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こうまこと

こうまこと(390ねん—487ねん),はくきょう勃海ぐん蓨縣こん河北かほくけいけんひがしにん南北なんぼくあさ時期じききたたかし官員かんいん學者がくしゃこうまこと通曉つうぎょう儒學じゅがく天文てんもん曆法れきほうざいれきつかまつふとしたけみかど文成ふみなりみかどけんじぶんみかど孝文たかふみみかどよんにん君主くんしゅかんいたり尚書しょうしょつねさむらいこう祿ろく大夫たいふきむあきら紫綬しじゅ

こうまこと
きたたかし咸陽ぶんこう
きたたかし鎮軍大將軍だいしょうぐん尚書しょうしょつねさむらいひかり祿ろく大夫たいふきむあきら紫綬しじゅ、「乘車じょうしゃいれ殿どの朝賀あさかはい
國家こっかきたたかし
時代じだいすすむ南北なんぼくあさ
主君しゅくんきたたかし明元あけもとみかどきたたかしふとしたけみかどきたたかし文成ふみなりみかどきたたかしけんじぶんみかどきたたかし孝文たかふみみかど
せいこうせい
まこと
はくきょう
ふう汶陽はりじょうこう→咸陽こう
ぞくかんぞく
せきぬき勃海ぐん蓨縣いま河北かほくしょうけいけん以東いとうにん
けい渤海だか
出生しゅっしょうあずますすむこうたけみかどふともとじゅうねん(390ねん
逝世きたたかしきたたかし孝文たかふみみかどふとしさんねん(487ねん
とおるかさみひさしきゅうじゅうはちさい
きたたかし都城みやこのじょう平城ひらじろ
谥号ぶんこう
おやぞく
父親ちちおやきたたかし丞相じょうしょうさんぐんこう
つま河間こうま邢氏
兄弟きょうだいきたたかしつねさむらい、臨邑きょうだか
きたたかししゅうぬし簿だか
きたたかし綏遠將軍しょうぐん長樂ながら太守たいしゅ、咸陽こうこうまこと
きたたかしふとしじょう東陽とうようおうはかさんぐんこうふところ
おんなこうきたたかし使つかいぶしとくらくしゅうしょ軍事ぐんじりゅう驤將ぐんらくしゅう刺史ししひがしあんめぐみこう刁遵これつま
其他おやぞく孫子まごこきたたかしこう將軍しょうぐんなみしゅう刺史ししこう
曾孫そうそんきたしゅうちゅう、咸陽こうだか貴賓きひん
きたたかしせいとりこ將軍しょうぐん開府かいふじょうこう

生平おいだいら

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こうまこと父親ちちおやだか韜在だかまこと年紀としのりかえしょうとき就去りょうただしこうまこと早熟そうじゅくまことちぇげんはく見高けんだかまことたい很欣しょうせつ:「高子たかこてき才德さいとくふかぞう,而展げん文辭ぶんじまなべ肯定こうていいちだい偉人いじんただ怕我及看。」[1]こうまことじゅうとし祖父そふこうやすしたてまつ祖父そふ靈柩れいきゅうかいいた勃海ぐんはた祖父そふとめてき家產かさんみやこゆずるきゅうりょう兩個りゃんこおとうとおとうと自己じこ卻出ためそう法名ほうみょうほうきよし」。ひさ還俗げんぞくためりょう學習がくしゅう惜用ひらた擔帶著書ちょしょせきとお千里せんりもとめがくがくなり通曉つうぎょう儒家じゅか經典きょうてん史籍しせき天文てんもん術數じゅっすうまなべ,而他最愛さいあい春秋しゅんじゅうこうひつじでん[2]

こうまこと後來こうらい勃海ぐん召為こういたりかみさんねん(430ねんなながつふとしもりちょう太宰だざいとく冀定しょうさんしゅうしょ軍事ぐんじくだりせいみなみ大將軍だいしょうぐん鎮鄴じょう任命にんめいだかまことため從事じゅうじちゅうろうもりちょう見當けんとう所轄しょかつ各州かくしゅうざい春季しゅんき堆積たいせきりょう很多ぼつしんゆいてき案件あんけんとげひょうそうゆずるこうまこと及呂熙等じんいた各州かくしゅうきょうじょ審理しんり案件あんけん最終さいしゅうりょ熙等じんいんため受賄而獲ざいただ有高ありだかまこといんため行事ぎょうじ清廉せいれん而平まこと而獲獎賞。ひさだかまこと解職かいしょくかいきょう以教がくためぎょうゆういちせんじん跟他學習がくしゅうかみよんねん(431ねん),ふとしたけみかどみことのり徵集ちょうしゅう逸民いつみんこうまことあずかげんとう當時とうじしゅうぐんてき儒者じゅしゃけんしゅん而獲召入朝にゅうちょうこうまことはつはい中書ちゅうしょ博士はかせ遷中しょさむらいろう。及後また以本かん擔任たんにん行衞ゆくえ大將軍だいしょうぐんつぶせばつはんてき從事じゅうじちゅうろうなみずい其西鎮長やす期間きかんたいつぶせばつはん當地とうちゆう相當そうとう多助たすけえきなみとく當地とうち人稱にんしょう[2]

ふとしのべねん(436ねん),驃騎大將軍だいしょうぐん樂平よしひらおうつぶせばつりょうへい進攻しんこう佔據うえてきかたき首領しゅりょう楊難とうこうまことまた以本かんさん軍事ぐんじつぶせばつ丕統りょうてき部隊ぶたいいむせいぼつゆうおかせ擾居みん,甚至ゆうりゃくぐんみん以牛しゅろうぐんなんとうじょう就順おうきたさとしぶん退避たいひゆずる出上いでかみ邽。ただし當時とうじゆう將領しょうりょうすすむつぶせばつ誅殺ちゅうさつ當地とうちごうそち以免ぐんかえのちまた再生さいせいごと,而且掠奪りゃくだつごうそちてき財寶ざいほう物資ぶっし獎賞將士しょうしこうまことのり表示ひょうじ反對はんたいみとめため這樣做會摧毀當地とうちじんてきしんはん而是刺激しげき們在ぐんかえのちおこりごとつぶせばつ丕亦同意どうい最終さいしゅう對當たいとうじんやすなで方法ほうほう[3][4]こうまことまた以建はかりごと安定あんてい當地とうちこう而獲たまもの陽子ようしけん武將ぶしょうぐん[2]

こうこうまことまた以本かん擔任たんにんしんおうつぶせばつてきでんまた受敕めいじ東宮とうぐう教授きょうじゅ皇太子こうたいしつぶせばつあきら經籍けいせき,很得たいかたれいまち。另外ふとたけみかどまたいのちだかまことあずか中書ちゅうしょさむらいろう公孫こうそんしつえびすかたかいひとしへん定律ていりつれいさらといだかまこと各項かくこう政務せいむ問題もんだいおうさいさき處理しょり哪項。こうまこといん當時とうじゆう很多良田よしだふう禁止きんし進入しんにゅう,而且平城ひらじろゆう很多流民りゅうみんまえらいもとめ裹腹,就向ふとたけみかどだん農事のうじなみ暗示あんじどう:「古人こじんせつかた一里的土地就能種三頃又七十畝田,ぽう百里就有三萬七千頃田了。わかはてつとむりょくこうしゅまいいちうね就有さん生產せいさんたね就每一畝失去了三斗生產。這麼せつたんけいかた百里的土地就有二百二十二萬斛粟的差別了,なんきょう全國ぜんこく這麼廣闊こうかつてき領土りょうど呢?わかはてかん和民かずたみあいだゆうもうかかてそく使つかいぐうじょういちねん糧食りょうしょくしつおさむ,也怕甚麼いんも呢?」ふとしたけみかど明白めいはく其意,就下れい解除かいじょでんきん田地たじぜんきゅう人民じんみん耕作こうさく[5]

國史こくしごく

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ふとしたけみかどめつきたりょういのちちぇひろしかん秘書ひしょごと主持しゅうもち監修かんしゅうくに》,而高まことあずかはりえらりょう著作ちょさくろうへんうつし[6]當時とうじちぇひろしちょうしん著作ちょさくれい閔湛,閔湛ただしうえ疏稱もとちぇひろししょ注釋ちゅうしゃくてき詩經しきょう》、《論語ろんご》、《尚書しょうしょ》及《しゅうえきさらしょううまとおるていげんおう賈逵ところ注釋ちゅうしゃくてき經典きょうてん建議けんぎ收集しゅうしゅう全國ぜんこく所有しょゆう前人ぜんじん注釋ちゅうしゃく經典きょうてんてきしょ,而改ようちぇひろし注釋ちゅうしゃくてき版本はんぽんまたもとめみことのりいのちちぇひろし注釋ちゅうしゃくれい》,以讓天下でんかじん得知とくちれいてき正確せいかく解釋かいしゃく。及後さらすすむちぇひろしはたうつしこのみてき國史こくしこくざい石上いしがみそうよう這種のう長久ちょうきゅう保存ほぞんてき方式ほうしきあきらあらわちぇひろしちょく筆寫ひっしゃてきことちぇ浩和ひろかず皇太子こうたいしつぶせばつあきら同意どうい這樣做,最終さいしゅうざい平城西ひらじょうにし郊祭天壇てんだんひがし三里建成了刊載《くに》及ちぇひろししょちゅう五經ごきょうてき大型おおがたせき銘林めいりんこうまこととく聞此事後じご,就和しょ作郎さくろうそうせつ:「閔湛しょ做的,短時間たんじかん內恐怕造成ぞうせいちぇ極大きょくだいてき災禍さいかれんわが們也あまりょう。」這些石碑せきひざい道路どうろつくりとうしょ看過かんかてき行人ぎょうにんたい直書じきしょきた一些史事有所不滿,なみ很快就讓ふとたけみかど知道ともみちおわりれいちぇ浩和ひろかず家族かぞく清河きよかわちぇぞく誅,なみいん波及はきゅう其姻おや范陽ふとしはらかく河東かわとうやなぎ[7][8]。而ちぇひろしおさむばんこうまことせい在中ざいちゅうしょしょうとう值,皇太子こうたいしつぶせばつあきら特別とくべついのち東宮とうぐうさむらいろうのべ召見だかまことなみゆずるとめ宿やど東宮とうぐう明天めいてんいちはや太子たいしいのちだかまこと隨行ずいこうぶとたけみかど表示ひょうじしんのち自己じこかいざいふとしたけみかど面前めんぜんため說話せつわなみしょく咐即使ふとしたけみかどゆう問題もんだいよう召他也要自己じこせつてき口徑こうけい一致いっちすすむのち太子たいしそくむかいふとしたけみかど表示ひょうじだかまことざい東宮とうぐう做事多年たねんいちちょく小心しょうしんまきひそかとく自己じこ信賴しんらいおさむ國史こくし一事雖然和崔浩共事,ただし一直是受制於崔浩,もとめ特赦とくしゃふとしたけみかど及後召高まことしんなみとい國史こくしちぇひろしうつしてきただしこうまこと卻如じつこたえ:「《先祖せんぞぜん著作ちょさくろう鄧淵ところせん。《先帝せんてい》及《こんしんちぇ浩一こういちどううつしてきいんためちぇひろし事務じむふとおおただしたがえ總體そうたいさく裁定さいてい而已。いたり注疏ちゅうそ方面ほうめんしんちぇひろし參與さんよさら。」ふとしたけみかど聽後だいいか:「這樣ちぇひろしさら重罪じゅうざい,哪裹かえゆうかつちょてき理由りゆう!」太子たいしずいそく嘗試ためだかまことひらきだっ:「皇帝こうていてき威嚴いげんたいきょうりょうこうまことただしょうしん所以ゆえん迷惑めいわく錯亂さくらん表現ひょうげんしつつねしんぜんといこたえちぇひろしうつしてき。」ふとしたけみかどさいといだかまこと太子たいししょげんこうまことまたじきせつ:「しん低下ていかてき才能さいのう錯誤さくご參與さんよりょう著作ちょさく國書こくしょさわはんりょう皇帝こうていてき威嚴いげんつみぎょうおうめつぞくこんてんやめけいていりょう敢作かり太子たいし殿下でんかいんためしん長期ちょうきため侍講じこう所以ゆえんそうとめじゅうしんてきせいいのちやめりょう根本こんぽんぼつといしんしん也沒せつ這話。しんよりどころじつ回答かいとうなみぼつゆう迷惑めいわく錯亂さくらん。」ふとしたけみかどじょう就向太子たいしせつこうまこと明知めいちよう仍不けんていうつりてき行為こうい相當そうとうなん,而且堅持けんじたい君主くんしゅせつ實話じつわちゅうさだ臣子しんし決定けっていにょう[9]。及後ふとたけみかどだいいかこれ命令めいれいだかまことうつし詔書しょうしょよううえいたりちぇひろししもいたり其僮吏共いちひゃくじゅうはちにん全部ぜんぶえびすぞくこうまこと卻一ちょく拖延,ざい一直催促下他請求朝見太武帝後才寫,ただし朝見ちょうけん卻說:「よしちぇひろし連坐れんざまとじんしん不知ふち們是いなかえゆうべつてきざいただしわかただいん此事,つみ致死ちし。」ふとしたけみかど聞言だいいかいのち武士ぶしはたこうまことつめじゅう太子たいし聞訊またためこうまこともとめじょうただしふとたけみかど也因だかまことてきばなし而改ためただぞくめつちぇひろし,其他人たにん就只誅其本人ほんにん事後じご太子たいしせめといだかまことためなん聽他てきばなし,就是ようさわいかふとたけみかどこうまこと表示ひょうじ史書ししょ帝王ていおうてき真實しんじつ記錄きろくまた後世こうせいあかりあらわてき警戒けいかい此要詳細しょうさい記載きさい君王くんのうてき事跡じせき以讓來者らいしゃしょ此在國史こくしごくじょう其實ちぇひろしいん自己じこあい恨私よく而有聖恩せいおん,致遭めつぞくただしざい史籍しせきじょう書寫しょしゃ帝王ていおう起居ききょ事跡じせき記載きさい朝廷ちょうてい得失とくしつ本來ほんらい就是うつしてき原則げんそくぼつゆう甚麼いんも問題もんだいまたせつ自己じこちぇ浩一こういちおこりうつし國史こくし生死せいし榮辱えいじょく就當れんざい一起かずきおう該有しょ分別ふんべつ此得いた赦免しゃめんりょう自己じこてきりょう太子たいし聽後どうよう感歎かんたん[2]

こうまこと來見くるみ太子たいし親近しんきん寵臣ちょうしんまた營立田園でんえん以謀私利しりとげすすむ諫他ようおや賢人けんじんどお小人こどもはた田地でんちえんはやしぶんきゅうひん停止ていしうり牲畜產物さんぶつただし太子たいしなみ接受せつじゅ正平しょうへい元年がんねん(451ねん),太子たいしこうまこと很久ぼつすすむぶとたけみかどふとしたけみかどとく召見,卻見じゅうふん悲傷ひしょうれいとくふとたけみかど也哭りょういのちはなれふとしたけみかど隨從ずいじゅう們見じょう不明ふめい所以ゆえんふとしたけみかどそくだかまこと在國ざいこく獄中ごくちゅういんちょ太子たいしてき努力どりょくざいとくめん現在げんざい太子たいしりょうじゅうふん傷心しょうしん[2]

文成ふみなりしょじゅう

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後來こうらいちゅうつねさむらいそうあい先後せんご弒太たけみかど以及ずいゆかり擁立ようりつてきみなみ安王やすおうつぶせばつあまりりくうららゆうみやびみなもととうひととげざいうけたまわひらた元年がんねん(452ねん發動はつどう政變せいへん擁立ようりつ文成ふみなりみかどころせそうあいとうじんこうまことざい此事じょう其實也有やゆう頗多參與さんよただし卻沒ぞうりくうららとう接受せつじゅふうしょうはん而不はつ一言いちげん文成ふみなりみかど很看重高しげたかまことたいてきれいけい規格きかく很高,よび其名而常以「れいおおやけ稱呼しょうこ政事せいじじょうたいこうまこと反對はんたいきゅうごとちゅうかく善明よしあきだいけん宮室きゅうしつてき建議けんぎ以接おさめ,及後つぎ進言しんげん求婚きゅうこんよめ殯葬遵從古制こせいとう諫言都會とかい聆聽,そく使つかいぐうじょうそう聽的也只いのちじんはたこうまこと扶出。而有こうまことゆう秘密ひみつごと要求ようきゅう文成ふみなりみかど知道ともみち來意らいいまたかいいのち左右さゆう退すさ下等かとうまちだかまこと,這樣だか允可いんかのうはやじょうにゅう黃昏たそがれざい出來でき,甚至一整天都在內,にん們都不知ふち皇帝こうていせつりょう甚麼いんもこう文成ふみなりみかど以高まことため中書ちゅうしょれいけん著作ちょさくまた以本かんうたてふとつねきょうさいかいふとつねきょう而以本官ほんかんりょう秘書ひしょかんしん爵為はりじょうこうひだり將軍しょうぐん[2]

ひかりちょうよんせい

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和平わへいろくねん(465ねん),文成ふみなりみかどけんじぶんみかど即位そくいてんやす元年がんねん(466ねん),馮太きさき誅殺ちゅうさつりょうせん擅的丞相じょうしょうおつなみ選任せんにんだかまことにゅう禁中きんちゅう參與さんよ裁決さいけつ朝政ちょうせいまたいのちだかまことあずか中書ちゅうしょしょう秘書ひしょしょう商議しょうぎ於郡こくちゅう設立せつりつ學校がっこうごとむべこうまことおわり上奏じょうそう方案ほうあんだいぐんしつらえ博士はかせ兩人りょうにんじょきょうよんにん學生がくせいいちひゃくにんぐんしつらえ博士はかせ及助きょうかく兩人りょうにん學生がくせいはちじゅうにんちゅうぐんしつらえ博士はかせいちにんじょきょう兩人りょうにん學生がくせいろくじゅうにんぐんしつらえ博士はかせ及助きょうかくいちにん學生がくせいよんじゅうにん博士はかせ和助わすけきょう兩者りょうしゃみなよう挑選じゅく經典きょうてん,而且世代せだい忠誠ちゅうせい清廉せいれんのう擔當たんとうじん師長もろながてきじん博士はかせ和助わすけきょう分別ふんべつげんよんじゅうさいさんじゅうさい以上いじょうただし也容ゆずる一些年輕但學已有成的人不限年紀入教。いたり於學せい也要挑選ぐん中有ちゅううこう名望めいぼう行為こうい謹慎きんしんもりれいてきじん優先ゆうせん取高とりだかもん子弟してい有餘ゆうよざいせん中等ちゅうとうもんだい[2]

こうまこと及後以年ろうもとめ退ずさただしじゅんもと後來こうらいまた曾以兼太かねたつね份去さいあなびょうなみ於皇きょうよんねん(470ねんずいけんじぶんみかどきたやわしかなみざい武川たけかわうつしきた頌》。ときけんじぶんみかど受制於馮ふとしきさき[10]とげ思量しりょうでん人選じんせんただしみとめため太子たいしつぶせばつひろし年紀としのりたいしょうそうりつ叔父おじきょうちょうおうつぶせばつなみ召集しょうしゅう大臣だいじん詢問意見いけんといいたこうまことこうまこと卻哭ちょ跪對,表示ひょうじようけんじぶんみかどそうおもえとうてんしゅうこうだん輔助しゅうしげるおうこれごとまたそく反對はんたい讓位じょうい推;にんじょうおうつぶせばつくも及隴西にしおうげんとうじんまた支持しじりつつぶせばつひろしけんじぶんただこうざいすめらぎきょうねん(471ねん禪讓ぜんじょう帝位ていい太子たいしため孝文たかふみみかど自己じこそくなりためふとし上皇じょうこうこうまことずいまたあらためにん中書ちゅうしょかんつねさむらいよしちょ支持しじりつ孝文たかふみみかどてきこうくんすすむ咸陽こう鎮東將軍しょうぐん[2]

ひさこうまことあらためにん使ぶしつねさむらいせい西にし將軍しょうぐんふところしゅう刺史ししいたりふとしねん(478ねん),こうまことさいもとめ退ずさきゅううえりょう十多次奏章仍不獲准許,就報しょう患病かえしきょう朝廷ちょうてい卻在ねんちょう召高まこと,敕命しゅうぐんおくこうまことかいあさこうまことかいのち授鎮ぐん大將軍だいしょうぐんりょう中書ちゅうしょかんなみいた乘車じょうしゃいれ殿どの朝賀あさかはいてき禮遇れいぐうこう遷尚しょつねさむらいふとしじゅうねん(486ねんまたこう祿ろく大夫たいふきむあきら紫綬しじゅ朝廷ちょうていゆう大事だいじよう議論ぎろん都會とかいとい意見いけんふとしじゅういちねん(487ねん),こうまこと享年きょうねんきゅうじゅうはちさい朝廷ちょうてい追贈ついぞうためさむらいちゅうつかさそらこう、冀州刺史しし、鎮軍大將軍だいしょうぐん、咸陽こうなみたまもの諡號しごうぶん[2]

著作ちょさくゆうひだりしゃく》、《おおやけひつじしゃく》、《もうひろえ》、《ろんざつかいとう,輯有《こうまことしゅうじゅういちかん[11]いたり明人あきとちょう輯有《こうれいおおやけしゅう於《かん六朝りくちょうひゃくさん家集かしゅうちゅう

性格せいかく特徵とくちょう

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  • こうまこと通曉つうぎょう天象てんしょう曆法れきほうちぇひろし曾經召集しょうしゅう一批術士查核自漢朝以來的日蝕、月蝕げっしょく及行ぼし運動うんどうてき記載きさいなみ識別しきべつ前代ぜんだい史籍しせき記載きさいあやま最後さいごせいなりりょうれき》。ちぇひろしはたれききゅうだかまことただしこうまこと卻說天文てんもん曆數れきすう不能ふのうぼつ依據いきょ憑空うつしなみ指出さしでかんおう元年がんねんぜん207ねん冬季とうき十月時五大行星在ひがし聚集一事是基本的曆法術學就能知是錯的事,みとめためちぇひろしそしわらいかんだい史籍しせき錯誤さくご而看不出ふしゅつ這點,後人こうじんかいぞうこんてんそしわらい古人こじん這樣そしわらいちぇひろしといゆうなん錯誤さくごこうまこと就答どう:「根據こんきょほしつたえ》,金星かなぼし水星すいせい常常つねづねざい太陽たいよう附近ふきん出沒しゅつぼつねん冬季とうきじゅうがつ太陽たいようざい宿やど宿やど裹,黃昏たそがれざい西南せいなんかた下山げざん,而那ひがしざいざい東北とうほくかたますおこりりょう顆星ため甚麼いんもかい太陽たいようしょう而行呢?這是いんため史官しかん故意こいよう神化しんか發生はっせい於那てき事件じけんはたちょう滅亡めつぼう),此都按常うつしりょう。」ちぇひろし仍然質疑しつぎ:「ようあらためうつしてきばなし甚麼いんも也可あらため呀,你又懷疑かいぎ其他三星聚於東井,卻去せつりょう顆星?」こうまことただしょう這不口舌こうぜつ爭論そうろんのうせつきよし,而要ちぇひろしさいさくしんつくりかんてきじん不明ふめいしろため甚麼いんもだかまことゆう這種質疑しつぎ,就只ゆうゆうみやび充滿じゅうまん信心しんじんみとめためだかまことたいてきいちねんちぇひろし也向だかまこと承認しょうにんたいかたしょげん是正ぜせいかくてきなみたいゆうみやびせつ:「こうまことこれじゅつもとこれしゃ也。」せいいいだかまことごとせつ必中ひっちゅうこうまこと雖然精通せいつう曆法れきほうただしそう推算すいさんなみ解釋かいしゃく,就只ゆうゆうみやびすうむかいひろもとめわざわいことてき解釋かいしゃくしか而最こうまことかえ拒絕きょぜつどう:「以前いぜんてきひとせつあかつき這種ごとやめけい很難,知道ともみちりょうかえ怕說りょうかえ如不知道ともみちぜん天下てんか玄妙げんみょう這麼ため甚麼いんも就問這些?」ゆうみやび就只こうさいといりょう國史こくしごくこうまこと曾經上表じょうひょう呈上ていじょうつまみうつしひろしはん》及《漢書かんしょ·天文てんもんこころざし》內容,節略せつりゃく文辭ぶんじ而成てき八篇有關歷史上災異記載文章,ふとしたけみかど閱後みとめためだかまことたいわざわいことてき洞察どうさつりょくちぇひろしさらきょう[2]
  • こうまこと堅持けんじ直言ちょくげんれい如得ふとたけみかどちょうしんてき遼東りゃおとんこう黑子ぼくろ在任ざいにんだい使いた并州どき收受しゅうじゅりょういちせんひきぬのかえひと揭發りょう。翟黑子ぼくろ就問だかまこと該怎回答かいとう皇帝こうていこうまことそくみとめため黑子ぼくろため寵臣ちょうしんおう如實にょじつ回答かいとう,而且自己じこひろしまこときょうみとめかい問罪もんざいただし中書ちゅうしょさむらいろうちぇらん公孫こうそんしつとうひと就認ため罪責ざいせきなんりょう主張しゅちょうかくれ瞞。黑子くろこ聽信りょうちぇらんとうじんはんみとめためだかまことざいあながい自己じこあずか絕交ぜっこうふとしたけみかど最終さいしゅう發現はつげん黑子ぼくろせつ謊,最終さいしゅう將之まさゆきしょりょう國史こくし獄中ごくちゅうだかまこと太子たいししょげん堅持けんじ如實にょじつかいおう最終さいしゅう赦,及後曾和そわじんとおる這樣做其じつ也為りょうたいとくおこり黑子ぼくろ[2]
  • こうまことざい仕官しかん多年たねんただしいえさかい仍然很貧困ひんこん文成ふみなりみかど曾經いたおとずれこうまこと發現はつげん其家ただゆういくあいだ草屋くさや組成そせいぶた布製ぬのせい穿ほじれつてきふゆころも,廚房中也ちゅうやただゆうしお醃菜,とげ感歎かんたん其清ひんたまものりょう五百匹帛布及千斛粟。孝文たかふみみかど召還しょうかんだかまことかいあさしもみことのりごとてん早晚そうばん都會とかい向高むこうたかまことたまものしょく每月まいつきさくのぞむ兩日りょうじつたまものうししゅ,而且每月まいつき都會とかいおくいち衣服いふく綿めんきぬだかまことはた這些ぶんきゅうりょう親友しんゆう[2]
  • 毗陵こう竇瑾いん咒詛こと誅殺ちゅうさつてき竇遵逃亡とうぼうとめ沒入ぼつにゅうけんてき竇遵ははこげ。雖然後來こうらいこげいんねんろう而得赦免しゃめんただし竇瑾てきおやとも卻都她,こうまこと就接她回あきら顧了ろくねんちょくいたり竇遵赦回らい[2][12]
  • ふとやわじゅうねん孝文たかふみみかどいんごと馬車ばしゃ召高まこといた西にし郊,ただし馬匹ばひつ突然とつぜん受驚而令しゃこぼしりょう外在がいざいだかまこと眉間みけん造成ぞうせいさんみち傷口きずぐち孝文たかふみみかど及馮ふとしきさきじんためこうまこと料理りょうり傷口きずぐちなみよう重罰じゅうばつ馬車ばしゃてきじんこうまことのりぬしくんため該人もとめじょうまた一次高允在雪中突然遇到狗隻而受驚跌倒,本來ほんらい扶著てきじん很害怕,ただしこうまことはんらいやす慰他,なみしょう事情じじょうせつ。而被往照りょうこうまことてきなか黃門こうもんきょうことぶき表示ひょうじさむらいこうだかまことてき三年之間未曾見他發過脾氣,教授きょうじゅ別人べつじんみやこまことまことぜんさそえ,而且ぶん晝夜ちゅうやしゅしゃくまき每次まいじゆう伶人れいじん奏樂そうがくおこりまいあい音樂おんがくてきこうまこと都會とかい拍手はくしゅさけべこうまた常設じょうせつときこう佛道ぶつどういやあく殺生せっしょう;也不かいずい便びんあずかひと交際こうさいこうまことまたおもて現出げんしゅつ非常ひじょう顧念おやともとも自己じこせっおさめ們,そく使つかい其時份尊とうと志向しこう仍舊貧寒ひんかんいちようれい如獻ぶんみかど南朝なんちょうそうあおひとし轉歸てんききたきたたかし朝廷ちょうていはた這些地區ちくてき士族しぞく全部ぜんぶきた遷到平城ひらじろ一帶いったい,這些じんどお赴北さかい每每まいまい飢餓きが缺乏けつぼう禦寒ころもぶつさらだかまことてき姻親家族かぞく成員せいいん,而這些人徒步とほいたこうまこと府中ふちゅうもとめ援時だかまことつき其力りょう幫助們,なみ慰問いもん周到しゅうとうにん們都しょうだかまことひとしあつ當時とうじきたじんたい這些しんみんかえ信任しんにんただしこうまことかえ挑出ゆう才能さいのうしゃじょう奏請そうせい朝廷ちょうていろくようためかん[2]
  • こうまこと常常つねづねみとめため自己じこ在中ざいちゅうしょしょう拯救りょうしょう人命じんめいせきゆう陰德いんとくおうゆうひゃくさいことぶき在高ありだかまことまえじゅうゆうてん不適ふてきただし臥床がしょう休息きゅうそくかずもとむはん而像ぼつ有事ゆうじさま如常さくいき孝文たかふみみかど馮太きさき得知とくちこうまこと不適ふてき就派りょうおさむおさむたいこうまこと表示ひょうじぼつごとただしかいみや卻密ほうこうまこと妥,おう該活ひさりょう皇帝こうていかずふとしきさき於是たまものりょう百多樣當時得令的美食佳餚,またゆう大量たいりょうゆかちょう舖及衣服いふく几杖,かえゆう大量たいりょう官員かんいんぜんらい慰問いもんびょうじょうこうまことじょう仍然みとめため上天じょうてん以其ねんろうしょたまものただいちちょく致謝,ぼつおもえ其實自己じこかいりょう。這樣すうにちこうまことざいよる裹過家人かじん也毫察覺ゆうにんなんちょうちょう[2]

家庭かてい

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祖父そふ

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ちち

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  • こう韜,ねんかるとき聰明そうめい而知めいあずかふう互相敬慕けいぼざいつばめかんいたりふとしじょう從事じゅうじちゅうろう入北にゅうほくため丞相じょうしょうさんぐん早死はやじに

兄弟きょうだい

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  • こう推,なかゆずる小名しょうみょう檀越だんおちこうまことおとうとはやゆう名譽めいよゆうみやび推薦すいせん使南朝なんちょうそうれん南朝なんちょう也稱もと其才べんただし卻患病死びょうしざいたてやすし靈柩れいきゅうきたかえしおく輔國將軍しょうぐんおくりな臨邑恭子きょうこ
  • こう燮,小名しょうみょうじゅん于。こう推弟,ゆう文才ぶんさいふとしたけみかど在位ざいい曾經つぎみことのりちょういのちただしみな以疾びょう拒絕きょぜつおうなみ經常けいじょうそしわらいだかまこと長期ちょうき屈折くっせつ在官ざいかんじょうちゅう

夫人ふじん

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子女しじょ

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  • こうまこと,嗣降ため咸陽こうかんいたり綏遠將軍しょうぐん長樂ながら太守たいしゅ為政いせい作風さくふう寬和ひろかず而有恩惠おんけい當地とうち人心じんしん安穩あんのん有子ゆうこだか貴賓きひん襲爵しゅうしゃくにん冀州ちゅう
  • こうふところひとしにんじょうおうつぶせばつくもてきろうちゅうれい大將軍だいしょうぐん從事じゅうじちゅうろうなみ授中散大さんだいおっとためじん恬淡てんたん退すさしずかにんちゅうじゅうはちねんあらためざいふとしじょうはかさんぐんにん內去
  • こうよめきた使节、とくらくしゅう诸军ごと、龙骧はた军、らくしゅう刺史しし、东安めぐみこう刁遵

註釋ちゅうしゃく

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  1. ^ しょ·だかまことでん》:清河きよかわちぇげんはく而異,歎曰:「高子たかこ中内なかうち润,文明ぶんめいがいあきら,必为いちだい伟器,ただしおそれわれ见耳。」
  2. ^ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 しょ·だかまことでん
  3. ^ きた·まきじゅうろく》:こうとく河西かさい高平たかひらしょぐん討南しんおう楊難とうぐんいたりりゃく禁令きんれいひとし肅,しょ無私むし百姓ひゃくしょうそう致牛しゅなんとう懼,かえかたき。而諸はた曰:「わか誅豪そちぐんかえこれ,必聚而為寇。」また以大眾遠出とおでゆうしょかすめのり以充ぐんしょう將士しょうしはたしたがえこれどき中書ちゅうしょさむらいろうだかまことまいり軍事ぐんじ,諫曰:「こんわか誅之,きず其向しんおそれ大軍たいぐんいちかえためらん必速。」丕以ためしか,於是綏還はつ秋毫しゅうごうはん
  4. ^ どおりかん·まきいちさん》:「赫連定之さだゆき西にし遷也,楊難とうとげよりどころじょう邽。あきなながつぬし驃騎大將軍だいしょうぐん樂平よしひらおう丕、尚書しょうしょれいりゅう絜督河西かさい高平たかひらしょぐん以討先遣せんけんひらひがし將軍しょうぐんちぇ賾齎詔書しょうしょさとしなんとう。⋯⋯きゅうがつかのえいぬ樂平よしひらおう丕等いたりりゃく;楊難とう懼,請奉みことのりうわ邽守へいかえかたきしょしょう以為:「誅其ごうそちぐんかえこれ,必相聚為らんまただい遠出とおでゆうしょかすめ以充ぐんしょう將士しょうし。」丕將したがえこれ中書ちゅうしょさむらいろうだかまことまいり軍事ぐんじ,諫曰:「如諸將之まさゆきはかりごときず其向しん大軍たいぐんすんでかえためらん必速。」丕乃どめなで慰初秋毫しゅうごう不犯ふぼんはた、隴遂やす。」
  5. ^ みなみ·だかまことでん》:ふとしたけ引允與論よろんけいせいいんといまことまん何者なにものためさき」。とききんふう良田よしだまた京師けいしゆうしょく眾。まこといん曰:「しんしょう也賤,しょただ,請言農事のうじ古人こじんうんかた一里則為田三頃七十畝,ぽうひゃくさとそくさんまんななせんごろわかすすむのりうねえきさんすすむのりうねそんさんかたひゃくさと損益そんえきひきいためあわひゃくじゅう萬斛ばんこくきょう以天こう乎?わかおおやけ私有しゆうもうか,雖遇かつえねんふくなんゆう乎?みかど善之よしゆきとげじょでんきん,悉以授百姓ひゃくしょう
  6. ^ しょ·ちぇひろしでん》:於是とげ討涼しゅう而平にょう水草みずくさ,如浩しょげん,乃詔ひろし曰:「蕞皇祚こうそきょうせいたかしきたせきとくるいひとし歷年れきねんさわりゅう蒼生そうせい四海しかいわがふとしどうたけ皇帝こうていきょうじゅん天人てんにん,以征つき木中きなかこうおうばちみだれ,奄有なつふとしむねうけたまわすべ光隆みつたかぜんいとぐち,釐正けいてん大業おおわざおもんみしんしかあらいきそとなおまろうどふく。此祖宗之むねゆき遺志いし,而貽こう於後也。ちん以眇たてまつ宗廟そうびょう戰戰兢兢せんせんきょうきょう,如臨ふちかい,懼不能ふのう負荷ふかいたりじゅうつぎめい丕烈。即位そくいはつ遑寧しょあげついたち裔,掃定赫連。逮於かみはじめいのちしょくちゅうしゅうぜんこう,以成いちだいてんなんじ以來いらいえびすはた仍舉,はたかつじょうじょ兗無ちりひらた逋寇龍川りゅうがわ,討孽豎於涼いきあにちんいちにんずみ於此,よりゆき宗廟そうびょうれいぐん公卿くぎょうせんりょくこう也﹕而史闕其しょくへんせきちょまいひと月山つきやま斯事墜焉。公德こうとくかんむりあされつげんためはんしょうだいにんのぞむくんそんいのちこうとめだい,綜理つとむじゅつなり此書,つとむしたがえ實錄じつろく。」ひろし於是かん秘書ひしょごと,以中しょさむらいろうだかまことさむらいろうはりえらちょうえらさん著作ちょさくぞくなりぜんいたり於損えき褒貶ほうへん折中せっちゅう潤色じゅんしょくひろししょそう焉。
  7. ^ しょ·ちぇひろしでん》:著作ちょさくれいふとしげん閔湛、ちょうぐん郄標もと諂事ひろし,乃請立石たていしめいかん國書こくしょ》,并勒しょちゅう五經ごきょう》。ひろし贊成さんせいきょうそうよし焉,とげ營於てん郊東さんさとぽうひゃくさんじゅうようこうさんひゃくまん乃訖。……しんくんじゅういちねんろくがつ誅浩,清河きよかわちぇ遠近えんきん,范陽ふとしはらかく河東かわとうやなぎみな浩之ひろゆき姻親,つきえびす其族。はつ,郄標とう立石たていしめいかんくに》,ひろし詳述しょうじゅつ國事こくじ,備而てん。而石めい顯在けんざい衢路,往來おうらい行者ぎょうじゃ咸以ためごとこととげ聞發。
  8. ^ どおりかん·まきいちひゃくじゅう》:ひろし竟用たたえしめぎかん石立いしたて於郭だんひがしぽうひゃく,〔えびすさんしょう註:よりどころすいけい註,平城西ひらじょうにしくるわがいゆう郊天だん。〕ようこうさんひゃくまんひろししょせんことみなしょうれつ於衢往來おうらいしゃ咸以ためごときたじん忿恚,〔えびすさんしょう註:きたじんいい其先したがえつぶせばつらい北荒きたあらしゃ。〕あいあずか譖浩於帝,以為暴揚こくあくみかどだいいか使つかい有司ゆうし按浩及祕しょろう吏私罪狀ざいじょう
  9. ^ しょ·だかまことでん》:はつ浩之ひろゆきおさむ也,まこと直中ただなかしょしょうきょうむね使東宮とうぐうさむらいろうくれのべ召允,仍留宿やどみや內。翌日よくじつきょうそうにゅうそういのちまこと驂乘。いたり宮門きゅうもんいい曰:「にゅうとう至尊しそんわれしるべきょうだつ至尊しそんゆうとえただしわれ。」まこと請曰:「いいなんとうごと也?」きょうそう曰:「にゅう知之ともゆき。」すんでいれみかどきょうそう曰:「中書ちゅうしょさむらいろうだかまこと自在じざいしんみやどうしょ累年るいねん小心しょうしんみつまきしんしょ悉。雖與ひろしどうことしかまことほろ賤,せいよし於浩。請赦其命。」召允,いい曰:「《國書こくしょみなちぇひろしさく?」まことたい曰:「《ふとし》,ぜん著作ちょさくろう鄧淵しょせん。《先帝せんてい》及《こん》,しんあずかひろしどうさくしかひろし綜務しょ總裁そうさい而已。いたり注疏ちゅうそしん於浩。」だいいか曰:「此甚於浩,やす有生ゆうせい!」きょうそう曰:「てん嚴重げんじゅうまことしょうしん,迷亂しつみみしんこう備問,みなうんひろしさく。」とい:「如東宮とうぐうげん?」まこと曰:「しん不才ふさい,謬參著作ちょさくはんぎゃくてんつみおうめつぞくいまやめぶん虛妄きょもう殿下でんか以臣侍講じこうひさあいしん乞命みみじつ不問ふもんしんしん此言。しん以實たい敢迷らん。」いいきょうそう曰:「直哉なおや!此亦じん請所なん,而能臨死りんしうつりまたなん乎!且君たいしん以實,さだしん也。如此ごとやすししついち有罪ゆうざいむべなだめこれ。」まこと竟得めん
  10. ^ しょ·天象てんしょうこころざしさん》:さきすめらぎきょう元年がんねんろくがつ熒惑はんこれさいじゅういちがつ太白たいはくまたはんため內宮ゆう逼之ぞううらない曰:「天子てんししつ其宮」。よんねんじゅうがつ,誅濟みなみおう慕容しろ曜。明年みょうねんうえ逼於ふとしきさきつて太子たいしため孝文たかふみみかど
  11. ^ ずいしょ·經籍けいせきこころざしよん
  12. ^ しょ·竇瑾でん》:きょうこうはつ,瑾女婿じょせいうつはやし公司こうじうまわたる陀以せんなお臨涇公主こうしゅ,瑾教わたる陀辭たくゆう誹謗ひぼう呪詛じゅそげんあずかわたる陀同誅。
  13. ^ 书·まきじゅうよん·れつ传第よんじゅう》:まことはたこん于邢まさ劝允めと于其ぞくまこと从。みやび曰:“ひと贵河间邢,胜广たいらゆうひと弃伯わがけい头。”
  14. ^ きた·まきさんじゅうよん·れつ传第じゅう》:まことはたこん于邢まさ劝允めと其族,まこと从。みやび曰:“ひと贵河间邢,胜广たいらゆうひと弃伯わがけい头。”

延伸えんしん阅读

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  ざい维基ぶん阅读此作しゃ作品さくひん
 しょ/まき48》,出自しゅつじおさむ
 きた·まき031》,出自しゅつじ延壽えんじゅきた

參考さんこう書目しょもく

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  • 书·まきよんじゅうはち·だかまことでん
  • きた·まきさんじゅういち