万まん(mak6)俟(kei4)醜みにく奴やつ(?—530年ねん),複ふく姓せい万まん俟氏,原はら州しゅう人ひと,匈奴きょうど族ぞく,北きた魏たかし時期じき六ろく鎮之亂らん的てき起おこり事ごと領袖りょうしゅう之の一いち。
万俟醜奴原為高平鎮起事領袖胡えびす琛部將ぶしょう;胡えびす琛為破やぶ六ろく韓かん拔陵所ところ殺ころせ,万まん俟醜奴やつ繼承けいしょう指揮しき權けん。北きた魏たかし建たて義よし元年がんねん(528年ねん)七なな月がつ,万まん俟醜奴やつ在ざい高平たかひら(寧やすし夏なつ固かた原市はらいち)稱しょう帝みかど,設置せっち百官ひゃっかん,此時西にし亞あ波なみ斯(今いま伊い朗ろう)給きゅう北きた魏ぎ獻上けんじょう一いち頭とう獅子しし,被ひ醜みにく奴やつ扣留,以為祥さち物ぶつ,定年ていねん號ごう神かみ獸じゅう(神かみ虎とら)。是ぜ年ねん,蕭しょう寶たから夤攜妻南陽なんよう公主こうしゅ及少子しょうし投とう靠もたれ醜みにく奴やつ,万俟醜奴任命蕭寶夤為太ふとし傅でん,「關せき中なか騷動そうどう,朝廷ちょうてい深ふか以為憂ゆう」。永安えいあん三さん年ねん(530年ねん),爾しか朱しゅ天たかし光こう討伐とうばつ万まん俟醜奴やつ起おこり事ごと,醜みにく奴やつ棄平ひら亭ちん西にし走はし,被ひ俘於平たいら涼すずか(今いま甘肅かんせい平たいら涼すずか市し西南せいなん),不ふ久ひさ被ひ殺ころせ,万俟道洛率餘眾逃入山中。蕭しょう寶たから夤則被ひ送おく到いた洛陽らくよう賜たまもの死し。獅子しし則そく送おく返かえし京師けいし。