霍弋(jik6)(?—271年ねん或ある以前いぜん),字じ紹先,荊州南みなみ郡ぐん枝えだ江こう人ひと,三さん國こく時期じき蜀しょく漢かん、曹魏及西にし晉すすむ將領しょうりょう。父親ちちおや為ため霍峻,同樣どうよう是ぜ蜀しょく漢かん將領しょうりょう。
蜀しょく漢かん昭あきら烈れつ帝みかど末すえ年ねん即そく223年ねん,為ため太子たいし舍人とねり。劉りゅう禪ぜん登とう位い後ご,除じょ謁者。任にん在ざい公おおやけ元もと226年ねん,隨ずい諸しょ葛かずら亮あきら北きた伐き,諸しょ葛かずら亮あきら任にん他た為ため記き室しつ,讓ゆずる他た和かず養子ようこ(實じつ為ため侄子)諸しょ葛かずら喬たかし相あい處しょ。諸しょ葛かずら亮あきら死後しご,任にん黃門こうもん侍さむらい郎ろう。劉りゅう禪ぜん立りつ劉りゅう璿為ため太子たいし,以霍弋為太子たいし中ちゅう庶子しょし。劉りゅう璿好騎射きしゃ,出入でいり無む度ど,霍弋援引えんいん古書こしょ進行しんこう規ぶんまわし勸すすむ,表現ひょうげん很得體たい。
後來こうらい參さん軍ぐん,任にん庲降都と督とく「副ふく貳に都と督とく」,轉任てんにん「護まもる軍ぐん」,統みつる事ごと如前。霍弋曾領永昌えいしょう太守たいしゅ討伐とうばつ賊軍ぞくぐん,後ご遷監軍ぐん翊軍將軍しょうぐん,兼任けんにん建たて寧やすし太守たいしゅ,統治とうち南中なんちゅう諸しょ郡ぐん。
263年ねん,升ます為ため安やす南みなみ將軍しょうぐん。同年どうねん,霍弋聞魏ぎ兵へい入いれ蜀しょく,欲よく赴成都と,劉りゅう禪ぜん以備敵てき既定きてい,不ふ聽霍弋言。霍弋聞成都と失しつ守もり、蜀しょく漢かん亡國ぼうこく後ご,素もと服ふく望もち西にし大だい哭三さん日にち。
霍弋後ご降くだ於魏たかし,司馬しば昭あきら拜はい為ため南中なんちゅう都みやこ督ただし,與あずか巴ともえ東ひがし太守たいしゅ羅ら憲けん守備しゅび蜀しょく地ち。霍弋兼任けんにん交州刺史しし,可か以便宜べんぎ選せん用よう官吏かんり。霍弋後來こうらい遣や兵へい救援きゅうえん呂りょ興きょう,呂りょ興きょう被ひ其手下か功こう曹殺害さつがい,霍弋表ひょう奏そう建たて寧やすし爨谷為ため交趾太守たいしゅ,又また率りつ牙きば門もん將はた董ただし元もと、毛もう炅、孟はじめ幹みき、孟はじめ通どおり、爨能、李り松まつ、王おう素もと等とう人出ひとで征せい,平定へいてい交趾、日南にちなん、九きゅう真しん三さん郡ぐん,封ふう為ため列侯れっこう,進しん號ごう崇たかし賞しょう。
《資し治ち通どおり鑑かん》上うえ說せつ:霍弋自じ寧やすし州しゅう(今こん雲南うんなん)遺のこ楊稷等とう人じん經略けいりゃく交、廣こう二に州しゅう,採取さいしゅ水すい、陸りく二に路ろ並進へいしん。交州平定へいてい後ご,霍弋令れい楊稷、毛もう炅等戌いぬ守もり交趾,並なみ與あずか他た們起誓ちかい說せつ:「如果賊兵ぞくへい圍かこえ城じょう不滿ふまん百ひゃく日にち而投降とうこう,你們的てき家か屬ぞく就要受誅;但ただし如果超過ちょうか百ひゃく日にち而救兵へい不ふ至いたり,以至於城池ち陷落かんらく,就由我わが霍弋擔起責任せきにん。」271年ねん,交州又また被ひ吳くれ軍ぐん陶すえ璜奪回だっかい,楊稷、毛もう炅糧盡つき援絕,守もり城じょう百ひゃく日にち後ご投降とうこう而就死し。
在ざい三さん國こく演義えんぎ稱しょう霍戈,內容與あずか正史せいし無む大だい差別さべつ,主要しゅよう描述盡つき在ざい三さん國こく演義えんぎ第だい119回かい。 在ざい三國志さんごくし姜きょう維傳中なか,加か上うえ了りょう好こう賭と並なみ且開設かいせつ賭場とば的てき設定せってい,與あずか關せき索さく、楊宗一起被稱為蜀漢三大損友。
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