北きた印度いんど(印しるし地ち語ご:उत्तरापथ),又また稱たたえ北きた天竺てんじく,也叫雅まさ利とし安やす·伐き爾しか塔とう,約やく當とう印度いんど次じ大陸たいりく北方ほっぽう,今いま印度いんど北方ほっぽう、巴ともえ基はじめ斯坦及阿おもね富とみ汗あせ一帶いったい。古こ婆ばば羅ら謎なぞ文ぶん佛經ぶっきょう中ちゅう北きた印度いんど指ゆび古こ印度いんど贍部洲しゅう(Jambudvipa)的てき北きた疆。
最初さいしょ北きた印度いんど一詞指北疆商路--沿恆つね河かわ流域りゅういき經過けいか旁つくり遮さえぎ普あまね邦くに、塔とう克かつ西にし拉ひしげ通つう往大だい夏なつ的てき北きた疆商道どう。北きた疆商道どう東起ひがしおこし西にし孟はじめ加か拉ひしげ恆つね河かわ口くち的てき塔とう姆魯克かつ(Tamluk)。這條北きた印度いんど古いにしえ時じ最長さいちょう的てき商しょう路ろ在ざい印度いんど孔雀くじゃく王朝おうちょう由よし與あずか和かず印度いんど東海岸ひがしかいがん的てき海港かいこう交通こうつう繁忙はんぼう而十じゅう分ふん著名ちょめい。後來こうらい北きた印度いんど又また指ゆび北きた印度いんど商しょう路ろ所しょ經過けいか的てき北きた疆。至いたり於北印度いんど的てき疆域範圍はんい,歷れき來らい都と不十分ふじゅうぶん明確めいかく。有ゆう以下いか幾いく種しゅ說法せっぽう:
北きた印度いんど自じ古こ以良馬うま和馬かずま販著名めい。根據こんきょ佛典ぶってん記載きさい,北きた印度いんど的てき劍けん浮沙、健けん馱邏、大だい夏なつ、克かつ什米爾なんじ等とう地ち的てき馬うま販曾將はた馬匹ばひつ和わ其他貨物かもつ不ふ但ただし運うん往東印度いんど、摩ま揭陀國こく、阿おもね薩姆(Assam)和わ孟はじめ加か拉ひしげ(Bengal)等地とうち,還かえ遠どお運うん到いた緬はる甸、中國ちゅうごく西南せいなん部ぶ和わ僧そう伽羅きゃら等とう東南とうなん亞あ地區ちく。
公おおやけ元もと前まえ12年ねん,漢かん張ちょう騫出で使し西域せいいき時どき在ざい大だい夏なつ看み見み市場いちば上じょう居然きょぜん售賣蜀しょく布ぬの和わ邛竹,經過けいか調ちょう查,原はら來らい這些貨物かもつ是ぜ經過けいか雲南うんなん、緬はる甸到いた東ひがし印度いんど,再さい從したがえ東ひがし印度いんど經過けいか北きた印度いんど商しょう路ろ轉うたて運うん往大夏なつ的てき。 北きた印度いんど和わ東ひがし印度いんど、西にし印度いんど、南みなみ印度いんど的てき販馬貿易ぼうえき,一直進行到中世紀。孟はじめ加か拉ひしげ國王こくおう德とく哇啪拉ひしげ(810年ねん-850年ねん)、邁瑟爾なんじ國こく國王こくおう Vishnuvardhana Hoysala都と擁よう有ゆう強大きょうだい的てき甘あま菩遮戰せん馬ば騎兵きへい團だん。
巴ともえ利文としふみ文獻ぶんけん顯示けんじ,在ざい佛陀ぶっだ誕生たんじょう前まえ幾いく百ひゃく年來ねんらい,北きた印度いんど劍けん洴沙、健けん馱邏、身み毒どく等とう國くに曾通過つうか劍けん浮沙到いた墮羅缽底(Dvaravati)的てき商しょう路ろ到いた達いたる巴ともえ魯卡港みなと(Bharoch)和わ孟はじめ買かい附近ふきん的てき帕坦納おさめ(Pattana)港みなと,然しか後ご出海でうみ到いた南みなみ印度いんど、僧そう伽羅きゃら和わ緬はる甸各地かくち通商つうしょう。巨大きょだい的てき商船しょうせん曾從這些港口こうこう直航ちょっこう到いた緬はる甸南部ぶ。一些北印度人還在緬甸的伊い洛らく瓦かわら底そこ河かわ(Irrawaddy)、錫すず唐から河かわ(Sittang)、薩爾溫江あつえ流域りゅういき的てき城しろ鎮定ちんてい居い(稱しょう金地きんじ)。
考古こうこ證據しょうこ顯示けんじ,在ざい公おおやけ元もと初はつ到いた公おおやけ元もと200年ねん,羅ら馬うま人ひと曾通過つうか古こ吉きち拉ひしげ特とく半島はんとう到いた北きた疆的健けん馱邏、甘あま菩遮和わ大だい夏なつ經けい商しょう。從したがえ羅ら馬うま輸入ゆにゅう到いた健けん馱邏的まと金きん幣ぬさ往往おうおう被ひ熔化成かせい金かね條じょう。