ねん考こう入いれ東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく法學部ほうがくぶ,1928年ねん卒業そつぎょう,法學ほうがく士し,同年どうねん考こう中ちゅう高等こうとう文官ぶんかん試驗しけん(舊きゅう日本にっぽん帝國ていこく的てき公務こうむ人員じんいん高等こうとう考試こうし)司法しほう科か。
在ざい日本にっぽん本土ほんど東京とうきょう、松本まつもと、浦和うらわ、千葉ちば裁判所さいばんしょ做司法官しほうかん,1929年ねん到いた1932年間ねんかん每ごと周到しゅうとう矢や內原先生せんせい家か裡うら,在ざい先生せんせい指導しどう下學かがく《聖せい經けい》,是ぜ這段時間じかん裡うら矢や內原先生せんせい最さい主要しゅよう的てき1位い《聖せい經けい》學生がくせい(矢や內原伊作いさく,《矢や內原忠雄ただお傳でん》)。
第だい二に次じ世界せかい大戰たいせん中なか,紹介しょうかい親おや小弟しょうてい陳ちん茂しげる棠(1941年ねん)、東京帝大とうきょうていだい後輩こうはい(學がく弟おとうと)郭かく維租(1943年ねん1月がつ10日とおか)做矢內原先生せんせい門下生もんかせい。
第だい二に次じ世界せかい大戰たいせん終止しゅうし後ご回かい台だい,出で任にん國立こくりつ台灣たいわん大學だいがく法學ほうがく院いん法律ほうりつ學がく系けい教授きょうじゅ,直ちょく到いた退ずさ休きゅう。晚年ばんねん與あずか其三弟陳茂林老師居住在大溪。
聖せい經けい學生がくせい有ゆう涂南山なんざん等ひとし。